(解説) 洗礼の時期とその背景 新島襄との比較
1867年(明治9年)5月28日、先生は大学総長のマコッシュ博士によって受洗します(その数カ月前の2月20日には改宗の決意をされています)。米国滞在最後の年の、帰国三ケ月前に基督者となられたのです。江戸時代は禁制の異教であったキリスト教を、明治になって間もない頃に自ら進んで受け入れたわけです。留学先の環境から考えれば、基督者になるという選択をしたこと自体は自然なことであったと思われます。しかしなぜこのタイミングで受洗したのか、ということについては一考の余地があると思うのです。
この点について、三高卒業生の皆さん(折田先生が校長をお辞めになってからしばらくたってからの卒業生ですが)も、同窓会報などにおいてあれこれと考察していらっしゃいます。その中でもっとも有力な説が「先生の慎重なご性格、あるいは個人を尊重するという信条によるもの」との推論です。その主な論拠として同志社大学の創設者、新島襄(にいじま じょう、右写真出典はWikipedia)との対比があげられています。 表: キリスト教に関する事項おける折田彦市と新島襄の比較尚、新島襄に関しては、同志社大学公式WEBサイト内の大学紹介「建学の精神と新島襄」に詳細があります。
たしかにこのように比べてみると、御二人ともほぼ同じ時期に似たような年齢の時に米国に触れ、そしてともに基督者となっているのに、面白いくらい異なる境遇で留学していたことがわかります。どうやら折田先生の方が着実に歩を進められていったように見受けらます。
ここで私は三高の皆さんのご推論にもうひとつ大切な要素をつけ加えたいのです。それは「留学資金の出所」です。
新島先生は後々に森有礼の手によって正式な留学生と認められることになりますが、上の表にあるように渡米当初は密出国者です。たまたま幸運にも知り合ったA・ハーディー夫妻の手厚い支援があったからこそ、名門フィリップス・アカデミーやクラーク博士で有名なアーモスト大学で学ぶことができたのです。一方の折田先生は、公に日本国より派遣された官費留学生(注1)です。
この資金の出所の違いは極めて大きいと私は考えます。現代と直接比べるのは少々乱暴かもしれませんが、たとえばポスドクとして海外の大学のラボ(研究室)へ行くことを想像してみてください。先方から給料をもらうのと、日本の奨学金等でラボに置いてもらうのとでは扱いがかなり異うことなど当然のことです。
早々に米国人の信用を勝ち取らなければならなかった新島先生はいち早く洗礼を受け入れ、それから基督教への理解を深めていった。一方の折田先生は、じっくりと基督教について学んだ後、いよいよ帰国となった時に受洗した。
洗礼式ではマコッシュ総長が司会を務め、二人の教授やクラスメートたちが出席。式は実に荘厳な雰囲気の中でとり行われたとのこと。新島先生よりずっと貧しい留学生活であったかもしれませんが、結果として先生はたくさんの友人や教授たちに祝福されながら基督者となられたのです。
その後、同年6月に無事卒業。9月2日、ニューヨーク港より帰国の途につきます(注2)。想い出深い米国留学生活を終え、いよいよ校長への道を歩み始めるのです。
(注1) 官費留学だったからといって決して楽な留学ではなかった。板倉創造氏の「一枚の肖像画 折田彦市先生の研究」などの資料によると、明治6年11月、文部省の資金繰り悪化を受けて留学生の派遣方針の見直しがなされ、全ての在外官費留学生に対して引き上げ命令が出ている。その後、明治8年になって官費留学生派遣が再開される。したがって、明治7年の先生への官費支給は停止されていたものと考えられる。明治7年7月、先生は大垣藩の華族より学資援助の申し入れを受けている、また明治8年にはマコッシュ総長夫人からも学資援助の御話があった。公的に派遣された留学生ではあったが、決して余裕のある留学ではなかったことが伺える。
(注2) 帰国前の頃の記録には多数の大変興味深いエピソードある。フィラデルフィア博覧会における日本館の支援にまつわる話、卒業演説、帰国時に同行した畠山義成の船中での病死、それに米国人女性ケート嬢との恋の話などなど。板倉創造氏の「一枚の肖像画 折田彦市先生の研究」、あるいは同氏の講演原稿「折田先生の人間像」(神陵文庫第9巻、(財)三高自昭会のサイトからpdfファイルをDLできます)に詳しく書かれているので参照されたし。