「またお前かよ」
「こっちのセリフだよ」
げんなりを顔に貼り付けた幼馴染は、隣に腰掛けた。
席を同じくする何日目かの夜。今日は日付が変わる前に帰れるだろうか。重なるため息、揃ってノートPCを立ち上げた。
経験者採用としてここに入社して3年目。
システム開発業務に携わりたくて転職したにも関わらず、前職でのインフラ業務の経験と知識を買われて、またしても前職同様の部署にねじ込まれた。
思わず瞑目した。これでは転職した意味がない。負けじと開発部への転属希望を出し続け、流れ着いたのは監視系システム。システムとは名ばかり、結局インフラ業務である。
監視系システムは不夜城だ。朝も夜もない。異常が発生したら即対応、即解決が必達だ。
たった一人ですべてを担っていたベテラン社員は、浮足立っていた。それもそのはず、彼の下に就く者は皆、退職、休職、異動願いと、長くは続かず立ち去る者ばかり。そんな中での僕の配属は、後釜なしのワンオペ地獄に差す唯一の光だった。しかしそれは僕の地獄が始まる闇の入り口と同義だった。
問題は人間関係にあらず、業務量の多さと重要な砦に置かれるそのプレッシャー。要は人員不足だ。砦の要がたった一人というところが、そもそもおかしいのだ。
要の役もあと半月、整理整頓されていく彼のデスク、軽やかな鼻歌。その横に積みあがっていく僕のタスクの量、鳴り続けるアラート音。背を預ける椅子は軋み、その天井は遠い。転職あるあるかもしれないが、入る会社を間違えたかもしれない。
頑張ろうとすれば、どこまででも頑張れる。それが僕の強み。しかしそれを職場で発揮したところで、大抵の場合は良い方向には転じない。利用されることのほうがずっと多い。仕事なんてものは、出来ないふりをして過ごしていたほうが得なのかもしれない。てっぺん回っての帰宅がほとんどになってきてやっと、その過ちに気付いたような気がする。
そんなことを言ったところで自分がやらねばこのタスクの山は一つも片付かないのだ。ぐっと、縮こまった背筋を伸ばす。今日も頑張ろう。
来週から始まる新規システムの接続試験。担当者から届いた打合せ依頼のメール、送信元を見てマウスを持つ手が固まった。これは何かの、間違いではないか。見覚えのあるこの文字列―こんな名前は、そうそう見ない。
引継ぎもされずたった一人放り出された打合せ。人違い説の希望は、見事に打ち砕かれた。対面に座る彼と会うのは、何年ぶりだろうか。この髪色と瞳の色は他に見たことがない。その、眼差しの強さも。
向かい合う彼も誰も引き連れてはおらず、地獄のマンツーマンになってしまった。動揺でつい視線がうろつく。二人きりは嫌だけれど、いやでも逆にそれでよかったかもしれない。この後ズタボロにされる未来を考えると、観衆は一人でも少ないほうがいい。
「担当の緑谷です。よろしくお願いします」
返される無言。目線は合っているのに言葉が返ってこない。…え、無視されてる?始まる前に終わってるのか?
「お前、何でここにいんだ」
「あ、僕のこと忘れてたわけじゃないんだね、今無視されてるのかと思った」
「無視はしてたわ」
「ええ…」
「ええと、…爆豪さん」
「きめえ」
「なんでだよ…じゃあ、よろしくね、かっちゃん」
「ぬるい仕事したら焼くからな」
「こわいよ!!!!」
何年振りかに会った幼馴染、かっちゃんは同じ社内のシステム開発部にいた。新規システム開発の主担当で、他のシステムの兼任しているらしい。
どこの部署も同じだな、彼も「今回のシステムは小規模だから」と一人で業務を回しているらしい。彼の共有カレンダーは終日真っ黒で入る隙なし、打合せと試験で埋め尽くされていた。僕も毎日作業作業打合せ作業と満員御礼、お互いの都合がつくのは終業後の18時以降。そんな感じで、ここ最近は毎晩かっちゃんと隣り合って仕事をしている。
打合せ初日から殴られるかもしれないと思ったがそんな事はなく、会話は端的でスムーズ、書類の誤りもゼロ、メールも電話もレスポンスが鬼のように早い。悪いのは態度だけだった。
彼のことは昔から知っているが、相変わらず才能が服着て歩いているって感じだ。彼は本当に、何でもできる男だ。作業効率最優先、毎晩隣り合って作業するのも、試験中に何度も繋ぐ電話がめんどくせえとノートPCを抱えてマシン室の扉をぶち抜いてきたからである。
システムの接続試験は待ち時間がそこそこにある。デスマーチ状態が恒常化している二人、待ち時間を使って他のタスクを潰していくが、それが何時間、さらに数日と続いていくと、さすがにそのキーボードを打つ手も止まりがちになる。
目が霞んで視界がぶれる。肩も腰も痛い。ため息が重なると仲間意識が芽生えてしまってつい横を見る。ああ、もう仕事の話したくない。くだらない話とかしたい。かっちゃんでいいから話し相手になってくれ。
