第六回:昭和の30年代の教育映画を見る — 記録映画保存センター訪問

開催日時:2014年8月24日、15:00~18:00

協力者:桜映画社記録映画保存センター

開催場所:記録映画保存センター

0.文テクの場

1.三つのキーワード

2.研究会概要

3.研究会を終えて

0.文テクの場

第六回文テクは、「昭和30年代の教育映画」の保存に携わる記録映画保存センターで行われた。このセンターが入っている部屋は、研究会内で上映された『百人の陽気な女房たち』を制作した桜映画社の作業所でもあった。センターの一室に椅子を並べた昭和30年代の自主上映会を髣髴とさせる場で、研究会と映画上映を行うことができた。上映には当時と同様に16mmのフィルムと映写機を利用、参加した会員からは懐かしがる声も上がった。

また、壁面一面にフィルムとそれを保存するための缶、閉鎖されたフィルム・アーカイブの貸し出し目録をはじめとした記録映画関連の資料が収められており、かすかにフィルムからかようビネガーの香りとあいまって、記録映画保存の作業が行われている場の臨場感を高めていた。

「百人の陽気な女房たち」に見入る会員

16mmフィルムで上映される『百人の陽気な女房たち』に見入る会員

センターの壁面には、フィルムが多数保管されている

センターの壁面には、フィルムが多数保管されている

1.三つのキーワード

この分野で最古の現役技術は?

=現在も上映可能なフィルムと映写機

今回上映会に利用した18mm映写機

今回上映会に利用した16mm映写機。古い機械を修理しながら使っているが、一番の問題は光源となる「映写ランプ」。生産が中止され、在庫がなくなったら使えなくなる可能性がある。

この分野で最新の技術は?

=4K解像度に対応した、フィルムのデジタル化

この分野でもっとも○○な技術は?=「保存に影響する技術」

=低温中湿度を保つ倉庫の技術。それ以前に、保存し活用するために真っ先に必要なのは、所有権と著作権処理に関わるテクノロジー。

2.研究会概要

A.「『百人の陽気な女房たち』を通して見る教育映画」(澤田るい:横浜市中央図書館、文化資源学研究室)

澤田るい氏

そもそも教育映画は一般的な娯楽性や芸術性を追求した映画と違って、あくまで教育的な目的を持って作られた。そのため、社会情勢が現れやすい素材と言える。占領期から昭和30年にかけては、教育映画が非常に良く見られた時代だった。昭和23年には、占領政策のなかで、GHQが16ミリの映写機とアメリカ製の教育映画を日本に貸与した。その受け皿となったのが都道府県に設置された視聴覚ライブラリー。映写機とフィルムを保存しており、そこを軸に映写機とフィルムが貸し出されて、各地で上映会が開かれるようになった。この時代の教育映画からは、その内容からも、またどのような形で見られていたのかといった背景情報からも、様々な時代性を読み取れるのではないだろう。それが昭和30年代教育映画を見る意義とか面白さではないかと思う。

『百人の陽気な女房たち』は1955(昭和30)年に作られた30分の短編教育映画である。教育映画という言葉からは、学校などで利用される教材というイメージが先行するが、この映画は一般向けに作られた社会教育映画として位置づけられている。この時代には、同じような大人向けの教育映画が多く製作されていた。映画の製作は桜映画社、企画は「全国地域婦人団体連絡協議会(地婦連)」。桜映画社は昭和30年に設立しており、これは映画の製作年と同じ。桜映画社と地婦連は一心同体で、当時の地婦連の会長であった山高しげりが桜映画社の社長になっている。地婦連の会員である主婦層からお金を集めて、株主となってもらって桜映画社を設立したという経緯もあった。

実際の製作実務をになったのが村山英治、後で話をうかがえる村山さんのお父様にあたる方だった。地婦連が企画したので、当然会員である主婦やその子ども向けの映画を作るという意図で製作された映画になる。『百人の陽気な女房たち』は桜映画社の第二作目。第一作目が『さようなら蚊とはえさん』で、その姉妹編として製作された。『さようなら蚊とはえさん』というタイトルからも分かるように、当時国民運動として展開されていた“「蚊とはえのいない生活」実践運動”という衛生運動の啓発と普及のために製作されたと言われている。

作中で描かれているのは横浜市の南区にある浦舟町という町内。この町内は“「蚊とはえのいない生活」実践運動”の非常に優秀な地区として全国的に有名で、この町内のサクセスストーリーを脚本にして、俳優を使った劇形式で撮影をした作品となっている。実際に浦舟町でロケをしていて、町民もエキストラで参加している。“「蚊とはえのいない生活」実践運動”は1955(昭和30)年6月に閣議決定が行われた国民運動で、浦舟町はその運動の中でも非常に成功した地区となり、映画にも取り上げられることになった。

