なぜ、折田先生なのか ~ 「自由の学風」のルーツを辿る ~ (3)
・ 折田彦市校長先生
今から130年くらい昔の話になります。明治維新がひと段落し、おそらくは目指すべき国体というものが明確になって、それへ向かって日本全体が邁進していた頃。どうか、思いっきり脳内をそんな時代へとトリップさせてみてください。
このころ、学校というものについても一気に近代化が進んで行きました。江戸時代、高等教育のための機関(エリートを養成するための学校といっても差し支えないと思います)は藩などの各地域自治組織で独自に設置していました。これが明治に入って、そういった教育機関の多くが文部省の下で全国的な体制へと組みこまれて行きます。
もちろん京大はまだ誕生しておりませんが、このような時代に京大のプロトタイプとなる高等教育機関が次々と現れては名前を変え、時には場所を移して設置されては消えていき ます。そんな変革の時に、折田先生は大阪(大坂)専門学校の校長に着任されました。この学校はその後、大阪(大坂)中学校、大学分校、第三高等中学校、第三高等学校(旧制第三高等学校、通称「三高」)、と名称を変えて行き、今日の京大に吸収合併されるまで続きます。
(注)大学分校が第三高等中学校となる頃、1年ほど文部省出向のため折田先生は校長を一時的にお辞めになっていた時期があります(先生の年表を参照のこと)。
大阪中学校から第三高等中学校設立までがほんの5~6年の間での出来事ですから、いかに国 も大学も揺れ動いていた時期かということが想像できると思います。文明開化や富国強兵の時流の中で、西欧列強に負けないような人材をどうやって育てあげて いくのか、きっとさまざまな試行錯誤があったことでしょう。そんな時代に、折田先生は30年もの間(明治13年~43年(1880年~1910年))校長をお勤めになられました。折田先生は、大阪専門学校 が大阪中学校と名称を変えた年から、西に三高ありと世に謳われるに至る頃まで、学生たちと学校の自由を守ってこられたのです。
三高関係の資料を紐解くと、ある三高卒業生は先生のことを「三高精神の権化」と称しています。この三高精神とは、まさに自由の学風のことを指すものと思われます。他の三高卒業生の方々の言を見ても、いづれも先生を心からお慕いし、また尊敬して止まないというものばかりでした。このような三高の先輩方の視点、というフィルターを介してあらためて先生を見つめてみると、
「自由の学風をもたらしたもの = 折田彦市先生の人格」
という明確な解に導かれるのです。
つまり、折田先生の思想やお人柄が、「自由の学風」の源流だったということです。