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141 (2021年6月15日)
「 悩ましいオリンピック 」
1964年東京大会の時菅首相と同学年の私は高校1年だった。岡山県北部の高校の教室で担任の地理の
先生の「オリンピックが始まりましたね」みたいな言葉を聞いた記憶がある。あの時私はどのくらい
オリンピックに熱中しただろう?
詩人のリルケ(当時は知らなかった)に似た風貌のアベベ選手、皆が入り混じっての閉会式、市川崑監督の
物議をかもした記録映画などが印象に残っている。
以後も部分的にはオリンピックによる感動はあるが、お祭りにもスポーツにもあまり関心はなく、いつか
テレビが故障して見られない期間があったが、丁度何も観るものがないオリンピック中で良かったと思った
くらいだ。そんな風に無関心でやってこられたのに今回はいやでもオリンピックにまつわる諸々が目に耳に
神経に刺さってくる。
まずあの忌まわしいunder control 発言。この発言により福島の復旧が加速するかもしれないと少しは期待したのに、
元々そんなに簡単な問題ではないし、依然あの大嘘は大嘘のままだ。今回も開催したいなら必死で感染を
食い止めようと手段が講じられるかと思いきや、そんな動きはこれまで一切なく「安全安心の大会を・・」と
いう念仏が聞こえてくるだけ。ワクチン接種だけやっと少し勢いがついたかもしれないが。
自分が興味がないからというだけでなく、4年に一度いろいろな競技を一緒に開催する意義がどこにあるのだろう
とは思っていた。スポーツの意義とオリンピックの意義が同じではない。各世界選手権は十分すぎるほど行われて
盛り上がっているのに。
そうしたら、マイナーな競技がオリンピックということで初めて認知されそれを志す人が生まれ広まっていく
という説を聞いた。でもそのためには他の方法もあるのでは?
ま「普通なら」したい人があり観たい人がありスポンサーがあり支援団体があるなら開催すればいいが(そこに
税金がどれだけ投入されるべきかは別として)、今回は「普通なら」しないパンデミックの状況だ。今年するなら
去年のほうがまだましだったと今更言っても仕方ないが、今年はもっと感染状況はひどい。
バブル(というとすぐに弾けそうで塀とかドームとかもっと強いものにしてほしいが)の中で絶対的な医療体制が
敷かれればそこでの感染は拡がらないかもしれないが、それは外の医療を逼迫させることになるのではないか。
責任ある関係者から納得のいく説明を聞きたい。
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142 (2021年7月15日)
「 ワクチン接種 」
誰もが幼い頃すると言われていたはしか(麻疹)を私はしていなかった。今は予防接種もありしない人も
多いのかもしれないが、昔そのことが私は恐ろしく、皇室の誰かが成人してからかかり大層重かったという
噂も聞き、元々身体が弱く何回か死にかけたと言われて育った私は、総仕上げとして大人になってからはしかで
死ぬのだと怯えていた。
しかし小学校時代こそ体育の授業も見学が多かったが、中学・高校とあまり病気をしなくなり、大学生の時
胆嚢炎と診断され一生治らないから食事はずっと気を付けるようにと言われたのにそれもいつのまにか快癒して
(胆嚢炎は誤診だったのか?)、挙句はしかの検査をしたら何ともう免疫はできているということだった。
はしかウイルスを体内に入れておきながら戦って苦しむこともなくチャッカリ素知らぬふりですませていたのだ。
自分を勝手にか弱い存在に見立ててのナルシシズムが打ち砕かれ、煮ても焼いても食えぬ輩、しぶとい図々しい
奴なのだと思い知ったことだった。
以来エリート意識は捨て慎ましく生きてきたつもりだが、皮膚炎にだけは苦しみつづけた。70才過ぎて特に重くなり、
野菜を洗ったり切ったりも素手でするのは辛いので手袋をはめて。以前は手を使っていなければ何も苦痛はなかったのが、
何もしていない時も荒れた手が痛く、死んでしまうほうがましと思うことが多くなった。皮膚科で処方された薬でも
治らず2年ほど続いていたその状態が、ある日偶然もらった入浴剤(資生堂ドウーエ)で大幅に改善され、痒みだけは
まだあるがこの頃はそのことで死にたいとまでは思っていない。
そんな私で持病もなく服用し続けている薬もなく(それは健康診断をあまりしないせいもあるが)年の割には健康なのだが、
すべての細菌やウイルスを体内で飼っているわけではなく、特に今回の新型コロナウイルスcovid19の免疫がある筈もない。
若い人に比べれば行動範囲も狭いしワクチン接種も最後でいいと思っていたが、県外の娘が熱を出しPCR検査を受けたと聞き、
幸い陰性だったが、陽性だった時幼い孫たちの世話をするには私もワクチン武装しておこうと考え直し、接種券が来たら
すぐに申し込みをして6月18日と7月9日にファイザーワクチンを受けることが出来た。
