幸福の王子(学研 ほか)2026年4月26日
幸福の王子(学研 ほか)2026年4月26日
原作「The Happy Prince」(1888年)は、アイルランド出身のオスカー・ワイルドによる短編小説です。日本では、曽野綾子の翻訳(バジリコ出版)がよく知られています。感動,畏敬の念の定番教材として、2年生や3年生に掲載されている本作品は、キリスト教の博愛・慈愛・自己犠牲などの精神が色濃く反映されているため扱いにくいと言われることが多くあります。教材の魅力やよさを失わず、しかし自己犠牲を賛美するような授業にならないためにどうしたらよいか、考えてみたいと思います。
見過ごされてしまう幸福の王子の過去
道徳の教科書では省略されてしまっていますが、原作には次のように書かれています。「生前の王子が住んでいた宮殿は「無悲宮殿」(サンスーシ宮殿)と呼ばれ、悲しみが入ることを許されない、贅沢と快楽だけの場所でした。この宮殿の壁の向こう側にある町の貧しさや醜さを、王子は知らずに過ごしていました。」つまり、生前の王子の幸福は、いわば「知らないことによる幸福」です。苦しむ人々を知らず、悲しみに触れないからこそ、自分は満ち足りていると感じていたということになります。
幸福の王子が幸福と言える理由
王子は亡くなった後、銅像となり、高い円柱の上に立つようになって初めて、この町の貧しい、不幸な人々の実態を知り、嘆き悲しみます。 そこで王子は、自分の宝石や金箔をすべて人々に与えていき、外見的にはどんどんみすぼらしくなり、ついには壊されてしまいます。それでも「幸福」と言えるのはなぜでしょうか。いくつか考えられる点を挙げてみたいと思います。
(1)他の人を幸せにできたから
町や人々の実態を知ったからこそ、王子は自分のもっているものを与えていき、苦しみを和らげようとします。これは「与えられる幸福」ではなく、「与えることで生まれる幸福」でしょう。
(2)自分の意志で選び取ることができたから
何も知らないまま幸福でいるのではなく、現実の悲しみを直視した上で、自らの意志を働かせ宝石や金箔与えていきます。他者から見たら自己犠牲と言われるかもしれませんが、自分で選び取った生き方であるところに幸福があると思います。
(3)共感者がいたから
これは紛れもなくツバメのことです。王子は、自分の意志を自分で果たすことはできませんが、その意志に共感し、代わりに働いてくれたツバメの存在があったことは幸福なことと言わざるを得ません。
(4)最期に価値づけられたから
物語の結末では、神(天使)が「最も尊いもの」として王子の心臓とツバメを選びます。つまり、王子とツバメの生き方は、神によって肯定され、価値づけられたということになります。キリスト教徒ではない人にとっては理解しがたいことかもしれませんが、これも幸福であることの理由となりそうです。
実際の授業では
間違っても、この話に感動させるのではありません。また、王子のような生き方をよしとするのでもありません。道徳の授業では、自分の「幸福感」と照らし合わせてみるのがよいと思います。つまり、導入で「幸せってどんなことだと思う?」や「どんな時に幸せを感じる?」という問いで、各々の幸福感を挙げておきます。次に展開で物語を使って「幸福の王子は、なぜ幸福なんだろう?(なぜ幸福と言えるのだろう)」という問いを中心に、先ほど挙げた4点を考えさせます。(子どもたちは、もっと多様な視点から王子が幸福であることの理由を考えるかもしれません)その後、「自分も幸福だと思うものはどれだろう?」という問いで、出された意見の中から選ばせるようにします。(複数選んでよいと思います)そしてその理由を述べていく際に、その子なりの理由やエピソードなどが語られたらよいのではないかと思います。たとえば、「私も(3)が幸福だと思いました。どうしてかと言うと、私がしたいと思っていることを一緒にしてくれる友達がいたら嬉しいからです。」や「僕は(1)を選びました。お母さんが仕事で大変な時に、お手伝いをするとお母さんが笑顔になるし、それを見たら僕も幸せだからです。」など、そのような意見を2~3年生の子どもたちなりの言葉で表現できたらよいと思います。最後に、先生が「幸福って、悲しいことがないやお金持ちということではなくて、皆が言ってくれたようなことなんだね。」と、子どもたちから学ばせてもらったことを価値付てあげたら、さらによいのではないかと思います。
余談ですが
この話は、裕福ながら無知で世間知らずの特権階級を揶揄し、貧しいながらも慈愛に満ちた生き方を賛美するようなところがあります。それは、作者のオスカー・ワイルドが生きた時代背景もあってのことでしょう。ただ、道徳の授業で扱う場合は、あまり深くその辺りには踏み込まなくてよいと思います。また、それと同じようにツバメは、実は雄であることも子どもたちには伏せておくとよいと思います。オスカー・ワイルドは、この話を書いた後、同性愛の罪により、投獄された経験があります。そのような作家の人間性がにじみ出るからこそ、文学は面白いのですが、道徳の授業として、使える部分と使わない部分があってよいと思います。