(解説)岩倉具視 と 折田彦市
折田先生は1868年(明治元年)、薩摩藩最後の藩主、島津茂久(もちひさ、維新後は忠義に改名)公に随行し上洛しました。そしてそのまま京都で岩倉具視の御附役となります。先生を岩倉具視に推挙したのは、兄・年昭と親しかった西郷隆盛であると伝えられています。
私たちの世代の人間が岩倉の名を聞いて真っ先に思い浮かべるのが旧500円札。札に描かれている眼差し鋭い痩せ面の洋装の男の顔を、両目と鼻のところで折ってそれを斜めの角度から眺め、その表情の変化を楽しむという遊びがはやっていました。 今でも野口英世でやる者がいるようですが、岩倉具視の方が表情の変わりっぷりが豪快だと思います。お札になるにはやはり理由があるわけで、ネットでその名を検索すれば、この人物がまことに希有な人材であったことがすぐにわかると思います。岩倉公の功績を説明すると、それだけで数ページになってしまいそうなので、ここで具体的なことを紹介することは控えます。 少々乱暴ながら端的に人物を評するなら、「岩倉具視は下級の公家の出であるのに、江戸末期から明治初期までの日本の政治の中枢にいた傑出した人物。」といったところでしょうか。政治の天才であると同時に進取の気鋭に富んだ改革者でもありました。欧米列強から開国を迫られていた江戸末期には既に、日本人は海外へ行って学ぶべきという持論を持っていたようですし、1871年(明治4年)には岩倉使節団を形成し、伊藤博文や大久保利通、木戸孝允らを伴って自ら海を渡ったりもしています。
話の後に必ず尾ひれがつくのも彼の大きな特徴のひとつのようです。 京都の北の端(今の京都市岩倉)に蟄居させられていた頃に廷臣二十二卿列参事件を陰で扇動したとか、攘夷ではなく公武合体を主張する孝明天皇を暗殺した(実際にの死因は天然痘)とか、無法者に坂本竜馬を暗殺させたとか、、、、。 どれも歴史的事実の裏づけに乏しい説ばかりとのことですが、このような噂話が絶えないのは、岩倉公があまりにも急進的でありすぎたが故に、また切れ者であったが故に、政敵や彼を疎んじる者が多かったということの表れかもしれません。 さて折田先生の話にもどりますが、 御附役になった二十歳の先生。当時暗殺の恐れがあった具視の御供をして大阪と京都を往復したり、戊辰戦争に従軍していた具視の公子たちの密使となって京都と戦地との連絡係をしたり、時には実際に戦いに参加したり、と一年そこそこの期間ですが岩倉家のため旺盛に尽力したわけです。 先生はこの時のことを振り返って「功績頗多(こうせきすこぶるおおし)」
と、ご自身の系図の中に記されているそうです。
あまり自慢などされないご性格ですから、これは大変めずらしいことです。岩倉具視の期待に応えることができたのが余程うれしかったのでしょう。
岩倉家の信頼を勝ち得た先生は、これで後の渡米への道を確かなものとします。
御附になった年の9月、戊辰戦争から戻った岩倉具視の二公子(次男・具定と三男・具経)に随行し、長崎に遊学。そこで英語を学びます。2年後の渡米へ向けた準備に入るのです。二公子は半年ほど宣教師フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)に師事します(注1)。この宣教師は伊藤博文や大久保利通、大隈重信など、当時留学を志した明治初期のエリートたちの英語の先生でもあります。
Wikipediaのフルベッキの項の下の方に「フルベッキ写真」という欄があります。
右の小さな写真をクリックしてリンク先の拡大写真をご覧下さい。 中央にフルベッキ、その左にフルベッキの二女エマ。この親子を挟むように岩倉の二公子が写っています。 フルベッキ右側の白柄の刀を持っている公子(岩倉具定)の前に写っているのが若き日の折田先生だそうです(注2)。ちょんまげに脇差。銅像からはまったく想像できない御姿です。 英語の勉強、資金調達等々、もろもろの準備を終えて 1970年(明治3年)2月、いよいよ先生は渡米を果たすことになります。
(注1)先生については直接フルベッキ氏に師事したという記録がありません。しかし少なくとも先生が長崎で英語の勉強をしたことに間違いはなさそうです。
(注2)フルベッキ写真における折田先生の位置は、板倉創造「一枚の肖像画 折田彦市先生」巻頭写真の注釈に従ったものです。しかしながら、「フルベッキ写真」の考察では、その前の人物(最前列右から四番目)が折田先生であるとしています。私も個人的には後者の方が正しいと思うのですが、いかがでしょうか?