数年はかかると言われたワクチン開発がこんなに早かったのはカタリン・カリコ博士やトルコからドイツへの移民夫婦らの
日が当たらぬ場所でのたゆまぬ努力のお蔭である。また接種後の死亡現在350名ほどについて因果関係はないと言われて
いるが、接種しなければここで亡くなることはなかったのではと胸が痛み、この人たちの犠牲の上にも集団免疫が進んで
いるのだと思う。
日本政府の対応については、日々平静ではいられないが、こういう状況の中で「他山の石」としてではなく、自分のこととして
人間が物事にどんなふうに向かい合えるものか考える材料にしたい。
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143 (2021年8月15日)
「 スポーツの意義 」
生身の肉体を持って生まれついた人間にとって、体を動かすことは身体機能の維持のために必要なことだ。特殊な
状況でない限りじっとしたままで生きている人はいない。ずっと動かないでいると体が固まってあちこちに故障が
起こるだろう。
でも体に最低必要な動きは無意識の日々の営みでなされているものではないかと思い、元々運動神経も鈍く体を
動かすことは苦手で、スポーツとはしたい人だけがすればいいものと思って生きてきた。どこかに行くこと・
場所の移動は好きなので、山登りなど低い山であれば別の景色が見たくて登るし、乗り物で行く遠い場所にも
いつか歩いて行ってみたい気はするが、体操とかダンスとかコートの中で走り回るとか、ひとつの場所で体を
動かすことの意義はあまり感じないし、自分でするのはどこか気恥ずかしい。
しかし世の中には運動が好きな人も当然ながらいて、信じられないくらい速い動き力強い動き難しい動きに
秀でた人がいて、また自分がせずとも他の人のそういった技や力を観ることが好きな人がいる。多分そういう
運動愛好家のほうが世の中には多いのだ。
だからひっきりなしに、あちこちで競技会が行われ、日本選手権から世界選手権もあり4年に1回オリンピックも
行われる。
それらにほとんど興味がない私も、様々な困難を克服しながら励む姿は素晴らしいと思うし、そのことが更に周囲の
人の無上の力にもなるだろうと認めるが、それは他の趣味と同列のもの、映画とか演劇とか音楽とか美術とか茶道華道とか
園芸とか釣とか手芸とかYouTube?とか・・・そのほか様々なことと同じで、好きな人にとって意味があることで
そうでない人に強制されるものではないと思っている。だからこのパンデミック下のオリンピック開催も疑問だった。
しかし、スポーツと他の趣味との一つの大きな違いに今更ながら気が付いた。それは勝ち負けがあるということ。
一般的な趣味も賞があり順位が決められるものがあるが、基準は曖昧でそれぞれが世界で一つだけの花でありうる。
でもスポーツはトップを目指し1位でなければ意味がない。2位が全く無意味ということはないだろうが、1位を目指し
共に闘ったということで勝ったほうも負けたほうを称える。勝ちたい勝たねばならないという気持ちがその人の
モチベーションになり一層の上を目指す力となり闘争心や団結心を生む。そしてそれらを利用したい勢力もあるような
気がする。それらは人間の本能の中に元々インプットされているものなのかもしれないが、その熱狂にはすさまじい
ものがあり、私には遠い世界と感じてしまう理由のひとつでもある。
(勝つということでは囲碁将棋も熾烈な競技だろうが、あの静けさ動きの無さは別格で、
競技者の頭の中を一度覗いてみたい。)
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144 (2021年9月15日)
「 人新世の『資本論』 ― 読書 」
6月のBS-TBS「報道1930」に著者斎藤幸平氏が出演しているのを見た。資本主義について何か示唆に富んだことを
話しているようだったので、早速本吉(移動図書館)にリクエストして先月読むことが出来た。その後購入しじっくり
もう一度読んでみた。こういう経済的論理的分野は苦手なのだけれど。「人新世ひとしんせい Anthropocene 」とは
人間たちの活動の痕跡が地球の表面を覆いつくした年代という意味のP.グルッツエンの造語だそうだ。
未曾有の自然災害が毎年のように各地を襲う。極寒の地シベリアで38度を記録した。人間の営みで二酸化炭素の排出量が
増え温室効果ガスで地球が年々熱せられ異常気象が当然のことになっている。このままでは地球はもう人間が住めない
場所になっていく。しかしもう諦めるしかない。先の短い我々は逃げ切れるだろう。子や孫のことは考えないようにしよう。
そう思っている人は多いのではないだろうか?少なくとも私はそうなのだ。
でもこの本は違う。まだ若いマルクス研究者である著者は、まだ間に合うと言っている。
冷戦が終わりソ連の崩壊でマルクスも共産主義も過去のものという先入観が私にはあるが、
資本論より後のマルクスの思想がこの人類の危機から脱出するカギになると言うのだ。
