コロナ危機と公法学の行方
稲葉一将(行政法学、「考える会」世話人)
2021年3月22日
この会でも話題提供しましたが、「法学セミナー」誌の2021年3月号に、「コロナ危機と公法学の行方」と題して、拙文を掲載していただきました。
https://www.web-nippyo.jp/22549/
「生」の「危機」が統治機構とくに国家の行政の「危機」と相関関係を有することを述べ、「COVID-19に感染し、後遺症に苦しむ者」や「営業活動を不明確な理由で、また過剰に制限されたと考える個人または法人の事業者」等による「裁判運動が組織され、全国的に展開する事態」を「予測」しました。この「予測」が外れればよいのですが。
放送法4条遵守義務確認訴訟・奈良地裁2020年11月12日判決
稲葉一将(行政法学、「考える会」世話人)
2021年3月4日
この会でも何度か話題提供してきましたが、NHKと受信契約を締結している受信者が、NHKを被告として、放送法4条1項各号(とくに2号と4号)の遵守義務があることの確認を求めて、訴訟を提起しています。この地裁判決が昨年、2020年の11月12日にありました。この判決の特徴と問題点を論じた拙文が、「放送法4条遵守義務確認訴訟・奈良地裁2020年11月12日判決」と題して、以下のリンクにて公開されましたのでお知らせ致します。
https://www.web-nippyo.jp/22299/
公安委員会に属する事務を専決事項とすることの違法性
―沖縄高江への愛知県警機動隊派遣住民訴訟(名古屋地判2020年3月18日)―
稲葉一将(行政法学、「考える会」世話人)
2020年9月8日
第32回定例会(2018年3月17日)において、原告代理人から現状をご報告いただいた「高江機動隊派遣愛知住民訴訟」に関連して、稲葉一将「公安委員会に属する事務を専決事項とすることの違法性―沖縄高江への愛知県警機動隊派遣住民訴訟(名古屋地判2020年3月18日)―」と題して、法律時報92巻9号105頁以下に掲載していただく機会をえました。
https://www.nippyo.co.jp/shop/magazine/8336.html
新型コロナウィルス(COVID-19)対応に関するアンケート回答
「考える会」世話人
2020年5月3日
(1)名前 稲葉一将
(2)所属・身分 名古屋大学・教授
(3)現況
施設は、ほぼ土日と同じで、施錠されている状態。大学機能が停止しないように、教職員が交代で労働している。テレワークも導入されているが、費用負担や事故時の補償などの詳細は知らない。文系地区しか知らないが食堂や書店も閉店状態。学生に対しては非対面型の授業を実施している。学生に施設を使用させないことによって諸問題が生まれて、山積している状態。「ストラスブール大学の歌」ではないけれども大学機能を取り戻すための創意工夫を目指すのか、このまま通信教育・テレワーク(society5.0)に流されていくのか、一つの岐路でしょうか。
(4)意見・要求
行政法を学んでいるからかもしれないが、法制度と社会を含む現状との乖離(といっておく)が気になる。法の支配の反対物は恣意(暴力)。特措法に即しての、行政活動の法律の根拠、要件と効果が行政において、マスコミにおいて、したがって主権者においても、正しく理解されているのか疑問を感ずることが多い。社会実態をみると、特措法 24 条 9 項に基づく「休業協力要請」が県から行われているが(これを書いている時点でのこと。)、どんな職種であれ経済は人の生活のために需要があって行われているのであり、これを禁止するなら責任をもって禁止しつつ補償を行わなければならない。政治行政がとるべき責任をとらないので、社会の側が自己責任を負わされているのを、法律家は黙ってみていてはいけないのではないか。
(1)名前 古橋 忠晃
(2)所属・身分 名古屋大学総合保健体育科学センター 准教授
(3)現況
私は大学教員で医療関係を兼ねた立場であるが、大学教員としてはテレワークでできること以外は自粛することが求められている。医療については特に活動制限を求められてはいない。私の立場ですらそうであるので、他の大学教員は何も研究活動ができないのではないだろうか。
(4)意見・要求
・職場での講義が遠隔授業を余儀なくされていて、学生だけではなく不慣れな教員は非常にストレスがたまっているが、こうした状況につけ込むネット産業がどんどん参入しては高額なお金を大学に支払わせ、結果的にただでさえ削減されている研究費がさらに削減されていくのではないかと心配である。
・学生や教職員の中には、多少の身体的不調を持っている人がいると思われるが、新型コロナウィルス感染者に対する今の社会的差別のゆえに、たとえ新型コロナウィルスではなくても不調を言い出せないのではないかと思われる。
・学生の中にはアルバイトで生活費を捻出していたが、そのアルバイトもできなくなってしまい今日の食べるものに困っている学生もいると聞く。こうした学生に対しては、アルバイト先の事業の活動を自粛するように促している国が補助するべきではないだろうか。
・新型コロナウィルスの感染拡大防止のために、東京都が、新刊を扱う書店は営業を認め、古書店は趣味だからと営業を自粛するようにと線引きが行われたが、古書が趣味で、新刊書が生活に必要なものであるとなぜ言えるのか教えて欲しい。
(1)名前 石井拓児
(2)所属・身分 名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授
(3)現況
図書館・資料館等の閉鎖に伴い、文献・資料研究が中心である社会科学系・人文科学系の研究はかなり厳しい状況にあると思います。とりわけ大量の書籍が手元になく、インターネット環境が整っていない等、自宅での研究のための条件整備が十分ではない若手・大学院生の研究が心配です。
こうした状況の中で、インターネットを用いた授業実施が強制されることで、かなりの無理と負担を各教員が負っています。WEB 授業で使用できる著作や論文の引用や活用の方法について著作権との関係でかなり神経を使わなくてはなりませんし、授業のたびに学生や院生と個別での相談にも応じる必要が出ています。新たに「音声付きパワーポイント」を作成するよう指示が出されているが、授業準備の負担もかなり大きい。
とにかく1日に届くメールの量が非常に多くなりました。WEB を使った会議も「場の雰囲気」が伝わりにくいので、(気の使う性質である?)私には、大きなストレスになっています。
(4)意見・要求
私の方は、教育科学研究の分野に属しており、とりわけ子どもの学習権に関すること、そのこととの関係で子どもの貧困問題等について研究をすすめてきたことがあり、新型コロナウィルス感染をめぐる一斉休校措置等につき関心を寄せている。
中でもたいへん気になる点は、一斉休校措置にともなう学校給食の停止である。これまで給食費の免除を受けていた低所得世帯の場合、給食が停止されれば、給食費に相当する金額の恩恵がなくなることを意味している。教育扶助や就学援助費に上乗せするなどして給食費と同額を措置すべきではないかと思われるが、各自治体の措置状況はつかめない。すぐにでも文部科学省が実態を把握するとともに、全国的に指導すべきではないかと思われる。緊急事態宣言後、各店舗の休業要請を受け、じつは、子どもの貧困対策事業としてすすめられてきていた「子ども食堂」までもが各地で閉鎖してしまっている。経済事情の悪化のもと、とりわけ貧困世帯における子どもの状況がかなり深刻化しているのではないかと懸念される。果たして「子ども食堂」までをも閉鎖する必要があるのか、たいへん疑問に感じている。
子ども期に必要とされる「豊かな体験」をする機会が、著しく減少していると言ってよいだろう。活動の制限はやむをえないにせよ、これに代わる手立てを講じようとする姿勢がまったく見られないことに大きな違和感がある。安全・安心な対策を講じながら子どもたちに何らかの活動の機会を提供する方法は、いくらでもあるはずではないか。その傍ら、一方的に保育園、学童保育の開所だけが押し付けられていることも納得できない。保育労働者や支援員らの労働環境が著しく厳しくなっているのではないかと気がかりである。
学費の減免を求め、互いにアンケート調査をしたり情報交換をしている大学生たち(場合によっては高校生たちも)のグループの活動には励まされる思いがするし、彼らの活動を励まさなくてはとも思う。ただ、中学生以下の子どもたちにはこうした組織的な取組はなかなか難しいとみるべきであろう。小学生や中学生に対する現状把握や意見表明をふくむアンケート調査等が実施できないだろうか。
(1) 名前 樫村愛子
(2) 所属・身分 愛知大学文学部社会学教員、学長補佐(内部質保証)
(3) 現況
施設は施錠されている。危機管理委員会で多くのことが迅速に決定されているが、学部長が入っていないため、学部との情報伝達やコミュニケーションなど、普段の機能が働かず混乱している。リスクコミュニケーションが十分なされていない。卒業式の中止や遠隔授業への決定は比較的早くした。学生のパソコン・ルーター貸与も要望を取って進めている。学部によっては、学生調査をかなり早くから進めているが、全学的には、学生の生活への配慮が十分なされていない。非常勤への対応も遅れがちである。Facebook で、1000 人を超える大学教員の実情の報告と情報交換がなされており、他大学も混乱状態であることがわかる。その中で、大学を超えて連携できるプラットフォームが作られたのはよかったと思う。しかし、多くは、どのように遠隔授業を進めるかという技術論に陥り、大学が置かれている変化の持つ意味まで議論するものにはなっていない。学生への配慮も、一部の人たちを除いて乏しい。
(4)意見・要求
アルバイトがなくなり生活にも響く学生たちへの政府の対応がない。そもそも学費が高いということがこういう時に響くことがわかる。文科省は、柔軟な対応をかなりしているが、それでも、授業時間にこだわるなど、本当に必要な教育の問題に焦点化できておらず、技術論であり、官僚的。飲食店や個人事業主の友人たちは本当に困っている。
公共放送と法の行方
稲葉一将(行政法学、「考える会」世話人)
2019年5月23日
「web日本評論」にて、「公共放送と法の行方」と題する拙文を掲載していただいた。
https://www.web-nippyo.jp/13277/
これは、本会の第39回にて報告していただいた奈良の訴訟に刺激を受けて、執筆したものである。NHKの公共性論は多数主張されているが、これとは異なる法(国家)の次元で、NHK
にとって利益となる最高裁判決や法改正が続く放送「法」とは、誰のための、何のための「法」であるのかを問うものである。
ユニチカ豊橋事業所跡地住民訴訟
「市民的公共放送」実現のために、全国各地でNHK裁判に立ち上がろう
弁護士 佐藤真理
2019年1月21日
以下の通り、本会の第39回定例会(2018年12月14日)にて提供した話題について、若干の補足をするとともに、この裁判への参加を呼びかけたい。
安部チャンネル化が著しいNHKに対し、抗議の意思表示として、「受信料不払い」をする人は少なくありません。
しかし、2017年12月の最高裁大法廷判決が、受信契約を締結していない市民に対して、テレビを設置した月以降の受信料の支払いを命じて以降、受信料の滞納者が激減しています。
奈良県では、3年前、126名の市民が、NHKに対し、放送法第4条を遵守して放送する義務の確認請求の集団訴訟を提起し、2ヶ月毎に開かれる裁判に、毎回、70名を越える市民が傍聴に参加しています。
最高裁大法廷判決は、「受信契約の成立には双方の『意思表示の合致』、即ち『合意』が必要」としながらも、NHKが提供する放送の内容までは踏み込んでいません。