浦舟町は横浜の中心である中区と西区に近い一帯にあり、繁華街にも近い、いわば昔ながらの下町だった。注目してほしいのは街を流れている中村川、汚い川として有名であり映画の中でも印象的に使われている。電車の軌道も見えるが、これは今はなき横浜市電の軌道である。横浜市電が全廃されるのは昭和47年なので、昭和30年のこの映画では、電車がまだ走っているシーンを見ることができる。地婦連の企画なので、全体的に女性の活躍を描いているということ、テーマにしている国民運動“「蚊とはえのいない生活」実践運動”の啓発推進という面、さらに浦舟町のような地域がどのような活動をしていたのかという記録映画的な面もあるので、さまざまな見方ができる映画になっている。

内容の説明はここまでにして、昭和30年の気持ちに近づいて行くために実際に当時の人がこの映画をどんなふうに見ていたのかについて話したい。この映画は“「蚊とはえのいない生活」実践運動”の啓発推進を目的に製作されたが、なぜ教育映画まで製作されたのかを考えると、なぜこうした衛生運動が始まったのかという問いまで遡る。終戦後、占領下では民主化政策が進められていた。衛生政策においても、戦前の警察による強制的な政策ではなく、音頭を取るのは行政側であっても活動自体は国民が自ら学んで自主的に活動をするべきという考え方が主流になっていた。民主的に運動を盛り上げていくために、教育が重視されていた。こういった教育プロセスで活用されるべきものとして、教育映画などの視聴覚資料があった。そのため、当時は教育映画だけではなく、スライド資料や紙芝居など、視覚的に教育普及で活用できるものが多数作られた。保健所の勉強会や町内会・婦人会などで上映され、集った人たちが自ら学んで新しい活動に繋がるというシステムが作られていた。

実際にこの映画がどのぐらい見られたのかを知る手がかりがある。神奈川県の衛生教育視聴覚ライブラリーは、昭和31年に設置された衛生教育に関する視聴覚資料に特化したライブラリーだったが、所蔵するフィルムの貸し出し状況が断片的に残っている。これは『神奈川県衛生年報』に乗載っていたデータだが、『百人の陽気な女房たち』や『さようなら蚊とはえさん』の利用率を知ることができる。365日を100%にしたパーセンテージで示されており、『さようなら蚊とはえさん』も『百人の陽気な女房たち』もかなりの頻度で見られていた。こういった利用状況を表にまとめてみると、やはり昭和32~33年が貸し出しのピークと分かる。“「蚊とはえのいない生活」実践運動”は昭和30年が初年度、3カ年計画だったので、32年までのはずだが、その後も運動が終わったわけではなく、地方自治体に受け継がれた。横浜では昭和45年ぐらいまで続いており、貸し出し数も年をおうごとに少なくはなってはいるが、継続的に借りられていたことが分かる。

フィルムを借りる時にはライブラリーから上映方法の指導が入った。なるべく少人数の集まりで見る、ただ見るのではなくテーマを決めて見る、見た後に話し合って教育的な効果を高める、などの方法を奨励しており、その都度報告書を提出させていたという記録がある。報告書は見つかっていないので、当時の人が映画を見て具体的にどんな感想を持ったのか、そこまでは分かっていないが、おそらく見た後、どうしたら蚊や蝿を退治できるのか、どうしたら皆が協力し合えるのかなどを話し合ったのではないか。今ここにいる我々も、現在の視点でこの映画を見るとどんなふうに考えられるか、あるいは当時はどんなふうに見られていたのか、そしてこのセンターが行っているような古い教育映画を起して行くのにはどんな意味があるのか、などを考えながら視聴してほしい。

B.「記録映画と教育映画、保存センターの活動」(村山英世:記録映画保存センター)

村山英世氏

昭和47年から桜映画社でプロデューサーとして現場監督のようなことをしてきた。定年を迎えて桜映画社を去り、現在は記録映画の保存活動をしている。今日見た映画がどういうことかを理解していただくために、さらに記録映画の保存というのはどういうふうに行われているのか知ってもらうために、簡単に紹介していく。

