第十二回:天下祭再考-昔と現在(いま)

開催日時:2015年11月29日、15:00~18:00

共催:東京大学史料編纂所画像史料解析センター「江戸城図・江戸図・交通図および関連史料の研究」プロジェクト、神田明神

開催場所:千代田区立千代田図書館、皇居周辺、神田明神

0.文テクの場

1.三つのキーワード

2.研究会概要

3.研究会を終えて

0.文テクの場

文化資源学会「文化資源学の展望プロジェクト」としては最終回となる第十二回文テクは、東京大学史料編纂所画像史料解析センター「江戸城図・江戸図・交通図および関連史料の研究」プロジェクト、および神田明神との共催となった。つくりものWSでも関わった神田祭と、隔年で行われている山王祭について「天下祭再考」と題して考える会である。

東京大学史料編纂所の杉本史子教授を司会とした千代田図書館での講演会、神田祭の江戸時代の巡行路をめぐる皇居周辺の散策、神田明神での資料見学と場所を移しながらの開催となった。天下祭について、頭でも身体でも理解できる充実した会となったといえよう。皇居周辺の散策では、江戸時代とは様変わりした東京の街の中に、当時の様子を思いをはせるヒントを見つけることができた。

神田祭の巡行路探訪

1.三つのキーワード

※今回は、「将軍と天下祭」のご講演を頂きました松尾美恵子先生(学習院女子大学名誉教授)に、先生の研究活動に即して伺いました

この分野で最古の現役技術は?

=院生時代からずっと使っている『徳川実紀』などの刊本

今回の天下祭に関する調査でも大いに活用された。なお、初期の『徳川実紀』刊本には索引がなかったが、その後、索引が作られ、さらに使いやすくなっているとのこと。

この分野で最新の技術は?

=国会図書館やJ-Stageなどが公開するデジタルデータベース

資料のみならず研究論文も自宅などから検索できるので、調査研究の進展に大変貢献している。

この分野でもっとも○○な技術は?=「調査でもっとも重宝している技術」

=デジタルカメラ

以前はマイクロフィルム撮影機を調査地まで持っていったものだが、使いづらく、また女性が持つにはあまりに重いので運ぶ人も雇うなど、大変な苦労があった。デジタルカメラは普及して以来すでに10年以上が経っているが、資料調査に出かける際、その場で写真を撮って後からじっくり精査できるので、とても役立っている。

2.研究会概要

※今回は講演の内容を文テク企画者がまとめたものを掲載しています

A.「天下祭の巡行路」(岸川雅範)

B.「武家と天下祭り」(岩淵令治)

C.「将軍と天下祭」 (松尾美惠子)

講演に先立ち、司会の杉本史子(東京大学史料編纂所:教授)より以下の解説がなされた。

東京大学史料編纂所画像史料解析センター「江戸城図・江戸図・交通図および関連史料の研究」プロジェクトでは、17世紀~19世紀前半に作られた江戸城・江戸の古地図を調査・解読することを通じて、政治・情報・交通のハブとしての江戸城ー江戸を見直すことを目指している。

この研究会・巡見で配布した江戸城の地図画像はこの研究によりその価値が判明したもので、上覧所や城中心部や周辺の様子が表現されており、江戸時代人の目からフイールドワークの現場を見直す強力なツールとなりえる。

A.「天下祭の巡行路」(岸川雅範:神田明神権禰宜)

岸川権禰宜

神田明神の岸川権禰宜からは、江戸から明治、大正、昭和、そして現在の神田祭の巡行路に関して講演をいただいた。

神田祭は江戸時代から続いているものの、巡行路も祭で行っている儀式についても、時代とともに変化しているということであった。江戸時代には江戸城との関わりが重要であった巡行路は、明治を経て現在に至る間に氏子地域を回ることが重要になり、江戸城(または皇居)との直接の関係は失われていく。一方で、「江戸城内に入った」という言葉のみが残っていくことになるということである。