私達は、本件集団訴訟で、NHKはニュース報道番組に於いて、放送法4条1項各号(政治的に公平であること、意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること等)を遵守して放送する義務を負担しており、それが原告らの受信料支払義務に対応するNHKの義務である(有償双務契約)と主張しています。
このような請求を掲げている訴訟は全国で初めてであり、本件訴訟は、国民の知る権利と民主主義の発達に寄与する公共放送の在り方を正面から問う歴史的な裁判として、次第に注目を集めるようになりました。
昨年夏から本会の世話人の一人でもある行政法学者や憲法学者らとの研究会も重ねており、近近、憲法学者と社会学者の意見書も完成する予定です。本件訴訟の存在を知った行政法・情報法研究者が学会での問題提起を計画しています。NHKOBやジャーナリストからの支援の輪も広がっています。
最高裁大法廷判決によって、NHKの報道に対する批判や抵抗の手段としての受信料不払いが困難となっている今日、NHKの報道について、意見を言えるのは、視聴者である国民しかありません。
私たちは、本裁判を通じて、視聴者が受信料を徴収されるだけの受け身の存在ではなく、放送における「国民主権」の担い手として、NHKで働く労働者と力を合わせて、NHKをつくり直し、あるべき市民的公共放送を実現していくことを目指しています。
最近は、「受信料を払うのはいいが、政府寄りの報道内容にはがまんできない。何か抵抗の方法はないのか」などとの問い合わせを受けることが増えています。
奈良の弁護団は7名ですが、可能なあらゆる支援を惜しみません。是非とも、全国各地で、著名な方も、普通の市民の方も、原告に名を連ねる同種訴訟を提起し、イラク派遣差止愛知訴訟における2008年4月の違憲判決のような画期的な判決を勝ち取りましょう。
以上
ユニチカ豊橋事業所跡地住民訴訟
鈴木 正廣 (原告団副団長・事務局長)
2018年8月11日
名古屋地裁判決、原告(市民)の完全勝訴・・・
佐原市長を被告に名古屋地裁に提訴(平成28年8月23日)したユニチカ跡地住民訴訟(原告:宮入興一代表ら130人)は、原告の主張を全面的に認める画期的な判決を言い渡しました(平成30年2月8日)。ところが、佐原光一市長は、名古屋地裁の命令を不服として控訴しました(2月19日)。控訴後の定例記者会見(3月1日)で佐原光一市長は「差し上げて(ユニチカの)所有物になった土地を、改めて返してくれとはいえない」「戦後復興のために差し上げた土地、(市側が)請求できる立場にない」と発言しました。この佐原光一市長のユニチカ豊橋事業所跡地(以下、跡地という)に対する認識に驚きました。
佐原光一豊橋市長を被告として訴訟に踏み切った原点は、佐原市長は、跡地の売却に係わる経緯について市民はもちろん、市議会議員にも全く知らせなかった。この市民無視、議会軽視は、主権者として、地方自治のあり方から考えて許しがたい。これが訴訟に踏み切った原点です。130名もの市民で原告団が結成され、豊橋市長を被告として提訴した事案は豊橋市政110年の歴史上初めての事です。いま、多くの市民が、控訴審の行方を注目しています。
跡地は、愛知大学豊橋校舎から南方面約1キロメートル、高師原緑地公園の東側にあり、27万平方メートルの広大な土地です。この土地は、敗戦直後(昭和20年9月)、入植者によって開拓された県下最大の開拓地の一部分です。
ユニチカが豊橋事業所を閉鎖し、撤退すれば豊橋市に返還されるべき土地であると主張する根拠は、豊橋市とユニチカが交わした契約書です(昭和26年4月3日)。しかし、跡地の所有権が積水ハウスに移転(平成27年10月1日)した後、市民がその事実を知ったことから跡地の返還を求めることは難しいと判断し、売却して得た63億円は、豊橋市に入るべきお金であり、豊橋市長は、ユニチカに63億円を請求することを求めて提訴しました。
・ 契約書第12条
「甲(ユニチカ)は将来第三条(一)の(イ)の敷地の内で使用する計画を放棄した部分は之を乙(豊橋市)に返還する」
・ 名古屋地裁判決主文
「被告は、被告補助参加人(ユニチカ)に対し、63億円及びこれに対する平成27年10月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払うよう請求せよ。」
年5部の遅延損害金は、一ヶ月当たり2,625万円、一日当たり約90万円にもなります。すでに2年10月経過しており、土地売却代金63億円を合わせると約71億円です。
ユニチカ跡地の歴史的経緯・・・
跡地の旧土地台帳を見ると登記は1953(昭和28)年12月25日です。ユニチカを誘致するための特別な措置でした。原告団は、豊橋市が27万平方メートルもの土地をユニチカに無償提供した事実を資料に基づき主張してきました。開拓農民等への補償金13,576,334円、作物補償費180,100円、鉄道引込線移転補償費933,300円、合計14,689,734円と、土地代を合わせて26,017,896円です。原告の証拠資料に基づく主張に対して、佐原市長代理人とユニチカ代理人の両者とも「争いません」と、全額豊橋市の市税で賄ったことを認めました(第8回口頭弁論、平成29年11月30日)。原告団は契約書(昭和26年4月3日)の第12条の解釈を重視すると共に、開拓農民関係者への聞き取り調査、資料の発掘等々にエネルギーを注ぎました。この努力が、原告の完全勝訴判決に結びついたと確信しています。
ユニチカ4項目文書・・・
跡地売却を巡って、特別に重視した文書は、土地を売却する一年前、ユニチカが佐原光一豊橋市長に提出した4項目文書です(平成26年10月9日)。その内容は、①平成27年3月末までに、豊橋事業所全体を閉鎖すること。②閉鎖に前後して、豊橋事業所は、再開発を前提とする第三者に売却したいこと。③敷地の売却は、三菱UFJ信託銀行をアドバイザー兼仲介者として執り行うこと。④今後、敷地の売却及び開発を行うにあたり、豊橋市様にご相談させて頂きたいこと、というものです。この書面から、明らかにユニチカは契約書第12条及を念頭において豊橋市に相談を持ち掛けていることです。これに対して、佐原市長は記者会見で、「社長と面会したが、これまでのお礼をされただけで跡地の処分については相談を受けなかった」と説明しました(平成28年6月1日)。しかし、面会は、「ユニチカの4項目文書」が提出された20日後です。市長応接室でユニチカ社長と面会した際、当然、「4項目文書」の内容が話し合われた、と考えるのが自然です。跡地売却に至る流れを見ると、この最初の時点で佐原市長のとった姿勢がどうだったのかが鋭く問われます。公文書公開請求等で知り得た資料から見れば、その後の当該土地売却の最大のキーポイントです。
疑義事項協議書、早川勝市長の定例議会答弁・・・
疑義事項協議書(昭和41年.2月21日)は、二つのことを互いに確認しています。一つは、「将来とは」、期限を定めないこと。二つは、豊橋市から空き地になっていても返して下さいと言わないことを互いに確認したことです。契約書から実に15年たって、交わした疑義事項協議書の持つ意味は非常に重いものがあります。名古屋地裁は、ユニチカが「撤退する」と意思表示した時には、豊橋市は、将来、期限を定めず「お返し下さい」という権利があると認めて、主文「…請求せよ」の原告完全勝訴の画期的判決を言い渡したのです。ですから、市民から負託された行政の長として佐原市長は「お返し下さい」と、ユニチカに言わなければならなかったのです。早川勝市長の定例市議会答弁も極めて重要です。弁護士にも相談したことを明らかにして、次のように答弁しています。「…全く違う企業が来たときに、では目的外の使用になっていくのではないかとなりますと、市としてはどうぞお返しくださいと、そのような話に戻っていくということにもなりかねません」(平成18年9月)。この答弁について、名古屋地裁判決は、「全く別の企業が対象土地を使用する場合には返還請求が可能であることを示唆されたものである」と判断しています。
豊橋市もユニチカも、市議会決議に基づく和解的決着を図るチャンスはいくらでもあった・・・
豊橋市もユニチカの双方とも疑義事項協議書過程から昭和40年当時、契約変更するには市議会決議を要することを認識していました(控訴審第1回口頭弁論、平成30年6月22日)。であるなら、双方とも撤退の条件や金銭的な補償等について、真摯に交渉した上で、何らかの和解案を豊橋市議会に上程し議決を得るという手段も取り得たのです。そのチャンスはいくらでもあったにもかかわらず、そのような努力を一切しなかったのですから、契約書第12条に拘束されることは当然です。
控訴審・・・
「市財政が大変な時、なぜ、跡地売却代金63億円ものお金を請求しないのか」。この市民の疑問に、佐原光一市長は、「回答不能に陥っています」。佐原光一市長は、クルクルと主張を変えてきましたが、控訴理由書で「契約書第12条は、利用計画が確定していなかった2万坪余りの土地の返還を念頭に設けられたもの」と、新たな証拠資料も無に主張をしだしました。ユニチカ(補助参加人)の控訴理由書に至っては、「63億円で売却できたのは、ユニチカが地域経済を発展させ、同土地の価値を高めたからで豊橋市の貢献があったわけでない。豊橋市は、わずかな負担で莫大な利益を得た」と、主張しています。被控訴人(市民)が跡地の国税路線価格などから算出した市場価格は約93億円と、積水ハウスに売却した63億円をはるかに超えています。それは、ユニチカによる化学物質による土壌汚染によって、同土地の価値を高めたのではなくて押し下げたのです。
控訴審の第二回口頭弁論は、10月24日(水)、大法廷で行われます。控訴審でも必ず勝訴するために全力を尽くします。
以上
2018年の放送制度改革
稲葉一将(行政法学、「考える会」世話人)
2018年7月26日
法律時報2018年7月号に「2018年の放送制度改革」と題する「法律時評」を掲載していただいた。
2018年3月ころから多くの新聞で報道されていた、いわゆる放送制度改革の経緯と特徴、そして問題点を述べたものであるが、現在進行中の改革を同時に検討することは容易ではない。それでもこの時期に活字にしたのは、これが重要な(深刻な)問題を提起していると考えたからである。今回の放送制度改革は、これを簡単に言おうとすれば、NHKを放送事業者として残しつつ、民放に関しては放送法の規制緩和(あるいは、放送から通信へと向かうこと)を目指すものだと言ってよいだろう。この針路のまま制度改革を徹底すると、放送においては事業者の集中と独占が進行することで、情報がますます一面的・一方的に伝搬されるようになり、非放送(通信)においては感情的で雑多な情報が送信されることによって、論争的で注目されるべきトピックが些末な諸問題のなかに埋没してしまう可能性が危惧される。NHKの機能強化と民放の非放送化との組み合わせによって、民主主義社会にとって不可欠な少数派の意見表明の場が公共空間において保障されなくなるのではないかと、筆者には思われる。重要な(深刻な)問題というのは、放送制度改革における以上のような反民主主義的な性格である。
放送制度改革の特徴は、これを推進した国家機関の側における、これまでにない新規性においてあらわになったのではなかろうか。総務省に置かれた検討会がこれまでのような存在理由を示すことができなくなった。これに代わって、内閣府に置かれた「規制改革推進会議」が検討作業を行い、さらに推進会議が公表した文書とは別に作成者不明の文書が存在した。作成者不明の文書が存在したということは、「規制改革推進会議」も実質的な検討作業を主導し得ていないのではないかという疑問を生んだ。内閣周辺で密室において検討されたのではないかが疑われた放送制度改革は、これまでになく不透明で集権的な特徴を有している。この特徴が変わらない限り、今後、個々の制度改革が進められていく過程で、やがて反民主主義的性格が、具体的にあらわれるようにならないだろうか。
