貝がら(教育出版 ほか) 2026年5月2日
貝がら(教育出版 ほか) 2026年5月2日
児童文学作家、大石真(1925年-1990年)が書いた「貝がら」は、昭和46年から54年度版の光村図書4年生の国語の教科書に収録されていました。道徳では現在、教育出版(3年、友情,信頼)、学研(3年、友情,信頼)、光文書院(4年、相互理解,寛容)に掲載されています。作家か書いた文章だけあって、細かな表現が実に巧みであること、また、中学年の友達との関わり方を考える内容として、非常に適したものであることが、この教材の魅力だと感じています。まさにその2つを生かした授業展開を考えてみたいと思います。
相手を一面的に決めつけず、見方を広げることで、関係の可能性をひらく
この教材のポイントは、まさにこの一言に尽きるのではないかと思います。まず、ぼくは新しいクラスになり、隣の席に座った中山君に話しかけようとします。この時の僕は、転校してきたばかりの中山君に対して「自分から話しかけよう」「仲良しになろう」という思いもありますが、少し「話しかけてあげよう」「仲良くしてあげよう」といった感じが強い気がします。そして中山君があまり反応がないことに対して、「せっかく仲良くしようと思っているのに・・・」「ちょっと腹が立ってきた」(この表現は教育出版にはありません)と感じているのです。授業では、ここをおさえておくとよいと思います。次に、徐々に中山君のことが分かってきた場面に着目します。中山君は、「僕とだけ口をきかないのではない」「前に住んでいた所の絵を夢中になって書いている」「実は方言をからかわれてしまうことを気にしていた」この辺りから、僕は中山君に対する見方がだんだん広がっていきます。ちなみに、僕のよいところは、先ほどの「ちょっと腹が立ってきた」ところで、「もう中山君と話すのはやめよう」とか「関わらないでおこう」と思わないところですね。最近の子は(と言っていいかどうか分かりませんが)、「この子はこういう子」「自分とは違う子」と決めつけ、距離をとってしまう関わり方もあるように思います。僕はそうではなく、常に中山君のことを気にしながら、何とか関わりの糸口を見出そう、中山君のことを知ろうとしているところが最後の場面につながるような気がします。
僕の視点と中山君の視点の両方を扱う
さて、最後の僕が学校を休んだ日、中山君がお見舞いに来てくれた場面を考えていくことにしましょう。まず、「自転車でお見舞いに来てくれた」という何気ない表現から、「中山君の家から僕の家までは、ある程度距離があるのに来てくれた」ことが想像できます。また、「小さい紙づつみ」(学研は小さい箱)に貝がらをぎっしり入れてくれていたことから、「中山君は僕のことを大事に思っている」「本当は話しかけてくれて嬉しかった」という思いを感じさせます。中山君は自分の思いを上手く表現することが苦手な子なのかもしれません。だからこのような方法をとったのだと思います。(ちなみに、もし僕が起きていて、直接渡せたとしても、2人の会話はたどたどしかったのではないかと思います。もしかしたら気まずい空気が流れてしまったかもしれません。だから作家は僕が寝ている間に中山君が渡しに来た設定にしたのでしょう。心憎い表現です。)
授業では、あくまでも僕を中心に、僕の友達(中山君)に対する見方が広がり、中山君がどのような子か分かった上で、そのままの中山君を受け入れようと思えたところをねらいにするとよいと思います。自分が思ったような反応をくれなくても、中山君は僕にとって大切な友達です。そう思うようになれたところがポイントなのだと思います。ただし、中学年のBの視点で扱う際、主人公一人に焦点化するのではなく、中山君のことについても少し考えてみるとよいと思います。たとえば、「なぜ中山君は貝がらを持ってきてくれたのだろう」という発問です。このような発問をすれば、中山君の気持ちを理解しつつ、その中山君の気持ちを理解しようとした僕に迫っていけるからです。
それにしても、中山君がくれたものが「貝がら」であるところがこの作品のとてもいいところですよね。上手く自分の気持ちを伝えられないなら、手紙でもいいところ、なぜ貝がらなのでしょうか。それはただ図工の時間に絵に描いていたもの、それを褒めてくれたもの、中山君の思いで思い出がつまった大切なもの、というだけではない何か象徴的なものがあるように思います。「貝がら」とは、その名の通り、貝の殻ですから、貝類が自分の身を守るために作り出した硬い鎧です。その鎧を渡した=脱ぎ捨てたということは、自分の身や心は今、あらわになっている状態です。そのような状態で中山君は僕と関わりたいと思っていることを暗に示しているとしたら・・・いやいや少し考えすぎでしょうか。