111 (2018年12月25日)
「 消 え る 」
コンピューターのことは、飛行機が空を飛ぶ以上に不思議でわからないと思っているが、一応自分の
家庭文庫のホームページを作っている。
20年くらい前近くの大学祭で「ホームページの作り方」という無料の講習を受けた。それはほとんど
わからなかったが、パソコンにフロントページイクスプレスという作成ソフトが入っていたので、その参考書を
買ってきてそれを見ながら簡単なページを作り上げた。 プロバイダの大学生協がいろいろ電話相談に
応じてくれて転送もでき何とかネット上に公開した。1999年5月1日のことである。
以後プロバイダをヤフーに変えURLが変わった時は自力で何とか乗り越えたが、パソコンがMeに変わり
同じソフトがそれに入ってなくて困っていたら、詳しい友人がドリームウエーバーというソフトを入れてくれ
継続できるようにしてくれた。
ウインドウズが次にビスタに変わるとそのソフトが動かなくなったが、プロバイダのヤフージオシティーズと
いうところがホームページを載せてくれるだけでなくそこで編集や更新もできることに気が付き続けられた。
しかしパソコンが強制的にウインドウズ10になってからは、そのジオシティーズで普通の文字での更新が
できなくなった。いちいちタグ?をつけるのは私には無理だ。
その時娘が、もうどこでもホームページぐらい作れるとグーグルをすすめてくれたので、2018年1月からは
そこに無料登録して更新している。まだ使い方がよくわからない所は多いのだが。
このように新たな更新はグーグルで、これまでのものはジオシティーズで見てもらおうと思っていたが、
ジオシティーズの不具合は私だけではなかったようで、来年3月で閉鎖という連絡が来た。移行先を
紹介されたがもうグーグルのみにすることにした。
だから古いページ全体が来年3月ネット上から消えてしまうことになる。瓦礫も灰も残さずに。あっけない。
マルケスの「百年の孤独」で、羊皮紙に書かれた蜃気楼の町マコンドの歴史が風に飛ばされ人間の記憶から
消えてしまうを思い出した。それと比べるのはおこがましいとは思うものの。
*実は古いコーナーのいくつかを私は紙の小冊子にしていた。未練がましいが、
電気がなければ見えないことパソコンを持ってない友人に読んでもらえないことを
寂しく思ったからだ。在庫本リストは載せていないので今少しずつ旧ページから
それをこちらに移している。
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112 (2019年1月25日)
「 こ の 30 年 」
ほぼ20万年としていいのだろうか、サピエンスが生まれて以来の全史、そして現在地球に
生きる70億人あまりを累計するとどんな数になることか。そんな中で、私一人の70年弱など
塵芥のひとかけらにも及ばないことだろう。でもその塵芥ひとかけらから考えるしかなく、
それで思うのは生まれた時代や地域や環境が、生存の難しい例えば衆人環視のもと猛獣に
食い殺されるところでもなく、また侵略者に当然のごとく追い払われ殺戮される先住民でも
なかったことはありがたい。日本の現代に絞っても、地上戦があった沖縄や原爆を落とされた
広島や長崎また空襲を受けた日本各地の犠牲者でもなく、終戦後3年7カ月経って生まれ
今まで生きてこられたことは天恵であり奇跡であったと思う。
そうして昭和の残り40年間はまだ日本が貧しく、自分も幼く余裕もなかったが、そのあとの
平成時代は少し自分も社会に対して自覚的意識的になったと言えるだろうか?
この30年とこれからの日本の政治については、池澤夏樹氏が「終わりと始まり」(朝日新聞1月
13日)で言っているように暗い気持ちにしかならない。ただ天皇制や元号については少し
疑問も残るものの、もうすぐ退位される平成天皇と皇后のお二人については、尊敬し感謝している。
あまり天皇家に関心を持っていたとは言えないし皇居にも一度も行ったことはないが、
沖縄を始めとしてサイパンやパラオなど太平洋戦争の戦地であったところへの慰霊の旅、雲仙
普賢岳・阪神淡路大震災・東日本大震災などの被災地でのお二人の姿、また節目節目での
公的なメッセージに込められる戦争への反省と謙虚な思いには、ああ立派な人が天皇で良かった
という気がしたものだ。
また美智子皇后の「橋をかける」(1998)は素晴らしい本で、インドでの国際児童図書評議会
世界大会に向けたビデオメッセージを本にしたものだが、読んで心が洗われた気がした。
読書について、人について、人の悲しみについてもう一度考えさせてくれる。
国民を代表してくれるのは政治家ではなくてこのお二人のような人たちだ。
この30年そうであって良かった。
犬養道子氏も「おふたりと接したすべての外国元首たちが舌をまいてその教養・品格・ユーモアに
感じ入り、・・・思想と思索力・・・誠実で率直なことに・・・外国での評は群をぬいている」と早くから
記している。 (「国際線上のモナキスト」1991)
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113 (2019年2月25日)
「 借 金 」
借金も財産のうちという言葉があるようだが私は借金なんか嫌だ。
長らく背負っていた住宅ローンもせっせと返していたが、「当人が亡くなった場合残債は
無くなる。その時貯金がゼロなのは考え物だ」と知り合いに諭され、程々に返すように
なった。これはずっと利息を払わせようという仕組みのようで有難いものなのかどうか
わからないが、ともかく長年かけてローンを返し終わった時はホッとした。
手元に持ち合わせがなく仕方なく借りたお金も最速で返すようにしている。
ともかく「学校の先生は給料が安い」と言われた頃の教師の家に生まれ、土地持ちでも財産持ち
でもなく事業を起こしたこともなく大金には一生縁がなかった。その代わり借金にも慎重で
足りなくても借りずに節約というのが身に沁みついている。
だから国の借金1兆円というのをどう考えたらいいのかわからない。聞いただけでも苦しくなる。
勿論自分にも嫌なものを次世代に残したくはない。
でも毎年そういう予算を組み続けるのは、これは返さなくていい借金ということなのか?
