なぜ、折田先生なのか ~ 「自由の学風」のルーツを辿る ~ (1)
・ 西の雄、京都大学には「自由」があると云う
京大がノーベ ル賞受賞者をはじめ素晴らしい人材を世に輩出することができるのは、「自由」な大学だからだという人がいます。また、日本一の東大に合格する実力がありながらあえて京大を第一志望に選ぶ猛者(受験生)がいて、その者たちの多くが「京大の自由な校風に憧れて。」などとのたまう・・・という噂も毎年のように耳にします。
普段はすっかり忘れているのですが、京大にいるとたま~にこの自由という言葉がたしかに大切に守られているな、と感じるときがあります。学生活動の場だけでなく、教職員と学生とのかかわりあいの中でも実感することがあります。たとえば学生と大学側との間でもめごとが起こったとします。そんな時はたいてい「自由」、あるいはこれから派生する自主とか自治なる言葉を軸として何度も何度も話 し合いが行われます。最終的には「学生に少々甘いのでは?」と思えるような形で決着してしまうことが多いように見受けられます。「京大はユルいぞ!」とおしかりを頂戴しても仕方がないくらい甘いときもあります。最近では「石垣カフェ」が一番わかりやすい事例かと思われます。この時も、大学が予定していたのもよりもずっと後で工事が完了し、できあがったものも当初の計画とはだいぶ違ったものになっていました。不思議なのは、その後の大学内でのカフェに対する評価です。結果的に百万遍の交差点にできあがったものの使い勝手の評価とか、あの学生たちの行動の良し悪しなどについては皆そっちのけ。いろいろあったけど結局丸く収まってよかったね、的なへんな満足感が大学内に漂っていて、「皆の良い思い出になったよね。京大らしくていいよ。うんうん。」なんてことを言い出す教員まで出てくる始末。まったく他校の常識と照らせば、ずいぶんと特殊な学校だと言われても仕方がありません。
こういうことをたまに体験するものですから、私はいつしか
「京大で何かあったときに現れて大きな効力を発揮する言葉=自由」と考えるようになりました。
ですから「UNO」でいえば
京大において「自由」はワイルドカード
といったところでしょうか。
では、
「そもそも自由って何?」
「なんで京大はそうなったの?」
これらの答えを求めるときに避けて通れないのが、京大創立の経緯や、草創期の京大を取り巻く環境、そして当時の時代背景などです。なぜなら「自由の学風」は京都大学の「建学の精神」であるからです。では、いったいいつ誰が、どのような経緯で、自由などというきわめて抽象的な言葉をこの大学の主軸に据えたのでしょう。
京大生ならおそらく次のように答えることができるでしょう。 「えーっと。京大になる前のぉ、三高の初代校長先生のぉ、折田先生が自由の学風をつくったとかつくらなかったとか。」 (脳内再生時、少しスレてきた二回生男子あたりを希望) 一応君正解、合格点です。でももう少し詳しく知ってくれると満点なのですが・・・。