バルタザール加賀山半左衛門と

息子ディエゴの殉教

 細川忠興が1602年小倉に移る際に,自分の息子忠利を中津に,国東と速水を守るために日出に義弟の木下延俊を置きました。

 忠興は信頼する隼人の従兄弟である加賀山半左衛門を木下延俊の家臣としました。

 半左衛門は日出で港に出入りする船や荷物などの税金の徴収と管理をする仕事をしていました。

 しかし,当時日出には教会はなく司祭もいませんでした。

 そのため半左衛門の妻ルチアは小倉にいた隼人に教会と司祭が必要である旨を伝え,隼人はセスペデス神父に頼み,小倉から一人の司祭が派遣されました。

 なお,日出,速水,国東半島一帯は宇佐神宮や仏教徒の勢力が強く,半左衛門たちは,その地域での布教や教化には苦労したようです。



迫 害

 1611年のセスペデス神父の急死をきっかけに細川忠興はキリシタンの弾圧に踏切り,日出の木下延俊もキリシタン迫害を決定しました。

 そのため半左衛門も職を奪われ,その家族も苦しい生活をする事になりましたが,たとえ信仰を棄てるように迫られても決してそうすることはありませんでした。

親子の殉教

 1619年10月15日,加賀山隼人が殉教したその日,半左衛門に突然死刑の宣告がなされました。

 その宣告に彼は動ぜず,殿に謝意を述べました。

 それから自分の家に入り,母ジュスタ,妻ルチア,娘テクラに最後のあいさつをして,神に殉教の恵みを感謝しました。

 近くにいた役人からどこで処刑されたいのかを聞かれると,半左衛門は「あなたの思いどうりにしてください」と答えました。

 それを聞いていた娘テクラは,何一つ悪いことをしていない父に対して心休まる家の中で斬られてくださいと懇願しましたが,半左衛門は

「キリストは何の罪もないのに公の刑場で二人の盗賊の間で処刑された。自分でもできる限りキリストに倣って処刑されたい」

と言いました。

 そして,御絵の前にひざまづいて祈り,まるで祝い事のように妻と娘から足を洗ってもらい立派な服を着て,片手に御絵,もう一方の手に火を灯したろうそくを持って刑史の方に進んでいくと,息子ディエゴが近づいてきて,「私も一緒に神様のところに連れて行ってください」と涙を流しながら頼みました。

 半左衛門はそれを拒みましたが,ディエゴがすがりついて言うことを聞かないので刑場まで付いてくるのを許しました。

 しかし,このとき幼子ディエゴにも処刑命令が出ていたのを半左衛門は知りませんでした。

 半左衛門が処刑場に着くと次のように役人たちに話しました。

「私が殿の意向をのんでキリスト教を棄て風習に従って転宗するよりかは,キリスト教に背かず殺される事をあなたがたは不思議に思い私が気が狂っていると思っているでしょう。

 しかし,私がこうして殉教するのは,信仰によってのみ人類は真の霊魂の救いへと到達することを知っているからということをわかってください。

 私は罪を犯した覚えがないからどうか私について哀れみをかけないでください。

 私はキリシタンの信仰という理由で殺されることを良しとするだけでなく,栄光に満ちた事だと考えていることをわかってください。」

 このように話終えるとひざまづいて首に刀を受けました。

 これを見ていたディエゴは恐れることなく父の亡骸に近づき横たわって確認した後,これにひざまづいて手を合わせ「キリスト,マリア」の名を唱え,父が斬られた同じ刀で斬られました。

 半左衛門47歳,ディエゴ5歳のときの殉教でした。  

(大分教区殉教の証し特別委員会 「バルタザル加賀山半左衛門と息子ディエゴの殉教」より)