Search this site
Embedded Files
小川文庫
  • ホーム
    • はじめにとあらまし
    • 在庫紹介
      • 個別在庫リスト
    • 短章
      • 短章(106-110)
      • 短章(111-115)
      • 短章(116-120)
      • 短章(121-125)
      • 短章(126-130)
      • 短章(131-135)
      • 短章(81-98)
      • 短章(99-105)
      • 短章(136-140)
      • 短章(141ー145)
      • 短章(146-150)
  • 新短章
    • 新短章(00-05)
    • 新短章(06-10)
    • 新短章(11-15)
    • 新短章(16-20)
    • 新短章(26ー30)
  • 新短章(21-25)
小川文庫

新短章(00-05)

ホーム   現在の新短章  新短章(06-10) 新短章(11-15) 新短章(16-20) 

新短章(21-25) 新短章(26ー30)

00 (2023年4月1日)


 

  ― この1年 ―


「短章」と題して綴ってきたコーナーを去年この時期に終わりにした。その直前まで考えてはいなかったのに、                        

最後の冊子にまとめる作業をしていて150回になったこともあり「あ、やめよ」と決めてしまった。

「やめないで」という声を何人かに頂いた。それは「もっと読みたい」という気持ちだけでなく「ボケないよう自分の

ために書き続けるほうがいいのでは?」というアドバイスでもあった。


この1年、前半は家庭の事情で忙しかったこともあり何も考えず過ごしたが、それが終わると,、音訳と美術館の

活動のほかに、もう少し何か生きていくとっかかり(?)を持っておきたい気がしてきた。

年齢は74歳、グランマモーゼスが油絵を始めた1年前である。 それは彼女のゼロからの新たな挑戦と私は

これまで思っていて、私のその書き方で読んでくださった方々にも同じ印象を与えてしまっていたのだが、伝記に

よるとそれまでしていた毛糸刺繡をするのがリウマチで難しくなり、より楽な作業として油絵を始めたことを知った。                  

少し意味合いが違っていたことをお詫びする。 しかし縮小した作業としてあれだけの油絵を残したのだから

驚きは変わらない。有能な農婦としてのありあまる才能が潰えた最後にまだ豊穣な絵の世界が広がっていたのだ。


去年の私に、自分のしたかったことは本当は何だったのかあらためて考えたいという気持ちがあったが、それに

ついては何もできていない。何の反省もなく進化もなく、ホームページの編集方法も未だよくわからないまま、

懲りずに再び始めることとする。 どのくらいの間隔になるのかいつまで続けられるものか全くわからない。


___________________________________________________

01 (2023年4月1日)                           

― カレンダーの使い回し ―                         


以前は年末になると名画や風景や動物などいろいろなデザインの新しいカレンダーがたくさん集まってきた。

全部の部屋に割り当てても余るほどだったのに、無駄をなくそうという時代の流れもあり、年齢と共に社会との

つながりが減ってきたこともあり、特別なことがない限りタダでもらえるのは朝日新聞の1枚物だけになった。

(これはトイレ用)

良いことだと思う。余ったら捨てることになったし、あちこちで溢れていたカレンダーは森林資源の無駄使い

だった。 必要なら自分の好みのものを調達すればよい。  


ここ何年か自分で買ってくるのはまず百均で3種、大判42×60cmの数字だけのものーリビング用でここには

絵の複製も飾っているのでカレンダーはすっきりと数字だけが良い。 次に文庫用の12×15㎝ー裏が白地で

そこに訪問者をメモする。それからリビングの卓上に20×15㎝の予定を書き込めるもの。               

他に自分の部屋用に「日経おとなのOFF」12月別冊付録。この号は次年度の展覧会スケジュールの特集で、

次の展覧会から6点を選んだ名画カレンダーが付録にあり毎年それを楽しみにしている。小型だが自分の部屋にも

好きな絵の複製を飾っているので構わない。

これで一応間に合うのだが、洗面所のあまり綺麗でない壁を隠すのに毎年何かしら八つ切り程度のカレンダーが

掛かっていたのに今年はそれがない。                 


そこで思いついたのが去年のカレンダーをもう一度使うことだった。

今年の1月は去年の5月と曜日が同じなのだ。祭日は異なるので5月の3・4・5日の赤字を黒にし黒字の1・9日を

赤で囲む。1月の出来上がり。従って2月には去年の6月が充てられるが29・30日は隠す必要がある。しかし3月は

同じ6月に31日を追加しないといけない。こうやってすべての月が去年のどこかの月を少し加工することによって

賄える。素晴らしい! 

