2  パリ外国宣教会の宣教

 禁教下,江戸末期の1864年,長崎の大浦に外国人向けの教会(俗称「フランス寺」,のちの大浦天主堂)が開設された。

 フランス寺を密かに訪ねた信徒の一群がいて,神父のプチジャンに会った。日本の信徒は300年近くも代々信仰を守り継いでいたのだった(いわゆる「信徒発見」)。

 しかし明治政府は禁教を廃しておらず,長崎の浦上に信徒がいるのを把握し,彼らに大規模な流刑を打ち,無抵抗の信徒の多数が,拷問の末殉教した。

  参考(リンク) 津和野・乙女峠 : 津和野教会

 このことは西欧諸国に知れて明治政府は批判を浴び,外交に支障をきたしたため,1876年に禁教令は撤廃された。

 日本の司牧は南北に分けられ,南側の教区をプティジャン司教が担当した。 

   プティジャン司教は1882(明治15)年,フレノー神父と日本人の新司祭・伝道士を豊後伝道に旅立たせた。

 彼らは大分の堀川町(千代町)に居を構えた。聖堂はその貧しい家屋の屋根裏同然だった。

 当地の人々は新しい宗教だとして相当な警戒心を向け,300年前に豊後全土がキリシタンだったとは到底思えない状況だった。

 それでも,わずか十数名だが,受洗を望む人々が現れた。

 始めは,カトリックが長年禁教だったキリシタンであることは伏せ,洗礼直前にそれを明かした。

 人々は驚き,それをわかったうえで受洗を決意した。

  

 1884年,プティジャン司教が死去し,翌年南教区の教区長となったクザン司教はベーラー神父と二人の伝道師を大分に赴任させた。

 1887年のことである。

 彼らは大分市紺屋町に土地を得て定住した 。

 西南の役から10年が過ぎ,政府は国会の開設を約束し,各地で政党による演説会が活発に行われていた時代である。

 ベーラー神父,同行の島田神父はこれを見て宗教演説会を企画し,多数の聴衆を集めて熱心に宣教した結果,中津,竹田,臼杵,高田周辺に巡回所ができた。

 1890年,のちに新約聖書の日本語訳でその名を知られることになったラゲ神父が大分に着任した。

 この時代,日本の教会は南北2教区のみの体制から徐々に各地の教区が整備され,信徒数も増えたが,時代は国会開設と大日本帝国憲法発布のころで,国粋的政治家によりキリスト教は「耶蘇教」として攻撃の対象とされた。

 ラゲ神父は大分での宣教に難しさを感じ,日向,宮崎に期待をかけ,二人の助任神父が大分を守り,司牧と宣教にあたった。

 

 1900年前後(明治30年代)の日本は,日清・日露戦争に臨み,戦勝の高揚感と愛国心に溢れていた。

 中津に独立の教会ができたものの,宣教師たちには,大分には少数の良い信徒がいるとはいえ,キリスト教に心を閉ざしてどうしようもない土地柄に見えた。

 当時赴任していた神父は大友宗麟時代を思い「何ということか,昔の栄光の一片も,残っている人々の中に残っていない」と書いている。

 1911(明治44)年,鉄道が大分まで開通。

 1914(大正3)年,第一次世界大戦が勃発。

 世間は戦争景気にわいたが,宣教師たちは広い地域に散在する少ない信徒の司牧に苦労した。

 日本は徐々に軍国主義が浸透し,神道と国家主義に阻まれて大分の再宣教は難しかった。

 社会の急変で転出していく信徒,教会を離れる者もいた。

 人手不足の宣教師は苦闘していたが,のちに6名のサレジオ会司祭,3名の修道士が来日したことで宮崎と大分は苦境を脱することができた。

 このころ,大分は長崎教区の管轄下にあったが,1927(昭和2)年,福岡教区が創立されて大分の教会は福岡教区に属した。