99 (2018年1月20日)
*ブランク後・年明け・新URLという記念すべき新しい回が
以下のような貧乏臭い内容であることを恥ずかしく思います。
「 あるものを使う・無しですませる 」
これはもう私の生活哲学というか身に付いた習性になってしまっている。
母のやり方を思い出すと遺伝もあるかもしれない。
物が増えたり新しく買い足すのがあまり好きではなくて、何かが必要になっても
今あるものでどうにかならないかと考えてしまう。あるものをトコトン使いたい。
トイレをウオッシュレットに変えたとき、それまでの便座カバーが合わなくなった。
一組は新しく買ったが、ほかはそれまでのカバーに手を加えて(半分から上を切って
別布を形に合わせて継ぎ足すなどして)使っている。
それぞれの季節に合わせて夏は寒色冬は暖色と変えるので何組も要るのだ。
便座も暖房機能はOFFにして便座シートを使っているのだが、使っているうちに
シートの接着力が弱くなる。でも捨てないで幅1センチほどの布テープを手作りし
落ちないようそれでとめていつまでも使っている。
(今書きながらやりすぎかなという気もするし、そもそもそれまでの水洗トイレを
壊れるまでは我慢して使わなければいけなかったのかなとも思うが。)
夏のいぐさのクッション、端が傷んで来たので中のスポンジは取り出し傷んだ部分を
切り取り布で縁取りし、いぐさだけのペラペラのシートにして、椅子の上に置いたり
背にあてて使っている。涼しくて気持ちいい。
万事がこのとおり。
食事も毎日買い物に行って食材を買い足したりせず、今ある材料で何とかならないかと
知恵を絞る。横着で出かけたくないからでもあるのだが。
こんな人間ばかりだとデフレが加速するだけだが、我が家の経済はかなり助かっている。
またいくらお金があったとしてもどんどん物を買い替えるような生活は、私の心の
バランスを崩してしまうだろう。
今はそれが薬にも及んでいる。私は常に皮膚科にかかっているが、少しずつ残っている
塗り薬も多い。それを使い切ってしまうことにした。明らかに変質しているものは
捨てているが使えそうなものは使っている。ちょっとこれはまずいだろうか?
でも効かなくはない。信じる者は救われる・・・?
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
100 (2018年2月20日)
「 かたづの! 」―読書13
去年のNHK大河ドラマ「女城主直虎」を、視聴率はあまり振るわなかった
ようだが私は毎回面白く観た。 そして以前読んだ中島京子の「かたづの!」
(2014年集英社)を思い出した。
ドラマとこの小説の共通点は城主が女であること、そして戦わないことを旨と
して生き抜くというところである。
「直虎」は井伊家を守るため幼くして出家するが、やがて城主となる。すべて
お家第一にと腐心した結果であるがその後、領地の平和と民の命を守るために
お家断絶という選択をもしてしまう。
「かたづの!」は舞台が東北。南部八戸当主直政の妻祢々が主人公で、夫と
嫡男を狡猾な叔父の南部宗家利直に謀殺され家を乗っ取られそうになるが、
自らが城主となり守る。が叔父の新たな謀略で八戸から辺境遠野への国替えを
命じられる。家臣らはそれに従うよりは戦って果てる道を選ぼうとするが、
祢々は皆を説得し雪の中遠野へと旅立つのである。
東北に伝わる伝説の片角(一角の羚羊の角)が祢々の心の支えとなる。また今では
遠野名物の河童が祢々らを助けて遠野に導く。そして荒れ果てていた遠野を豊かな
土地へと変えてゆくという史実とファンタジーが融合された世界が繰り広げられる。
しかし戦わずに忍従を選ぶという生き方を、今どれくらいの人が肯定するのだろうか?
誇りある人間にはできないことと思う人もいるのかもしれない。恥ずかしい生き方
ということになるのかもしれない。でも人間にとって最も大切なものは何なのだろう?
ただ生き抜くことではないのか?
一方で、祢々が家臣を説得できたのは叔父の圧倒的な武力に勝ち目はないと言い含める
からであるが、それはやはり軍事力を最強のものと認めることだろうか?
