116 (2019年5月25日)
「ぼく○○○」「ぼく□□□」
○□にはそれぞれ孫の名前がはいる。この二つは私の手製の絵本なのだ。でもオリジナル
ではなくて、谷川俊太郎さんの「わたし」という絵本を全面的にパクらせていただいた。
一人の女の子の存在を様々な立場から示しているこの1981年発行の絵本が、その昔私も
私の娘たちも大好きで何度も何度も読んだ。
今度孫たちにも読んで聞かせたいけれど、2人とも男の子なので、少しあわないところがある。
男の子仕様があればいいのだけれどなさそうだし谷川氏に手紙を出して作っていただこうか
とも思ったが、万一引き受けてくださっても時間はかかるだろうし、細かいところは女の子ヴァー
ジョンが男の子ヴァージョンに変わってもあわない。いっそ私がぴったりのものを作ろう!
それを売るわけではないから著作権問題はクリアの筈。
最初どういう方法にするかいろいろ迷った。文はともかく絵は絶対無理だ。カラーコピーしてみたが、
家庭用のコピー機の色は冴えない。透ける紙で線のみなぞることにした。面の部分は後で塗る。
2人分なので使えるところはコピーして、孫の名前の絵本2冊を作る。
オリジナル最初 「わたし おとこのこからみるとおんなのこ」を「ぼく おんなのこからみるとおとこのこ」
とする。絵は女の子の絵と男の子の絵を逆にする。でもこの最初のページも現在のジェンダーの
考え方からは問題なのだろうか?
次 「あかちゃんからみるとおねえちゃん」は「あかちゃんからみるとおにいちゃん」とし最初の男の子の
絵をずっとコピーして使用、でも眼の表情だけはそのページごとに違うので眼は無しにして後で
描きいれる。
方針が定まってから後はスムーズだった。白黒の素材が出来上がる。少しペラペラすぎるコピー用紙、
クリアファイルブックに入れた。
色は孫らに塗らせてもいいが、塗り絵とは型にはめるわけで教育的にあまり良くないらしい。私が塗ろうか?
とりあえず「おばあちゃんからみるとまごの○○○」のページのおばあちゃんだけを塗った。長新太さんの
絵は随分なしわくちゃばあさんだが私も似たようなものらしい。
ああ渡すのが楽しみ。孫たちも娘たちのように「うちゅうじんからみるとちきゅうじん」を気に入ってくれるかな?
「れんとげんでみると」の骸骨の絵に驚くかな?
でも私の期待が大きすぎて、渡してもしらッとスルーされるような気もして怖い。
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117 (2019年6月25日)
「人に迷惑をかけてはいけない」
これは日本人が何よりも大切にしている教えだろう。法律よりも憲法よりも身体に沁みこんでいる。
親からも厳しくしつけられる。謙虚な人が死ぬ前に自分は人に迷惑だけはかけなかったと安堵して
目を閉じる場面もあるかもしれない。
でもこれは美しくもおぞましい戒めともいえるのではないだろうか?
