先生が校長をお辞めになって間もない頃、読売が明治43年12月1日の朝刊でかなりの紙面を割いて折田彦市先生ご勇退に関しての記事を掲載しています。高等学校の校長辞任についてこれだけ大きく取り上げられることなど当時であっても極めて異例なことであったはず。それだけ折田校長辞任の報は、大変な出来事であったということなのかもしれません。紙面は読売新聞のアーカイブ「ヨミダス歴史館」で読むことができますし、既にくり返し紹介している板垣氏「一枚の肖像画」にも記事詳細が転載されています。ここでは紙面すべてを紹介することは困難ですし、昔の言葉では読み辛い方もいらっしゃると思いますので、たくさんあるこの日の記事の中から、先生が校長生活三十年間を振りかえって語られた「回頭三十年の感」(6面)と校長告別式に関する記事「師弟皆泣く」(3面)を、現代風の文に改編したものをご紹介したいと思います。是非先生のお姿を想像しながら読んでみてください。 「回顧三十年の感 折田彦市談」
(読売新聞明治43年12月1日朝刊6面「折田校長勇退記念」より抜粋・現代語訳に改編)
大演習参観のときに京都の折田彦市氏を訪ねた際、先生は昔をふり返り本社記者に次のように語った。「私もだいぶ年をとったのでしばしば辞意をもらしたりしていたんですが、なかなか都合で許してもらえませんでした。昨年還暦の祝いをすませたので、いよいよ今回暇な身にしていただくことにしました。この三高は、第三高等中学校の時代は予科補充+予科+本科の合計7年も就学することになっていて、それに人数も少なかったから、自然と親しみ深いものがあったんですが、今は就学年限も短いし人数も多いので、顔は知っていても名前を知らないとか、またその逆もあったりという具合なので、突然道でお辞儀をされて面食らうということがあるんです。
しかし昔のことをかんがえてみると、実になつかしいことが多い。
この学校の前身の大坂専門学校に私が校長として赴任したのは明治13年のことでした。今の旅団司令部と地方幼年学校のところに学校がありました。赴任当時は医科と理学の二科があって、医科は東京のと違ってこちらは英国風。英国人の解剖の先生がいたと記憶していますが、その時の生徒数はわずか123人で、添田寿一、松井源治郎、浜田連之助くんなどがおりました。解剖には相当難儀しまして、あちこちへ死体をもらいにいったものです。その時の堺県(現在の大阪府東部、南部それに奈良県を加えたエリアにまたがる県)知事・税所篤氏から囚人の遺体をいただけて有り難く思ったこともあります。
私が赴任したその年に、文部省は経費削減のために突然専門学校を廃止して模範中学をつくるつもりで中学校に改組しました。今から考えると乱暴な話です。そのせいで生徒は行き場をなくしてしまい、一から目標を変更しなければならなくなってしまったんです。大学(東京大学)の医科はドイツ風だから英語で学んだ者は入れないと言うので、当時の大学校長・加藤弘之さんと相談してしばらくの間は別科医科というものに入れてもらうということにした。その際に添田くんは法科に、林権助くんは大学予備門に、長岡半太郎くん(注1)も英語科を出たところだったがこれも予備門に入ってもらった。
18年に大坂中学校は東京大学の大学分校となりますが、その年の春に私は文部権大書記官として転出、20年にふたたび本校にもどります。その時の森文部大臣は「どうせ大学にするんだから」という考えをもっていて、学校の場所をよそに移すつもりだった。そこで最初は神戸(今の神戸高商(注2)付近)にと考えていたんだけれども、京都の方から寄付金を10万円(注3)出すからという話しがあったので、今の京大のところ(注4)へ4万坪の工事をした。その時の地価がわずか20銭(注5)でした。これが22年に落成し移転します。このときは高等中学という名称でした。生徒は少ないし、議会では度々高等中学廃止論が出るという始末。さらに明治25~26年になると文部大臣井上毅氏が「最高学府は東京にひとつあれば十分だ。それよりもう少しレベルの低い地方大学を設置する必要がある!」などという。そこで試しに京都に法学部と工学部をおくことになり、それまでの高等中学は解散しなければならなくなった。これは私にとっては終生忘れることのできない痛心事です。600人の生徒たちは住み慣れた京都の校舎を去りたくなどないという。教師も心の中では去らせたくないと思っていたんだが、万事休す。そこで一同は今も大学に残るあのクスノキ(注6)を記念に植えて、その根元に石碑を建てて解散式をあげた。その後、ある者は仙台へ、またある者は山口へとそれぞれ他の学校へと別れていったのです。この時に私は当局に「人さまの子を預かっておいて、そんな残酷なことはできない!二度と解散などということをするならきっぱりと辞める!」と言ってやりました。しかし嬉しいことに、あのときに仙台へ行った木下淑夫くん(鉄道員技師)は私が上京する際に開かれる同窓会に三高出身者として必ず出席してくれます。
