06(2023年8月20日)
― 家庭菜園―
とても家庭菜園といえるようなものではなく猫の額ほどに狭い。近所の人には「お宅の庭は広い」(のに何も
しないのねえというニュアンスで)と言われるのだが、そんな狭いのか広いのかともかく何も作っていなかった
庭に今異変が起きている。
これまでの長い生涯に2・3回野菜を育てたことはあるが、土作りも何もしないままだったので、少しは収穫
できたがほんの一瞬で終わってしまっていた。 暇になったら野菜作りをするのもいいなと思っていたが、
その暇が私にはなかなか訪れない。大体何もしていなくてもそんなに暇とは思わない性格。3日間何の予定も
入っていなくて読みかけの本が1冊もない状態で初めて少しは暇かなと思うぐらいなのだが、昔に比べると
暇になっていることは間違いない。
去年家庭の事情での忙しさが終了した9月、やっと重いお尻をあげた。 野菜作りを教えてくれそうな人は
何人かいるのだが、そうすると教えられたとおりにしないといけない気がして、その自信の無い私は尋ねるのが
怖い。農業高校監修の「はじめての野菜づくり」という本を買ってきた。シャベルで土を起こし(大きな鍬は
持っていない。狭い庭であんな物振り上げても手元が狂い窓ガラスを割るのがオチだ)、小さな鍬と鋤で草や
小石を除いた。ホームセンターの人に石灰や肥料を選んでもらい、また裏のコンポストの自家製堆肥も
混ぜ込んだ。 そしてこの4月、庭全体の3分の1ほどの土地にきゅうり・トマト・ピーマン各2の計6本の苗を
植え付けたのである。
やってみて私は生き物を育てるのは苦手だとつくづく思う。植えて最初は根付いたかどうか毎日気になり息が
苦しかった。それは大丈夫らしいとわかっても次はなかなか大きくならないのが心配でたまらない。それなのに
ちょっと他の用事で忙しくなると庭を見ることなく放りっぱなしでハッと気付いたら、摘まねばならないわき芽が
伸び放題になっていた。 そして問題は支柱である。最初は遅々とした成長ぶりに支柱など必要ないのでは
という感じだったのにいきなり大きくなって元々あった数本では間に合わなくなり慌てて買い足したがゆきあたり
ばったりのツギハギで支柱の役目を全然果たしていない。 風が吹いていなくても常に傾いて必死に持ちこたえて
いる風情なのである。そういった余裕のない育て方であるのに、苗たちは健気に何とか大きくなり花を咲かせ
実をつけてくれた。 前みたいに一瞬で終わることなく、この夏のわが家の需要に買わなくてもほぼ間に合って、
きゅうり・ピーマンは隣近所にも少しずつ配ることができた。味も良い。只管感謝である。
きゅうりはぬか漬けにもしている。以前ぬか漬けを試みた時はぬか臭さがなくならず途中でやめたが、今回は
年の功なのかそれらしい味がしている。ぬかは肌に良いというイメージがあったが、荒れた私の手で直接かき
混ぜようとすると塩分もあるせいか拷問にほかならず、竹べらでかき混ぜている。
また野菜とは関係ないが甘酒も温度計と米こうじを買ってきて残りご飯と古い魔法瓶で作った。
「急にどうした?」と周りに言われる。ホントに急にどうかしてしまったのだ。
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07(2023年9月20日)
― 杞 憂 ―
8日モロッコの大地震、10日リビアの大洪水。10年に一度100年に一度の大災害が日常化している。
被害の拡がり方には人災の部分もあるが、地球がおかしくなっているのは確かだ。
国連のグテーレス事務総長は「地球沸騰化の時代が到来した」と言っている。これらはもう皆が共有
している見解だろう。でもその見解の次はどうなっているのだろう。
岸田首相の内閣改造のスピーチ、環境については「脱炭素」という言葉が一度使われただけ、
環境大臣の人事も「地球温暖化」に対してとしつつあまり環境に関心や知識を持っている人のようには
見えない。そのうえ世界では人命を損ない最大の環境破壊である戦争までしており、しかも「早くやめろ」
とは誰も言わない。武器供与の話ばかり。戦争していない地域でも闘争心を煽り軍備増強を進めている。
世界終末時計はあと90秒。2030年問題とか2050年問題とか将来の話を聞くと、そこまで地球が
もつのだろうかと思ってしまう。いっそのこと「もう諦めて終末まで面白おかしく暮らしましょうよ」と言って
もらえれば、そのほうがまだすっきりするのかもしれない。本当は皆そう思っているのだろうか。それが
大人の対応というものなのだろうか。
でも子ら孫らには生き延びてほしい。個人のレベルでどうにかなることではないから、世界中の偉い
人達に革命的な方向転換をしてほしいのだけれど、その気配はない。どうしたらいいのだろう。
