From Y.TSUNOYAMA <eurouno@gmail.com>
to H.Orita <Orita@daisan-h.ac.jp>
Date Sun, Feb 7, 2010 at 10:27 AM
Subject 鹿児島県と森先生の件
maild-by gmail.com
折田先生
前略
先生は九州男児でいらっしゃったのですね。しかも、筋金入りの薩摩男子とは。
私ごとで恐縮ですが、以前、学会に出席するため鹿児島市を訪れたことがございます。
食べ物やお酒が本当においしくて、恥ずかしながら学会中はほとんど酒漬けの状態でありました。
数日の滞在でしたのに、なにかこう町中に優しいおおらかな空気が流れていて、しかもあちこちに郷土愛のようなものも溢れていることを実感いたしました。実に素敵な町でした。
その鹿児島で、先生は武家の四男として生を受けられたとのこと。そのままであれば、あるいは時代が許せばきっと将来は立派な藩士となられたことでしょう。
ところがです。まだ十歳の幼いときにお父様を、また十五歳でお母様をと、実に多感な時期にご両親を亡くされます。さらに先生米国留学の初年には父代わりであったお兄様まで失われて。若き日の先生の孤独や苦悩たるや相当なものであったろうとお察し申し上げます。
しかしその様なご境遇であっても、そこはやはり大秀才の先生のこと。周りが捨て置くはずなどないわけで、薩摩藩最後の藩主、島津茂久公をはじめ、西郷隆盛や岩倉具視など、明治の偉人たちに先生は大変重用されます。そして先生は皆の期待に見事に応えられた。 なんといっても先生の二歳年長には、同郷の森有礼氏がいらっしゃった。藩校造士館の時代からはじまり、渡米のタイミングもほぼ同じ頃、帰国後はお二方とも明治政府草創期の文部省にかかわっておられます。森氏は先生の人生において常に良き先導者であった。ですから、先生が心から敬愛された森氏が不幸にも志半ばで刺殺されたとき、先生のご心痛たるやいかほどのものであったでしょう。先生の生い立ちを知り、なぜ先生はあんなに物事に動じない方であったのか得心した次第です。 先生の源流には誇り高い薩摩藩士の魂や手本とすべき侍たちの姿があったのですね。我が国は今や少しずつ不安定な方へ向かっているような気がいたします。今こそ私たちも、かつての先生のような侍にならなければならないのかもしれません。そう自省自戒した次第です。 草々
*写真は、最後の薩摩藩主・島津茂久(しまづ もちひさ、明治維新後に忠義に改名)公・・・出典:wikipedia