記録映画といっても様々種類があり、私自身は実際には産業映画やPR映画を作ってきた。たまに教育映画も作っていたぐらいなので、教育映画について語る資格はないが、改めて今回調べてみたら、辞書では教育とは、「他人に対し意図的に動きかけて、人間を望ましい方向へ変化させること」だそうだ。また教育は家庭教育、学校教育、社会教育と項目が立っていたが、これらのどの分野でも教育映画というのは作られてきた。教育映画というのと映画教育という二つの言葉があって、われわれの世界ではこれがいつも混在していて十分理解されてない。私なりに整理すれば、教育映画とは映画を使って学ぶことや教材としての映画を指し、映画教育とは映画から何かを学ぶことを指すのだと思う。

私たち作り手にしてみると、教育映画よりも映画教育という面に関心が大きいのかもしれない。映画教育の目的は見る・知る・作ること。「見る」のは鑑賞である。映画を人々に、特に若い人に見せて観客を獲得し、そして映画を作る人材育成にもつなげるような目的がある。「知る」というのは、内容だけでなく相互関係も含んでいる。映画はDVDとは違って一対一では見られない。大勢の人が一緒に大画面を見ると、「他人は面白いと思っているところが自分は面白くない、何故なんだろう」などと考え、他者との関係を含む様々なものを知り、相互に対話したり議論したりできる。それが「知る」ということである。映画教室のような場があって、皆が自分たちで映画を作ってみるというのが「作る」。映画は共同作業なので、そこから多くのことを学ぶことができる。

一方で、教育映画というのは文部科学省が管轄し、学校教育・社会教育に関係する。『百人の陽気な女房たち』は社会教育と関係がある作品である。この作品は主に一般成人向けで、上映場所は公民館やホール、図書館であった。戦前は文化映画が社会教育の役割をしていたし、プロパガンダ映画もこれに相当している。産業映画やPR映画も、ある意味で教える・学ぶという要素があり、昭和30年代には教育映画として作られていた。あまり露骨な宣伝をするのはスポンサー企業として恥ずかしいと考えられていたので、どこに宣伝を入れたのかを分からないような間接的なPR映画を作った。社会貢献的な意味も含まれていたかも知れないが、従業員にとっても「うちの会社もついに映画を作るようになった」と言った風に、企業にとっては映画を作るのが一つの社会的ステータスでもあった。今のテレビ番組の提供会社と似て、映画の中身にはあまり口を出さなかった。

昭和30年代の教育映画の流通形態がどうだったのかというと、製作会社が費用を負担して、教育映画配給社という流通業者が全国のフィルム・ライブラリーに販売するというシステムだった。ライブラリーが買ったものを、学校などに無料で貸し出すという流れが、教育映画の一つのビジネスモデルになっていた。製作会社は、配給会社かライブラリーに売っただけでは製作費の回収ができない場合が多いので、協賛やスポンサーをつけて、リスクを軽減していた。フィルム・ライブラリーは昭和30年代後半が最盛期で、主に各県の中央図書館に併置されていた。千カ所ぐらいあったが、現在は610カ所ぐらい。現在610カ所が持っている教材は合計約23万本で誰もが借りることができる。16ミリフィルムの場合は映写機操作の資格がなければだめという条件はあるが、基本的には貸し出しは無料になっている。ライブラリーにも色々種類があり、学校教材のみのライブラリーと、社会教育単独のライブラリー、それがミックスした複合的なものもある。全国にライブラリーが千カ所もあったので、色々な社会教育や学校教育に使われた。『百人の陽気な女房たち』もこんな風に作られ、見せられたと言える。

記録映画は現在非常にたくさん廃棄されているのが現状である。製作会社が解散したり、倒産したりして、フィルムが捨てられてしまう、特に写真の原版にあたるネガフィルム原版が捨てられてしまっている。プリントした複製品は巷に出回っているが、長年使って傷だらけになっている。オリジナルのネガフィルム原版を保存すれば、そこから新しいものもできるので、映画制作会社OBや現像所の人たちがボランティアで何とか原版を残そうと生まれたのが記録映画保存センターである。何故、映画を保存しなければならないのだろうか。国際フィルムアーカイブ連盟(FIAF)から宣言では、映画は文化財である、フィルムは長期保存ができる素材であること、媒体を変えることも出来るし非常に高品位の素材である、という様なことで後世に残さねばならないというのがフィルム保存の理念である。