SDGsを信じて、とりあえず気休めの方法を実行するしかないのか。
斎藤幸平がしているという“牛肉を食べない”は出来るような気がする。牛は育てて食卓に上るまでに
最も地球に負荷がかかる家畜らしいのだ。私は丑年で(?)ハンバーグは牛ミンチ100%で作っていたが、
食べ物への関心は薄いほうだ。ここ1か月牛肉は買っていない。冷凍庫にある残り1・2回分を生涯かけて
食べることにしよう。
グレタ・トウンベリのように“飛行機はCО2排出量が多いから乗らない”という選択は? 私はそんなに
飛行機に乗るほうではなくコロナもあり3年前の東京行き以来乗っていない。でも岡山の実家に帰る時
神戸まで飛行機を使っていた。また西九州新幹線という日本一短い新幹線ができてからは博多すら
乗り換えなければ行けなくなってしまった。広島には近くの高速バス停から小倉まで行きそこから新幹線に
乗っている。飛行機には乗りたいな・・・。
天が墜ちてくることはないだろう。しかし地は既にあちこち崩れている。そしてもっと恐ろしいことが
起こりそうな気がする。いつか、ではなく明日にも突然。
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08(2023年10月20日)
― 本「エネルギーをめぐる旅」(古館恒介 2021 英治出版) ―
この本を知ったのはBS朝日の「長嶋一茂のミライアカデミア」という番組だった。テレビ朝日の
「モーニングショー」で金曜はいつも「一茂、早く黙ってくれ」としか思っていないので観るつもりは
なかったが、斎藤幸平が出ているのに気づいて途中から終わりまで観た。(斎藤幸平が「牛肉を
食べない」と言うのを聞いたのはこの時だ。)
ゲストとして出演している古館恒介氏のエネルギーの話を非常に興味深く聴いた。著書にこの本が
ある。長崎・諫早合わせて図書館に1冊しかない誰も借りていないこの本を借り、読み切れず購入した。
こういう科学的な本の真価は私にはよくわからなくて、読了した(電気や運動や化学の法則などの
ところは少々飛ばし読み)だけで感激してしまうのだが、良い本のように思われるので他の人にも
読んでほしい。
人類の歴史上エネルギー革命が5回あったとし、第一は火の獲得(約4億年前)、第二は農耕の開始
(約1万年前)、第三は蒸気機関の発明(18世紀後半)、第四は電気の利用→エネルギーの移送・変換
(19世紀後半)、第五は人口肥料の開発ハーバー・ボッシュ法→人口の爆発的増加(20世紀前半)という
捉え方が、ユヴァル・ノア・ハラリよりもわかりやすく(エネルギーに論点をしぼってあるからだが)サピエンス
全史を指し示されたような気持になった。第三までは長い時間の経過とともに起こっているのに第三の
産業革命以降はあっという間に驚異的な変化を遂げていて恐ろしいほどである。現在はもう行きつくところ
まで来てしまったのではないかと先が無い気持ちになるが、この著者は今直面している気候変動問題や
資源枯渇問題にも悲観的になってはいない。自らの意志の力で未来は変えていけると言う。
原子力についても、核融合反応による利用に期待を寄せている。現在の原子力発電所は核分裂を利用した
やり方で高レベル放射性廃棄物の発生を防ぐことはできないが、核融合による利用からは廃棄物の問題は
発生せず、原料も海水中に豊富に含まれる重水素で、人類に制御できる持続的なものだそうだ。
(こういう見方はこれまでにもどこかで誰かに紹介されていたかもしれないが私は専門的そうな記事はどうせ
わからないと敬遠していて知らなかった。) しかし核融合炉の設計は難しく今世紀中にできるかどうか
わからないらしい。核融合炉の実用化まで様々な方法で地球を持続させなければならない。 そのためには
永遠の経済成長という呪縛からは自由になり、自然界から「ほどほど」のテンポをまなぶことだと言う。
これは「脱成長」にも通じるだろう。
光が少し見えてきた気がする。未来を信じたい。でもそれまでにこの地球が戦争で焼け野原になっていては、
ナウシカの腐海になってしまっていてはどうしようもない。
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09(2023年11月20日)
― 作家・山之口洋 ―
メンバー2人は既に亡くなっているのに4人それぞれの音源でビートルズの新曲が発表されたことが
話題になった。高度な技術で有り得ないことが可能になるといえば山之口洋の「オルガニスト」(1998)と
いう小説を思い出す。人間が音楽になってしまうというファンタジーだったけれど、もうそれが有り得る
時代に近づいているのだろうか?