江戸城「城内」と天下祭の関係については、今回講演される三名に共通した問題意識として、岩淵教授、松尾名誉教授の講演でも繰り返し解説が行われている。また岸川権禰宜は、現在の人びとが持つ神田祭イメージを作ってきた要因として、幕末明治以降の文献の影響を挙げられた。特に斎藤月岑の活動が一定の影響力を持っているであろうということであった。

B.「武家と神田祭」(岩淵令治:学習院女子大学教授)

岩淵教授

武家地研究の専門家である岩淵教授からは、武家とのかかわりから天下祭について講演いただいた。

講演冒頭ではホブズボームを引きながら「商品化による伝統の発見・創造」という観点で江戸イメージについて話され、今日一般化している「江戸=町人文化」というイメージが、斎藤月岑らの活動によって方向づけられ、明治以降に繰り返し強化されてきたと述べれられた。実際に江戸の人口比率を考えると圧倒的に武士が多く、土地の占有率でみても70%が武家地であったという。「江戸城内に入った」という言葉についても整理をいただき、江戸城の外曲輪は24時間通行可能、内曲輪も昼間は誰でも通行できたことを示していただいた。天下祭が通っているのはあくまでも内曲輪までで、通常入れない「御殿」については通っていないということである。明治以降に江戸城が皇居となり、一般の通行が不可能になったことも引きつつ、江戸「城内」のイメージの問題を提起された。

さらに、武家と天下祭の関わりについて、江戸城の各門を守る諸家が祭礼についてどのような対応をしていたのかを示し、幕府が正式に警護・饗応していたことの重要性を説明された。また、武家も氏子であり祭の警護に当たる一方で、町人とのトラブルを回避するという藩の方針から藩士たちは祭礼当日の外出を禁じられ、直接の見物がなかなかできなかったことなども解説いただいた。

C.「将軍と天下祭」(松尾美惠子:学習院女子大学名誉教授)

松尾名誉教授

松尾名誉教授は、『徳川実紀』をはじめとする江戸期の史料に基づいて、そこに登場する将軍家の天下祭上覧の記録を解説いただいた。

松尾名誉教授も絵画や絵図なども含めた資料を提示しながら、やはり「江戸城内に入った」に関して検討を加え、この講演でも「城内」をどうとらえるかという問題の難しさが再確認された。

また徳川家斉の時代までを通して史料を確認することで、山王祭はほぼ隔年で将軍自らが上覧しているものの、神田祭は実は御台所らの女性や将軍継嗣による見物が中心であったということが明らかになった。上覧の話と合わせて、江戸城の代官町~吹上区域の変遷についても、工事の時期や通行止めとなった時期なども含めて解説をいただいた。

3.研究会を終えて

今回は専門家三名の解説、江戸時代の神田祭巡行路散策、神田明神の資料館見学と、最終回にふさわしい充実した内容であった。特に講演全体にわたっての関心事となった天下祭が「江戸城に入った」のかどうかという問題は、これまで単純に江戸城との関係を考えることが多かった文化資源学会の神田祭附祭復元プロジェクトにとって、きわめて重要な指摘となった。近代において江戸イメージが作られていくありかたは、巡行路の途中で立ち寄った「将門塚」についても同じことがいえるようである。有名な酒井雅楽頭屋敷にあり、江戸時代はむしろ「神田明神旧跡地」と捉えられていた地が、「将門塚」として受け止められていく過程にも、織田完之らの研究の影響がある。文テクがかかわってきた「記録」「保存」のテクノロジーもまた、こう言ったイメージの醸成にかかわってきたものである。ツールとしてのテクノロジーと、テクノロジーの持つメディア性については今後も引き続き考えていきたい。

「文化資源学の展望プロジェクト」としては最終回を迎えたが、企画者両名は今後も「文化資源学」と「テクノロジー」に関して研究を深め、様々な企画を立てていく予定である。「文テク」の活動は今後も続いていくので、ご協力・ご参加をお願いしたい。

研究会記録:仙場真実

文責:中村雄祐・鈴木親彦

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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