読売新聞のデータベース(ヨミダス歴史館)をキーワード「折田彦市」で検索すると19件のヒットがあります。その多くが先生の人事異動に関する記事です。今でも大きな会社や学校で異動があると小さな告知記事が載りますが、あの類です。
以下順を追って記事を見て行きましょう。
一番古いものが
1880年(明治13年)4月30日金曜日
「体操伝習所主幹折田彦市君、このほど大坂専門学校の校長に命ぜられ・・・」 という小報です。
ほんの数行ですが、折田先生ファンにとってはとても大切な記事だと言えると思います。
体操伝習所とは体育教師養成学校のようなところで、国民の体格を良くするための体育というものを研究するための学校でした。明治初頭、西欧人との体格差をなんとしても縮めなければならないという政府の方針があり、その命を受け先生は1878年(明治10)からここの主幹の任に就いていました。そ
いよいよこの日、先生は京大のルーツとなる大坂専門学校の校長となります。三十年にわたる校長ライフの幕開けです。
1885年(明治18年)9月10日木曜日
「叙任 ・・・ 正七位に叙せられ従六位折田彦市君、大学分校長(年俸二千百円)(注1)に・・・ 」
大坂専門学校は東大の分校となりました。
この年に先生は分校の校長を辞任し、文部省の参事官になっています。
これは森文部大臣の意向に沿った人事だと考えられています。
翌明治19年には文部省学務局長となり「学校令」の公布に尽力されます。
この間、中島永元先生が校長を務めています。この方は洋学校の校長を以前されていた方です。
この中島先生の任期中に、大学分校は第三高等中学校に変わります。
1887年(明治20年)4月24日日曜日
「文部省参事官正六位 折田彦市 兼任第三高等中学校長叙奏任官二等」
先生は文部省参事官と兼任のまま再び校長となります。
1889年(明治22年)9月18日水曜日
「開校及び生徒卒業証書授与式 第三高等中学校 京都吉田町の新築ほぼ竣功せしに付き去る十一日開校式を挙げ兼ねて本科第一回卒業証書授典式を執行 ・・・(中略)・・・ 次に校長折田彦市氏卒業生徒に卒業証書の授与 ・・・(中略)・・・ この日朝より殊に強風大雨なりしにも拘わらず外賓の来会せし者百二十四名其の他校長生徒総員百五十九人にしてすこぶる盛式なりしといふ」
これは大坂から京都に移転したときの記事。森有礼氏の死後半年ほどたった頃です。
京都の他にも移転先の候補地があったようです。先生が神戸などにも視察に行っています。
京都に移転した最大の理由は、地価が安かったということだったようです。
1890年(明治23年)1月28日火曜日
「折田参事官 鹿児島造士館の校務拡張のため実地取調べとして出張中なりし折田文部参事官に 一昨日帰京し昨日榎本大臣にその実地を具申されしと」
兼任されていた参事官としての帰郷のようですが、造士館は先生の出身校。
大臣にはおそらく良い方向で報告をしたのではないでしょうか。
同年6月24日火曜日
「文部省参事官兼第三高等中学校長正六位 折田彦市 任第三高等中学校長兼文部省参事官(叙奏任官二等賜上級俸)」
文部省の役人兼校長 から 校長兼文部省の役人に
これは先生が文部省内で出世する道が断たれたことを意味する人事かもしれません。
あるいは先生が自らそう望まれたのかもしれませんが、その辺は不明です。
1894年(明治27年) 第三高等中学校は第三高等学校に
1897年(明治30年) 京都帝國大学創立 三高は京大の予科に
1906年(明治39年)3月3日土曜日
「高等学校長会議 昨日午前9時より文部省大臣室において第一高等学校長狩野 第二同中川 第三同折田 ・・・中略・・・ 第七同岩崎の諸氏および福原専門学務局長 大島文部見学官ら会合の上 工科大学入学試験不合格者処分法につき協議せり」
この工科大学とは東大工学部の前身の一つ、東京帝國大学工科大学のこと。
どのような経緯で不合格者が新聞でとりあげられる問題になったのか
いったい処分法とはいかなるものか、などについては調査中です。
ネットには「工部大学校資料」というサイトがある。残念ながら半分ほどが未公開のようです。完成が待たれるところです。
1907年(明治40年)12月13日金曜日
「東洋平和協会の成立 今回京都に於いて設立せられたる東洋平和協会は人種間及国家間の親善を期し 国際争議の生ずる場合には平和的手段をもって処理すべきことを主張し ことに極東の平和を確保するを目的とするものにして発起人は谷本富、末廣重雄、松本亦太郎、湯浅次郎、折田彦市、デビスケレー等書士なり」
国会図書館には東洋平和協会出版部が「万国平和論」(兵藤三郎著)という本があります。
もしかしたら関係があるかもしれません。
