From Y.TSUNOYAMA <eurouno@gmail.com>
to H.Orita <Orita@daisan-h.ac.jp>
Date Sun, Feb 13, 2010 at 11:07 PM
Subject 校長ご勇退に係わる件
maild-by gmail.com
折田先生
前略
西欧列強にも対抗し得るよう我が国が教育体制を必死に整えていた頃、日本の未来を担う若者たちを育てるための一大教育拠点をこの関西に打ち立てるべく先生は大変なご尽力をされました。しかし文部省には肝心の資金が乏しく、理想の学校実現には相当の困難が伴ったと伺っております。それが終にはあの素晴らしい三高を完成させるまでに至ったわけです。先生が三高校長ご勇退のときに流された涙の中にはきっとそのような過去を振り返っての格別な想いがおありになったのではないでしょうか。
三高の先輩方は、折田校長先生は比叡山のように実に悠然と学生たちを見守っていらっしゃったと申しています。自ら強弁されるようなことは一切なく、普段は大変物静な方だったそうですね。学生たちに優しくお声をかけられたり、また時には学生寮の風呂に生徒たちと一緒につかられたり、と郷里を離れて京都に乗り込んできた若者たちにまるで親のように優しく接していらしたと伺いました。
こう言うと何やらとても柔らかな印象ばかりのようです。しかし先日あるきっかけで弓道着姿の先生の御写真を拝見した際、これまで想像していたものとはまったく別の先生の一面を垣間見た気がいたしました。おそらく得意の弓の腕前を皆にご披露された時のお写真だと思うのですが、的を狙い澄まして構える様に私ははっきりと古武士の姿を見出だしたのです。先生が校長の職を辞されたとき、何故お辞めになる必要があるのか、なぜ京大の総長におなりにならないのか、といった疑問を呈する者が数多くおりました。ところが先生は、まさに武士は黙して語らず。その理由を自ら述べられることなど終にございませんでした。先のお写真の凛とした御姿を見れば、一人の侍として校長の職を全うされたのだと感じるのはきっと私だけではないと思います。先生は三高において米国より持ち帰られたリベラル・アーツを徹底して流布されました。が、それは単純に西欧に迎合するようなものではなく、薩摩藩士として培われた武士道の精神に裏打ちされた確固たるものであったと信じるに至った次第です。 草々*写真は弓道着姿の折田彦市先生。出典:「写真図説 第三高等学校八十年史 紅萌ゆる丘の花」 → (次頁へ)