3  サレジオ修道会の宣教

 1926(大正15)年2月,チマッティ神父以下サレジオ会司祭6名,修道士3名が門司に上陸,長崎に直行してコンパ司教を訪問した。

 彼らの使徒職の場は宮崎,とされ,10か月ほど日本語の学習に励み,パリ外国宣教会の司祭2名から大分,宮崎地区を引き継いだ。

 サレジオ会士が追って着任し,司牧・宣教を推進した。

 しかし,日本語が不自由であり,意思疎通に苦労した。

 さらに当時は第一次大戦の戦争景気の反動で不況下にあった。

 1928(昭和3)年ころ,大分・宮崎2県の信徒数は約300人だったが,サレジオ会士の努力で7年後には1300余名になった。

 チマッティ神父は子供へのかかわりを重視していた。

 彼の右腕であったタンギイ神父は放課後学校と子供の遊び場を整備した。

 このころ無償配布していた日本語パンフレットが成果を挙げたのをみて,パンフレットの月刊誌化が取り組まれた。

 現在も ドン・ボスコ社から 「カトリック生活」と題して刊行が続いている。

 昭和初期の日本社会は首相までもが暗殺されるほど,不穏な空気に包まれていた。

 しかし1927(昭和2)年から5年間,マルジェリア神父のもとで,50名だった大分教会の信徒は150名に増えるなど,発展した。

 1931(昭和6)年,29歳の若きマレガ神父が大分に着任。チマッティ神父が彼を「大分の使徒」と呼ぶほど,熱意に溢れていた。

 着任して2年後,マレガ神父は正式に大分教会の主任司祭に任ぜられ,この年,海星幼稚園が園児35名で開園。

 昭和9年までは印刷学校も隣にあり,教会周辺は活況を呈した。

 1935(昭和10)年, 大分・宮崎は「知牧区」となり教区長が置かれた。初代教区長はチマッティ神父だった。 

チマッティ神父


参考(リンク) チマッティ資料館

尊者チマッティ神父は1965年に帰天。

その遺体は奇跡的に腐敗を免れており,サレジオ神学院聖堂に安置されている。

昭和5年  大分紺屋町教会の運動場。

右端が司祭館,中央に寄宿舎,左端に印刷学校。

昭和10年  大分紺屋町の教会。

長崎県大村の大工,岩本氏による建築。印刷学校の跡地に建てられた。

 1930年代,日本は次第にファシズムの色合いが濃くなり,大分教会では1942(昭和17年)までは受洗者がいたのが統計上わかるが,以後は不明である。

 軍部の視線が厳しくなり,1941(昭和16年),外国人司教・教区長は辞表を提出,チマッティ神父も教区長を辞した。

 この年,日本は太平洋戦争に突入した。1945(昭和20)年4月には幼稚園が閉鎖された。

 このころから米軍の空襲が激しくなり,大分では毎日B29爆撃機を見かけるようになった。

 7月16日夜半の空襲で,聖堂と司祭館が全焼。マレガ神父とフィグラ神父は別府の小百合愛児園に逃れたが,2週間後,熊本県下に強制収用されるため他の神父と共に別府を発った。

 8月15日,終戦。しかし大分の教会は消失していたので,神父達は大分に戻れなかった。10月上旬,米軍が大分に上陸。マレガ神父は教会再建のために米軍に援助を要請した。

 1946(昭和21)年6月,米軍の援助を受けながら,再建聖堂の工事を開始。この年,海星幼稚園も2組で再開した。

 戦後は一転して多くの大分市民が教会を訪れるようになった。前任の神父の後任として着任したモロ神父の時代,4年間で信者数は168名から297名に膨れるなど,大分教会は飛躍的に発展した。

 モロ神父は特に青年層に働きかけた。大分大学で外国語を教えつつ,学生と読書会を作った。そのグループの中からも信者が生まれた。信徒による宣教活動が活発に行われた。

 1949(昭和24)年,既に列聖されていたフランシスコ・ザビエルの聖腕が,ザビエル渡来400年を記念して日本に運ばれ,大分の地も回った。

 プロテスタントの信徒もカトリックの聖歌隊に加わり,枢機卿を招いての盛大なラテン語ミサが捧げられた。 

 この年,深堀福岡教区司教は,宮崎地区の宣教をザベリオ宣教会に委ねたい旨サレジオ会に申し入れ,サレジオ会士は大分地区に移った。

 この人材投入により,大分県の各所に教会,巡回所,幼稚園ができていった。

再建された司祭館と聖堂

昭和23年 聖堂内部

  サレジオ会の日本管区長タシナリ神父の提唱で,聖フランシスコ・ザビエル大分渡来四百年にあわせて聖堂を建築することになり,1950(昭和25)12月に定礎式が挙行された。

 新聖堂は,長さ37メートル,幅11.5メートル,高さ12メートル。施工は竹中工務店が請け負った。 

 落成した新聖堂の落成式典は,大分教会設立400年祭を兼ねて1951(昭和26)年11月10日,11日の2日間にわたって盛大に行われた。

 400年祭と落成式典に先立ち,5日連続でバルバロ神父による宗教講座が開講された。

 11月10日,式典は午後2時から始まり,ピオ12世教皇とリカルドーネサレジオ会総長の祝電が披露され,上田保大分市長が感銘を残す祝辞を述べた。

 同日午後7時から,新聖堂でコンサート「音楽の夕」が開かれ,チマッティ神父の伴奏でサレジオ会士やザベリオ会士の独唱,さらに日向学院とドンボスコ学園のブラスバンドの競演が披露された。

 11月11日は午前9時から深堀司教の司式で新聖堂が祝別され,16名の洗礼式とミサが挙行された。

 午後は盛大な堅信式があり,170名が受堅した。午後4時からは深堀司教歓迎の集いがあり,日向学院の院生による演劇の披露,さらにその集いの中で田中耕太郎最高裁長官が祝辞を述べた。

 午後7時からは「音楽と演劇の夕」が催され,多数の観衆が海星幼稚園のホールを埋めた。

 この日の様子は地元大分放送によって広く報じられた。

 1952(昭和27)年3月,ミラノから送られてきた鐘の祝別が行われ,大分市にカトリックの鐘の音が響き渡るようになった。

 この年,ボルザーノ(イタリア)から聖テレジア像,聖心のイエズス像,磔刑像,十字架の道行きが届き,新聖堂は完成した。

 いずれも現在の聖堂に安置されている。

別の角度から見た聖堂  左側は当時の信徒会館

昭和36年 聖堂内部