1 大分教会前史
大友義鑑の死後,義艦の子義鎮が豊後を治め始めたのは1550年であった。
義鎮即位の1年前,聖フランシスコ・ザベリオ(ザビエル)は鹿児島に上陸し,平戸,山口を経て京都への旅に上り,山口に落ち着いて伝道を始めた。
ザベリオが豊後に来るよりも前に府内にはポルトガル人が来ていた。
1551年,ポルトガル船が豊後に入港した。この知らせは山口に届き,ザベリオは盟友の神父と修道士を山口に残して豊後へと旅した。
出発して6日後(1551年9月のことと伝えられている),ザベリオをはじめとする5人が大分川の河口に接した小集落に着いた。
その縁ある地は,沖の浜である。
1596年の慶長豊後地震(別府湾の瓜生島が1日で海中に沈んだとされる)で沖の浜の集落は海没,今は存在しない。
ところで1551年に豊後に入港したポルトガル船のダ・ガーマ船長は,ポルトガル人がどのように司祭を大切にしているかを,この地の人に見せようと考えた。
彼は,祝砲を鳴らし,さらに府内の町を行列を組んでねり歩き,ザベリオを盛大に迎えたうえで,城内の義鎮との謁見に連れて行った。
じゅうたんを敷きつめ,マントをその上にかけるのを見て,武士たちは驚いたという。
義鎮は当時22歳。父の後継政権をやっと確立したところだった。彼は貿易に興味があり,ポルトガル王との友好関係を期待し,ザベリオに布教を許可した。
ザベリオは船中のポルトガル人の告白を聞き,聖体を授けながら,この地の日本人に布教する仕事を始めた。
沖の浜のブラズ,彼はザベリオに宿をかした人物だが,ブラズとその妻,彼の兄弟はザベリオから洗礼を受けた。この地での最初の信者である。当時50歳前後であっただろうと考えられる。
ブラズ,その妻,兄弟,ある老婆の受洗が記録されている。この老婆の兄弟は高名な仏僧だったが,彼女は晩年の15年をキリスト教徒として生きた。
これらの人たちが大分の最初の信者たちであった。
ザベリオはインドへの出発を志し,1551年11月下旬に豊後を出発した。日本の教化のためにはまず,日本に大きな影響を与えている中国での布教が必要と考えたからだった。
ザベリオはまずインドのゴアに赴き,さらに中国を目指して上川島に至った。しかし中国は鎖国状態で布教はうまく進まず,病を得て1552年12月に現地で帰天した。46歳だった。
さて,ザベリオは1552年4月,一人の神父と二人の修道士をマラッカから日本に派遣した。
かれらは鹿児島から陸路で,同年9月に大分に到着,大友義鎮に謁見した。義鎮は彼らに宿泊する家屋を与えた。
山口にいたトルレス神父はこの報を聞いてフェルナンデス修道士を豊後に送り,4人は印度総督の贈物を携えて義鎮を訪問した。
義鎮はキリスト教を自由に布教することを快諾した。義鎮は彼らに留まってほしかったが,4人は山口にいる長上のトルレス神父に会うため,豊後を発った。
豊後は当時,大国だった。トルレス神父は,ガーゴ神父と,通訳としてフェルナンデス修道士を豊後に派遣した。
二人が大分に着いたのは1553年3月だった。義鎮は彼らに布教の許可と,ひとつの地所を与えた。
その地所の上に,イエズス会の修道院が建てられ,その年の7月22日,聖女マグダレナの祝日に大きな十字架が建てられて,大分に居合わせたポルトガル人や改宗した日本人が参集して荘厳な儀式が行われた。
このころにイエズス会ルイス・フロイス神父が著した「日本史」によると,この年に改宗した人は300人。また大分とその近郊には600~700人の信者がいた,とも言われる。
最初の布教は貧しい社会階層の人から始められ,大分のキリスト教徒についての評判は次第に周辺地域に広まり,現在の竹田市方面に及び,徐々に当時のインテリと思われる人々が入ってきた。