(何十年か間隔をあければぴったり同じ年もあるだろうと思って調べたら、何と近いところにあり今年は2017年、

次は2034年と一致するらしい。)         


ということで今年洗面所に掛かっているのは去年と同じ中村哲さんのカレンダーだ。

支援団体のペシャワール会が追悼に作った1部1500円のものを2部買って、1部は私の持っている中村さんの本を

私以上に熱心に読んでくれた友人にプレゼントした。

アフガニスタンの人々や風景や活動の写真、そして勿論笑顔の中村さんの月も。それぞれに中村さんの言葉が英語と

日本語で記されている。 毎月終わったら破り取るのではなく上にめくっていくタイプなので丸ごと残っているのだ。

去年は家に居ないことが多くあまりよく眺めていなかった。でも今年はじっくり歯磨きのお供に眺めて文を暗記することに

しよう。そして生きていれば、22年と一致する2033年もまた使うことにしよう。

  The meaning of life is hidden to us.                                        

  誰であっても無意味な生命や人生は決してありません。私たちにわからないだけです。   中村哲                    

                                              2022年6月(2023年2/3月)

      

___________________________________________________

02 (2023年4月25日)                       

    ― 玉川ロス解消 ―   


昨年度の私にとって大きな出来事の一つに玉川事件があった。


テレビ朝日社員で「羽鳥慎一モーニングショウ」のコメンテーター玉川徹(呼び捨てにする、


テレビで観る人にさん付けするのは何故か苦手)がレギュラー席から消えた。   


事の発端は昨年9月26・27日と彼が夏休みを取った翌日の出演で前日の安倍元首相の国葬が


取り上げられ、菅前首相の弔辞に「当然これ電通が入ってますからね」と発言したのだった。


何故そのような間違いをしたのか疑問だが(葬儀は桜を見る会のムラヤマが担当)、まず菅氏の弔辞に


ついて私の感想を述べておくと、葬儀委員長岸田首相のそれに比べるとはるかに心がこもっていたと思う。


菅氏にとって安倍氏はとても大切な存在だったのだとわかる。人が人を想う気持ちは尊い。それは


感動的でもある。でも二人の結びつきの始まりが北朝鮮にもっと厳しい態度で臨むべきという私があまり感心


しない考えだったこと、2度目の総裁選出馬の説得時間が3時間というのが長いのか短いのか微妙なことなどで


一人しらけていた。がこの強い絆で官房長官時代安倍氏に何があってもすべて「差し控えさせていただく」と


国民に背を向け続けることが出来たのだと納得した。



でともかく間違った発言をした玉川は当然翌29日謝罪しそれで収まるかと思われたが、そうではなかった。


日頃から痛いところを突かれ恨み骨髄に達していたと思われる政権与党とそのシンパの面々がここぞとばかり、


けしからん、辞めてしまえ、国会に呼べ、コンプライアンス委員会にかけろなど、大騒ぎになったのだった。


10月5日から10日間の謹慎処分となり明けた19日の番組冒頭で改めて謝罪し「取材の原点に戻る」と発表、


レギュラーではなくなり、取材内容を報告する時だけの平均週1回ぐらいの出演になってしまった。


彼がいなくてこういう情報番組が面白いはずがない。説明はわかりやすく大事なポイントをしっかり押さえて


くれるし、羽鳥アナとの掛け合いも楽しい。いい加減な発言で誤魔化そうとするコメンテーターには


はっきり釘を刺してくれる。(例えば森友問題で「早くあの土地を売りたかったからでしょう」と安く売った


財務省をかばうような誤魔化し発言をした田崎史郎に「その前に買おうとしていたところがあった」ときちんと


言ってくれた。) 出演を切望する声が有名人からも一般人からも相次いだ。


その状況がいつまで続くのかその後どうなるのか様々な憶測をよんでいたが、今月3日から以前のような

レギュラーに復帰した。半年間の気がかりが解消しホッとしている。

再び言うべきことを言い視聴者の気持ちを代弁し物事を考えるヒントを示してほしい。

そういえば昨年同じ頃テレビ局が舞台のドラマ「エルピス」が放映されとても興味深く観た。

報道のあり方は作る側も受ける側も常に問い続けていなければいけないのだろう。  


___________________________________________________

03  (2023年5月20日)                           


