From Y.TSUNOYAMA <eurouno@gmail.com>
to H.Orita <Orita@daisan-h.ac.jp>
Date Sat, Feb 6, 2010 at 9:12 AM
Subject 銅像の件
maild-by gmail.com
折田先生
前略
十年以上も前にキャンパスで起きたあの衝撃の出来事を
私は今でも鮮明に思い出すのです。
当時私は大学院修士課程の院生でした。
すっかり夜型の研究生活に慣れてしまっていたため、寝起きはすこぶる悪い。
一日のスタートはボ~っとした頭で登校する。そんな日々を送っておりました。
あれは、そんな私の眠気など一気に吹き飛ばしてしまうような出来事でした。
教養部に到着するや異様な光景が目に入ってきたのです。先生の銅像が、当時日清のテレビCMでおなじみのキャラクター「ヤキソバン」に変身していたのです。変身などという言葉で片付けてはならないのは承知いたしております。しかしテレビCMでは、ハーフの男前タレントが「悪玉ケトラーの悪行を阻止すべくヤキソバンに変身する!」という設定でした。 本当は青錆色だったはずの先生の胸像が、どぎつい朱と山吹色に塗り分けられ、頭頂にはご丁寧にもインスタントヤキソバの皿が載せられておりました。そのお姿は無残というほか言い表しようがないほど変わり果てていたのです。それまでにも数回先生がペイントされたことがありましたが、ヤキソバンほど派手なものではなく。ですから、あの何か境界面を突き抜けてしまったような感じに大きなショックを受けたのです。他の学生たちも少なからず同じような感覚を持ったのではないでしょうか。あの日のキャンパス内は少々ざわついていたように思います。先生はきっと心底お怒りのことでしょう。ですがどうかここは一旦お気持ちをお鎮めいただきたいのです。あの悪戯がきっかけで先生のことを知り、先生のファンになったという若者も現れたのですから。どうか先生、その寛大な御心で、悪戯をした者や彼らを傍観した我々をお許しいただきたいのです。 草々
(解説) 1990年代における折田先生銅像付近の状況
あの当時、ヤキソバンを見て怒る学生など一人もいませんでした。その激しい悪戯を見て、声をあげて笑う者さえいたくらいです。今のキャンパスで同じことが起きたら、きっと多くの学生たちがその様な悪戯を不快に思うことでしょう。ではなぜあの時の学生があの悪行を咎めなかったのでしょう。当時の状況をふり返って考えてみたいと思うのです。
今のキャンパスしか知らない者には想像すらできないことかもしれません。とにかくあの頃の旧教養部(現在の総合人間学部)は古びていて汚かったのです。銅像があったA号館前はとくに散らかっていました。無数の自転車や原付バイクが溢れかえり、校門周辺や建物の壁などにはサークルや全共闘時代の学生運動の流れを汲む思想グループの立て看板が乱立していました。なんだかキャンパス全体が混沌とした雰囲気だったのです。
定期的な清掃のおかげで戸外よりはましであったものの、校舎の中も綺麗とは言い難く、ビラやポスターを幾度も貼っては剥がしたりを繰り返してきた跡がそこここに残っていました。他人のせいにしてはいけませんが、全共闘の負の遺産もすっかり馴染みの風景になっていたのです。
90年代前半の京大教養部A号館前の様子
昼間は学生の活気があったのでまだマシ。夜になると怪しい売人が車でやって来てアンパン(シンナー)をさばいたりしていました。夜半のA号館の西出入り口付近でのことなのですが、アンパンでキメたらしき挙動不審の若者が数名、私の方へとフラフラと近寄って来てヒヤリとしたこともありました。先生の銅像に悪戯が続いた時期のA号館周辺は、そんなスラムみたいな様子だったのです。
誤解して欲しくないのですが、そんなキャンパスでも京大を嫌いに思ったことなど一度もありませんでした。あの雑然とした雰囲気はそれほど居心地の悪いものではなく、私にとっては青春の日々を送った京大のイメージそのもの。大切な思い出のひとつなのです。つまり、一般的な情景からはほど遠い異様な空間であったにもかかわらず、その頃の学生たちにとってはあれが日常だったのです。
慣れとは恐ろしいものです。そんな中で悪戯が行われたわけですから、度々銅像の様子が変わるくらいで動揺する学生など一人もいなかった 。つまり、校舎を汚す行為に対する罪悪感などというものは、すっかり薄れてしまっていたのです。
罪悪感があまり無かった理由がもう一つあります。
なぜあそこに銅像が建てられたのか、あるいは折田先生がいったい誰なのか、そういったことに当時の学生は興味をもたなかった。その結果、銅像への悪戯を許容しやすくしてしまったという側面があったと思うのです。
あの頃は先生のことを伝承するための適当な媒体などありませんでした。ネットはなかったのです。そして以前から在籍していた先輩たちですら、折田先生のことを伝え聞いたりなどしていなかったのです。悪戯する者、それを傍観する者、双方ともにまったく無知だったのですから、そこに銅像を特別大切にしようなどという考えなど生まれるわけもありません。
とまあ、このような理由をいくら並べたてたとしても所詮言い訳にすぎないのはわかっています。
一歩京大から外に出ればこれが犯罪行為であることを知らぬものなどおりません。
しかし、それをなんとなく許してしまう雰囲気があの当時のキャンパス内には漂っていた。というのが実際のところなのです。
*なお、銅像への悪戯については「折田先生を讃える会」に詳しい経緯が書いてあります。