折しも世界では、オバマの核軍縮から真逆の転換を発表したアメリカ。またミサイル
発射を止めない北朝鮮。 核兵器を使わないことだけが平和への道とは勿論思わないが
(通常兵器で世界中が戦場となっている)、なぜいつまでも人間はこんなことを繰り
返しているのだろう?
そしてこれらにもう何も感じなくなった自分もいる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
101 (2018年3月20日)
「 優 先 座 席 」
もう10年以上前、私がシルバーシートに堂々と座るのはまだためらわれる
頃のこと。
非常勤講師をしていた私は、仕事を終えると校門の外のバス停に向かう。
マンモス校でバスを待つ学生たちがいつも大勢たむろしている。バスが来る。
学生たちはどっと押し寄せ、乗り込むや素早く席に座る。はじかれて後から
乗り込む私に残っているのはシルバーシートだけだ。
学生たちもさすがにそこまでは占領していない。
私はそこに座る。バスが出る。バス停に着くたび、どんな人が乗ってくるのか
私はハラハラする。だって私が座っているのはシルバーシートだから。
私は立ちっぱなしで仕事をしてきたのだ。疲れている。学生たちは特別な実習
とかでない限りゆっくり椅子に座って授業を受けていたのではないだろうか。
事によると午睡をむさぼっていたかもしれない。
でも彼らは今平然と席に座り、乗ってくる人のことなど全然気にしていない
(ように見える)。そわそわしながら乗ってくる人の年齢を推し量り葛藤して
いるのは、初老の私だけだ。
優先席を設けることの是非は最初からある。弱い人に席を譲るのは誰であれ
しなければいけないマナーだ。しかしこういう席が作られると他の席の人は
譲らなくていいような気になる。でも色々な人がいるしいろいろな状況があるし
こういう席があるほうが望ましいのだろう。
もう今は、バスの優先席については田舎に住んでいて満席になることはまずないし、
その席を陣取ってもおかしい年齢ではないし、また年の割には元気だから
立つという選択もできる。
この頃は痴漢よけの女性専用車両が問題になったりする。逆男性差別ではないかとか、
すべての女性が乗れるわけではないし根本的な痴漢解決策ではないから。
優先ということも、自分ひとりの中で決められる自分にとっての優先順位ならいいが、
社会のマナーとして通念として、何を優先し何をファーストとするのかは、
多くの人が共に生きなければならない社会の中で難しい問題だ。
自分だけ自国だけを優先しても解決への遠回りとなるだろう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
102 (2018年4月20日)
「 タルコフスキーに挑戦 」
やっちまったと言うべきだろうか? タルコフスキー・ファンに怒られる。
映画史に残る鬼才と言われるアンドレイ・タルコフスキー(1932-1986)。
彼が監督した「ノスタルジア」(1983)をBS3で放送していたので録画した。
映画はずっと好きだった。子どもの頃からのオードリー・ヘプバーン熱は
残しつつも、難解と言われる映画にも興味があった。そういう感性が自分にある
とは思えないが、背伸びしたかったし、強く惹かれた作品も実際ある。
「去年マリエンバートで」(アラン・ロブ・グリエ)とか・・・。
タルコフスキーの「惑星ソラリス」は途中で挫折している。「ノスタルジア」は
どうだろう、ついていけるのだろうか?
見始めた。よく言われる圧倒的映像美というのはわかる。白黒の画面が多いが、
ところどころ色彩を帯びている場面もあり、どちらも息を呑むほど美しい。
美の基準は人それぞれだが、私の好みには合う。登場人物たちの個性的な風貌も
好もしい。
しかししかし、やはり思ってしまう。なぜその顔を一つの風景を、こんなにじっくり
見せられねばならないのだろうかと。
「冗長とも退屈とも取られる時間感覚」という解説もある。誰しもわかっていること
らしい。
芸術最優先の彼の映画の作り方をタルコフスキー・ファンは支持しているけれど。
私も支持したい。でも耐えられない。映像はこんなにきれいなのにこの悠長な進み方は
待っていられない。私は今のテレビの映像のような目まぐるしい動きは嫌いだ。
じっくり見つめたいと思っている。でもこれはちょっとゆっくりすぎじゃないだろうか?
