4  大分教区司祭の宣教

 1942(昭和22)年から第三代の大分市長を勤めた上田保氏は,カトリック信徒ではなかったが,キリシタン史と大分文化に深く傾倒した。

 当時現職市長の上田氏は1953(昭和28)年,デウス堂跡にキリシタン記念館を建設することを提案した。

 これは,大分市顕徳町一帯に往年のデウス堂を復興,その横にキリシタン文化博物館を建設,記念公園を整備するというもので,総予算は1億4千万円,とされた。

 財源については,当初豪華な「キリシタン・ペンシル」を全世界の信者に買ってもらう予定だったが,竹製のロザリオに変更,建設計画をその後「キリシタン文化センター」に改め,予算は36億円に膨らんだ。

 上田氏は公金投入なし,私財と借金でロザリオ工場の操業を開始。市議が心配するほどだったが,ローマに赴いてピオ12世教皇に謁見,各修道会の総長のもとも回り,協力を求めた。

 しかしロザリオの販売は,はかばかしくなく,のちに工場を竹ビーズ製品を製造する「精巧社」に転進させたところ製品が大ヒットし,借金は完済した。 

 1958(昭和33)年,上田氏は美苗夫人と共にカトリックの洗礼を受けた。授洗者は深堀司教,代父母は田中耕太郎最高裁長官夫妻だった。

 上田氏は豊後キリシタンの歴史に関心をもち,殉教者たちの姿に強く惹かれていた。

 1659年からの豊後キリシタンの迫害で,現在の大分市葛原にて約200名が殉教しているが,ここでも公費に一切頼らず知己の篤志家の協力を得て1960(昭和35)年, 現地に「キリシタン殉教記念公園」を設けた。

 壮大な「キリシタン文化センター」構想は,実現に至らなかった。

 上田氏は1963(昭和38)年に市長を退いたが,その後もキリシタン関係の銅像を市に寄贈し続け,現在も大分県庁横の「遊歩公園」やその周辺に置かれている。


参考(リンク)

 引用により本稿を一部補充させていただきました。深謝いたします。

 大分合同新聞社&別府大学 のサイト「NAN-NAN」ライブラリー 「ロマンを追って 上田保物語」(10)ロマンチスト 

キリシタン殉教記念公園

 1961(昭和36)年12月,教皇庁の布教聖省は大分・宮崎の両県からなる宮崎知牧区を司教区に昇格して,福岡教区から独立させた。

 司教座は大分に置かれ,大分司教区と呼ばれるようになった。

 初代司教には平田三郎師が任命され,1962(昭和37)年に司教に叙階された。大分教会が司教座聖堂となったのはこのときからである。

平田三郎師司教叙階ミサ

 1962(昭和37)年は第二バチカン公会議が始まった年であり,会議は以後5年間に及び,教会のいろいろなところで改革が進んだ。

 典礼はラテン語から日本語になり,典礼聖歌が取り入れられた。

 大分教区には教区司祭が少なかった。しかし長い間の修道会司祭派遣に慣れていた信者たちには,その意識が薄かった。

 そこで,召命を祈りながら1日1円の献金をする「一粒会」が始まり,小神学校建設へと具体化され,1969(昭和44)には現在の大分市明野に土地を得て着工した。

 公会議後,信徒の教会運営参画が進み,大分教会でも1967(昭和42)年に教会委員会をはじめ各種の信徒組織・団体が置かれ,1968(昭和43)年には第1回信徒総会が開かれた。

 大分は1964(昭和39)年に新産業都市に指定され,指定前は大分市周辺の市町村だった地域が大分市に編入され,信徒転入増加のほか,求道者も徐々に増えていた。

 この時期は教区司祭が主任となり,サレジオ会司祭が助任として働く態勢がとられた。 

 1969(昭和44)年,平田司教は福岡教区の教区長に任命されて転出,平山高明師が司教に叙階されて1970(昭和45)年に着座した。

 1970(昭和45)年,建設中の小神学校が開校。第1期生の中からのちに二人の教区司祭を輩出したが,運営維持が難しく,1973(昭和48)年に閉鎖されて神学生養成は長崎教区に預ける体制に変更された。

 平山司教は積極的に修道会を誘致し,教区各所に小教区やカトリック系施設ができた。  

 1951(昭和26)年に落成した聖堂は,内外装が傷んできたので,1975(昭和50)年,改装委員会が発足した。

 改装事業は1977(昭和52)年1月に着手され,特に正面祭壇の奥壁がモザイクで飾られ,6月に改装記念の祝典が開かれた。

 総工費は1644万円。

 うち,ローマからの援助金233万円,司教区の援助金108万円,寄付368万円,大分教会の信徒の拠出は935万円であった。

昭和52年 改装中の聖堂

同年 モザイク製作中

改装記念祝典

改装が完了した祭壇

 聖堂改装計画が進められているころ,海星幼稚園でも新築・改装が進められていた。

 工期は2期に分けられ,1976(昭和51)年に着工,1977(昭和52)年2月に完成,3月に祝別された。  

 当時大分教会の助任司祭だった溝部神父(サレジオ会,後に司教)の提案で,信徒会館の一部を取り壊し,「青年の家」を建て,そこに「カトリック案内所」を併設することになり,総工費900万円をかけて1978(昭和53)年に完成した。

 1981(昭和56)年,日本に初めて教皇(ヨハネ・パウロ2世)が来日。東京,広島,長崎を巡った。

 大分教区からも列車とバスを貸切にして長崎に向かい,大寒波の中で教皇を迎えた。

 教皇は,厳しい弾圧下にあった数多い殉教者をたたえ,信仰の灯を消すことなく守った日本の教会と全信徒を慈父として祝福した。

 1982(昭和57)年,約390万円をかけて鐘楼修復と雨漏修理が行われたが,すでに信徒たちの頭には100周年のことがあった。

 翌年,ビジョン起草委員会により,5か年にわたる100周年計画が示され,計画は段階的に実行に移されていった。

 1987(昭和62)年,大分教会は創立から100年を迎えた。

 4月,カルー教皇大使が大分教会を公式訪問。6月から聖堂の改装工事を開始,内外装が一新された。

 信徒たちは主任司祭を中心に資金造成に取り組んで3000万円を突破,さまざまな準備を経て,11月3日,大分教会創立100周年記念式典が執り行われた。

聖堂内 (小聖堂が設けられる以前)

1992(平成4)年の大分教会