大野真依

一度きり

写真(A4*1枚、L版*6枚)

世の中には「一度きり」しか役をなさず、すぐに不要になってしまうものがあります。食べ物の容器もそのひとつです。日本では、1人が捨てるプラスチックゴミの量は32キログラムです。これは、世界で2番目に多い廃棄量です。このことを後ろめたく感じながらも、私たちは毎日「一度きり」をつくっています。今回、「一度きり」の刹那に立ち返り、その後ろめたさの感情に焦点を当てて作品を制作しました。

Just Once

Photograph (A4, L version size)

There are so many things that are used ‘just once’, and after that they won’t be needed. Plastic containers are one of them. In Japan, one person discards 32 kilograms of plastics. This number is worst 2nd place in the world. People make “Just Once” even though they feel worry about that. I focused this feeling and took pictures.

活動の記録

卒業研究_大野真依 - 大野真依

2021年度 1月8日

稲垣立男ゼミにおける作品制作記録

「伝える」と「伝わる」を考える


法政大学 国際文化学部国際文化学科 稲垣立男ゼミ18G0903大野真依

2020年度から2021年度、稲垣立男ゼミでの二年間の活動の中で目指したこととその成果を「共同研究」「学会」「個人制作」に分けて述べていく。私はこれまで、主にジェンダーの平等や環境問題をテーマに、作品を見た人に立ち止まって考えさせる作品作りを目指してきた。そのために、作品を通して伝えたい事や制作動機を明確にし、それらを伝えるための最適な制作手段を考えてきた。期待通りの反応を得ることは難しかったものの、フィードバックから得られたアートに対する考察を述べていく。

まず、ゼミ活動全般や共同研究の成果について考察する。私の当ゼミでの活動期間は、終始コロナ禍におけるものであった。2020年春、ゼミ生と初めて会ったのはオンライン上で、自己紹介も録画だった。慣れない環境での活動で、作品作りも手探りだったように思われた。意思疎通がうまくできずにもどかしさを覚える一方で、コロナ禍ならではの研究に励むことができたのは事実である。例えば、Rosasのワークショップでは普段であれば同じ空間で一緒に踊るところを今回の場合は、各々が自宅で踊った動画をつなぎ合わせて一つの作品にした。この場合には、出来上がるまで仕上がりが分からないという、サプライズ性のある作品制作になったと考えている。集めた動画を編集してアップロードするまではどのような作品になるかは誰も知らないからである。誰かが途中で笑い転げたり途中で中断してしまったりという可能性はないとは言えないのである。そこに非対面の面白さを感じた。また、オンラインツールの利便性にも触れることができた。中でもmiroは当ゼミでは大きな役割を果たした。意思疎通の難しいオンラインミーティングにおいて、ブレインストーミングを簡潔かつスピーディーに行うことができた。ほとんどのゼミ生が触れた事のないツールであったために、使い方は無限にあったように考えられる。現に、学会の作品ではmiroを使って絵を描いていた。私たちの世代は、「デジタルネイティブ」と呼ばれ生まれながらにして正しい使い方が分かるかのように考えられているが、そうではなくこのように新しいものに触れながら様々な角度からの答えを探しているのではないか。

次に、国際文化情報学会2020で制作したパフォーマンスアート[i]についての活動を振り返る。この研究では、“Cut Piece”[ii], “AAA AAA”[iii], “ボクシングペインティング”[iv] の三つのマスターピースを2020年版に刷新して再現するというものである。具体的には、コロナ禍でのマスクの存在を題材に洋服の代わりに、装着しているマスクを切られるという映像を制作した。コロナ禍において、マスクとは絶対的にしなくてはならないものである一方で、邪魔で不快なものでもある。その葛藤を映像と音声で表現するために、特に“Cut Piece”の映像編集にこだわった。パフォーマンス作品である、本家の“Cut Piece”の瞬間の刹那を表現するために、編集の際には、カット切り替えを素早く行った。これにより、時の移り変わりの速さを演出できたのではないかと考えている。更に、音声はコロナ禍で不安な思いを抱えている人々の心の声をイメージして制作した。