東洋平和協会については現在調査中。
1910年(明治43年)11月2日水曜日
「(顔写真)今回休職に内定せる折田彦市氏」
(同面に顔写真付きで酒井佐保氏の三校校長内定の報あり)
大坂専門学校長から数えて30年目。いよいよ先生ご退職の時期が迫ってきました。
同年11月20日日曜日
「第六高等学校長 第三高等学校折田彦市退職しその後任には酒井第六高等学校長転任すべきことは既報のごとくなるが 酒井氏の後任に関し本社の確聞するところによれば現任高地県第一中学校長金子鈴太郎氏抜擢選任せらるべしと なお折田彦市氏はそのうち貴族院議員に任命せらるべく内定し居れりに云う」
どうやら校長退職後直ちに貴族院議員になることが既に内定していたようです。
同年11月26日土曜日
「第三高等学校長 折田彦市 依願免本官」
正式な校長辞任の報
同年12月1日水曜日
1面 半ページにわたり「論議 折田校長の勇退」
3面 小記事「師弟皆泣く 折田三高校長の告別式」
6、7面 特集記事「折田校長勇退記念」
先生の勇退を惜しむ声の数々が掲載された異例の記事。
この日の記事の詳細については次の「折田校長の勇退」もご覧下さい。
同年12月28日水曜日
「勅選議員の任命 二十七日新たに左記四氏は貴族院議員に勅選されたり
・・・、正四位勲二等折田彦市、・・・」
同面に「新任貴族院勅選議員」というタイトルで顔写真の掲載あり。
同年12月30日金曜日
「新勅選議員の席次 貴族院議員四名の席次は左のごとく決定せり
・・・ 折田彦市氏は平井晴二郎氏の次席 ・・・」
席次が記事になるということは、席次と序列との間になにか関係があったのでしょうか。
平井晴二郎氏は国鉄の前身・鉄道院の副総裁を務めた人物です。
1911年(明治44年)2月21日火曜日
「折田氏の祝賀会 前第三高等学校長折田彦市氏が貴族院議員に勅撰せられたるを祝するため松陰同窓会員なる添田壽一、安廣伴一郎、濱口雄幸、下岡忠治、有吉忠一、塚本靖、姉崎正治らの諸氏 六十五名は昨日午後四時より芝紅葉館に会し歓なつくして九時散会せり」
松陰同窓会とは、折田校長の元で学んだ者たちが毎年集まり開催していた同窓会のこと。
大坂中学校の校門脇にあった大きな松の木に因んで松陰と名づけられたそうです。
この記事にある祝賀会出席者の詳細は以下の通り、
添田壽一は大蔵官僚出のエコノミスト。
安廣伴一郎は明治21年頃に三高の教員を務めた人物、後の満鉄(南満州鉄道株式会社)総裁。
濱口雄幸は後の第27代内閣総理大臣。昭和初期の難局を乗り切ろうとした大物政治家の一人。第三高等中学校から東京帝大に進学。この当時はまだ官僚だったと思われる。
下岡忠治も第三高等中学校出身、濱口と同窓。後に官僚出の政治家となり、朝鮮政務総監などを歴任。
有吉忠一はいくつかの県の県知事などを歴任した人物。この時は宮崎県知事なった頃か。
塚本靖は後の東京帝國大学教授、建築家。この頃は助教授だったと思われる。
姉崎正治も第三高等中学校出身、この時既に東京帝国大学哲学科教授。日本の宗教学の祖といわれる人物。ペンネーム姉崎嘲風。
なお、芝紅葉館とは東京の芝(今の東京タワーのところ)にあった会員制高級サロン紅葉館のことか。
同年7月29日土曜日
「(顔写真)昨日錦鶏間祗候仰付けられたる 貴族院議員 折田彦市氏」
錦鶏間祗候についてはwikipediaの錦鶏間祗候の項を参照のこと。
以上、ヨミダスにあった先生に関する記事はここまで。
このように履歴を追うことは簡単なのですが、校長折田先生の人物像について調べようとするとそこに大きな壁がたちはだかります。先生は功名心など殆どお持ちにならない方であったらしく、自伝とか自ら校長時代を振返って記されたような資料をあまり残されておりません。また演説もあまりお上手な方ではなかったという話があるくらいで、そういったことの記録もとても少ないのです。ですから先生のご性格などを見極めることがとても難しい。
これはもう先生の側にいた当時の方々による人物評などから輪郭を辿っていくほか道がない。そう考えています。今後はかつての卒業生たちが先生のことについて書き残されたエピソードなどを整理し、ここで紹介していきたいと思っています。間接的ではありますが、先生の人物像に迫ることができるかもしれません。
(注1) 「いまならいくら?」によると、明治18年の米10kgの値段が44銭(100銭=1円)。現在の米10kgを3500円として単純計算すると、先生の年俸は1600万以上ということになる。今の京都大学総長の年収は2400万くらいあるはずだから、学校の規模等からしても妥当なところか。しかし、明治18年は先生37才。この若さで校長、そしてこの年収というのは今の時代では考えられないことである。