それはかっちゃんも同じなようで、じわじわと過度な緊迫感も薄れていった僕らは、ぽつりぽつりと言葉を交わすようになっていった。
「最初から思ってたが、打合せはお前たった一人で来るし誰に聞いても監視システムの担当にはお前の名前しか出てこねえし、運用どうなってんだ」
「もう一人ベテランの人がいるんだけど、もう異動するから、実質僕一人だよ」
僅かに引かれる椅子。そのドン引き顔を止めてほしい。この状況に誰よりも引いているのは僕だ。
揃って背もたれに背を預けて、ため息をつく。吐く息の重さも、お揃いだ。
「…そんな人少なくて回るのかよ。監視システムなんてそれこそ止まったら当たりでけえのに基盤部も終わってんな」
「ほんとだよね」
「まあ開発業務丸投げされてるこっちも終わってんだけど」
「僕たちお似合いだよね」
「使い方間違ってんぞ」
軽妙な返しが耳に心地良い。
かっちゃんとの会話が楽しいだなんて、疲れがだいぶ頭の方にきているのだろうか。声色が昔よりずっと柔らかい。今ならもっとふざけたことを言ってもさらっと流してくれるかもしれない。
会話を遮る軽い警告音。試験は一時中断された。どうやらエラーが発生したらしい。決して僕がぬるい仕事をしたわけではない。詳細を調べていく。
「ああ、ここのサーバ、状態監視失敗してるな」
「あ?どこだ」
「これ、このサーバ。他は問題ないけどこの一台だけ接続できてないね」
「ログは?」
「んん、ちょっと待ってね」
ぼやけた目でコマンドを打つ。隣から覗くかっちゃんの顔も僕とお揃いの疲れ目だ。
「これ、ここで弾かれてるみたい」
「ネットワークチームには申請出してんぞ」
「他のサーバと同じ設定かけられてれば通るはずなんだけどな。問い合わせてみようか?」
「いや、設定内容が申請通りか直接聞いてくるわ」
時間が勿体ねえと言いながら席を立つ。
問い合わせのメールも電話もすっ飛ばして直接話しに行く後ろ姿は昔のままだ。
隣人が留守の間に作成された申請書に目を通したが、何の不備も見つからなかった。
あれだけ多忙で、やたら記載項目も多く煩雑な書類にも誤り一つもないなんて、どういう仕事の仕方してるんだ。頭が下がる。
かっちゃんは他人の仕事にも厳しいけれど、自分の仕事には誰よりも厳しい。彼の姿勢は昔から変わらない。
結局、かっちゃんの申請書は正しかったが、ネットワークチーム側の設定が漏れていたということだった。
今日は難しいと言われたところを跳ねのけて、「そっちのミスを正しく期日内に仕事したこっちが被れっつーんか」と半ば脅し文句のような依頼をかけた。そんなにらみ顔の下、ピリピリの修正作業は先ほど完了したようだ。
鬼のような顔で戻って来た彼は、再び僕の隣にどかっと腰を下ろした。軋む椅子に思わずこちらの肩が跳ねる。
「仕事増やしやがって…」
「かっちゃんその顔であっちにも乗り込んで行ったの?顔すごいよ」
「うっせえ、続きやんぞ」
「こわいこわい、もー優しくしてよ僕の非じゃないじゃんか」
「あ?」
「ごめんなさいやるってやります」
その後接続試験は滞りなく進み、大きく伸びをして見上げれば時計は21時半を指していた。身が震える。こんなに早い時間を見るのは、何ヶ月ぶりだろうか。
「かっちゃんありがとうね、トラブルがあってこんなに早く進むのって初めてだよ。すごく助かる」
「いつもそんな遅いのかよ」
「うん。部署によってはトラブルシューティングだけで数日とかあるね、大したものじゃないからって、後回しにされがちなんだ。仕方ないんだけど」
「舐められてんな」
「酷い言いようだけど返す言葉もないよ」
毒は吐かれたがこの軽口さえも心地良い。
「ありがとねぇ」と手を振って、ノートPCを畳んで立ち上がる背中を見送るスタイルをとる。彼はもう、振り返らないだろう。
数秒間が空いて、ぱっと向けられた赤い瞳と視線がかち合った。
「お前この後予定は」
「え?もう今日これにかかりきりだと思ってたから、あとは帰るだけだけど」
「飯食いに行くぞ」
「えっどうしたの」
「行かねぇなら別に良い」
「行きます!」
まさかかっちゃんからご飯のお誘いがあるなんて思わなかった。急いで腰を上げてバタバタと後片付けを始める背中越し、「10分後にロビーな」と声が投げかけられる。振り返るともうすでにそこに彼の姿はなく、ドアの閉まる軽い音だけが残された。どこまでも速く、早すぎる。
この仕事の進み方なら、もう今週末でこの隣り合う関係はおしまい。来週からは、すべて元通り。顔も見ることはないだろう。
青あざの一つ二つは覚悟していたのに、ここに残るのは頬の緩みと僅かな胸の高鳴り。結構、いや、かなり楽しかった。消えかける椅子の温度が、少しだけ名残惜しいくらいには。
だったら。
だったら、この後の食事の時に頑張って連絡先を聞いてみよう。僕はもう少しかっちゃんと、仕事の話も仕事じゃない話も、たくさんしてみたいのだ。
2025-01-16