上述したことを放送制度に即して具体的に確認すると、何が論点であろうか。まず民放に関しては、規制改革実施計画(2018年6月15日閣議決定)http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/suishin/publication/180615/keikaku.pdfが「ローカル局の経営基盤の在り方の検討」の項目において「経営基盤強化のための規制や促進の在り方、免許の在り方」を改革の内容としており、また「放送事業者の経営ガバナンス」の項目において「企業価値向上や収益力向上の観点から、より一層、経営のガバナンスの確保に向けた取組」を改革の内容としている。今後、注意されるべきことは、地方局のガバナンス強化である。そして、地方局に対する総務省の様々な関与とその強化を予測することは十分可能である。しかし、地方局が何も努力していないことはありえないので、その努力を公表して自らの正当性を主張するとともに、その努力が正しく評価されるような放送行政組織の改革あるいは放送「行政の公共性」が問題とされなければならない。
次に、NHKに関しては、既に、NHKがいわゆる受信料訴訟を提起して(国家の裁判所の判決を得て)国民に対して受信契約の締結と受信料の支払いを迫り、あるいは放送法改正によって(国家の立法を得て)、インターネット事業を展開しようとしているように、放送の「自律」(1条2号)に背を向けて国家機関との距離が近くなっている。このように国家との距離が近くなっているNHKが、ますます国家宣伝的性格を強く有するようになることは、容易に予測できることである。しかし、国家との距離が近くなっているNHKの存在はこのままでは正当化できないから、これを正当化しようとするのであれば、放送の受け手からの放送へのアクセスを何らか許容せざるをえないであろう。
実際に、受信者の側からNHKに対して、集団訴訟であるNHK放送法遵守義務確認訴訟が提起されている。放送事業の巨大化と独占化が進行しようとしている放送制度全体の改変のなかでの、NHKの適法性を受信者自らが確保しようとするこの訴訟が果たすべき役割には、大きなものがある。訴訟においては、放送法64条1項によって受信者に受信契約の締結を義務付けているNHKが、受信者との具体的な法律関係において放送法4条1項に基づくどのような義務を負うのか、この放送法上の義務が存在することの確認訴訟を提起できる確認の利益を有する受信者は誰かが問われることになるだろう。放送法が定める放送の「自律」に反して、NHKがこのまま国家に接近することの是非が問われているのであり、このような状況において、裁判所が放送法の正しい解釈をするのか・できるのかが、注目されているのである。
ネットワークに応答する国家行政の考察
稲葉一将(行政法学、「考える会」世話人)
2018年6月5日
名古屋大学法政論集277号に「ネットワークに依存する国家行政と国家行政のネットワーク化」と題する論文を公表する機会を得た。この論文の要旨は、以下の通りである。
第1に、多義的な「ネットワーク」の語を、「階層制」と「市場」のどちらでもないmode of exchangeの一つと理解する仮説から分析を始めた。このような理解を示す他分野の研究成果を参照しつつ、この意味でのネットワークの性格を有する社会関係を「ネットワーク」と把握することで、行政改革以降に生まれた新たな社会関係の動態を分析できるのではないかと考えたのである。
第2に、以上に述べたネットワークは、「社会関係」レベルでの動態であるが、これと国家との「相互作用」が起きていることを、日本の「一億総活躍社会」計画や厚労省によるこれの具体化に即して述べた。
第3に、ネットワークの性格を有する社会関係と相互作用する国家行政もネットワーク化するはずであるから、行政のネットワーク化の一つの展開を、米国の研究者であるロウブルの主張を参考にしながら論じた。一般的には、変動する社会関係に「応答」response可能な国家行政の条件として行政組織あるいは公務員の民主化がもう一度課題となるのではないか、という問題を提起した。
要点は、「市場化」によって行政の、公務員の解体が進行したのに対抗して新たな社会関係が生まれているということこれ自体ではない(この認識は、本会において、社会を分析対象とする複数の研究者との対話によって得られたことに感謝したい。)。この次の段階として、新たな社会関係であるネットワークへの行政の応答可能性という発展的な問題提起によって、もう一度国家行政を論じるべき必要性を述べたいのである。拙稿に対して、様々な観点からの、多くの欠点をご指摘いただければ幸いです。
メディア時評 毎日新聞2018/5/24
「在日」と板門店宣言
樫村愛子(臨床社会学、文化社会学、「考える会」世話人)
2018年5月24日
朝鮮半島の非核化を南北首脳が確認した「板門店(パンムンジョム)宣言」を受け、毎日新聞4月28日朝刊は「描く祖国の未来 在日詩人感涙」の記事で奈良県生駒市の詩人、金時鐘(キムシジョン)さん(89)ら在日韓国・朝鮮の人々を取り上げ、心から歓迎する声を紹介した。この問題を在日の人々の目を通して見ようとするメディアの観点は、とても重要である。二つの国家の存在による分断は、在日の社会や家族の中にもあるからだ。
金さんは、済州(チェジュ)島で1948年4月3日、南北分断を固定化する南側の単独選挙に島民が反対して武装蜂起し、数万人が虐殺されたとされる「4・3事件」の生き残り。日本の植民地時代は「皇国少年」だったが、戦後は民族意識に目覚めて活動に加わり、弾圧を逃れ日本に渡った。
その単独選挙を通じ建国された韓国では、事件は長年「共産暴動」と決めつけられてタブー視された。50年に朝鮮戦争が始まると、金さんは日本で北朝鮮を擁護する立場で反戦運動を展開したが、やがて北とも南とも相いれぬ立場になり、悩み抜く。それでも事件の被害者が「アカ」と呼ばれる時代は続き、韓国政府が公式に謝罪したのは、21世紀に入ってからだ。
6月12日にシンガポールで開催が予定されている史上初の米朝首脳会談に向け、メディアではトランプ米大統領と、金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長との間でどのような「ディール」(取引)が行われるかに注目が集まっている。北朝鮮は核兵器を放棄するのか、米国は北朝鮮の体制を保証し朝鮮戦争を終結させるのか、などに報道は終始しがちだ。
ただ、国家が戦争を終結させ、平和を通じて国民の幸福を実現することの真価は、「生きている間に平和協定を実現してほしい」という金さんらの姿を描くことで、よりリアルに伝わっていくだろう。メディアは、板門店宣言の意義を単に国家間ゲームの一コマとしてではなく、在日一人一人の個別の事実にも迫り、平和の尊さにつなげて報道していってほしい。(中部本社発行紙面を基に論評)
メディア時評 毎日新聞2018/4/26
放送免許の根本に踏み込んで
樫村愛子(臨床社会学、文化社会学、「考える会」世話人)
2018年4月26日
「政治的公平」や「事実をまげない報道」などを掲げる放送法4条の撤廃議論が持ち上がっている。毎日新聞3月29日朝刊によれば、安倍晋三首相の意向を背景に政府の規制改革推進会議が水面下で検討した。放送規制を取り払ってインターネットテレビなどネットメディアの参入をしやすくし、経済活性化を図るが、権力の暴走をチェックするメディアの機能が弱体化する恐れがある。
同朝刊によると、NHKには現行制度を維持し、番組のネット常時同時配信を認める一方で、民間放送には新規参入を促すという。予算の承認などを通じ政権が影響力を行使できるNHKの1強体制を築き、民放を解体して間接的に言論統制を図る思惑すら感じられる。
4月16日に開かれた同会議には安倍首相も出席し、放送制度改革の本格的な議論が始まった。ただ、4条の撤廃は言及されなかった。毎日新聞17日朝刊「クローズアップ・放送法4条撤廃様子見」の記事は、問題点をまとめた良い特集だった。「放送と通信の融合」は、ビジネスだけではなく、「放送の公共的役割」の観点が欠かせないとの声を紹介した。
検証してみなければならないのは、1987年に放送のフェアネス・ドクトリン(公平原則)を撤廃した米国のケースだ。朝日新聞7日朝刊「メディアタイムズ」欄で、名古屋大の稲葉一将教授(行政法)は、撤廃後に党派性の濃くなった放送から視聴者が離れ、「残った視聴者に向けて恣意(しい)的な報道を助長するという悪循環に陥った」と指摘している。
今、メディアに期待するのは放送免許制度そのものの議論だ。欧米では政府から独立した行政機関が免許の付与や監督を行うのに対し、日本は政府が直接行うため、時の政権が威嚇に使う懸念を払拭(ふっしょく)できない。民放にとっては新規参入を阻む「既得権」の側面があるためか、現行制度改革への提言は聞こえてこない。報道の自由の守り手として、ぜひ免許制度の根本にまで踏み込んでほしい。(中部本社発行紙面を基に論評)
メディア時評 毎日新聞2018/3/29
公文書のあり方、本格論議を
樫村愛子(臨床社会学、文化社会学、「考える会」世話人)
2018年3月29日
森友文書の改ざん問題は社会に衝撃を与えた。毎日新聞19日夕刊「特集ワイド」で英フィナンシャル・タイムズ紙のロビン・ハーディング東京支局長は「政治家がウソをつくというのは世界共通の『常識』」だが、「官僚が自主的にウソをついたとなると、理解されにくい」として「(日本への)ダメージは大きい」と指摘。13日朝刊「論点」で井上寿一・学習院大学長も「日本は欧米先進国やアジア諸国と比べても、文書管理に関心が低く、重要性も十分認識されていない」と批判した。
過去にも海自潜水艦「なだしお」の衝突事故(1988年)で航海日誌改ざん、平成の大合併(99年~)に伴う公文書の大量廃棄、旧社会保険庁による年金記録問題(2007年発覚)があった。公的機関のあらゆる資産は国民に所有権や管理権があるとの認識を日本の公務員は欠く。
福田康夫氏は07年に首相になり、公文書の保存と管理のルールのなかった日本で法制化を進めた。父の秘書だった時に、地元・前橋市の学校のために探していた終戦直後の航空写真が米国立公文書館で見つかり、その衝撃が後に法制化に着手するきっかけとなった。福田氏は昨年9月7日、朝日新聞GLOBEウェブ版のインタビューに「事実の集積が国家」だと述べ、公文書は不当な政治の介入を排除し、役人を守るものだと話した。「それはできない、記録に残りますよ」と断ればよいのだという。
最近、行政文書管理ガイドラインが改正されチェックは厳しくなった。だが改ざんを抑制するための規制等を入れると、NPO法人「情報公開クリアリングハウス」の三木由希子理事長が3日のブログに記すように「行政文書については手続等の形式要件の整備だけが進み、残る記録の形式化、形骸化が進む可能性がある」。各行政機関の活動を、独立した立場から観察する機能等も重要だろう。
メディアは森友文書の改ざん問題だけではなく、メディアとも関わりのある公文書のあり方についても本格的に取り上げてほしい。(中部本社発行紙面を基に論評)
2018・3・13辺野古差止訴訟判決
稲葉一将(行政法学、「考える会」世話人)
2018年4月20日
「沖縄からの報告②法解釈を不当にねじ曲げ続ける国」(国吉聡志氏執筆、2017年8月15日)が問題点を論じていた紛争について、沖縄地裁による却下判決(および却下決定)が、2018年3月13日にあった。筆者は、3月14日の「沖縄タイムス」紙に以下のような文章を掲載していただいた。
―以下、転載―
本判決は、却下判決を導くために、市がパチンコ店を建築しようとする「国民」に対して建築中止命令を出し、こののちに「行政上の義務の履行」を求めた訴訟である2002年の最高裁判決を引用して、権利救済と公益実現との二分論を本件に適用した。しかし、同最高裁判決は、論理的破綻が指摘されている最高裁判決の一つである。他の事件に同判決を適用することは、無理である。
従って、沖縄県が国に対して、無許可での岩礁破砕等行為の差止めを求めた本件では、2002年最高裁判決の射程が及ばないと判断することは理論的に十分可能であり、また法実践においても同判決の射程を短縮する努力が行われるべきであった。しかし、那覇地裁は、これをしなかった。