次の年また足りなくなったら次の世代に借り、永遠に時間的自転車操業を繰り返せばいいと
いうことなのか? 最後に地球が滅ぶときには先送りもできないが子孫も何もかもがなくなる
だろうから。(想像するのも恐ろしいが。)
時々聞くのが、これだけ借金があっても国民の預金がほぼ同額あるから大丈夫というもの。
借金は円建ての国債で銀行や生命保険会社が買い、その資金は国民の預金や保険料だという。
何だか自分のわずかな貯金も帳消しにされるような不安があるけれど。
それとも足りないお金は錬金術のように刷り続ければいいのか。インフレになるだろう。
でも金本位制が終わったときからもう空しいマネーゲームの世界に我々は生きている
ということなのか・・。
納得のいく説明をしてほしいが、数字もデータも出鱈目のこの国には求めても無理な気がする。
借金し続けるのはやめたい。ミヒャエル・エンデの「エンデの遺言」を読み、お金について
勉強しようと思っていたのに何もしないままだ。
差し当たり次世代に残さないよう考えるべきは、借金よりも原発そして何度も民意が
示されている辺野古ほか沖縄の基地だろう。
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114 (2019年3月25日)
「 激レアさんを連れて来た ―テレビ 」
このところのお気に入りである。テレビ朝日月曜夜11時20分からの1時間番組。人気が出たのか、
4月から土曜日夜10時10分からになるようだ。
非常に珍しい経験や体験をしていたり、変わった生き方をしている人が登場する。それを研究助手の
弘中綾香アナウンサーが手書きのボードで次々テキパキと説明していく。
時には紙芝居や図画工作風の装置も使われるがこれらすべて弘中アナの手作りだそうだ。
彼女は自分でロリ顔と言っているように可愛い童顔なのだが、普通のアナウンサーではとても
取って代わることはできないだろうと思えるおきゃんぶり弾けぶりだ。 でも嫌味はない。
彼女は助手で、上司(?)の研究員は芸人オードリーの若林正恭だが、こちらは座って茶々を入れる
だけである。しかし人見知りで女子は苦手かと思っていたこの上司、助手とよく気が合っている。
ほかに毎回2人のゲスト。
主役の激レアさんは、こんな人が本当にいたんだと多彩で楽しめる。
最初から観ていたわけではないのだがこれまでで印象に残っているのは、鉄馬で富士山や
キリマンジャロを制覇した人とか、口笛が好きすぎて世界チャンピオンになった人とか、
80歳を過ぎて不動産屋を始め成功したお婆さんとか、最近では類まれな音色の
トライアングルを作り出し世界中から注文殺到の人とか、ラーメンやバスへの
おっさんずラブとか・・・。
知らない人や一般の人の話はなかなか頭に入ってこない私なのだが、数々のユニークな人を
紹介してもらいいつも目を見張っている。努力や苦労を重ねてというより変わり者でごめんなさい
といった軽やかなテイストがいい。
そして見終わった後、こんな自由な生き方もあったんだなあと清々しい羨望の念に浸っている
自分を発見する。
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115 (2019年4月25日)
「 無 音 」
何も聞こえない。
ある晴れた4月中旬の昼下がり。二階家の一室で机の前の椅子に座り外を眺めている。
動いているものはある。見下ろしている先の道路国道34号を車が行ったり来たりしている。
色とりどりの、いやほとんど白かグレーの車は携帯電話ぐらいの大きさ。たまに黒塗りの
大きめの乗用車とか黄色や水色や赤を配したトラックも走る。でも何も聞こえない。
目を上げれば高速出島道路の一部が里山の間に見えるけれどそこを走る車はもっと小さく
勿論何も聞こえない。
日の光は穏やかで暖かい春そのもの、さらにその先の暑い夏を予感させる。この辺り家は
連なっているけれど、窓を閉じていれば隣家からも家の前の道路からも何も聞こえない。
ガラス戸の外のベランダでは洗濯物がわずかに揺れているけれど風の音もしない。
平和な世界というのだろうか。確かに今は救急車のサイレンも聞こえなければ、いがみ合う声も
犬の吠え声もない。でも何も聞こえないのは、見えない以上に何かが欠落しているような気もする。
こんなことをぼーっと考えているのは、死後の世界からこの世を覗いているからだろうか。自分の
心臓の音も聞こえないのだから。
誰もいない森で朽ちた木が一本倒れるときそれは音を立てるだろうか、という問いかけを
昔聞いたことがある。勿論音を立てるだろう。振動が大気を震わし動物や鳥や虫を怯えさせるだろう。
何と人間本位な発想だろうかと思ったけれど、振動はあっても音を認識するのは脳が鼓膜の振動を
翻訳して音と認知するかららしい。音は人間にのみ、存在は認知があってこそ成り立つものだそうだ。
家の前の道を今、車が1台通る音がした。音はあった。
耳を澄ませばいろいろな音や声が聞こえてくるのだろう。 半分眠っていては、半分死んだ気に
なっていてはいけない。笑い声や泣き声。悲鳴や怒号。騒音や衝突音。雷鳴や鳴動。銃声や爆音。
杭を打ち込む音、汚染水の滴る音をもっと聞かなければいけないのだろう。
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