次に、二年間で制作した四つの作品それぞれの考察をする。一つ目は、2020年度春学期の“Be like a Flower”である。男性の手にネイルを施し、自由に自分を表現することの美しさを描いた。作品制作の背景には、自身の留学の経験が大きく関係している。当ゼミに所属した当初、海外留学から帰国した直後であったこともあり、表現の自由や平等な世の中について考えていた。留学先のバルセロナ/スペインでは、独立運動の熱が高まっており、デモ活動が毎日のように行われていた。中には小さな子供もおり、学校をボイコットしてまでデモに参加したと言うのだ。そのような様子を間近に見聞きしたことが、帰国後の個人研究の制作動機となっている。「ネイルとは女性がするものである」というステレオタイプを利用して、男性の手にネイルをすることで違和感を創出できたと考えている。この作品では、花を自由の象徴として介入させている。思い思いに力強く咲く花からインスピレーションを受け、何者にも囚われず自分を表現することは美しいことだというメッセージを込めている。一方で、ネイル同様にハイヒールやロングヘア―などを用いた作品を作ることができるとも考えられた。ジェンダーの平等を表現するにあたり、偏見を利用するというところに矛盾を感じながらも、一般的な考えを知っていることが必要だと気付くことができた。

二つ目は、2020年秋学期の『被る』という作品である。自然物にヘルメットを設置し、環境問題を「かぶる」と「こうむる」の二つの読み方ができるタイトルを付け、人間の強欲な生活によって自然が被った影響と、ヘルメットを被ることで環境自身の身を守るという意味が含まれている。海や川などの自然物にヘルメットを置き、被って自分を守っているかのように見せる写真作品となっている。海岸の写真では、地球の大きさがよくわかるように水平線を入れるような構想にしている。制作の上で、Alice de Kruijis(アリス・ド・クワイス)の“Les Temps Moderns”[v]という写真集を参考にした。彼女はオランダの写真家で、標準を疑問視し異なる文化や民族の背景に、写真で抽象的に、概念的に物語を伝えることに重きをおいている。海洋汚染によって生きていけなくなった魚が死んで岸に打ち上げられている、その脇に髪の長い女性が目を閉じて横たえている。自分たち人間が生きていくために環境に配慮しない生活を続けた結果、人間が苦しみ、自らの生命を犠牲にしかねない。というメッセージであろう。女性の髪の毛は海の水に半分流されており、まるで打ち上げられた魚のように表現されている。更に、二点目の作品では、美しい森林にゴミが詰まった袋が置かれている。ゴミ袋はオレンジ色をしており、自然の緑色とのコントラストを巧妙に写しだしている。自然物と人工物の色合いの差を表すことで、自然環境に人間の手が加わっている不自然さ・違和感を持たせる効果をもたらしている。

制作目的は、近年地球全体の問題になっている環境破壊を視覚的に訴えることである。前回の作品との共通する特徴としては、見た人に違和感を持たせるというものである。今回も、海岸とヘルメットという一見無関係にも思われるものを組み合わせることで、見た人に一瞬立ち止まって考えさせる作品になったのではないか。この作品を制作するに至った経緯として、環境破壊についての映像や画像を見て心を痛めることが多かったことが挙げられる。そのため私自身実際に、節水や「マイ〇〇」を持ち歩く活動をしている。しかしこうした努力はひとりではこの大きな地球上ではほとんど意味を持たない。「ひとりひとりの意識が大切」などという言葉が環境保全のポスターでは叫ばれるが、その意識を変え得るのは現在私が構想しているような視覚的に訴えかける作品なのではないかと考えている。特に、写真のような感性に基づくものにおいては、人々の意識に直接的に訴えかけることができると考える。論文や文書などではその言語を読む能力やそれを理解する能力が必要となる一方で、写真は感性で読み取ることが自然であるため、環境保全の意識に効果的にアプローチすることが可能だと考えている。