本判決によって、今回一層はっきりした問題点を、この段階で確認しておきたい。第一に、国家の裁判所が地方自治の保障に無理解であること、第二に、国家行政の活動の適法性確保という裁判所が存在するべき理由の一つを裁判所自ら放棄したこと、である。
地方自治や分権は、社会(主権者意思)から疎遠になる国家の権力を分散し、これを弱体化するものだとすれば、裁判所の地方自治への無理解が何を意味するのかは、明らかである。
そして、司法審査(外部チェック)が及ばない国家行政の官僚制は、これと日々の政治との作用・反作用によって、社会からますます疎遠になる。これらの民主主義的装置が機能しないとどうなるのかは、戦前の歴史が教えてくれる。
なお、右に述べた特徴は、辺野古訴訟だけの特徴であろうか。本件で問題となったのは、漁業権の一部放棄が漁業権の消滅に該当するのか否かの見解の変更であったが、日々報道されている通り、これと同様のトップダウンの行政運営が、あちらこちらに矛盾を生み出してもいる。沖縄の自治を擁護し発展させるために、日々の実践とともに国家の動向をしっかりとチェックすることが、一層求められているといえるだろう。
―以上―
県と国との紛争が裁判所に持ち込まれたのに対して、那覇地裁は、訴えを却下して本案審理をしなかった。この判決によってはっきりと示されたのは、第一に、国家の行政と対立する地方自治の要求に国家の裁判所が応えなかったということであり、第二に、したがって国家行政の適法性確保という裁判所の存在理由の一つを裁判所自ら放棄したということである。国と対立するところに存在理由がある地方自治の無理解は、国の行政の強大化であり、したがって、国家の三権のうちの行政権の強化に適合的な司法審査が三権の一つである司法権によって行われた、という趣旨である。
筆者は、以上の評論で書かせていただいた中身もそうであったが、判決内容よりもむしろ今回の紛争を生んだ構造の解明に関心をもっている。本件には、森友学園問題(財務省)、加計学園問題(文科省)、南スーダン日報問題(防衛省)、裁量労働制データ問題(厚労省)などと同じで、各省において従来存在していた行政の先例が各省とはかかわりのない政治介入によって変えられた、あるいは歪められた、という意味での「トップダウン」という構造的問題が存在するのではなかろうか。政治行政と一口に言うけれども、政治が行政を支配しており、しかも各省の大臣と各省の官僚との関係のみならず、むしろ官邸と各省の官僚との関係において、政治支配が及んでいるのではないだろうか。このような疑問をもつと、全体の奉仕者である公務員の存在理由、行政を公務員を国民がコントロールする規範である行政法の存在理由が、実証されているのである。このような状況で、いま、求められているのは、一般的な「政治行政」、「官僚制」といった概念で抽象的に問題を把握することの自戒とともに、具体的な現状分析であると思われる。筆者も、以上で「トップダウン」という語を便宜的に用いたが、この現状分析こそ、必要な作業である。
勿論、以上のような疑問は、辺野古訴訟の実践と理論に関与しておられる者であれば、いまさら述べるまでもないことだろう。そして、この問題が生まれる構造自体は、基本的には、いまになって新たに形成されているというよりも、むしろ、かねて存在していたと思われる。なぜなら、筆者は、1970年代に発表されていた行政法研究の論文において既に、本件で論じられているような問題を生み出す構造が描かれていたことを知っているからである。その論文は、以下の通りである。
まず、辺野古訴訟もその一つであるが、地方自治と国家行政に及ぶ政治支配の強化との関係について、
「国の行政と自治体行政との矛盾または緊張関係が顕在化しつつある背景」にあるものとして、「中央政府とそれに従属する自治体によって現実にその生活と生活環境を破壊され圧迫されてきた住民のたえきれなくなった抵抗・抗議の意思と運動のたかまり」がある(室井力「国の法令基準と自治体基準」『現代行政法の展開』(有斐閣、1978年)145頁を参照。初出は、1973年。)。そして、このような国と自治体との矛盾において、「強大な中央集権権力の恣意的権力支配に対する対抗物としての、住民の意思に基づく自治体の存在理由を、民主主義の叡智として認めた」からこそ地方自治は要求されるのであり、したがって自治体は、地域的事務処理のためだけに存在するのではなくて、「国の政策の転換ないし内容充実を迫る可能性」をそのなかに含んでいると説かれていた(同147頁。)。
次に、行政組織内部で中央集権的な行政が一層顕著になれば、行政組織内部でも矛盾が生まれることになる。そしてこの矛盾のなかから主権者である国民と官僚制の一部あるいは公務員との協力の可能性も生まれる。
「必然的に、行政組織における上級官僚と一般職員との間の矛盾を強めることになり、ここに行政組織における一般職員と一般国民との協力関係の基盤が存するし、かつ、行政組織の内部に立ち入った秘密主義の打破、行政過程の公開に対する要求を正当づけることとなるのである。行政組織の透視可能性の確立が、行政組織の反国民的性格の克服のためにとくに強調されるのである。」と述べられていた(同「現代日本の行政機関とその作用」同書104頁を参照。初出は、1976年。)。
つまり、地方自治が問題となるのは、中央集権的な政治行政の支配が強力になっているからである(国と地方との対立や矛盾)。中央集権的な政治行政支配が強力になると、その内部において対立や矛盾が生まれる。だとすれば、こんにちのアクチュアルな個々の問題においても、対立や矛盾に注意しなければならない。たとえば、辺野古訴訟であれば、漁業権消滅に関する見解の変更の有無やその経緯の不透明性が厳しく批判されているように、現状では、公文書管理や情報公開の徹底の要求に、国家の側も、ある程度、応じざるを得ない。このことは、国家行政の民主的統制に向けての重要な一歩であるが、公文書管理という個別問題にとどまることなく、ここから一段、国民各層による行政の民主的統制の強化が、公務員がその存在理由を発揮できるようにするための制度構築が、目指されなければならない。
既に指摘されていた「上級官僚と一般職員との間の矛盾」は、こんにち、たとえば「一般職員」と「一般国民」との間にネットワークを形成し、全体の奉仕者性をもつ職員による内部告発を促すための、告発者の身分保障制度の整備を必要とするのではないだろうか。そして内部告発が実際に、その期待された役割を発揮するためには、告発者が提供する情報を広範囲に伝達するメディアの役割には大きなものがある。したがって、これに加えられることとなる不当な攻撃や介入は、メディアだけの問題ではなくて、国民一般あるいは民主主義への攻撃でもある。だから、メディアも日頃から視聴者等の国民一般に支持されるだけの民主的基盤を確立する努力をしていなければ、外部からの不当な攻撃や介入に抵抗することは一層困難となる。
以上に述べたように、辺野古訴訟にあらわれているのは、これを一言で言えば、国家の行政に対する政治的経済的な支配が及ばないようにするための、民主主義の諸課題である。
メディア時評 2018/3/1
産経新聞誤報の元凶は何か
樫村愛子(臨床社会学、文化社会学、「考える会」世話人)
2018年4月19日
昨年12月1日に沖縄で起きた多重事故で、日本人を救助した米兵が後続車にはねられ重体になったことを報道しなかったとして、沖縄メディアをたたいた産経新聞は、2月8日(中部地方は9日)朝刊で「事実は確認されなかった」「批判に行き過ぎた表現がありました」と謝罪した。それを受け、8日のTBSラジオ「Session-22」で評論家の荻上チキさんは、産経の記事検証は「沖縄県警には取材しなかった」などの経緯の説明だけで、誤報した過程の検証がないと批判した。
またデジタル版「産経ニュース」は昨年12月9日、那覇支局長名で「勇気ある行動は沖縄で報道に携わる人間なら決して看過できない事実」「日本人として恥だ」と主張した。毎日新聞2月8日朝刊「『未確認』情報で沖縄県紙を非難」では、「政治的な立場を異にする相手をバッシングする報道」として、東京MX「ニュース女子」にも言及し、「沖縄たたき」報道の問題だと批判した。産経はマスメディアであり、しかも那覇支局長名での報道であることから、「ニュース女子」以上に問題だ。では日本のマスメディアにそもそも問題はないのだろうか。
国内のファクトチェック(事実確認)の推進を目指し元記者・大学教授らが昨年設立したNPO「ファクトチェック・イニシアティブ」は同8日、外国特派員協会で、「フェイクニュース」が存在する時代における情報の正確性と報道の現状について記者会見した。外国と比べてマスメディア報道にエビデンス(証拠)の提示が少なく、フェイクニュースとどこが違うのかと指摘した。記者クラブによる政府発表の垂れ流し報道や「関係筋」を情報源とする報道から脱し、日本も政府会見を即時にチェックする先進国並みの調査報道をする必要がある。産経の誤報も、マスメディアが「関係筋」報道で終わっている普段のおごりの延長で起きているだろう。(中部本社発行紙面を基に論評)
「判例批評 辺野古訴訟最高裁判決」民商法雑誌153巻5号(2017年12月号)751頁以下
稲葉一将(行政法学、「考える会」世話人)
2018年2月27日
「沖縄からの報告②」で国吉聡志氏が書いておられる通り、沖縄における新基地建設をめぐる対立は、県と国との訴訟に発展している。国家と対立する沖縄の自治に、国家の司法権はどのように介入するのかが、注視されている。これらの訴訟の一つで、既に過去のものであるが、2016年12月20日の最高裁判決を「批評」する機会を与えられた。
はじめに
「今の世の中、自分で決めることがどれだけできるだろうか。」
このようなことを考えながら「考える会」に関与している。ここでは、福島第一原発事故に関わる例を取り上げながら、この点について、簡単に述べてみたい。
福島で放射性物質の除染作業が進められ、政府は、年間20mSv以下となった地域は避難している人たちの帰還を促進している。その結果、避難の支援を徐々に取りやめることになっているので、避難している人たちは、避難先で「定住」をするか、もともと住んでいた福島の地域に「帰還」するか、その選択をすることになる。避難している人の中には、本来は故郷に帰りたいが、帰還するにはまだ放射線量が高く、定住か帰還か、今すぐには決められないので、避難を継続したいという人も少なくない。このような人々にとっては、避難のための支援が取りやめられるので、避難を継続するという選択肢がなくなる。避難のための公的支援にはいつか終期がくるにしても、今回それは早すぎるのではないかという批判もある。このように、自分が意思決定するに当たって、重要な条件が既に決められ、選択余地がほとんどなくなることも少なくない。
放射線をあびて危惧されているのは、特に、小さな子どもや胎児への影響である。また、支援の打ち切りで特に困るのは、社会的・経済的に立場の弱い人となる。「科学的にはっきりしていない」、「支援の打ち切り」、「今すぐに決めなければならない」など、いろいろな条件設定の中で、定住か帰還か、決めさせられる、つまり、自己決定を強要されている状況におかれているのである。
放射線リスクについて、科学的にはどうかというと、あびる放射線は少ないほど良いというのが科学者の間でもほぼ意見が一致している。しかし、どれくらいあびると人体に影響が出始めるのか、その境界がはっきりとわかっていない点が多い。そのため、この線引きの数値については、科学者の間でも、大丈夫だという人もいれば、そうでないという人もいる。この数値の是非を論じる能力は法律学を専門とする私にはない。ここでは、法律学の視点から、放射線リスクに関するさまざまな数値の決定権者、決定時の考慮要素や決定プロセスに着目して、放射線リスクへの対応について吟味する。
