稲葉 一将 (名古屋大学)
序論_本研究の背景
この「中間まとめ」は、劣化した生活環境を放置せず、この原因や解消方法を問題とする社会関係(「ごみ屋敷」という名称でこれを問題とするようになった社会関係)の形成が、社会関係の枠内にとどまらず、条例という法制度(国家権力の媒介)によって「不良な生活環境」の「解消」をめぐる法関係となった段階で、この社会的・法的現象の論点整理を試みるものである。まず、「序論」では、本研究が、この現象に注目し、問題点の解明に着手するようになった背景を述べることとしたい。
(1)変容する都市空間の一現象
住民の高齢化とともに居住する建築物も老朽化し、居住者の生活環境も劣化することこれ自体は、老いに伴い生ずる不可避の現象である。しかし、これらが社会現象となり、さらに社会現象にとどまらず条例による命令・代執行や即時強制あるいは支援の対象となることは、従来なかった。条例が定められるということは、社会関係の全体ではなくこの一部が自治体の関与の対象となるということであり、この前後では社会関係も異なるのである。
自治体の内部部局では福祉と環境というそれぞれの部局の事務の一部とされていること、自治体によってどちらの部局が主たる関与をするのかの違いがあることについては、「中間まとめ」1(1)[樫村執筆]および3(2)(3)[下山執筆]で述べられている通りである。
福祉部局または環境部局のどちらでもよいが、自治体の事務と社会関係との不一致は解消されることなく、残る。このことは、一般的には、「中間まとめ」1(2)[樫村執筆]の最後において示唆されていることである。個別的には、特に条例の対象となる行為と医療の定義との不一致という問題が、2(1)[古橋執筆]において指摘されている。
地域における社会関係と自治体との不一致という問題に接近する場合に、条例が政令市に多いこと、つまりこの条例の地域性が問われるべきであることは、当然である。この数年間に次々と条例が制定されることとなった現況は、「中間まとめ」3(4)[下山執筆]において述べられている通りである。しかし、住民の一部は、国法が個別的に規制していない事項を条例により規制しようとする自治体の行為の正当性と合法性に疑義を表明していたのであり、この事実も忘れられてはならない。
社会問題化した「ごみ屋敷」の地域性を問う場合には、開発段階にある社会では生活環境の劣化という捉えられ方これ自体が存在しないか、無意味であることに注意しなければならない。生活環境の劣化という捉えられ方は、いちど経済的繁栄を経験した社会が困窮へと転落を開始した段階で顕在化する。この意味で、生活環境の劣化が社会問題と捉えられるような社会は、かつて工業化に成功したが製造業の低迷によって地域全体が経済的転落を経験したような地域性を有する。この意味で、この「中間まとめ」が論ずる問題と経済社会の変化とは無関係ではないし、経済社会の違いを無視して、建築物の老朽化など同じような劣化の現象が、ある地域では社会問題化せず、ある地域では問題化するといった地域間の差異を論ずることには、あまり意味があるとは思えない。
本格的な考察は今後の課題とせざるを得ないが、現時点においては、生活環境の劣化という捉えられ方が行われるようになる社会の構造を、通時的視点から当該地域の変化を分析するのみならず共時的視点からも分析する必要があることだけを指摘するにとどめたい。この問題は、日本国内のいくつかの地域にしかない些末な問題ではないからである。共時的な視点からこれをみるのであれば、経済的成長を経験したが没落に転じた地域は、世界中に多数存在する(たとえば、ハーヴェイによる共進化過程(co-evolutionary process)の叙述(デヴィッド・ハーヴェイ(森田成也ほか訳)『資本の〈謎〉』(作品社、2012年)189頁以下、ペーパーバック版の原著では149頁以下。)にみられるような、グローバル都市とスラムとの相互依存、これらの中間に存在する経済的没落地域という並存の構造が参考になる。)。これらの海外の研究と本研究との学問的ネットワークの構築も可能であり、また有意義であろう。さらに、経済的成長を遂げている中国や今後成長が予想されているアセアン諸国が、日本でいま起きている問題を予想し、これに対処しながら経済成長を計画できれば、日本がいま経験しているような問題を回避することができる。
(2)資本主義的生産と矛盾
本研究は、もともと2014年に開始されていた「これからの生と民主主義を考える会」という活動のなかから生まれ出たものである。この「考える会」は、これをごく簡単に述べるとすれば、資本主義的生産様式に奉仕する国家現象に注意しながら、これと矛盾(敵対)する生活様式を実践する試みとこれが実現するための民主主義のあり方を追求するための場である。本研究も、このような観点から取り組まれている。
建築物の老朽化や生活環境の劣化これ自体は、ある所有地において生じていることであり、所有者以外の第三者がここに関与できる場合は、本来であれば、隣接する住民が火災の予防を要求するといった正当な利益を有する場合に限定されている。しかし、いくつかの自治体が制定している条例によれば、「不良な生活環境」は、たとえば「建築物等における物の堆積又は放置、多数の動物の飼育、これらへの給餌又は給水、雑草の繁茂等により、当該建築物等における生活環境又はその周囲の生活環境が衛生上、防災上又は防犯上支障が生じる程度に不良な状態をいう。」(京都市)というように、多義的に定められている。支障が生じる「程度」は、周辺住民の意識によって一様ではないから、周辺住民が正当な利益であると主張する利益内容は、生命や財産権(火災の予防)に限定されていない反面、この種の行政に快適な生活を要求する住民の意識の正当性も、個々の住民によって評価が一様ではない。