マルクスは晩年自然科学やエコロジーや共同体を学び、自然からも人間からも収奪するばかりの資本主義を終わりにし、
持続可能な循環型の経済にしなければいけないと考えていた。そして脱成長のカギはコモン、共、人々が生産手段
(例えば電力とか水力とか)を自律的水平的に共同管理することだと言う。
これは机上の空論ではなく、斎藤氏はデトロイトが自動車産業の衰退で破綻した後ワーカーズコープの都市農業で
蘇ったとか、リーマンショックで打撃を受けたバルセロナも新市長を誕生させ地産地消の地域経済で住民主導の
都市作りがなされているとか、大都市での具体的な例を示している。
重要なのが自治体と繋ながる協同組合というなら私にとっては嬉しい。車がなくて買い物が不便という理由が
大きいのだけれど、生活を食料品も日用品も服も靴もカバンもほぼ生活協同組合に頼って生きているから。
電気も最初はソーラーパネルを設置するつもりだったが今は安く済むグリーンコープ電気にしている。(古本だけは
GAFAアマゾンのお世話になっているが。あ、それからこのHPはGoogleで作らせてもらってる。)
ただ協同組合がそこまで有効か不安だし皆が皆組合員にはならないだろう。でも著者は全員がそうならなくとも、
3.5%が動けば様相は一変すると言っている。氏を最近新聞で見かけることが多くなった。またこの間は
この本1冊だけが朝日新聞片面いっぱいに宣伝されていたのである。 これで3.5%が動き世界が変わるだろうか?
既得権を失う富裕層が大人しく従うだろうか? グローバル企業らが黙っているだろうか?
しかし気候危機がもう一刻の猶予もないところに来ているのは確かである。
*私の説明は不十分ですので各自この本を読んでいただければと思います。
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145(2021年10月15日)
「 近藤康太郎記者 」
ずっと朝日新聞を購読しているというのにこの人のことを全然知らなかった。朝日を読んでる人はこの記者を
皆知っているようだ。「月1回ぐらい載ってる」とか「辛酸なめ子のイラストで家庭欄に書いていた」とか言う。
私も伊藤理佐さんのイラスト付きエッセイは切り抜いてるし、記者でいえば5アンペアで生活する人の記事は以前
熱心に読んでいたけど。この近藤康太郎という人は朝日新聞社の名物記者で、他の出版社からも何冊か本を出して
いる有名なライターであるという。
あるきっかけで知ることになったがそれも微妙に遠い道のりだった。池澤夏樹の2003年から2019年までの
分厚い読書日記「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」を買ったのは1年以上前。手持無沙汰な時だけ少しずつ
読みつなぎ、終わり5分の1ぐらいの2015年10月のところにさしかかったのは今年8月半ば。「おいしい
資本主義」(近藤康太郎2015)を取り上げて池澤は「読み終わるのが惜しい本」と言っている。記者が地方支局に
移り住み本業のほかに朝だけ米作りをするという話のようだ。
でもこれだけなら他の大多数の掲載本のように「ふ~ん」と思っただけで、せいぜい書名をメモするぐらいで終わった
かもしれないが、その米作りの場所が長崎県諫早だというので俄然読む気になった。市町村合併でここから5分歩けば
もう諫早なのだ。
本吉にリクエストする時「あるかなあ?こんな本」と思ったが流石地元、ネットワークに4冊あり(長崎ネットには
1冊)数日後の巡回日に手にすることができた。
面白い!地元の人に一から米作りを謙虚に教わりながら土に馴染んでいく。恥じらいつつ自らの姿勢を「ばっくれる」
というナイーブな反骨精神。でも社会に対してははっきりとした自らの考えを持っていてそれが時々吐露される。
引用される詩や歌や本のチョイス。すっかりはまってしまった。その後「アロハで猟師、はじめました」も借りて読み
(こちらは生き物の命を奪うということで考察はさらに重く厳しい)結局この2冊は購入した。前者は今絶版のようで
定価より高く買うしかなかったが。
最近は新聞の「多事奏論」欄に時々文章が載るらしいことがわかり8月7日分は古紙回収に出す前に切り抜くことができた。
そこにある近藤康太郎天草支局長の写真には見覚えがあった。サングラスでややエラそうともとれる笑顔。高橋純子氏の
この欄は必ず読むが、他の日さーっと流していく時この写真の人が興味深い内容のものを書いているとは全く思わなかった。
私の雑なピックアップがどれほど愚かで低レベルだったことか。情けない。
涼しくなったら諫早飯盛の田んぼを見に行こう。車なら30分もかからないと思うが、バスを乗り継ぐ私の行き方では
半日がかりだろう。本からは飯盛の棚田で上から2段目ということしかわからないが、小学校児童と稲刈りという情報を
ネットで見つけた。その小学校周辺で尋ねたらわかるのではないだろうか。ミーハーな私の悪い癖が久々に発揮できる。