1 放射線リスクとは
放射線リスクといわれる場合には、通常、低線量被ばくによる発がんや遺伝的影響といった確率的影響が議論の対象となる。現在の放射線防護は、「しきい値はなく、被ばく量に比例してリスクがある」というLNT仮説という、ある種の予防的発想に基づいて行われている。ここでの「リスク」は、ガン発症のように一定の損害が発生する確率として表現される。リスクは、それ以外にも、見込まれる損害発生の程度とその発生確率による関数であるとか、被害の責任配分を意味する場合もある。いずれにしても、リスクの構成要素が被害とその発生確率・頻度であることに相違ない。そうすると問題となるのは、構成要素である確率・頻度に関する科学的信頼性・妥当性のほか、もう一つの要素、人身被害や財産被害ないし放射性物質による広範囲の汚染、大規模かつ長期の避難など生活環境への影響などのうち、どこまでを被害の範囲に含めて、リスクを考えるかである。
ここでのもう一つの柱である予防原則(precautionary principle)は、1992年の環境と開発に関する国連会議におけるリオデジャネイロ宣言の第15原則で、その基本コンセプトが示されている。すなわち、「環境を保護するため、予防的方策は、各国により、その能力に応じて広く適用されなければならない。深刻な、あるいは不可逆的な被害のおそれがある場合には、十分な科学的確実性がないことを、環境悪化を防ぐ費用対効果の高い対策を引き延ばす理由にしてはならない」がそれである。
2 介入の正当化・最適化と第一種・第二種の過誤
放射線防護では、被ばく量を低減させるための規制などの介入が正当化され、最適化される必要があるといわれる。ただ、それを考える際、二つのアプローチがあることには注意が必要である。つまり、放射線リスクの管理については、統計用語である第一種の過誤、すなわち、問題がないのに「ある」と判断する過誤(あわて者のミス)と、第二種の過誤、すなわち、問題があるのに「ない」と判断する過誤(うっかり者のミス)の区分である。
放射線リスク管理の過誤というリスクへの対応を法的にとらえた場合、第一種の過誤を回避しようとすれば「実証なければ危険なし」、つまり「疑わしきは自由のために」という古典的規制思想に行き当たる。
それに対し、第二種の過誤を回避しようとすれば、「実証なく安全とは言いきれない」場合に「疑わしきは安全のために」との発想のもと、予防原則の観点から、不確実性解消のための継続的な調査研究の推進、適切な情報提供、情報収集・調査の義務づけや暫定的な規制措置等がとられる。このような予防原則による取り組みは、それを正当化する根拠が全くない場合には濫用になって許されない。そのため、たとえば、放射線リスクでは発がんや遺伝的影響のような重大で不可逆的被害が発生するおそれがあるから、予防的対応をとるためには、それ相応の科学的説得力や科学的方法に妥当性があることが必要になる。つまり、現在および将来の人の安全性に対する合理的疑いがあると認められる場合には、予防原則に基づく取り組みが必要となる。その場合、民主的な判断の下、必要に応じて、強い規制手段をとることも、また、調査・研究義務の賦課やリスクコミュニケーションという対応も考えられる。
3 放射線リスクと行為の正当化
放射線リスクの管理・制御は、同時に、トランス・サイエンスの問題でもある。トランス・サイエンスの問題とは、「科学に問うことができても、科学のみでこたえることのできない問題群」である。たとえば科学的に不確実ないし不知・未知がある場合に「どの程度安全であれば十分か」という価値判断を誰がどのようにするのか、そして、その合理性の追求と正統性の担保が関係してくる。放射線リスクの場合、過去および現状把握と未来予測、そしてそれへの対応策の提示は科学・技術に問うことができても、あるべき安全レベルの設定などには、十分な科学的合理性に基づく帰結が得られないから、民主的な手続きのもと、社会的・価値的評価が必要となる。しかし、今の日本の法制度や立法にはこのような視点が欠落している。それゆえ、専門家の間で賛否両論があるとき、一定範囲の専門家による価値判断が民主的意思決定を経ないまま、国民・住民を束縛してしまうという「専門家による社会支配」という見方もあり得る。
そこで、放射線防御では、行為の正当化、防護の最適化そして線量設定という三つのアプローチが総合的に考慮される。その考え方に一応則って、福島における住民の放射線ばく露について考えてみたい。
放射線作業などの職業ばく露と治療などの医療ばく露の場合、報酬や治癒・症状緩和などのチャンスを得るために積極的にリスクを引き受ける側面もあるため、一定の行為は正当化できるとされている。しかし、福島第一原発事故に由来する放射性物質により汚染された地域で生活する場合、一般公衆たる住民は、不可避的に、外部被ばく・内部被ばくによる影響のおそれにさらされ、その受容・受忍を強いられる。また、そのばく露によって直接受ける利益はなく、放射線リスクのみを負うと見ることもできる。もっとも、その地域での生活をあきらめ、他の地域に移転するという選択肢もないではないが、年齢、コミュニティ崩壊や移転後の就業などを考慮するとその判断は容易ではない。そのため、今までの住居地や近い場所にとどまる傾向もある。このように考えると、放射線防護における「正当化」は、福島の場合、自らが「決める」というよりも、「やむを得ない」「仕方がない」という言葉で置き換えられ、「決められる」あるいは「決めさせられる」といった方がよいのかもしれない。
4 防護の最適化と線量の設定
他方、防護の最適化では、ALARA (As Low As Reasonably Achievable) 原則ないしALARP (As Low As Reasonably Practicable) 原則が議論の対象となる。このようなとらえ方は、日本の裁判例でも見られる。つまり、「社会通念上無視しうる程度に小さく、容認できる」という「相対的安全」論がとられてきたのも、概ね同様と思われる。ただ、ここでいう「社会通念」、「無視しうる程度に小さい」、そして、「容認できる」という表現は、個別に検証が必要である。ここでは、リスクレベルの議論と関連づけて検討する。
放射線リスクについて、①受容不能領域、②耐容可能領域および③受容可能領域に区分される。まず、受容不能領域は、「到達すべき最低水準」を確保する領域で、リスクをはらむ活動は便益がいかなるものでも許容されない。それに対して、受容可能領域では、リスクは「一般に無視できる」から、広く受容され、さらなるリスク削減を求めることはできない。そして、その中間にある耐用可能領域では、耐えること、我慢することができるが、継続した見直し・低減化が必要とされる。
この耐用可能領域は、リスクは合理的に実行可能な限りできるだけ低くしなければならないというALARP原則が作用する領域とされている。ALARP原則によれば、リスクが耐容可能領域にあるのは、リスク削減に必要な費用が得られる利益に対して極度に釣り合わない場合のみである。
放射線ばく露を「合理的に達成可能な限り低減する」とか、「合理的に実行可能な限り低減する」ことは、「合理的」判断の基本原則のように聞こえる。このリスクレベルの議論では、「我慢できる」とか「受容できる」といった表現の評価主体、また、誰にとって合理的なのかなどその判断指標が問題となる。さらに、ここで専門家により「できる」と評価されると、ある種の権威性と結びつけられ、それに合わせた規制措置がとられやすく、結局、被影響者、つまり、潜在的被害者、住民にとっては「我慢すべき」「受容すべき」との義務づけを実質的には意味することになる。しかし、その判定自体、トランス・サイエンスの問題をはらんでいるし、また、心理学では、いわゆる専門家と一般市民との間でリスクの軽重評価、リスク認知の差異が指摘されている。人権として保障されるべき安全性水準を確保した上で、リスクに関わる個々人の自己決定の保障や民主的正統化、そしてその調和が必要になると思われる。
ただ、福島での帰還に関わる決定プロセスにおいて、放射線にばく露している地域住民等は、当該リスクに関わる意思決定に関与するきちんとした法制度がない。また、地域住民、とりわけ放射線に対する感受性が高い子どもなどに関する法的利益は、生命・健康だけではない。避難・避難生活を長期にわたって強いられているが、避難者を含め個々の住民には、そもそも事故による放射線・放射性物質から自由な生活を維持する権利ないし法的利益があると考えられる。地域住民をはじめとする個人の自己決定が大幅に制約される中、現状追認的に議論を展開するのではなく、放射線リスクへの予防的対応という原点に立ち返って問い直される必要があろう。
おわりに――認識と価値の二元論とその関係
法的議論と自然科学における議論との間の橋渡しで難しいのは、法的判断はある事実の存否や適法・違法という二元的判断であるから、確率や頻度で表される「ゼロ」と「イチ」の間をどのように処理するのかである。また、とりわけ、被害の性質と程度、規模やその不確定さに対する不安、高度な科学・技術への不信等から、そもそも社会における放射線リスクに対する受容性は、特に被爆国である日本では低いといわれている。それゆえ、放射線リスクをめぐる言説は、関数の各要素の科学的判定等に関わる問題に加え、その社会的・規範的評価の議論も絡んで、混乱し易い。
社会における実践的取り組みとしての放射線リスクの制御は、科学的判定を基礎におきながら、その社会的・政治的価値判断に基づき、民主的に決定されるべきとの主張がある。問題はどうやって民主的に意思決定するかであるが、この点はいまだ未解決の、難しい課題として残されている。
参考文献
小佐古敏荘『放射線安全学』(オーム社、2013年)
川井恵一『放射線関係法規概説』(通商産業研究社、2013年)
中谷内一也編『リスクの社会心理学』(有斐閣、2012年)
「沖縄からの報告②」辺野古新基地を巡る沖縄県と国の対立
法解釈を不当にねじ曲げ続ける国 「あるべき姿」から乖離した国の対応
沖縄タイムス社会部 国吉聡志
2017年8月15日
2017年7月24日、沖縄県は国を相手に名護市辺野古の新基地建設を巡る岩礁破砕行為の差し止めを求める訴訟と仮処分申し立てを那覇地裁に提起した。同年1月に名護漁協が漁業権を放棄したことを理由に、県に岩礁破砕(工事のために海底を破砕する行為)許可を申請しない国の法的手続きの違法性を問うものである。
これに対し国側は、宝塚パチンコ訴訟の最高裁判決等に鑑み、法律上の争訟に当たらないと反論している。だが小生は、行政行為の多様化により、宝塚最高裁判決の公法・私法二分論をいまだに採用することについては大きな疑問を抱いている。加えてそもそも上記訴訟・仮処分申し立ての前に、そこに至る国と県の対立の経過にこそ注目するべきであると考える。両者の法的なやりとりを見ていくと、国の対応に不可思議な点がいくつもある。2015年10月に沖縄防衛局が翁長雄志県知事の埋め立て承認取り消しに対し、行政不服審査法に基づいて国土交通大臣に審査請求をした「事件」を想起させるほど不当不合理である。以下に2点を列挙したい。
第1に挙げたいのは、水産庁が辺野古の岩礁破砕許可の期限を迎えることし4月前に突然、漁業法の解釈を変更したと思われることである。従来の水産庁見解は、1971年11月18日の漁政部長通知が「いわゆる漁業権の一部放棄は、漁業法上漁業権の変更にあたり知事の免許を要する」とするなど明確に示されている。これは今回の訴訟における県の見解とほぼ同じである。水産庁は2012年6月にも、10年に一度、全国一斉の漁業権切り替え手続きの際に各都道府県へ提示する「技術的助言」の中で、組合総会の議決で漁業権の変更(一部放棄)の契約が交わされても漁業権は変更されるものではないとの見解を示している。
