京都市左京区、京都大学東側の吉田の杜の裏手にひっそりと建つ寺があります。
真如堂、 正式な名は 鈴聲山 真正極楽寺
およそ一千年の歴史をもつ天台宗の寺院です。
吉田キャンパスから徒歩で十分もかからない所であるのに、
大学から見ると吉田山のちょうど裏手にあたるため、
ここに京大生が足を延ばすことはあまりありません。
寺門をくぐると、立派な瓦屋根の大伽藍が一際目につきます。
それほど観光者の手垢がついていないためか
境内には落ち着いた静けさが漂っています。
このお堂の裏手に広がる霊園には
所狭しと墓が立ち並んでいます。
その中には冷泉家などといった高貴な名が刻まれた墓石も見られます。
この霊園の凛とした空気が漂う涼しげな一角に
先生と、生涯を供にされた佐登子夫人の名が刻まれた墓碑が佇んでいます。
墓石の面には
「 折田彦市之墓
夫人左登子墓」
背側には
「貴族院議員 錦鶏間祗侯 正三位勲二等 折田彦市
嘉永二年正月四日生於鹿児島藩
大正九年一月廿五日死於京都享年七十有二
大正九年十二月嗣子有垣建之」
と刻まれています。
三十年間校長として教育に身を捧げられた先生は、
校長を辞して間もなく貴族院議員に勅撰されます。
さらにその翌年、「錦鶏間祗侯」という皇室の御役目も頂戴します。
晩年の先生は校長をご勇退された後も様々な方面から社会にご奉仕されたそうです。
そして最期は突然にやってきます。
大正9年(1920年)、先生は世界的なパンデミックを引き起こした
H1N1型インフルエンザ「スペイン風邪」の猛威に巻き込まれてしまいます。
このパンデミックによる日本における死者は四十万人にも及んだとのこと。
先生もこの新種のウィルスには勝てず、惜しまれながら72年の生涯を閉じます。
先生の壮大な生涯に思いを馳せながら
墓前にて手を合わせておりますと
先生が私を静かに見下ろしながら勇気づけてくださっているような気がしてきます。
しっかりおやりなさい、と。
先生、どうぞ安らかにお眠りください。
これからも京大生を見守っていてください。
平成22年2月 記