そしてあろうことか、最初から早送り1(△二つ)の速度で流してみたのだ。ごめんなさい。
その結果不自然だったシーンは跪いた姿勢から立ち上がる時だけ。ほかは歩き方とか
あまり美しくはないけれど速すぎておかしいことはなく、2時間6分のこの映画を
1時間22分で見終えてしまった。イタリア語のわかる人には違和感があるのかも
しれないが私はわからないし、イタリア語はもともと速くまくしたてるイメージがあって、
その意味でもあまり不自然さはなかった。
こうして本来のテンポでは最後まで辿りつけなかったかもしれないこの映画を見終えた。
映画の内容についてはまた改めて考えたい。今はこんな観方をしたことにただ興奮している。
タルコフスキー・ファンには言わないでおこう。そして実はキューブリックの
「2001年宇宙の旅」もこの方法で見たらどうなのだろうと思っている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
103 (2018年5月20日)
「 アトミック・ボックス -読書14 」
(池澤夏樹 2014年 毎日新聞社)
今治刑務所から囚人が脱走した事件では、刑務所というのが民間造船所内で
塀も鍵もない施設だったこと、逃走中潜伏していた向島には1000軒もの
空き家があったことなど、近辺の人たちは不安だったろうが、元々凶悪犯では
なさそうなこともあって、軽い好奇心のみでニュースを見ていた。
そして逃走23日目に逮捕されてからは、潜伏していた向島から対岸の本州には
泳いで渡ったと知り、ああそういう小説があったなとこの「アトミック・
ボックス」を思い出した。
ここで泳いで逃走するのはヒロイン宮本美汐27歳、同じ瀬戸内海の島から島へ
安全なルートを選び4キロばかりをウエットスーツに身を包み深夜決行する。
自分の身体だけを守ればよかった脱走犯とは違って、美汐は亡くなる直前の父から
託された秘密のものを守らねばならない。それは美汐もまだ中身が読めないでいる
データCDで、それをジップロックに入れアイロンで封をし、防水パックに入れ
その紐を首にかけ水面に浮かべて泳ぐのだ。
娘が知る父親は漁師でしかなかったが、過去にはある国家的プロジェクトに
関わっていたらしい。そういう場所に身を置きながら、無事に余生を送れた
というのは一寸話がうまくいきすぎではないかと思うもののともかく、スパイ小説
ジョン・ル・カレの愛読者でもある池澤夏樹が導く展開は説得力があり、
娘美汐の逃走劇はワクワクして楽しい。以前の「カデナ」(2009)もそうだったが、
そういう冒険の一助に自分もなれたらと思いながら読む。
また逃走が成就するのは、財力やテクノロジーの駆使ではなく、人と人とのつながり、
公権力よりも友を信頼する心であるというのが何とも温かく嬉しい。
しかしこの父親が関わった秘密プロジェクトとは、アトミックという表題に
あるように原子爆弾核兵器を作ることである。
今、現実の世界では、4月27日の南北首脳会談に続き、6月12日の米朝会談が
待ち受けているが、そこで大きなテーマは北朝鮮の非核化だ。すんなりとはいかない
だろうし、そうなるとしても依然世界の大国は核を持っているわけだし、その中には
小型化してでも使いたいという国もあるし、イスラエルやイランの扱いもどうなる
ことかわからない。
そして日本も核兵器は今持っていなくても、原発を手放さないのはこのためだろうと
思うとやりきれない気分だ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
104 (2018年6月20日)
「 失 敗 」
私もよく失敗をするけれども、どこかで気づいて未然に防ぐ(例えば忘れ物を
していても家を出てバスに乗る前に気がついて取りに戻る)とか、起こって
しまってもまだ埋め合わせできる(例えば仕事していた頃授業で黒板に綴りを
間違えて書いても、帰り道突然それが頭に浮かび次回謝って訂正する・・・
良くないことだが命にかかわるものではなかったし)とか、最終的にどうにも
ならない大事には至っていないつもりだった。むしろそうやって事前に気づいて
修正する才能が自分にはあるのではないかとすら自惚れていた。
しかしこの頃未然に防げない事態が増えてきた。
ホテルの予約日を間違えた。単純に目的地Aとそこへの往復だけではなく、
その間にさらにBまで足を延ばしてそこで1泊というスケジュールを立てた時、
セットで購入したA往復の帰りの日を間違えないよう気を配りすぎて別口のBの
宿泊日まで1日遅く予約してしまった。それまでの私ならホテルのフロントで
間違いを宣告される以前に気づいたろうに。
また飛行機を乗り継ぎ東北の小さな空港に向かう時、羽田で5時間ほど待ち合わせが
あった。十分過ぎる時間があると神田まで出かけ、戻ってくるのが検査場通過に
1・2分間に合わず、乗せてもらえなかった。飛行機は遅れても待ってくれる
イメージがあったが、それはカウンターなどでチェックインを済ませていた人らしい。
検査場で初めてバーコードをかざすのは絶対に時間内でないといけないのだった。
こういうミスが起こるようになってしまった。年のせいだろうか?