ところが、同庁はことしの3月14日付の防衛省への回答で(1)漁業法31条に基づく組合員同意(2)水産業協同組合法50条に基づく特別決議-を経て漁業権を放棄すれば知事の変更免許がなくとも漁業権は消滅するため、破砕許可は必要ないとの新たな解釈を示した。県は、従来の見解と今回の新解釈は「明らかに矛盾する」と問題視し、水産庁に2度に渡り照会したが、同庁は「一部放棄は変更には該当しない」と回答している。なぜ、辺野古の岩礁破砕許可の期限を迎える4月前に、このような解釈変更をしたのか不思議でならない。
そもそも漁業法(昭和24年法律第267号)は、「放棄」と「変更」を書き分け、確かに「放棄」については漁業権者の意思表示のほかに行政行為を必要とする規定を設けていないはずである。だが他方で、同法22条において漁業権者の意思に基づく漁業権の「変更」については変更免許によることを定めている。つまり「漁場の区域」は免許によって定められた漁業権の内容をなすものであるから(漁業法11条1項)、漁業権者の意思に基づく「漁場の区域」の縮小は、漁業法上においては、同法22条で規律される漁業権の「変更」に該当するはずである。従って、漁業権者である漁協がいわゆる漁業権の一部放棄の総会決議をしても、その総会決議のみにより免許内容である「漁場の区域」の変動(縮小)という効力が生じるものではない。漁業権者の意思に基づく漁場の縮小が漁業権の「変更」に該当するということは、明治漁業法以来、当然のこととされてきたとされる。それを水産庁は破砕許可が切れる4月前に、突然解釈を変更したのである。
第2に指摘したいのが、前出の水産庁が見解を出す6日前、水産庁長官や法務省の担当者などが首相官邸で安倍晋三首相と面会していたということである(2017年6月7日付、沖縄タイムス2面参照)。出席者は首相官邸で辺野古問題を担当する和泉洋人首相補佐官と防衛省の高橋憲一整備計画局長、法務省の定塚誠訟務局長、佐藤一雄水産庁長官と、安倍晋三首相。面会2日後の同月10日に防衛省が岩礁破砕等許可の要否について水産庁に照会し、同月14日に、水産庁が申請は不要と回答。同日付で防衛省は県に同様の見解を示している。第1で指摘した水産庁の「解釈変更」や、沖縄県が不服を主張し訴訟を提起した場合の対応について話し合われたのではないだろうか。このやりとりを巡っては、6月6日の参院外交防衛委員会で取り上げられたが、政府側は会談の内容を明かしてはいない。質問に立った民進党の藤田幸久氏が、「質問に答えていない」と繰り返し答弁を求め、7度質疑が中断した。辺野古を巡る政府の対応が、国権の最高機関である国会の追及も及ばない「ブラックボックス」になっている。
上記の2つの点から、小生は、辺野古新基地建設での漁業法を巡る国側の対応については、2015年10月に翁長知事が埋め立て承認処分を取り消したのに対し、国土交通大臣が行政不服審査法に基づいて行った沖縄防衛局の審査請求を受け入れ、取り消し処分の執行停止を決定した手続きと同等に不当性・不合理性があると考える。沖縄防衛局は同年10月14日に申し立てた審査請求は、国民救済を目的とする行審法によるもので、在沖のメディアは不適法だと何度も指摘してきた。行政法や憲法学者の有志、沖縄弁護士会なども違法・不当性を訴えてくれた。沖縄県は本執行停止処分が不当な国の関与に当たるとして、国地方係争処理委員会に審査を申し出たが、国交省の判断に不合理な点はないとして、同年12月に却下された。
上記の行審法を巡る国と県の対立は、行政体同士の紛争を処理する国地方係争処理制度と、行政処分に対する国民の不服を受け付ける行政不服審査制度が交錯したきわめて珍しい事案であった。いま改めて取材していた当時を振り返ってみると、国側は上記の県の審査申し出や専門家の批判を見越した上で行審法を曲解して使ったのだろう。国側はおそらくこう考えていただろう。「地方自治法250条の13が定める審査申し出の対象は是正の要求や許可の拒否といった公権力の行使に当たる行為、その他不作為や協議の不調などに限定されている。国交相が下した行政不服審査法という国地方係争処理とは別の制度の中で進行しており、行政不服審査制度の中で進行する国の裁決や決定のような行為については、形式的には国の関与にあたるとしても、係争処理委員会への審査申出の対象からは除外してしまっている(地方自治法245条3項)。これは係争処理制度と行政不服審査制度という異なる制度がぶつかって混乱しないようにあらかじめ交通整理を行った条文であるから、係争処理委員会は趣旨を尊重して申し出を却下するだろう」と。
今回の漁業法を巡る対立においても、国側は事前にシュミレーションして、「県が不服として訴訟を提起しても、『法律上の争訟』に当たらない。県が不服を訴える『土俵』は司法には存在しない」と規定しているのだろう。しかし、かといってこのような恣意性が疑われ、判断過程が不透明な解釈が許されていいものだろうか。県が無許可と反発している国の対応につき、双方で議論が尽くされた結果とは言い難い。これは明らかに国と地方の対等・協力関係をうたった改正地方自治法の趣旨に反する状態である。国と地方公共団体で条文の解釈が異なる場合は、丁寧に協議し、対応を検討するのが1999年に改正された同法が目指す「あるべき国と地方の姿」であったはずだ。しかし、辺野古を巡る現在の国の対応は、同法の趣旨からかけ離れてしまっている。そしてこのような「上から目線」の法解釈は、かつての機関委任事務制度があった頃の国と地方の時代を想起させ、憲法が保障する地方自治の本旨さえも蔑ろにするものではないだろうか。
(了)
「沖縄からの報告①」掲載の趣旨について
稲葉一将(「考える会」世話人)
2017年8月15日
「考える会」が開催されるようになったのは、個々の「生」を普遍性から切り離された特殊性を有する個別問題として捉えるのではなくて、「民主主義」の一問題と捉えるべきこと(生における民主主義)、また「民主主義」の問題を考える場合も、これを一般的抽象的に捉えるのではなくて、個々の「生」という豊かな特殊性に即して捉えるべきこと(民主主義における生)、が意識されたからであると思う。このような意識は、従来の諸学問がありのままの事実と正しく向き合っていないこと、したがって現状を正しく分析できていないことへの不満から、生まれたと思う。
このような「考える会」に参加する者であれば、誰でも、そのきっかけは「生」であれ「民主主義」であれ、どちらであっても無関心でいられないのは、沖縄(たとえば、辺野古や高江)にて、あらわれている諸現象である。しかし、本会は、沖縄から頻繁に講師を招くだけのゆとりをもたない。そこで、今回から、不定期ではあるが、「沖縄からの報告」と題して、沖縄の現状報告を、現地に暮らしているかたがたにお願いすることとした。
論説をどのように読み、読んだ後どのように行動するのかは、読み手の自由である。が、わたしとしては、たとえば三枝博音『日本の唯物論者』(英宝社、1956年)に述べられていた意味での、観念論者から唯物論者への性質変化を促す媒介の一つとして読んでいただきたいと希望している。わたし(やわたしのまわりにいるひとたち)だけ息ができればよいというようなそんなちっぽけな世界など眼中にない、同じ元素の構成物である人間(もちろん自然界のすべて)であればだれでもほんらいの生活ができるのびのびとした世界をつくりたい。このようなひとたちが一人でも増えれば幸いである。
以下、『日本の唯物論者』の「まえがき」から。
「観念論とは、その社会が泥沼のようであろうと風波さえたたねばよいと現状を甘受し、享有している人たち世界観であるのではなかろうか。唯物論とは、それとは逆で、現状に決定的に抗議し、人間生活の在り方を、ほんらいのものにかえそうとする人たちの世界観ではあるまいか。」
「人間存在の本質から出てくる抵抗、ことにその社会的な本質からくる抵抗、それの思想的表現、これがじつに唯物論であるのではあるまいか。」
「いわゆるごみ屋敷問題から見た精神医学と社会」(第23回多文化間精神医学会学術総会シンポジウム
『共生のための精神医学とは』2016年10月1日(土)栃木県総合文化センター)
古橋忠晃(精神健康医学、「考える会」世話人)
2017年4月7日
古橋は行政法学や社会学の専門家と共同で2015年にごみ屋敷問題研究チームを立ち上げ、いくつかの自治体の聞き取り調査を行いながら、本問題についての議論を重ねてきました。本シンポジウムでは古橋がシンポジストになり、研究チームの成果を基にして、ある人間による堆積行為の結果を「ごみ屋敷」として捉えている社会とはどのような社会なのか、あるいは「ごみ屋敷」を成り立たせている人間を「精神障害」として捉えている精神医学とはどのようなものかについて考察し、他のシンポジストの先生方と議論を行いました。
「Q&A地方行政-条例」自治と分権67号105頁以下
稲葉一将(行政法学、「考える会」世話人)
2017年4月3日
本会でも何度か取り上げられている不良な生活環境解消条例(いわゆるごみ屋敷条例)に、ごく簡単にですが言及する機会を得ました。稲葉一将「Q&A地方行政-条例」自治と分権67号105頁以下。自治体が権力的行政活動に安易に頼るのではなくて「支援」を基本とするべきであることにくわえて、社会関係における「支援」と国家が期待する「支援」との対立や緊張関係の重要性を意識しました。
決めること、決められること、決めさせられること
下山 憲治(行政法学、環境法学、「考える会」世話人)
2016年6月21日
マスメディアへの想い
西土 彰一郎(成城大学法学部)
2016年5月5日
このごろ、ふと思い立って、吉田秀和の音楽評論集『私の好きな曲』(ちくま文庫、2007年)を読んでいる。バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン・・・・・・珠玉の文章を堪能することこそ、生きる喜びであると実感する。そんななか、シューマンの『はじめての緑』(Erstes Grün)に触れている章に出会った。吉田秀和は、ここでも、真情溢れる美文を残しているが、その最後に、『はじめての緑』といった作品はひろいホールで歌われるのにふさわしくないと、愛着をもって述べている。章をしめくくる文は、次のようなものである。「人に知られず、ひっそり生きているものを、広場にもちだすべきではない」。
2016年4月16日、稲葉さん(友情をこめて「さん」と呼ばせていただく)のご厚意により、「これからの生と民主主義を考える会」で報告する機会をえた。じつに、楽しい時間であった。日々、生きづらい思いをして勉強している身としては、近年どういう理由からかあまり使われなくなった学問共同体という言葉を再び認識することができ、その雰囲気にそっと触れることのできたのは、本当に嬉しかった。社会と真剣に向き合い、深く考えている参加者のみなさんに対して、話題提供としてお話しした内容は、最近またしても注目を浴びている番組編集準則についてである。その内容は、「活動報告」のなかで紹介されているので、ここで繰り返すことはよしておく。ただ、みなさんと対話するなかで、いわゆるひきこもりがちな若者をめぐる報道に話がおよんだとき、脳裏をよぎったのは、「人に知られず、ひっそり生きているものを、広場にもちだすべきではない」という先の吉田秀和の一文であったことは告白しておいてもよかろう。
マスメディアはひきこもりに触れるべきではない、という意味では、もちろんない。むしろ、逆である。社会に埋もれた声を掬い上げることが、現場のジャーナリスト(放送番組制作者)の役割である。ひきこもりも表現であり、ひきこもりがちな若者は、「広場」のなかではなく、「広場」に向けて、既に、それぞれの想いを抱いて表現の自由を行使している。ひきこもりがちな若者の生を表現として、したがって権利の行使として、取り上げることにより、「広いホール」にふさわしい声だけが生なのではないと、社会の偏見に反省を迫っていく。それこそが、「これからの生」の多面性に開かれた、表現(=人間の生)を繊細に表現していくジャーナリズムのあり方なのではないか。
