(解説) 森有礼 と 折田彦市
折田先生のご経歴をみると、二つ年上の森有礼(もり ありのり・右写真は文部大臣就任時のもの)がとても大きい存在であったことがわかります。幼少期の造士館(薩摩藩の藩校)時代から始まり、岩倉具視との出会い、渡米、文部省入省などなど、お二人は非常に近いところで人生を歩まれてきたのです(下記年表を参照のこと)。 折田先生は、森有礼をほんとうに心から敬愛されていました。その証拠に、先生は左登子夫人との間に産まれた6男2女のうちの男子全ての名に「有」の字をつけています。 森有礼は稀代の政治家です。Wikipediaの森有礼の項には「日本の武士(薩摩藩士)・外交官・政治家である。一橋大学創設者、初代の文部大臣、明治の六大教育家。子爵。」とあります。明治の六大教育家とは大木喬任、近藤真琴、中村正直、新島襄、福澤諭吉、それに森のことを指します。森と大木は学校制度の改革者として、他の4人は四大私塾の創始者として、当時素晴らしい功績のある教育家として尊敬されておりました。 このようなとても立派な先輩が、折田先生を陰日向なく支えてきたわけです。ですから大日本憲法発布の日に森氏が刺殺された時、先生が受けた衝撃がどれほどのものであったか想像に難くありません。森氏のバックアップは精神面に留まるようなものではありませんでした。明治18年、先生は関西にも大学を設立すべきだという意見書を文部省に具申しています。これは財政難だった文部省との折衝の結果、東大の「大学分校」を創るということで決着をみます。当時、大学といえば東大のことのみを指していました。そして、明治18年は、森氏が日本初の文部大臣に就任した年でもあります。
このような情勢ですから、「条件が整えばいづれは折田校長の学校(後の三高)が大学となる。」が、森=折田ラインにおける既定路線であったものと思われます。
ところが、森氏の突然の訃報。この計画は頓挫し、森氏の後を継いだ井上毅が森氏とはまったく異なった政策を進めて行きます。森氏は生前、高等中学校を普通学校化する、つまり大学の予科にすることを目指していました。ところが井上氏は高等中学校は学部設置の専門学校にすべしと考えていました。そのため三高(当時は高等中学校)はしばらくの間、専門学校として扱われることとなります。
その後だいぶたってからですが、結果的には三高は井上ではなく森が思い描いていた通りの道を歩むことになります。明治30年、京大が創立。それと同時に三高は大学予科(大学進学のための準備学校)として位置づけられることになります。
(注記)大学予科であることと専門学校であることの差は、Wikipedia「日本の学校制度の変遷」などに詳細があります。
ところで、初代の京大総長をご存知ですか?木下廣次先生です。もちろんこの先生も立派な方ですが、一説によると京大創立時(この時に三高は京大に場所を譲り、少し南の現在の総合人間学部がある吉田二本松町へ移転)には、折田先生が初代京大総長になるはず、あるいはなるべきであったという話があったそうです。折田総長誕生がどれほど現実的なものであったかは検証の余地がありますが、三高卒業生の同窓会報などにも「本来なら折田先生が初代京大総長になられるべきであった。」という記述が数多く見受けられます。板垣創造氏は「一枚の肖像画」の中で、それが叶わなかった理由を二つほど述べられています。
一つは、
「折田先生が三高を愛されていて、三高を途中で放り出すことができなかった。」
ということ。そしてもう一つが、
「強固な後ろ盾であった森有礼の不在。」
折田先生に森氏が与えた影響がいかに絶大なものであったか、おわかりいただけるかと思います。
比較年表 折田彦市と森有礼
* 年齢は数え年
* 折田先生の行には、大阪専門学校から京大総合人間学部に至るまでの経緯を(赤字)で併記した。