年寄りなのにあまりその自覚がない私は、ただバカだったからだと反省する。
同じ過ちを犯さないようにしよう。
でも全く同じではないがよく似た過ちはしてしまうのだ。特に私が料理する場合。
流れている時間の中で状況や条件は少しずつ違う。少し違う季節や材料や人数、
よく似ているけれど少しずれた状況の中で少し違う失敗した料理を私は何度も
作ってしまう。
歴史の過ちはどうなのだろう?「過ちは繰返しませぬから」と誓っても、歴史の
歯車の中で人は同じような過ちを犯してしまうのではないだろうか?
バカな自分だけのことを大げさに敷衍しすぎかもしれない。ともかく、日程は
何度も確認し所要時間については十分すぎる余裕をみることにしよう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
105 (2018年7月20日)
「 ソーラー発電その後 」
我が家では,3年前から2階のベランダに100Wのソーラーパネル1枚(とチャージ
コントローラーとバッテリーとインバータ)を置いて発電していたが(短章69
「100Wの太陽光発電」)、このところ中断している。
経緯としては、パネル以外は防水でないため雨天時と夜はベランダから屋内へと
毎日出し入れしていたが、面倒になってずっとベランダに出しっぱなしにする
ようになり、そのため雨避けにパネル以外にはビニールシートをかぶせていたら、
昨夏シートの中でインバータが熱くなりすぎて壊れてしまった。かなり高いのだが
(5000円から7000円)、某クレジットカード入会特典を利用して安く購入し
再開していた。
がまた台風でもない或る夜風雨が激しくて、朝起きたらベランダの端まで一式が
飛ばされインバータが水浸し、再び破損してしまった。
台風とわかっていれば屋内に入れたのだが、突然こういうことになる。
また接続し直すたびにコードが短くなり出し入れには持ちにくくて重い全体を、
風雨に耐えるよう持続的に設置するにはどのような方法があるだろうか。
因みに電気代の節約というメリットはパネル1枚ではわずかなものと思われる。
どうしよう?やはりきちんと専門の業者に大々的に屋根に設置してもらおうか?
それも考えないでもない。でもよく出入りする住宅業者の人に温水器とセットなら
設置すると言ったら、面倒な奴と思われたのか以後音沙汰がなくなった。
温水器は昔実家にもあり好きだったので、中古のボロ家を買った時すぐに設置したが
19号台風で屋根もろとも飛ばされて壊れてしまった。以後使っていない。
重すぎて家に負担がかかるらしく、住宅業者がうんと言わないのだ。建て替えた
現在の家は軽量鉄骨で強いはずなのに。
梅雨も明けて猛暑の晴天続き、このお日さまのエネルギーをなんとかしたいと
心身ともにジリジリしている。
しかしこんなことを言っていられるのも、今この地域に何の災害も降りかかって
いないからだ。
私の実家のある岡山や家族が住む広島では悲惨なことになっている。
*家の電気は、自由化後すぐナンワエナジー(短章77購入先決定!)と
契約していたが、2年経ってこの春からはグリーンコープにしている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――