ひきこもりは、客観的に見れば、「人に知られず、ひっそり生きている」のかもしれない。でも、遠くからでも耳を傾けている人がいる・・・・・・この安心感を与えてくれるマスメディアへの想いは、わたくしなりの生からしても手に取るようにわかる。こうした多様な生の想いを酌んだ番組を意識的に制作さえしていれば、国家の介入など何も恐れることはない。権利の言説は、社会の偏見のみならず、国家に対しても大きな威力を発揮すると思う。
「これからの生と民主主義を考える会」について
古橋 忠晃(「考える会」世話人)
2016年4月26日
「これからの生と民主主義を考える会」を、行政法学や社会学の専門家の先生方と立ち上げて一年半が経過した。このあたりで、会の特徴やその意義について振り返ってみたい。会の目的としては、会の名称に含まれている我々の「生」をとりまく現実の多層性について様々な問題を通して捉えることにある。同じ民主主義の世界を生きているはずの我々は同一の現実を共有しているわけではなく、少しずつ異なった現実を生きている。このズレが現代の様々な問題を生じさせることがありうる。筆者ら発起人は、民主主義(democracy)の語源のとおり、「民衆(dêmos)」が「統治(kratein)」の権力を持つことがその問題にどれほどに影響しているのか、つまり、民主主義と強い統治は互いに矛盾するものではないという意識のもとに会の運営を行ってきた。
特徴は以下の三つに集約することができる。
1)多分野の専門家が集まって議論すること
2)アクチュアルな問題を議論すること
3)現場で実践している専門家の話を聞くこと
1)の特徴から考えてみよう。同じ分野の専門家が集まることよりも様々な領域の専門家が集まるタイプの多分野型(学際的)の研究会は最近あちこちで行われている。こうした研究会の利点とは何か。私の専門とする精神医学は、西洋において、そもそも学問自身の内側で発展を遂げてきたというよりは、18世紀末以来他領域という外部との関係で発展を遂げてきたと言ってもよく、そもそも他領域との交流が欠かせない分野であり続けてきた。精神医学に限らず、ある学問の内側からでは「権力」の構造は見えないのではないかと思われる。だからこそ、このような多分野型の研究会が、私の専門分野にとって、極めて重要であり続けると思われるのである。
2)について考えてみよう。現在、わたしたちを取り巻く世界においては様々な現象が同時代的に起きている。その現象について様々な領域の専門家が問いを立てることが重要なのは、それらの答えに重要性があるのではなく、どのような問いが成り立つのか、ということを、まさにその現象が生まれつつある今において考えることができるからである。現在、発起人らを中心に研究が進行している「ごみ屋敷」の問題もまさにそれである。精神医学は、あるいは医学は、ごみ屋敷の主人が社会的ニーズによって医療化された後にしか関わることができない、つまり、社会的ニーズの後追いをすることしかできないのが現状である。だが、医療がそのようになったという現状に嘆いているわけでない。しかし、社会的ニーズの揺籃期の段階で、本人を取り巻く行政の動きを行政学者や社会学者と共に観察できるのは、極めて新鮮というだけではなく、問題の解明にとっても本質的なことではないかと思うのである。
3)について考えてみよう。1)と2)のみでは、あくまで専門家同士の机上の空論であり、実感が沸かないだろう。その生まれつつある現象に直面している当事者や専門家の話を、できる限り先入観を取り払いながら、聞くことが重要であると思われる。しかも、筆者自身は精神医学の専門家であり、会においては時として専門家として話をする立場も兼ねている。自身の専門領域の話を、他領域の専門家に聞いてもらい、聞いてもらうことで自分自身も対象化して、客観的に現実を把握することを目指している。このようにとりわけ筆者にとって、話をすることと聞くことの切り替えが、重要なことであると思われるのである。
筆者の専門領域は、青年期の「ひきこもり」である。筆者は、「ひきこもり」とは何かという本質論に傾くことでは、その答えは出てこないと考えている。そうではなくて、重要なのは、「ひきこもり」について何が言われてきたのかというコーパスから「ひきこもり」を考えることである。コーパスとは、当事者によって語られたこと、「専門家」が当事者について語ったことだけではなく、他の領域の専門家が「ひきこもり」について立てた問いも含まれる。筆者は、3ヶ月ほどまえに、フランスの大学の心理学科で「ひきこもり」について講演を行ったときに、現地の社会学者から「ひきこもりは民主主義と関係があると思いますか?」という質問を受けた。答えとしては、個人的には、極めて関係があると思ってはいたが、それよりも重要なのは、その問いそのものである。つまり、質問者は、「ひきこもり」は病院の診察の中で扱う医学的現象に還元できるものとは思っておらず、社会現象のように捉えられていること、さらには原因も民主主義の何らかの歪みのようなものとして考えていたようであった。「ひきこもり」はそうではない、やはり医学的疾患であると反論もありうるだろう。しかし、そのように質問者が捉えている「ひきこもり」に関する何かが存在するのは確かである。このように、他領域の問いを集役したコーパスこそが、私の「ひきこもり」研究の対象であり、それだけではむしろ社会学者との共同作業が有効になる領域であるが、私にとってより重要なのは、一方で、精神科医として当事者と医療的に関わることでそのコーパスそのものが生きたものとして生み出される場にも立ち会うことも兼ねていることなのである。
要するに、筆者は「ひきこもり」という、今日的な問題に関して(2)、日々の臨床において専門家として実践しつつ(3)、それを他領域の専門家達と議論することを通して(1)、最終的には日々の臨床の中で生かし、それを再び・・・、という循環運動の中で活動しているのだ。これまでに、様々な発表を諸先生方にしていただいたが、全ての発表はこれに沿った形で行っていた(少なくとも私の頭の中ではそうなっていた)。「これからの生と民主主義を考える会」は先日で第13回を迎えた。しかし、まだまだ話題は尽きないし、むしろ、この会で取り上げて議論したい事象は日々新たに生じているように思われるのである。
「ごみ屋敷条例」に対する雑感
弁護士 舟木 浩(京都弁護士会)
2016年4月26日
1点目は、「ごみ屋敷」の対策を条例で定めることに対する違和感である。「ごみ屋敷」は、長い時間をかけて作り上げられた状態であり、それを作り出した人がいる。背景事情はさまざまだとしても、多くの場合に病気や障がいや生きづらさを抱えている。「ごみ屋敷」は、医療や福祉サービスへのアクセスの悪さや地域での孤立などが生み出した現象とも言える。第三者が「ごみ」と決めつけて片付けても根本的な解決にはならず、むしろ事態を悪化させるおそれがある。まずは制度やその運用を少しでも改善することが試みられるべきであり、それらを放置したまま、「ごみ屋敷」という現象への対策を講じることは、根本的な方向性を誤ったものだと思う。
2点目は、「ごみ屋敷」に行政が介入することの危険性である。他人から見たら「ごみ」でも、その人にとっては大切な思い出の一部かもしれない。また、物を捨てたいと思っても、高齢や病気になって体力や認知機能が衰えたとき、誰でも物が捨てられなくなる可能性がある。「ごみ屋敷条例」が対象とする現象が広範であったり、その意味内容が曖昧であったりすれば、行政が恣意的な判断によって私生活に土足で踏み込んでくるようなことが生じうる。その危険性を未然に防止するため、条例の中で歯止めをかけるのが議会の役割のはずだが、京都市のように、審議会を設置せず、即時執行という介入を認めるなど、行政の権限をかなり緩く認めているものも現れている。
3点目は、地域社会からの排除に対する懸念である。条例で氏名の公表、命令、罰則等を設けることは、「ごみ屋敷」を生み出す人たちに対して悪いイメージを植え付けることになる。これでは「ごみ屋敷」の中で暮らす人が困っても、自ら名乗り出て助けを求めること自体を躊躇することになりかねない。そして、仮に氏名や住所が公表されたら、地域で暮らすこと自体が困難になる。また、大阪市や京都市のように地域住民の参加を規定する条例もあるが、京都市のような「自治組織の責務」という規定だと、行政が地域住民を無理やり巻き込むやり方も可能になり、その場合、かえって地域内での孤立を深めることにもなりかねない。
誰もが地域の一員として安心して暮らしていける社会に必要なことは、自治体が「迷惑行為」を定めてそれを取り締まることではない。「ごみ屋敷」に対して条例を定めるとしても、世の中にあふれた誤解や偏見をなくすための地道な取り組みにこそ力を注いでほしい。
最近、いくつかの自治体が、いわゆる「ごみ屋敷」に関する条例を制定している。マスコミ等で報じられた主な自治体の条例について概要をまとめたものが別紙の比較表である。以下では、別紙を踏まえて、「ごみ屋敷条例」に対する危惧を3点だけコメントしたい。なお、別紙の内容は、一覧性を重視し、必ずしも条例の正確な引用にはなっていないことを予めお断りしておく。
別紙 「ごみ屋敷条例」の比較表
階層制と市場のあとに到来するもの
稲葉一将(行政法学、「考える会」世話人)
2016年4月26日
1 世界市場と国家機能の変化 世界市場などの表現の仕方は一様ではないが、資本主義経済の同一性を各国の構造改革に見いだすことは難しくない。この意味で、世界は、通時的(diachronic)であるよりも、むしろ共時的(synchronic)な特徴をより一層強く有するようになってきている。富の偏在を解消しない資本主義経済に対する抵抗は、原理主義的な形となってあらわれているが、このことは、各国の治安機能の強化を生み出してもいる。国家機能の一部の強化という意味での階層制(hierarchy)と市場(market)とから構成された社会のなかでしか、生きる場所はないかのようである。
しかし、『資本論』第2版後記を引用するまでもなく、現状の肯定的理解のうちに否定が、その必然的没落の理解が含まれているとすれば、この意味で、誰もが「批判的」であり「革命的」な思考を避けて通ることはできないであろう。富の偏在が顕著となったが、同時に、商品の購入や商品生産過程(労働)これ自体に対して醒めた目をもつ若者が増えてきているのも事実である。これらに代わって、人間関係の回復が試みられるようになったこと自体は、悪いことではない。本会が用いる語を使えば、「これからの生」の探求が試みられている。そして、国家が民主主義的形態を放棄しない場合には、「これからの生」は、これを民主主義的形態でもって包摂しようとする国家とこれに対する抵抗の過程を経て、形成されていくのであろう。一般的な言い方をすれば、マルチチュードと言うかどうかはともかく、生(life)を実現するための自己組織化(self organization)が、国家や民族の差異をこえて、各地で試みられるようになったのである(ハートとネグリによる2004年の著書『マルチチュード』の叙述のうち、いわゆる福祉国家の後退とともに社会に広がった福祉役務提供等の非物質的労働形態が、情動的な社会関係網を形成しており、国家もこの社会関係網に依存する寄生的存在に転化しているとされる箇所(原著336頁。)のことを指している。)。
もちろん、資本主義経済と国家はそう簡単に崩壊しない。階層制と市場の交換様式(mode of exchange)は、強力である。保育を例に考えてみても、企業経営の無認可保育園が参入し、自治体が若干の規制を行っている現状の問題点を、公的規制が不十分である、あるいは規制ではなく公的主体による直営の保育の欠如、と理解する者は、アカデミズムの世界ですら少なくない。このような理解の仕方は、市場の問題点が階層制の交換様式(行政による課税と富の再分配。)によって制御されるという考え方(つまり階層制と市場との組み合わせ)が、いかに強力であるのかを物語っている。本稿の筆者が属する行政法学の分野でも検討されるようになったいわゆる公私協働論が、市場化と国家行政(による監督)という組み合わせ(行政法の分野では、これを「再規制」と述べるものや、「保証国家」と述べるものがある。理論動向の概要を示すものの一つとして、岡村周一・人見剛編『世界の公私協働』(日本評論社、2012年)がある。)を超越する論理をもたないのも、同様である。