1554年から56年ころは,カトリック要理を教えるフェルナンデス修道士,洗礼を授けるガーゴ神父のほかに,新しい強力な日本人スタッフが居た。
たとえば,アントニオという洗礼名で義鎮の信望も厚い老人,山口で入信した頭脳明晰な日本人琵琶法師ロレンソ,元仏僧で漢方医でもあるパウロ。
このころ,カーゴ神父はカトリック要理を編纂していたが,それを日本語に翻訳していたのはこのパウロだった。
義鎮はこの要理を書写し,自分の城中に保管していた。
折りしも山口の大内義長(大友義鎮の弟)が毛利元就に追われる時期であり,山口から豊後にいろいろな人物が逃れてきて,大分の教会は活況を呈した。
その中の一人が,トルレス神父だった。
彼は,ザベリオの教えを心に銘じており,経験も豊かで,誰もが一目置いていた。トルレス神父が府内に住むようになって,布教は目覚しく進んだ。
豊後府内の古図面
デウス堂跡の解説
出土した柱礎石(花十字架を掘り込んでいる)
これにさかのぼる数年前,ポルトガル人の富裕な商人だったルイス・デ・アルメイダがガーマ船長の船に乗って,平戸経由で府内に来ていた。
30歳だった彼は,のちに当地でイエズス会修道士となったが,外科医術を体得,人文の知識にも通じていた。
さて,当時の豊後は大きな国だったが,戦国の世であり貧しい人たちも多く,間引きや捨て子の習慣があった。
神父たちはこれを悲しんだが,救済のための資力がなく思案に暮れていた。アルメイダは商業で培っていた私財を投じてまず孤児院を建て,病院を併設した。
大分市医師会立アルメイダ病院の名称は,これに由来している。
1562年の6月から7月ころ,大友義鎮がカトリックに入信。「宗麟」と名乗った。ただし,このときはまだ受洗には至っていない。
この年,現在の長崎県の一部を領有していた大村純忠が,同県西彼杵半島北端の横瀬浦を自由港として提供。純忠は翌年受洗。日本初のカトリック大名となった。
このような動きを背景として,豊後と長崎方面の間でイエズス会士の往来や異動が増えた。
臼杵にて教会建設が始まったのもこのころ,1565年で,翌年完成。
1560年以降は,宣教師の派遣が少なく,援助も乏しかった。トルレス神父は日本人司祭の養成の必要を感じていた。
1580年,府内に高等教育機関であるコレジオが完成した。
コレジオは,ポルトガル語。英語では「カレッジ」となる。セミナリヨよりも上位である。
さて,大友宗麟は1576年に家督を長男の義統に譲って自分は臼杵城に隠居したが,実質は義統との二元統治だった。
宗麟は引き続き宣教師を保護して布教に協力した。
1582年にはイエズス会士の発案で,天正少年遣欧使節として,九州のキリシタン大名3者の名代として,4人の少年とその随員がローマに送られた。
大友宗麟の名代は,4人中の主席である伊東マンショ。後に,司祭に叙階された。
(ただしその後の研究で,宗麟は人選と派遣に無関与だったという説が現れている。)
大友宗麟とその妻は,1578年に受洗し,正規のカトリック信徒となった。
宗麟の洗礼名は「ドン・フランシスコ」である。
大友家は最盛期には九州の六国を支配したが,宗麟受洗直後,現在の宮崎県下で島津軍と激突して大敗を喫し,以後大友家の勢力は衰退していった。
島津軍に喉元まで攻め込まれて大友家滅亡寸前のところで豊臣軍の応援が入り,形勢は逆転したが,宗麟は島津義久の降伏を目前とした58歳時に,津久見で病没した。
宗麟の死後(1587年),豊臣秀吉はバテレン追放令を発した。以後,日本はキリスト教弾圧の方向に傾斜していった。
宗麟がキリシタン大名として人生を全うしたのは幸運だったかもしれない。