ニュルンベルク音楽大学のオルガン科学生ヨーゼフ・エルンストは、師からも後継者と目される天才で
あったのに、奏者としては再起不能な大怪我をする。忽然と姿を消し忘れ去られた頃ハンス・ライニヒと
いうオルガニストがあらわれるが、彼の身辺は謎に満ちている・・・。
山之口洋という作家は初めてだったが、バッハを崇め教会音楽やパイプオルガンに造詣深くまた医学
にも詳しいこの作家に興味を持った。本業はコンピューター言語の研究者で作家としては寡作のようだ。
「0番目の男」(2000)はクローン人間の親となった男のSF小品、「われはフランソワ」(2001)は詩人
フランソワ・ヴィヨンの伝記という大作ではあったが、どちらも「オルガニスト」のような芸術の香りは
あまりせず、次の「瑠璃の翼」(2004)はノモンハン事件を中心とした戦記物のようなので、作家像が
掴めないまま読むのを止めてしまい忘れていた。
けれど本吉号(移動図書館)にリクエストする本に事欠いた時、以降の作品を借りてこのところ少しずつ
読んでいた。
「天平冥所図会」(2007) 正倉院設立に奔走する官吏の話。 「麦酒アンタッチャブル」(2008)ケビン・
コスナーの映画「アンタッチャブル」にかぶれた刑事の密造酒摘発の話、ヒロイン由紀恵の父は
仲間警視つまり仲間由紀恵。 「暴走ボーソー大学」(2011) 弱小私立大学を食いものにしようとする
悪徳実業家に立ち向かう房総大学のサークル学生たち。 「SIP超知能警察」(2021) 2029年が舞台で
韓国と北朝鮮は統一されており、2025年の大阪万博は開会式がドローン攻撃を受け中止に
追い込まれている。
1作1作はエンターテインメントとして面白いけれど、全体として何が書きたいのか一貫したものはない。
新しい世界は見せてほしいが、常にバラバラというのも何か節操がないような気にもなってくる。 本業の
IT研究者としては「紙のキーボード・デジタルペンの新しい日本語入力方式」を開発し天才プログラマーの
認定を受けているようだ。 もしかしたら小説すべては最初から生成AIとやらに書かせていたのでは
ないだろうかという疑いを持ってしまう。
でも「瑠璃の翼」は飛行戦隊隊長であった祖父野口雄二郎を描いたものだったし、「完全演技者」(2005)
には初めて他の作品に通じるものを見つけた。ロックと教会音楽という違いはあるけれど、「オルガニスト」と
同じく永遠の音楽を志向している。 やはりAIではなく人間山之口洋が書いているのだろう。 しかしこちらは
読むと胸やけがするのだ。ひとまずこの作家はここで卒業とする。
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10(2023年12月20日)
― 小銭計算 ―
大銭のニュースが世間で飛び交っているが、大銭には縁のない人生だった。若い時は大金持ちになりたいと
思ったことはあったし宝くじを何回か買ったこともあったが「大金を手にしたら私は身を誤ってしまう」という気が
して当たりもしないうちに買うのをやめてしまった。教師の家庭で倹しく育ち、株も投資もする気がしない。
株価の値動きを気にする時間など無くてよい。働いてもいないのにお金が増えなくていいし、使ってもいない
のにお金が減るのも嫌だ。何かを支援したいという気持ちと投資は結びつかない(グリーンコープ電気には
○十万出資している)。 会社の利益は株主よりまず社員に還元してほしい。「エンデの遺言」のシルビオ・
ゲゼルの使わずに置いておくと目減りしていくお金にも納得するところがあったから、銀行の少々の貯えに
つく利息は0.002%で十分だ。
でもずっとお金に関心なく生きてきたかというと、節約にかけては本能的にあるいは必要に迫られて
かなりの神経を使ってきた。入ってくるものは多くなかったのに現在食べるのに困っていないのは節約の
才があったからだと思う。つまり小銭に関しては敏感だった。物が増えるのが元々好きではないから余分な
物は極力買わない。買う時も安かろう悪かろうは困るけれど「安い」ということはかなりのキーワードだった。
期限切れの迫った割引品を買うと嬉しい。今は食品ロスをなくすという地球規模の大義もある。
そしてまた小銭に関して日常で特別気を付けていることがある。私は育ちのせいか(?)箸より重いものを
持ちたくないのだ。美術館のボランティア活動の度に交通実費880円が出るのだが、硬貨を何枚ももらいたく
なくて毎回お釣120円を用意していき1000円札1枚を受け取っている。また現在の支出形態は、銀行口座や
クレジットカードでの引き落としやカードのチャージからなど、現金を使うことが減っている。一度財布の中に
増えた小銭を減らす機会が少ない。だから家から3分ほどの現金払いの出来る食料品店で買い物をする時、
払い方に頭をフル回転させる。払う段になって財布を長々とかき回すのは恥ずかしいので、レジに並んだ時
から100円以下を握りしめている。小銭が大幅に減り財布が軽くなっていると帰り道ご機嫌だが、キリのいい
数字で使う機会がなかったらがっかりするし、1円足りなくて更なる小銭を持ち帰ることになった時は悔しい。
そしてまた老化現象だろうか、額にぴったり合わない端数をどう払ったら持ち帰りが最も軽くなるかの計算に
頭があまり働かなくなった気がする。何故こんなにお釣が出てきたのか意味不明にずっしりした財布と辿る
家路は自己嫌悪で足取りも重くなる。