以上を要するに、権利利益の主張や要求が有する他者の支配という権利の構造の一面がみられるのである(同様に、「中間まとめ」2(2)[古橋執筆]では、精神医療においても、自己管理できる自己が前提とされることにより、医療の対象行為が拡大したと主張されている。)。誰のどのような権利利益が正当であるのかこれ自体は実際の力関係で決まるとしても、粗野な実力闘争を是としないのであれば、保護法益性を有する正当な利益は何かを国民・住民全体の参加で決めるべきであるという意味での民主主義の問題が存在する。
本研究が関心を有するのは、周辺住民が建築物や生活環境の「不良」性の有無を判断し、この「解消」を自治体に要求するといった変化を生じた原因である。これを言い換えれば、「生活」が居住者本人ではなく「環境」の一種とされて、本来多様なはずの「生活」が実際には一次元的な価値の支配を受けるようになった原因である。この答えは、今後の研究において明らかにされるべきであるが、本研究は、前述した「考える会」の趣旨がそうであるように、生活が資本主義的生産にますます支配されていることとの関連性を重視したいと考えるものである。
たとえば、老朽化した建築物は、スラムへと徐々に移行して放置されるか、さもなければこれは資本主義的生産においては排除され、土地活用に姿をかえて商品再生産の対象となるのかの違いがある。このような観点からみれば、自治体による老朽化した建築物の撤去命令・代執行は、その形式的理由が何であっても、実質的には資本主義的生産に奉仕するもの以外の何物でもないとみえるようになる。
資本主義的生産に貢献しないと評価される生活環境が、社会関係において排除され、安易に医療の対象とされ、行政の権力的非権力的活動を通じて地域社会から排除されることが許されるのであれば、この論理は、特殊な「ごみ屋敷」に限定されることなく、ほかにも見出されるのではなかろうか。たとえば、学校の種類にかかわりなく行われる優秀な学生とそうではない学生との選別、高価な商品を生み出す優良な労働者とそうではない労働者との選別。本研究は、特殊な事例を特殊性の一つに分断し、これと普遍的な問題とを切り離すのではなく、普遍性を特殊な事例に即して追究しようとするものである。
(3)社会関係と法関係の全体
生活環境の劣化現象は「ごみ屋敷」などといった俗称が定着しており、論文検索を試みると、この呼称の適否がとくに問われないままに、主として医療や福祉の研究者や社会学分野の研究者がこれに問題関心を有している。建築物の老朽化現象である空家問題は、法学なかでも行政法、地方自治法または都市法の研究対象とされていたが、医学や社会学の研究者は、前述した現象形態ほどにはこれに対して強い関心を有していない。このような分業に違和感がなければともかく、別々に論じられている現象形態の共通性あるいは本質を問うためには様々な学問分野の研究者がともに研究しなければならないし、またこのような研究が可能となるためには、それぞれ所属する学問分野に存在していた自己に対する制約が自覚されなければならない。
かつて日本の法学には、素朴な社会関係が法関係になるまでの媒介項として法意識・法規範・法制度の存在を指摘するとともに、法意識の動態が新たな法規範を予告するというメカニズムを論じたものがあった(たとえば、長谷川正安・渡辺洋三『青木講座法律Ⅰ国家と法』(青木書店、1957年)28頁。)。この考え方を参考にすれば、本研究は、次々に制定される各地の条例を与えられたものとしてこの解釈や立法課題を提示するものではもちろんないが、しかし法制度を無視して社会関係のレベルでだけ論ずるものとも質的に異なる。
本研究の特色は、異なる学問分野の研究者がそれぞれ与えられた問題を解くようなものではない。たとえば、何をもって「ごみ屋敷」と呼ぶのかの住民の意識と条例の適用対象となる「不良な生活環境」との一致やずれがただちに問題となる。これと同様に、社会関係の次元での支援と自治体の「支援」とは同じではない。この「中間まとめ」においても、1(2)[樫村執筆]が「社会的包摂」の次元で認識する支援と3(3)[下山執筆]が「根治治療」と述べるような支援とが同じ内容であるのか否かは不明であるし、間違いないことは、これらのどちらとも、自治体の「支援」とは同じでないということである。この意味で、条例形式において制度化した「支援」と社会関係において生成変化する支援とが同じということは、ありえない。条例が制定されたといっても、実際には、住民相互の間に生じている緊張や排斥に反して、支援を通じて破壊された社会関係を回復し、あるいはこれを新たに形成しようとする住民の試みは、条例が形成する法制度の外側に存在するからである。だからといってこうした社会関係がただちに法制度に反映されることは、もちろんありえない。しかし、このことが法制度を批判する意識を住民のなかに生み、さらにこれが法制度の解釈に対する疑義となり、さらに法制度の変革へと発展する可能性がなくはない。
社会関係と法関係との相互作用や相互作用を通じたそれぞれの変化の分析は、本研究が対象とする素材である「支援」の検討において、特に強く求められる作業であると思われる。なぜなら、各地の条例が若干の違いはあるとしても、ごく一般的抽象的な文言において定めたにすぎない「支援」は、自治体と社会関係との相互作用によって形成されるのであって、自治体から社会関係への働きかけだけではなく、むしろ社会関係が自治体に働きかけることによって、これを換言すれば、社会関係に自治体が依存することによって、「支援」が可能となるからである。
本研究は共同研究であって、研究成果の個人的な獲得を目指していない。各分野の研究者の協力とともに、関心をもつ住民や医師、現場で労働する自治体職員等の日常的な経験のうえにおいてのみ、本研究は発展しうる。このような人たちからの「中間まとめ」に対する批判を願う。
掲載日:2016年10月31日