      ― 本「22世紀の民主主義」(著者成田悠輔2022年SB新書)―    


先月選挙が2回あった。4月9日と23日統一地方選と5選挙区での衆参補欠選挙。 

その応援演説中和歌山市の漁港で岸田首相の近くに爆発物が投げ込まれた。不幸中の幸いで

大事には至らなかったが、昨年7月8日には奈良市で演説中の安倍元首相が手製銃で亡くなった

のだった。痛ましいことである。汝殺すなかれだ。人は殺してはいけないし殺されてもいけない。

路上でも。戦場でも。         

こんな時民主主義の危機という言葉が飛び交う。和歌山の犯人について詳細はまだ明らかではないが、

選挙ルールに不満があったとも伝えられている。短絡的であることに驚くが、選挙でいうならばもっと

気が重くなる現実を感じている。

安倍元首相殺人犯山上哲也は42歳の無職、政治信条とは関係なく、旧統一教会に家庭を破壊され

その恨みから教団幹部の殺害を計画するが不可能と判断し、教団と関係が深かった政治家の殺害に

変更したという。久々に聞いた「統一教会」(現在の世界平和統一家庭連合)という名前、元々胡散臭いところ

だったが知れば知るほどこの団体は犯罪集団にしか見えなくなってくる。 

犯人の母親は夫の自殺・長男の難病という不幸もあり統一教会にのめり込み莫大な財産をすべて教団に

つぎ込み家庭を顧みることもなく、子ども達は食べるのにも苦労する育ち方をしたようだ。犯人は優秀で

あったのに大学進学も断念し職を転々とし病気を苦にした兄の自殺の後犯行を決意したようである。

勿論犯行は許されないものであるが、気の毒な生い立ちと言わざるを得ない。そして殺害対象を直接の

統一教会でなく政治家に変えたことにより、日本の政治の問題点をさらけ出すことにもなった。

明らかになる自民党と旧統一教会との広く深いつながりを見ると、民主主義とは何だろうと考えこんでしまう。

現在の選挙制度には、死票が多く出る小選挙区制、獲得票数は有権者の半数にも達していないのに

議席の3分の2を取ってしまえる仕組みなど、様々な問題を感じているが、日本人のようなまあまあで全てを

やり過ごす国民性ならこの結果も仕方がないのかもという気がしていた。しかしそれは投票だけは不正無く

行われていると信じていたからだ。

   それなのに不正はないとしても自民党が勝ち続けたのは旧統一教会という犯罪集団と結託した票集めで

   あったということになると最後の信頼も揺らいでしまう。関係が明らかになった議員たち党幹部たちも何ら

     罰せられることもなくそのままだ。祖父の代から密接なつながりがあった故安倍元首相に至っては故人で

     あるとの理由で調査すらされていない。

     また統一教会は反日である。私は自虐史観の持ち主かもしれないが、統一教会の日本人からお金を搾り取り

     教団に貢がせるというやり方には嫌悪感しかない。支援を受けていた政治家たちは良しとしているのだろうか?

     自分が選挙に勝ちさえすれば他のことはどうでもいいのだろうか?


     そんな訳でこの本「22世紀の民主主義」に救いを求め読んでみた。やたらアルゴリズムという言葉が出てくる

     のにはアレルギーを起こしそうになる。最近よく聞く使う人はよく使う言葉だけれど、アルゴリズム-演算―

     作業手順。勝手な思惑に歪められることなく問題が科学的に処理されるということだろうか。そのアルゴリズムで

     民意を広範に掬い取り、そのデータにより政策決定が自動的に行われ、最終的には政治家不要論に向かうのが

     この本の主旨のようだ。

     でもこの過程で大きな働きをする人工知能AIが、日々データ処理一つでも不備が次々に報告されていることや

     ChatGPTの正体も不明な現状を見ると、信頼していいものかどうかまだ疑わしいし、全体的によくわからないところの

     ほうが多かった。けれど現在の政治に異議を唱えているところは著者と共有できるし、ほしいままに軍備増強や

     原発延長が決定されていることに絶望しかけている今、こんなのもありかなと思ってしまう。

   

     おりしも昨日広島サミットが開幕。そして今日はゼレンスキー大統領も来日。

  核軍縮の前に通常兵器で現在行われている戦争を早く終わらせてほしい。 


_________________________________________________

04 (2023年6月20日)                           