日常の小さなエチケットならともかく、人は一人で生きられるものではなく、多くの人が共に生きる
なら、そこには多かれ少なかれ必ず迷惑は発生する。そんな時にひたすらこの価値観で突き進むと、
そのまま何事も自己責任という容赦ない言葉に変わる。
勿論人は自立すべきだ。物事を解決していくのは自助―共助―公助の順だろう。けれど、社会が
この三つをどのように考えどのような姿勢でいくのか、そのありかたで全体の空気は良くも悪くも
なるだろう。
社会のため傷ついた人に自己責任というバッシングの嵐。ひきこもり殺人犯に対する「自分一人で死ね」
という言葉。勿論後者は誰しも(私も)知った瞬間に思うことだが、それだけで終わるならそれ以上
公言しないほうがいい。その一方で「内閣総理大臣たる私に責任があります」と明言しながらも責任は
取らない人・・・。
老後の自己責任については、50歳ごろまで年金が何なのかも理解していなかった私なのに、今支えて
もらっていることが若い人たちに申し訳ないが、一つ思い出すことがある。 バブルの頃よくテレビで
見かけた田中直毅という評論家が「将来人口が減り年金制度が持たなくなるが今は資金があるから今の
うちに積み立て方式に変えたらいい」と言ったのがストンと腑に落ちたのに、氏をその後あまりテレビで
見かけなくなり、事態はそうならないまま悪化している。
今からでも一刻も早く積み立て方式に向かって知恵を絞るのがいいのではないだろうか。
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118 (2019年7月25日)
「 れいわ新選組 」
高を括っていた。もう今度の選挙で新しいものはないだろう、期待できることは
起こらないだろうと。(でも他にないから自民党、なんてことはしない。安倍体制よりは
無政府状態のほうがまだましと思っている。)
だから政見放送も見ず公約も読まず、選挙区では野党統一候補に、比例区では野党
第一党の立憲民主党のつもりだった。(これもある意味馬鹿の一つ覚えだけど。)
でも友人が山本太郎の放送を聞いて何かを感じているようだ。
私は、山本太郎を別に嫌いではないが、いつか当時の天皇に手紙を書いたとかいう話に
青すぎる気がしていた。また令和という元号が私はあまり好きではないので(だって「命令に
仲良く従え」という意味だとしか思えない)、この団体名にも好感が持てず無視していた。
でもこの「れいわ」はひらがななんだしとともかく初めて公約を読んでみた。
素晴らしい!船中八策ならぬれいわ緊急八策のうち辺野古中止・原発禁止・奨学金チャラが
特にいい。これらはやろうと思えばできないことではないと私は思っている。是非実現してほしい。
入れるつもりだった立憲には申し訳ないが期日前投票に行き「れいわ」と書いてきた。
(山本太郎と書いたほうがよかったかもしれないが。)
帰ってきてから政見放送を初めて見て心が動かされた。意地の悪い見方をすれば俳優だった
ことも少しあるかと思う。他の人が同じことを言ってもあそこまで訴える力はないかもしれないから。
でも、どういう国にしたいのか、生きていたいと思える世の中にしたい、というところには
素直に共感できた。
選挙が終わって、れいわは特定枠二人が当選。障害がある人が政治家になることは様々な困難が
伴うだろうが、忖度力しかない健常者議員に力を見せつけてほしい。それは日本全体のためになる。
この政党を見守り支援していきたい。単なる演説のうまい人・公約ははったりで終わらせるかどうかは
投票した我々の今後の支え方にかかっている。他の野党も連携してほしい。
れいわを教えてくれた友人には感謝している。
しかし期日前投票で最初に書かされる誓約書は必要なのか?新聞でも議論になっていた。
選挙広報に5×18センチぐらいの同じものが付いていたので、今回はそれに書いて持って行った。
小さいから紙の無駄がまだ少ないだろうと。そうしたらそれをいつものB5の用紙に貼りつけていた。
はあ? 期日前投票者全国1706万枚余りのB5用紙・森林資源の無駄遣いだと思う。
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119 (2019年8月25日)
「 音 痴 」
「わりなき恋」(岸惠子)を読んでいたらヒロインが自分のことを何度か「音痴」と言うので嬉しくなった。