アルメイダ像
府内コレジオの図
天正少年遣欧使節(伊藤マンショは上段右)
大友宗麟旧墓
一説には日本の殉教者数はローマのそれに匹敵するのではないかとの見解がある。
日本のカトリック教会は,この時期の殉教者のなかで殉教までの経過がはっきりしている人たち188人について,ローマの教皇庁に「列福」という殉教者等の徳・聖性の公式宣言を申請した。
2008年,長崎市にて,この188人を「福者」に列する式典とミサが行われた。
下の像は188人の一人,ペトロ・カスイ・岐部神父である。
岐部は1587年,国東半島の岐部に生まれた。父は地元の豪族,岐部城主・岐部左大夫一辰。両親はキリシタンだった。
13歳で,現在の長崎県,島原半島南端の有馬にあるセミナリオに入学,司祭を志して6年間を過ごした。
岐部はイエズス会入会を志したが,当時は日本人が司祭になることに偏見があり,入会は許可されなかった。
そんな折の1614年,岐部27歳のとき,徳川幕府の追放令でマカオに追放され,現地のコレジオに入学。ここでも岐部が司祭に叙階される見通しは立たなかった。
岐部は望みを果たすため,1618年にマカオを発ってインドのゴアまで海路,そこから先は陸路を徒歩でローマを目指し,日本人として初めて聖地エルサレムに入り,3年かけてローマに入った。
ローマには,マカオから「司祭に叙階しないように」との手紙が届いていたが,ローマで岐部は司祭叙階にふさわしいことを認められ,1620年11月,33歳で司祭に叙階された。
岐部神父はさらにローマのイエズス会修道院で2年の修練を受け,ポルトガルのリスボンで請願を立ててイエズス会士なり,1623年に宣教の船旅に出立,海難をくぐり抜け翌年インドのゴアに到達した。
岐部神父の目的は,殉教を覚悟したうえでの,日本だった。岐部神父は日本に渡る機会を捉えるべくマカオ,タイ,フィリピンと移動していた。
マニラのイエズス会が岐部神父を全面的に支援。同僚のミゲル松田神父(1633年に長崎で殉教)と共に日本潜入の準備をした。
マニラを発った岐部神父は,途中で台風に遭遇しながら,辛うじて1630年に鹿児島に上陸した。
日本から追放されて以来,16年ぶりの帰国だった。
このころ,幕府のキリシタン迫害は熾烈を極めていたが,岐部神父は9年にわたり日本国内を移動し,信者を励ましながら,その行脚は九州から東北に至った。
1638年,岐部神父は江戸のあるキリシタンの家にかくまわれているところを密告され,役人に捕縛された。
宗門奉行の井上筑後守政重は,岐部神父とほかの神父達に対し,殉教よりも拷問による背教(「転ぶ」といわれた)を狙った。
拷問の方法は逆さ吊るしといい,手足を縛って縦穴に足から吊るし,眉間に穴を開けて少しずつ出血させて脳血管の破裂を防ぎ,絶命を引き延ばして苦しみと絶望を最大限に高めるやりかただった。
しかし岐部神父はこの過酷な拷問に屈せず,一緒に吊るされた者を励ましていたので,穴から引き上げられて処刑された。
1639年7月,岐部神父,52歳の殉教であった。
井上政重が書いた「契利斯督記」には次のような一文がある。
キベヘイトロは転び申さず候
吊し殺され候
是はその時分までは不効者にて
同宿二人キベと一つ穴に吊るし申し候故
同宿ども勧め候故
キベ殺し申し候由
(注記)
ペトロ・カスイ・岐部神父の生涯については,次の書籍を参考にし,一部引用させていただきました。
日本188殉教者列福調査歴史委員会著・溝部脩監修 ドン・ボスコ社 1991年初版発行
ペトロ・カスイ岐部神父像 舟越保武 氏作
2012年7月撮影
同 ファローニ 師作
2012年7月撮影