2 ネットワークの交換様式 歴史的に、あるいは一つの発展段階として、階層制でも市場でもない交換様式が存在していたこと自体は、理解できる。たとえば、マリノウスキーは、互酬を “savage society”に見いだしていたが、彼にとっては、“the element or aspect of law, that is of effective social constraint” は “complex arrangements”から構成されており、これらのうち“the manner in which many transactions are linked into chains of mutual services”が最も重要であると述べられていた(BRONISLAW MALINOWSKI, CRIME AND CUSTOM IN SAVAGE SOCIETY 32 (1926).)。今日的意義は、ないのであろうか。
哲学の分野では、階層制でも市場でもない交換様式の探求が、論じられるようになっている(たとえば、柄谷行人『世界史の構造』(岩波書店、2010年)14頁(互酬の高次元での回帰)、396頁(共時的変化、晩期マルクス)、464頁(国内的変化と国際的変化との相互作用)の叙述がそうである。)。また、Mark Granovetterの名が広く知られている経済社会学や組織論の分野でもネットワーク形式が論じられている。たとえば、組織論の代表的論者の1人であるWalter W. Powellには、Neither Market Nor Hierarchy: Network Forms of Organizationという、まさにそのものを表現した題名の1990年の論文があった(同論文は、 MARKETS, HIERARCHIES AND NETWORKS: THE COORDINATION Of SOCIAL LIFE 265 (Grahame Thompson et al. eds., 1991). に掲載された。)。このなかで、ネットワークの性質の一つは、互酬(reciprocity)であると論じられていた。
本稿の筆者は、経済の歴史性を無視して「空想」したいのでは、決してない。上述した学問動向が、前近代の時代区分でない社会においても、ネットワークまたは互酬の性質を有する交換は存在するという仮説に基づいているということを確認しているのである。前近代社会の高次における回帰、という論点は、人や社会の発展を考えるためには価値ある論点である。改めて確認するまでもなく、マルクス自身も資本主義社会のあとに登場する将来の社会を展望するために、原始(的)共同体を研究していたことは良く知られている(ポランニーなどの経済人類学とは距離をとり、これを基本的には批判する内容のマルクス経済学からの叙述として、平野喜一郎『現代思想と経済学』(青木書店、1986年)54頁。反対に、ポランニーを研究していた玉野井芳郎『市場志向からの脱出』(ミネルヴァ書房、1979年)30頁以下も、晩年のマルクス(ザスーリチへの手紙の草稿や共産党宣言のロシア語版序文)における古代社会への関心に注目していた。)。
若干の現象形態をあげる程度のことであれば、本稿の筆者にもできる。人と人とが何かを交換する場合においては、交換内容が複数性を有する。たとえば、Community supported agriculture (CSA)の運動が各地でみられるが、これは一般に、農業における生産者と消費者との間の互酬形式での交換を目指すものである。最も安価な農作物を購入する(これが市場形式である。)代わりに、高価な農作物を購入する消費者は、味や安全性といった商品の市場価値を金銭で交換すると同時に、本来の農業が有する複雑で繊細な過程を知るという農業経験を間接的に得る、少なくともこうした知識を入手する。このような経験を有する消費者が一人増えたからといって生産者が直接に利益を得るわけではないが、このような消費者が友人であれ家族であれ価値を共有することを通じて将来的に、生産者が利益を得るのである(少なくとも、この可能性がある。)。
3 人の複数性に応答可能な行政制度 ところで、交換される内容が複数性を有するということは、人も複数性を有するということである。上述した例に即して言えば、農産物の購入者は消費者であると同時に農業の生産者の性質を有してもいる。これを、消費者が消費者の利益を追求すると同時に、生産者の利益実現に関与している、と言い換えることができる。ほかの例をあげると、フェアトレードは、低賃金労働を抑止するために消費者集団が適正価格を設定するものであり、こうした商品を消費者が購入する場合には、消費者利益というよりもむしろ、労働者の利益が考慮されている。自治体行政でも、公共事業等の契約において、適正な賃金が反映された公契約条例が制定されるようになっている。納税者にとって最も安価な公金の支出が、選択されていない。納税者が公共事業に従事する労働者の利益を考慮することは、納税者が労働者性を有することによって可能となっているといえる。この例も、市場における価値(公共事業の市場経済性)とは異質の価値が自治体行政の現場に存在する一例と数えることができる。このように、人が市場の価値だけで行動しないことは自明であるのみならず、この意味で人が有する複数性が制度にあらわれるようにもなってきている(この「複数性」という観点は、本会第7回会合にて川北稔氏が行った、若者支援のための複数性を有する生活空間形成に関する話題提供から示唆を受けた。)。
筆者が研究対象とする行政法の学問領域に即して述べてみよう。互酬の交換様式や人の複数性を直接に論じたものではないが、意味ある指摘がみられるのは、Orly Lobel, New Governance As Regulatory Governance, in THE OXFORD HANDBOOK OF GOVERNANCE 65 (David Levi-Faur ed., 2012). である。企業統治を論じた本稿でLobelは、企業の不正行為を防止する目的を実現するために、行政機関は、企業内部の労働者が組織に忠実である(organizational loyalty)場合には改善を求めて命令(command and control)を行う(階層制に該当する。)べきであるが、労働者が市民性を強く有する(citizenship loyalty)場合には、 “the need for legal protections for whistleblowing” が生ずると述べていた(同76頁。)。この論文に本稿の関心から接近すると、企業の不正防止という同じ目的を実現するために、行政機関は、市場と階層制との組み合わせにおいて、市場の弊害を除去するために用いられる一方的な手段であるcommand and controlだけではなく、内部告発者の保護を選択すべき場合があると述べられている点が特徴的である。内部告発者の保護は、「市民」による労働者の保護と労働者による不正行為の告発という交換を実現するための手段である、と解することができる。企業の不正行為を告発する行為は、法学的な概念では一種の公益実現を目的とするものであって、誰かの権利利益を実現するという目的を有しないから、内部告発者の保護は、これを交換様式という観点からみると市場には該当しないもの、この意味でネットワークまたは互酬の性質を有するもの、といえる。この例は、企業内部の労働者が(企業組織内部の上下関係という意味での階層制の行為規範に拘束される)労働者性と(企業組織の外部の市民的倫理に拘束されて、不特定の市民に向けて情報を提供することによって、市民のうちの誰かから世論を通じて保護されるという意味での互酬的な性格を有する交換を試みようとする)市民性とを有しており、どちらが強い労働者であるのかによって、行政機関が、用いる手段を変えるべきことが述べられていたものである。以上を要するに、市場と階層制との組み合わせだけが、唯一可能な制度ではない。そして、人がどのような交換様式に拘束されているのかの違いに応じて、労働者性や市民性などの人が有する複数性に応答できる(responsible)行政制度を構築するという課題がある。
4 むすびにかえて、不良な生活環境解消条例について さて、「考える会」の世話人の1人として本稿の筆者も、「不良な生活環境」を解消するための行政による措置(「不良な生活環境」を名称に用いた条例は、京都市と豊田市がある。もっとも、大阪市と郡山市も、不良な状態の適正化という語を用いており、どちらにしても「不良」状態の解消が目指されていることに変わりはない。本稿執筆時点で案の段階であるが世田谷区条例案では良好な生活環境の保全が名称に用いられている。「不良」か「良好」かは表裏のどちらかであるにすぎず、本質は同じである。)の情報を収集して、この問題点を明らかにするための研究活動を行っている。なぜなら、ひきこもりがちな若者などの「まごつく」人の生と同じく、この現象形態においても、本質的には「これからの生と民主主義」が問われていると、本稿の筆者も直観しているからである。
社会学や医学から接近することによって発見される問題点は、本稿の筆者以外の世話人が明らかにしてくれるだろう。筆者が研究する行政法の観点からこの現象に接近する場合には、各地の条例に盛り込まれている措置内容に、不良な生活環境といわれる環境を改善するための命令や代執行、さらに即時強制といった階層制に該当する行為や制度が盛り込まれていることが、注目されることになる。不良な生活環境に不安を有する住民の要望(公益実現を目指す住民)に応じて自治体行政が一方的に措置を行おうとするのは、納税者の要求に応ずる(公的資源の再分配)という意味でも、一方性(権力性)を有する行政活動が行われるという意味でも、この場合の行政が階層制の性格を有するからである。このような性格を有する行政制度が定められた条例に対しては、批判が有力に主張されている(本会のRecent Outputの4月26日に掲載された舟木浩弁護士のエッセイは、この条例の反対運動にかかわった著者によるものである。条例の問題点が分かりやすく述べられている。)。
もちろん、「不良な生活環境」に苦しむ本人が便利屋のビジネスに任せれば済むことでもない(市場の否定)。それでは、階層制でも市場でもない交換様式(ネットワークまたは互酬)で思考して、この交換様式の上部に形成される行政制度を構想することはできないだろうか。たとえば、「ごみ」の場合であれば、①「ごみ」の堆積行為と同質の何かを近隣住民自身も有していることを住民が知り、②ここから「ごみ所有者」というレッテルに解消されない何か(物に込められた想いなど、近隣住民が共有できる何か)を所有者が有していることを近隣住民が知り、③近隣住民と所有者との間に交流が生まれ、近隣住民が「ごみ」の解消を手伝うようになり、④近隣住民との間に何かが共有されることを知った所有者も変化して、将来、堆積行為への依存から脱して地域社会の主体性を回復する、という意味での人の複数性を回復するプロセスが仕組まれた社会基盤を整備する必要性が、この種の制度整備においては考慮されなくともよいのであろうか。この場合の③と④とは、階層制でも市場でもない交換を行うことであり、このような意味でのネットワークまたは互酬の様式を有する交換を制度的に確保することを、自治体行政は考えなくともよいのだろうか。
階層制でも市場でもない交換様式が存在することに自覚的な行政が社会に介入を開始した場合に、どのような法制度が整備されることとなるのか、つまり、このような制度化過程のなかから「支援」の原理が形成されてくるのかが、行政法を学ぶ本稿の筆者の関心事である。