音痴でも恋をし世界的なドキュメンタリー作家になれるのだ。こういう設定にするのは著者自身も
そうなのかもしれない。
私が音痴と気づいたのは子どもの時兄に言われたり、学校で歌唱テスト中の先生の表情によってだ。
それからは人前では歌わない。合唱の時は声も出ないし迷惑をかけてはいけないので口パクに近い
ことをする。私の時代はまだカラオケが登場する前で良かった、そうでないと生きづらい青春だった
のではと思うが、ボーリング全盛だったのに一度もしないまま一生を終えようとしているのだから、
そういう心配は無用かもしれない。
何回かはコンサートに行ったこともあるが、クラシックにはもう行かない。最初は生の音に感動するが
長い時間じっと聴いていられない。(チェロやパイプオルガンなら1時間ぐらい大丈夫かも)
でも音楽は嫌いではないのだ。音楽心はあると思っている。
子どもの頃中尾ミエの「可愛いベイビー」を聞いた時は「こりゃ絶対うれる」(?)と思ったし、シューベルトの
「魔王」を手回しの蓄音機で聞いた時もその不穏な歌声が耳から離れなかった。ミュージカルも好きで
「ウエスト・サイド・ストーリー」や「マイ・フェア・レディー」は映画のあとサウンドトラックのLPレコードを
お小遣いで買った。
大人になってからはどれかを特別好きになる機会は減った気がするが、「イエスタデイ」や「さくら(森山
直太郎)」はしみじみ名曲だなと思うし、「バクダッド・カフェ」のテーマ曲「コーリング」には胸がしめつけ
られそうになる。
それから昔NHKで井上靖の「崖」がドラマ化され、いしだあゆみが歌っていたその主題歌をもう一度
聴きたいと思っている。以前調べたらカセットにもCDにも入ってなかったが、2002年に6枚組CDが
発売されそこに入っていることが今回わかった。でもセットで8670円・・・。
こんな風に音痴でも音楽に心を揺さぶられカサカサではない人生を送ってきたつもりだが、こだわりなく
人と大きな声で歌えていたらやはり何かが少しは違っていただろうとは思う。
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120 (2019年9月30日)
「 つゆくさの園 」
今我が家の庭につゆくさが咲き乱れている。片隅にではなくレンガで囲った花壇いっぱいに。
先日の台風にやられたけれど、青い可憐な花をまだ付けている。別名蛍草とも言うらしい。
いつか友人が「何の花が好き?」と尋ねて来たのでしばらく考えて「コスモス」と答えたらがっかり
した顔をしていた。長崎バラの会の会員でもある彼女にはコスモスなど花ではないのかもしれない。
また彼女は私の家の荒れ果てた庭を見て呆然とし「小川さんは美しいものが好きなはずなのに」と
呟いていた。
確かにその友人とは美術の話文学の話で近いものを感じていたけれど、日常感覚では遠い
ところが多かった。その遠さ故か見捨てられもう連絡も取り合っていない。
私は色鮮やかな花よりも緑の(冬には裸の)木のほうが好きで、そんな私が強いて好きと言えるのは
コスモスとかドクダミとかつゆくさとか・・ほとんど雑草と言っていい花ばかりだ。
今住んでいるこの家には小さな庭がついている。周囲にはイチイガシやカイズカイブキや山茶花
さるすべりなどが最初から植わっていた。金木星やトネリコはあとから植えた。それらに囲まれた中の
スペースをどう使ったらいいだろう?全部木を植えつくしてもいいがそうしたら家の中が暗くなる。
芝生は何だか味気ない気がする。普通なら季節の花を次々咲かせて愛でるところだろう。
チューリップなど一応植えたことはあるし、実用的な野菜も何度か植えたけれど、そもそも私は生き物を
育てるのは苦手なのだ。すぐに面倒臭くなる。コスモスだけはここ何年か種を播き育ち咲くけれど、
土の質も良くないのか思い通りに一面波打ってはくれない。
それなのに今つゆくさが咲き誇っているのだ。昔路地裏に群れて咲いているのをうっとり眺めたことが
ある。近くのバイパス沿いの道端で見かけて掘って持ち帰ろうかと思ったこともある。それが今自然に
どこかから私の庭に紛れ込んできたのに気づき、草取りで抜かないよう残していたらその花園に
なってくれた。嬉しい。ありがとう。
もうすぐこの季節は終わるけれど、来年もどうか生えてきて青い小さな花を咲かせてくれますように。
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