三つ目の作品は、MMM(みなとメディアミュージアム)2021プロジェクトで制作した“Moving on”という作品である。現地の住民へのインタビューをもとに、物語の情景をデジタルイラストで描き出した。例年、MMMのプロジェクトは現地で開催され、地元の方々が来場するため、アーティストと来場者双方のコミュニケーションがそこには生まれていた。しかし、今年はコロナ禍でサテライト展示のみの開催となったため、制作物に対する地元の方々のリアクションをリアルに得ることができなかった。その中で那珂湊という街とそこに住む人の魅力を効果的に伝えるためには、どのような作品をどのように展示するべきか考えることに一番時間を割いた。そもそも私自身、那珂湊を訪れた事はなかったため、どんな魅力があるのかということすら理解していなかった。そのような状況でアーティストとしてプロジェクトに参加してよいのか、悩んだ時期があった。しかし、インタビューで語られていた住民の方の想い出話を何回も聞き、言葉と表情から受け取れるすべてを利用し、物語の情景を想像しながら作品の構想を練った。そして、過去の情景と現在の情景をかけ合わせた、いつでもない情景をイラストに残した。それを破けない布にプリントすることで、過去と現在は切り離せないもので流動的に移ろう「時」を表現できたのではないか。

四つ目の作品は、当ゼミでの最後の制作物となるものである。『一度きり』というタイトルで、プラスティック容器の儚さとごみ問題に対する警鐘を写真に込めた。この作品の制作動機は、日常生活の中での何気ない会話の中から湧いたものだ。友人との会話の中で、「コンビニ飯やペットボトルを消費することに抵抗はあるか」という話にほとんど皆が賛成だった。プラスティックゴミを出すことに後ろめたさを感じながらも私たちは毎日「一度きり」を作り出しているのだと気付いた。その一度きりの刹那を表現しようと考え、プラスティック容器のゴミを撮影した。しかしこの作品意図は、見ている側に正確に伝わることはなかった。「山とゴミという全く関係のないもの同士をなぜ並べようと思ったのか」フィードバックはそのようなものだった。ここで「伝えよう」とすることと「伝わる」ことの間にギャップを感じ、「伝わる」ことの難しさを痛感した。当ゼミでの活動の中で、作品を通して伝えようとした内容が正確に伝わることはほとんどなかったため、「どう伝えるか」を深めていくというところに今後の課題を見出した。

当ゼミでの二年間の活動の中で一番大きく考えが変わったことは、何をアートとするかの考え方だ。アートは美しくなければならないものではなく、制作者の心に触れることのできる美しいものであると学んだ。当ゼミに所属する以前は、アート作品とは美しくあるべきもので受け入れられてこそ良い作品であると考えていた。しかし、活動していく中で先行研究や展覧会回り、ゼミ生の研究発表を見て、そうではないと学んだ。見た目の美しさを評価するだけではなく、制作者の感性に心を傾けると新たな発見があったりその感性に自分の価値観を重ね合わせて思いを馳せたりできるもだと分かった。例えば、個人研究の中で、親しい友人をモデルにした作品を制作したゼミ生がいた。作品を見て、彼女にしか映すことのできない友人の像を見ることができた。そのモデルは私にとっては他人だが、親しい仲になったかのように見ることができ、新鮮に感じた。このように、作品の背景にある制作者の感性やメッセージを捉えること、捉えようとすることこそがアートなのではないか。


[i] パフォーマンスアート

アーティストの言動そのものや作品の制作過程が作品の一部となるアート。写真や絵画のような恒久的な作品とは異なり、その一瞬でしか起こり得ない偶然性に儚さがある。その解釈は幅広く、当時の芸術界では前衛的なものであった。

[ii] “Cut Piece (1965)”/オノ・ヨーコ

舞台上の女性の着ている洋服を観客がはさみを使って切り刻んでいくという作品。

[iii] “AAA AAA(1978)”/マリーナ・アブラモヴィッチ

アブラモヴィッチ自身が彼女のパートナーと至近距離で向かい合い、ひたすらに「aaa-aaa」と叫び続けるという作品。だんだんと近づいていき、最終的には口が触れ合うほどになる。アブラモヴィッチはこの作品に見られるように、肉体を酷使し身体の可能性を見出そうとしている。

[iv]ボクシングペインティング/篠原有司男

ボクシンググロブにインクをつけ、巨大なキャンバスにミット打ちするようにパンチして描いていくという現代アート。

[v] “Les Temps Moderns”

オランダの写真家Alice de kruijisの、環境問題を題材にした写真集。