教育者としては、立派な人間が巣立っていく、これ以上の楽しみはありません。「卒業したらもう先生じゃない。お友達だよ。」とかねがね言っておいたのですが、その若いお友達がたくさんできるのを喜んでいます。その後、井上さんのお考えも理想どおりには行かず、京都帝国大学ができます。高等学校は大学にその土地を譲って今のところに移転します(注7)。組織も二部甲が二組、一部甲に仏法の加わっているところがよそと違うので、今後もまたどう変わっていくのかわかりません。
かえりみれば在職の三十年間、ある規定の下で人を教育するのですから、また学校は自分のものではなく、いつ何時校長が変わるとも限らないものなのですから、自分の意見方針をとことん表明することはしませんでした。特殊な校風をうちたてることもしませんでした。ただただ京都という土地柄だけに、なるべく柔弱なのはやめて剛健な気風を養おうと考え、生徒の襟巻を廃止したり、修学旅行などは他校より先に始めました。柔道撃剣にも心をつくしました。そしてなんといっても私がもっとも嬉かったのは、この学校にかぎって暴動ということが未だかつてその気配すらなく、退校処分というような致命傷を前途多望な青年に与えるようなことなどなかったことです。
私は今、教育界を去ることになりますが、教育と縁を絶つわけではありません。昔の人のように楽隠居となる時代でもありませんので死ぬまで働いてまだまだ尽くさなければならない多くのことがあります。幸い、近頃は胃病もだいぶよくなりましたので、京都を墓地と定めてそろそろ働くことにします。来年は武徳会の学校を建てるつもりです。これからは多少は自由行動がとれるでしょう。」
(注1)我が国の原子物理学の父。湯川秀樹や朝永振一郎は長岡の孫弟子にあたる。
(注2)場所は神戸市垂水区付近か。神戸高商とは兵庫県立神戸高等商業学校のこと。現在の兵庫県立大学の前身。
(注3)現在の金額だと8億円くらいか。
(注4)時計台がある現在の京大本部構内
(注5)単純計算だと2000円弱ということになるが、これは坪単価のことであろうか。今の吉田地区がだいぶ田舎だったということだけは確からしい。
(注6)クスノキは京大のシンボル。現在時計台の前にあるクスノキは確か3代目だったか。要確認。
(注7)時計台のある本部キャンパスのすぐ南、現在総合人間学部がある吉田二本松町。
「師弟皆泣く 折田三高校長の告別式」
(読売新聞明治43年12月1日朝刊3面より抜粋・現代語訳に改編)
第三高等学校長、折田彦市氏の依願免職が25日の官報で発表された。
それを受けて26日午前11時より、三高の雨天体操場において告別式が開催された。
思いがけない急な知らせに、職員や生徒たちはとても驚いた。
式場は、古ぼけたテーブルを正面に置いてあるだけで他に何の装飾もなかった。
老いた折田氏がやっとのことで壇上にあがり、まず沈んだ声で退職の理由を述べた。
それから、
「三十年いたこの学校と今別れることになるが、心は永遠に留め、諸君とともにあるだろう。」
と哀しげな声で語った。
先生が語り終えると生徒たち一同は皆黙ってただ涙していた。
しばらくして生徒総代の挨拶や記念品贈呈などがあり、
いよいよ閉会となろうとしたとき、
折田氏を慈しむべき父のように敬愛し慕っていた生徒たちが次々と壇上にのぼり、
先生を讃える言葉や別れの悲しみを涙ながらに述べた。
先生と生徒たちは向かい合ってただ涙にむせぶのみであった。
いかがでしたか?この二つの記事からだけでも、いかに先生が素晴らしい教育者でいらっしゃったか、またどれほど生徒たちから慕われていたのか、おわかりいただけたのではないかと思います。
ちなみにこの二つの記事をはじめて読んだとき、先生ファンの私は思わず涙が出ちゃいました。