17. 怖い夢はもう見ない

決勝に上がれない夢を見てたドイツのエースと準優勝ばっかりの夢を見てたオーストリアのエースの物語です

二人の夢とやり取りについては架空ですが、オーストリアのエースは全豪オープンでは準優勝が続くプレッシャーを感じていたということをインタビューで聞きました

〈2020年シンシナティの大会〉

全米オープンの前の週、サーシャと練習をしているときだった。

休憩中、コートに座り込んで二人でしゃべっていた。

いつの間にか彼は急に口をつぐんでしまった。

そして、じっと地面の一点を見つめた。

「どうしたの?」

おれが声をかけると彼は小さくうなずいた。

しばらくして、下を向いたまま話し始めた。

「怖い夢を見てるんだ。何度挑戦しても四大大会の決勝に上がれない夢。どうしようって」

「サーシャ」

何気ないふりをして彼の肩をたたいた。

彼は顔を上げてこちらを見た。

おれは右手を差し出した。

「いつもの」

相手は目を丸くしておれの右手と顔を見比べた。

笑いかけたら、彼の顔にも笑いが浮かんで、同じように右手を出した。

手の平を1回。

こぶしを作ってフィストタッチ。

手の甲で1回。

手の平で2回。

彼と知り合ってから作った、二人だけのハンドシェイクだった。

「ほら、これできみは怖い夢は見ないよ」

相手は声を出して笑った。

「ほんとかなあ……でもドミが言うことだから信じるよ。ありがとう」

全米オープンはがんばろうね。

お互いにそう言って、おれたちは練習を切り上げた。

* * *

これから決勝戦が始まる。

少し離れたところで、対戦相手が最後のウォーミングアップをしていた。

名前が呼ばれて、彼はコートへ歩いていく。

よかったね、サーシャ。

きみはもう怖い夢は見ないんだ。

自分の力で悪夢を追い払った。

おれはこれまでの四大大会の決勝戦を思い出す。

トロフィーは何度も目の前に現れては消えていった。

このまま一度も優勝できなかったらどうしよう……

あのときは言わなかったけど、おれも怖い夢を見ていた。

ハンドシェイクはあいつのためだけじゃなかった。

彼とハンドシェイクをしたら、悪夢を乗り越えられると思った。

きみは自分の運命を変えたんだから、おれも変えてみせる。

自分の名前が呼ばれた。

夢の向こう側へ、足を一歩踏み出した。