     ― 洗濯機の洗濯 ―                             


梅雨の晴れ間、龍馬の「ニッポンをせんたく」ではないが洗濯機の洗濯をした。

洗濯機用の洗剤だけを入れて通常の洗濯コースで回すと洗濯槽が洗浄される。洗濯機の内側には

カビや雑菌が繁殖しているので定期的にする方が良いらしい。普通の人はどのくらいの頻度で

行っているのだろうか?ズボラな私は少々の水垢は気にならないし数えるほどしかしたことがない。

そしてもうしないはずだった。2001年2月に購入したこの日立の全自動洗濯機。23年目に突入し

近々壊れるだろうと。

でもまだ使えるし、振り返れば一昨年コロナで家にこもりあちこち整理片づけをした際、40年近く前の

おもちゃやぬいぐるみをネットに入れ放り込みソフト洗剤ドライコースで回したら、さっぱり爽やかに

蘇らせてくれた。またムートンの敷物を以前クリーニングに出して費用は高い(1枚数千円だった。

今は1万円以上らしい)のにあまり綺麗になった気がしなかったため以後サッと拭くぐらいでしまいこんで

いたけれど、ネット検索して家でも皮製品が洗える「革るん」という洗剤7678円を新聞でも取り上げてある

みたいだしと信用して購入し試してみたら大成功だった。ほとんど傷まず綺麗になった。3枚洗ったがまだ

半分残っている。  

最近は型崩れしては困る服をあまり着なくなったし、クリーニングに出すことなく何でもほぼこの洗濯機で

すませている。洗濯が終わった時に鳴るはずのブザーは割と早くに故障し鳴らなくなっているがそれは

別に困らない。また中で洗濯物が絡まって脱水が止まってしまうことは増えた気がするが、それも入れ方の

工夫と回り始めにお腹を押し当てていればかなり防ぐことができるのに気付き解決したし、本当に申し分ない

可愛い奴なのだ。

汚れ放題にしていては申し訳ないと洗濯槽クリーニングを久しぶりに実施した。あわせて気持ち悪いぐらい汚かった

糸くずフィルターふたつとその取り付け口付近、蓋の裏や後ろなども頑張って掃除した。すっかり生まれ変わったようで

ある。もうすぐ壊れるだろうなどというむごい料簡は捨てて大切に共に余生を全うしたい。

ただこういうひとつのものを綺麗にするという行為には副作用がある。したところはいいけれど周囲のしていないところが

それまで以上に薄汚く見えてくるのだ。全部しろという話だろうけれど、私が拭いたり磨いたり洗ったりに二の足を踏んで

しまう所以である。


_________________________________________________

05(2023年7月20日)                  

        

        ― 棺 の中―      


広島県福山市、駅前からバスに乗り30分余りで臨済宗建仁寺派神勝寺に着く。

里山の奥、起伏のある広い敷地の左手に目的施設「洸庭(こうてい)」がある。屋根が見えている。

近づいてみると長方形の厚ぼったい焼菓子(フィナンシェ)のようなそれは屋根ではなく

洸庭そのものだった。石を敷き詰めた地面から伸びる10数本の柱に支えられて浮かんでいる。

長さは46メートル。入り口は短いほうの辺の真ん中に小さくあり他には出入り口も窓もない。  

洸庭。字の意味からすれば水が湧きたち光る庭なのだろうか?名和晃平設計の「禅とアートを

禅の過去と未来とを架橋するインスタレーション作品」を知ったのは美術番組で紹介されているのを

垣間見た時。外観が一瞬移りレポーターが「なんだこれは」と言っていた情報だけで、いつか行こうと

決めていた。福山ぐらいすぐに行けると思っていたが何年か経ってやっと実現した。                                

1回の入場は20分ほど。3人まで座れるベンチが9つ設置されているようだ。小さなペンライトを渡され、

足元を照らしながら、外光が入らないよう二重になった扉から入っていく。ベンチといっても電停などに

よくある横木を渡しただけのそれに凭れて前方に目を凝らす。よく見えないが水も張られているようだ。

そして始まったその体験。閉ざされた空間の中で揺らめくものに身を任せる。光と音が様々に形を変え

ひたひたと押し寄せてくる。三途の川を渡る時はこのような気分なのだろうか。特別な思い入れなく無心に

味わえば感じるところの多い作品だったのかもしれないと思う。                                    


しかし何年か前からの私の期待、棺の中の世界を体感できるのではないだろうかという限られた期待に

応えるものではなかった。洸庭が地に垂直に前方を臨むのでなく水平になって仰ぎ見るものならもう少し

違ったのかもしれないが。                                    

そんな世界を思い描くようになったのは池澤夏樹の「キトラボックス」を読んでからだ。現代が舞台で

考古学者達が主人公の冒険物語なのだが、まだ確定していないキトラ古墳の被葬者を著者は阿倍御主人

(あべのみうし 635?―703)と見立て、御主人が石室の中で生前を回想する場面がある。

この箇所が私はなぜかとても好きなのだ。横たわり骨だけとなった御主人の空っぽの眼窩には天空の星々が

映っている。星は生と死をつなぐもの。石室の壁に棺の蓋にこれまで天文図は刻まれてきた、キトラ古墳にも

吉野ヶ里の石棺墓にも。棺の中から星を見ながら私は何を思うのだろう。            

焦らなくても近いうちに本物を経験できるのかもしれないが、火葬の現在、棺の中に居られる時間は

僅かだ。御主人と同じ境地には至れないだろう。生きているうちに似たものを求めるなら、心を研ぎ澄まし

夜の星を見つめるしかないのかもしれない。


Google Sites
Report abuse
Page details
Page updated
Google Sites
Report abuse