(解説) コーウィン牧師との出会い
先生は明治3年3月、22歳のときに岩倉具視公の二公子(具定、具経)とともにアメリカの大地を踏みます。渡米後は二公子とは分かれ、ニュージャージー州郊外の農村地帯の中にあるミルストンという町にある教会( the Hillsborough Reformed Church at Millstone、右下写真は現在の教会)に滞在します。この教会の牧師エドワード・コーウィン(Edward Tanjore Corwin)の元で二年間ほど大学入学資格を得るための勉強をします。
旧制第三高等学校卒業生、武間享次氏の調査(注1)によりますと、先生がコーウィン宅に居候したのは以下のような経緯によるものだったそうです。・長崎の英語学校の先生であったグイド・フルベッキは米国改革派教会所属の宣教師だった。 ↓・ニューヨークにあった改革派教会本部の総主事フェリス牧師に、フルベッキが岩倉二公子と折田先生を含めた数名を推薦、留学時の世話役を依頼 ↓・フェリス牧師がニュージャージのコーウィン牧師に折田先生を紹介これは先生が牧師に教えを請うていた時期よりもずっと後になっての話ですが、コーウィン牧師はオランダ改革派教会の重鎮となられて、改革派神学校のテキストとなるような著書を記されるそうです(注1)。先生はたいへん立派な宗教家のもとで留学生活をスタートされたことになります。渡米後、岩倉二公子と先生とはほとんど別行動だったようです。先生がコーウィン牧師のもとで勉強していた頃、既に二公子はラトガルズ大学で学び始めており、父具視の命を受けて兄は制度学、弟は海運学の勉強をしていました。ところが渡米二年後、具定は不意の病気により帰国を余儀なくされ、弟の具経は兄が米国を去るのと前後して英国へと渡ってしまいます。しかし先生は、けっして東洋人たった一人の孤独な留学生活を送ったわけではなかったようです。当時の先生のメモには、同じ頃に米国に滞在していた他の日本人留学青年たちとの盛んな交流の様子が記されています(注2)。日本と米国では文化や生活習慣などにおいて相当の違いがあったはず。当然様々なカルチャーショックがあったものと推測されますが、コーウィン牧師に見守られながら先生は着実に米国に馴染まれていったのです。
(解説) カレッジ・オブ・ニフジョルシー
先生は1872年(明治5年)9月にニュージャージー大学(先生の綴り方で言えばカレッジ・オブ・ニフジョルシー)に入学されます。コーウィン牧師のもとを離れて、いよいよカレッジライフの始まりです。
ニュージャージー大学の現在の名称はプリンストン大学。云わずと知れた全米筆頭のアイビーリーグ(世界屈指の米国東部名門私立大学8校から成る連盟)です。ジョン・F・ケネディーをはじめとする多数の大物政治家の出身校であり、ノーベル賞受賞者を輩出することでも有名な大学です。最近ではオバマ大統領の夫人ミッシェルやAmazon.comのCEOジェフ・ベゾス、女優ブルック・シールズなどもプリンストン大卒です。
先生留学当時(1874年)のNassou Hallと当時の試験風景。Nassou Hallは大学のシンボル的な建造物。
現在のNassou Hall 写真出典:Princeton University 公式サイト
今でこそ名門中の名門ですが、当時は長老派協会の牧師や指導者を養成するための大学であったそうです。
在学中、折田先生は当時の大学学長マコッシュ博士(James MacCosh、プリントン大公式サイト参照、右写真)の御世話になっています。マコッシュ学長は哲学者であり教育家であるとともに、敬虔なクリスチャンでもありました。先生の洗礼式ではマコッシュ学長自ら司会をされています。またマコッシュ学長の奥様、Isabella G. MacCosh からもたいへん可愛がられたようです。このご婦人は学生に対して深い愛情を持って接することで有名な方であったようで、プリンストン大にはこの夫人を記念した学生健康管理のためのヘルスセンターが建てられています。折田先生の留学日記(注2)にはこのマコッシュ夫妻の名が度々登場します。また米国の友人にも恵まれたようで、とくにスチュワート(George Stewart、後にニューヨーク州オールボン神学校校長)とは一緒に聖書研究をしたりしています。このように多くの方々の愛情や友情に囲まれながら先生は留学生活を送られたのです。ニュージャージー大学で折田先生は本当にたくさんの教科について学ばれています。先生の日記(注2)には様々な科目を学び、またその試験にパスした等の記述が残っています。その分野は実に多岐にわたっており、ラテン、ギリシャ、ドイ ツ、フランスの四つの語学に加え、英文学、古代文明史、哲学史、経済学、行政法、国際法、論理学、修辞、心理学、哲学、形而上学、幾何学、博物学、物理学、化 学、生理学、解剖学、天文学、地質学、さらには声楽などにも及んでいます。この大学できっと一流の教養を身につけられたことでしょう。もちろん基督者の大学ですから、先生は勉学と同時に本物のキリスト教というものにも触れていくことになります。入学早々に友人となったスチュワートとの聖書研究にはじまり、日曜礼拝や協会での講演会などにも積極的に出席するなど、次第にキリスト教への傾倒を深めていくのです。
このプリンストンの緑溢れるキャンパスで、先生の中に自由と博愛の精神が育まれていったのです。
(注1) 三高の同窓会報75号(1992)「折田校長との出会い」による。この寄稿をされた武間享次氏(三高昭和22年卒)は米国在住の米国長老教会所属の牧師。三高卒業後、プリンストン神学大学院に進学されて牧師の資格を得ている。三高同窓会の依頼を受け、米国における先生の足跡について詳細な調査・研究をされた経緯がある。
(注2) 板倉創造「一枚の肖像画 折田彦市先生」に留学当時の先生の日記の内容が記されている。板倉氏が主に参照されたのが先生が渡米時に書き記した「旅日記」 5巻(様式革装中版、1年一冊の形式で1872年(明治5年)元日~1876年(明治9)末までのメモ)。1980年の第三高等学校同窓会誌52号に「折 田先生旅日記のこと」という寄稿があり、また60号には先生のご遺族から同窓会にこの日記一式が寄贈されたとある。尚、故板倉創造氏(創造はペンネーム、本名は又左衛門)は昭和12年三高(文甲)卒、日本道路公団などに勤務されていた。