青の洞門/恩讐の彼方に(光村 ほか) 2026年5月10日
青の洞門/恩讐の彼方に(光村 ほか) 2026年5月10日
菊池寛(1888-1948)の名作「恩讐の彼方に」(1919年・大正8年)を道徳教材として編集した作品です。
「青の洞門」は、大分県中津市に実在する洞門(トンネル)ですが、その洞門には、次のような歴史があります。1724年(享保9年)、曹洞宗の僧、禅海(ぜんかい)和尚(1687-1774)は、修行のために諸国を巡る中、豊後国羅漢寺(らかんじ)を参詣しました。その際、川沿いの断崖にかけられた桟橋、青野渡(鉄の鎖を命綱にしてわたるということから「鎖渡し」とも呼ばれていた)が危険で、人馬が度々命を落としていることを知りました。禅海和尚はこれを哀れみ、豊前国中津藩主の許可を得て掘削(くっさく)を始めました。その後、周辺の村民や九州諸藩の領主の援助を得て、約30年の歳月をかけて、1763年(宝暦13年)に長さ約144mの洞門を完成させました。
「恩讐の彼方に」は、その「青の洞門」の逸話を基にして書かれた作品です。しかし、禅海和尚は主君殺しの大罪を犯していませんし、ましてや主君の妾(めかけ)と密通もしていません。つまり敵討ちの部分は菊池寛の創作ということになります。
道徳の教科書には、現在小学校では3社(東京書籍、日本文教出版、光文書院)、中学校では2社(東京書籍、光村図書)掲載されています。いずれも小学6年生、中学3年生の後半に載っており、じっくりと読み深めた上で考え、議論してほしいという意図が感じられます。興味深いのは、小学校ではすべてD感動,畏敬の念で扱われていますが、中学校ではさまざまな項目で扱われているという点です。たとえば光村図書は、B相互理解,寛容で1時間目を行い、D感動,畏敬の念で2時間を行うという斬新な作りをしています。現行の教科書の中で、1教材を2時間かけて扱う計画にしているのは、この教材だけではないでしょうか。また、東京書籍は小学校、中学校でそれぞれD感動,畏敬の念で扱っていることから、いわゆる「学び直し」ができるようになっています。さらに以前は、Dよりよく生きる喜びで扱っている会社もあり、逆にどのように授業をしたらよいか悩ませる教材と言えそうです。確かに教材文が長く、内容理解にも時間がかかるため、やりにくさはあると思いますが、もともと小説だからこそ道徳臭さがなく、人間の生き方を多様な展開で考えられる教材を残してほしいと強く思います。
小学校では実之助の視点で、了海の信念や生き方を考える
この教材を読んだとき、子どもたちが感じるのは「了海はすごい」と同時に、「なぜ実之助は了海を切らなかったか」だと思います。父の敵を討つために、9年間も諸国を歩きながら、犯人の所在を求め続けていたにもかかわらず、「実之助の心から復讐心が消えたのはなぜか」、「何が実之助の心を変えたのか」という疑問の方が、いきなり了海のすごさに注目するよりも、子どもたちの心を強く動かします。では、実之助の心が変容したのはなぜでしょうか。それは、了海の偉業(21年かけて掘削をやり遂げた)に感動したからではありません。その偉業の奥にある、了海の信念や生き方に触れたから、実之助は共に手を取り合い、涙を流したのだと思います。実際の授業では、ここで終わってしまうと読み取りのままなので、「そのような信念や生き方に出会うと、人はどうなると思うか」「実之助や了海をあなたはどう思うか」といった問いで、自己との関わりを見出させたいところです。
中学校では了海の罪と実之助の憎しみに焦点を当て、生き方を考える
中学3年生で授業をする際は、まず子どもや学級の実態を踏まえて、どこに焦点を当てるかを決めなくてはなりません。なぜなら、この作品は「復讐、許し、贖罪、生き直し、寛容、信念、感動、人間の弱さ・強さ」など、さまざまな論点が考えられるからです。そして、どの論点でも、中学3年生と共に考え、議論することは楽しいと思います。しかし、1時間という制約の中では、全てを扱いきれません。そこで、あくまでも個人的な私の案として、Dよりよく生きる喜びを考えてみたいと思います。
まず、テーマ(めあて)は、「人は、自分自身とどう向き合いながら生きていったらよいのだろう」とします。中学3年生は進路もあり、まさに自分自身と向き合わなければならない時期です。そのことにつなげて考えられるとよいと思います。次に、教材を範読した後、「了海は罪を消すことができたのか」と「実之助は了海を許すことができたのか」を問います。両方を同時に考えてもよいし、片方ずつでもよいと思いますが、要は両者が何と向き合っていたのか考えさせたいという意図があります。了海については、光村図書の教科書に書かれているような生い立ちに着目するとよいと思います。(妾と密通の話は書かれていませんが、それも含めて)主君殺しの大罪を犯したこと、逃亡している間にも、(妾のお弓にそそのかされたとは言え)脅し、ゆすり、強盗、人殺しとさらなる悪行を重ねたこと、しかし罪深さにいたたまれなくなり、仏門に入って修行に励み、諸人救済の旅に出たことなどです。(出家というものは、感覚としては分からなくても、国語の授業でも出てきますので何となく理解できると思います)また、了海は洞門を完成させたとき、「いざ、実之助殿。約束の日じゃ。お切りなされ。このような喜びの中で往生すれば、極楽浄土に参れるであろう。」と言っていますが、本当に極楽浄土に行けるのか、本当に了海の罪は消えるのか、子どもたちと共に考えたいところです。逆に実之助については、今ここで了海を切らなくて後悔しないか、父の敵を果たさなくて本当によいのか、自分だったらどうするのか、子どもたちの心は大きく揺れそうです。
さて、ここで重要なのは、多様な考えを出すこと、自分とは異なる視点から学ぶことです。ただし、「いろんな意見が出たね、じゃあ次の発問にいくよ」ではなくて、ある程度、教師が子どもたちの意見を整理して次の発問につなぐことが大切だと思います。今、子どもたちは「人は変われる、いや変われない。罪は消えない、でも生き方は変わる。許せない、でも討てない」という揺れの中にいます。その揺れを整理するために、「了海と実之助は、それぞれ自分の何と向き合っていたのだろう」という発問をします。了海はまさしく「罪、過去、弱さ、逃げてきた自分、人を傷つけた人生」です。実之助は「憎しみ、復讐心、許せないという思い、討たねばならないという執着」です。子どもたちが感じたのと同じように、了海も実之助も揺れながら、弱さや過去に向き合っていたことをおさえることができたらよいと思います。
ここまできたら、テーマ(めあて)「人は、自分自身とどう向き合いながら生きていったらよいのだろう」に戻すと、子どもたちは教材からの学びを基に、自分自身がどのように向き合って生きていくかを考えられるのではないかと思います。「自分の罪や相手への憎しみは完全に消えないけど、それを乗り越えて生きていくことができるんだ」「自分の弱さや過去に向き合うことは簡単ではないし、苦しみも残るけど、それでもよりよく生きようとするのが人間なんだ」といった考えが、中学3年生からは出てくるのではないかと思います。
最後にこの作品の最も秀逸なのは題名にあると思います。「恩讐の彼方に」の「恩讐」とは、「感謝や感激、敬意」と「恨みや憎しみ、敵討ち」という相反するものを指します。そして「彼方に」は、「向こうへ」や「乗り越えて」という意味だと思います。まさに了海と実之助を見事に言い当てた言葉であり、人間としての生き方を考えさせられる題名になっていると思います。