記録映画も色々で、内容・上映形式・上映時間など様々な分け方がある。教育映画もあるし、教育映画のような文化映画もあるし、上映形式からみれば劇場映画と非劇場映画に分けることができるし、記録映画も時間が短いのは短編映画だしと様々に分けられる。映画の保存状況だが、相当古い映画、例えば1910年代映画だったら僅かしかいない。戦前のものも三割もないと言われている。映像の種類も色々ある。モノクロとカラーがあり、またフィルム・サイズの違いから8ミリ、16ミリ、35ミリ、70ミリがあるが、現在ではほとんど使用されていない。保存はポジフィルムやネガの他に、台本とか日記とか、映画以外の資料の保存も考えている。またOBから昔の話を聞いてその証言を残すのも記録映画保存センターの活動である。

どのくらい保存すべき作品があるのか、製作会社やスポンサー、自治体、現像所などが持っているのかを保存センターが調査した結果、13万本ぐらいあるという調査結果を得ている。どこに置いてあるのかというと、資金に余裕がある場合はフィルム専用の倉庫会社の倉庫に保管されている。そういった倉庫は温度20度・湿度50%の環境を保っている。フィルムの理想的な環境は温度4度・湿度40%であるが、専用の冷蔵倉庫は費用が高いのでなかなかそこまでの管理費が出ないのが現状。多くの製作会社は、自社の倉庫にそのまま積み上げておくのが一般的。フィルムは生もので、すぐ変化してしまうし劣化が防げない。原版はサウンドと映像は別になっているが、サウンドのネガの方が早く劣化していく。さらに1950年代まで使われたのは、可燃性フィルムで、『百人の陽気な女房たち』も可燃性フィルムだった。可燃性フィルムが原因になって、過去にフィルムセンターや現像所が燃えたという事件があったので、かなりの量が廃棄されてしまった。

『百人の陽気な女房たち』のネガも残念ながら廃棄され、プリントしか残っていない。フィルムは高温多湿の環境では劣化が早く、24度・50%で保管すると25年しかもたない。本当かどうか分からないが、2度・20%の環境下では1250年も保存可能だという。いずれにせよ、低温になると長期間保存できるのは確かである。フィルムは均一に劣化するのではなく、一定程度劣化すると急速に進む。ビネガーシンドロームと言うが、フィルムがすっぱく匂い始めると、その後は急速に劣化する。去年までプリントできたのが、今年できなかったりすることもある。

保存センターの仕事はフィルムセンターへの所蔵支援と調査・活用。寄贈作品の内容調査をしたり、保存のための問題点を洗い出したりしている。所有権を処理しないとフィルムセンターには入れられないのでその処理を支援することが多い。また完全に劣化する前にデジタル化して残すこと、保存作品のデータベースを作ること、保存できた作品を利用してもらうために研究者への貸し出しや上映などの活動をしている。

フィルムセンターへの保存のためには所有権等、関係者の同意を得なくてはならないが、同意を得る作業はかなり手間がかかる。特に利用するためには著作権処理が必要であるが、著作権は複雑で、人格権と著作権を処理しなければならない。著作権者や所有権者を分からないフィルム「オーファンフィルム(孤児作品)」が沢山あることが判明した。寄贈同意を取るのが難しいオーファンフィルムは、一定の条件で寄贈を認める制度を作らないと、なかなか処理ができないのが分かった。オーファンフィルムがどのぐらいあるのかを各現像所に問い合わせ調査したところ、五万本ぐらいは存在することが分かった。

C.「フィルム保存のトレンドと新たな挑戦」(山内隆治:株式会社資料映像バンク)

山内隆治氏

フィルム保存のトレンドや、どんなことに興味を持ち、今後やろうとしているのか紹介する。

最近では秋葉原を始め、テレビ屋さんや電気屋さんに行ったら、4Kという言葉があふれている。総務省は日本の映像業界を活気づかせるために、Next TV Forumを組んで、莫大なお金をテレビメーカーに配って、ハイビジョンの映像を四つ並べた高精細のテレビ技術を開発してきた。テレビの開発はほぼ完了し、4K映像を映せる環境は出来上がったが、何を見るのかについてはまだまだの状況である。Blu-rayでも4Kの映像は乗り切らない。CSテレビで試験放送を行う例がかろうじてある程度で、映像を乗せる側の実験をやってる段階である。

35ミリのフィルムには実は4K相当のポテンシャルをもった画像が眠っている。いまは過渡期的な状況で、これから映像の世界がどうなるか分からないが、今のうちに35ミリのフィルムを4K化しハード移行をまとうと考えて、何本を試しに4K化してみた。そのうちの一つが、羽仁進監督が昭和33年に製作した『法隆寺』という映画。羽仁監督が社会人デビューしてからまもなくの作品で、瀬川順一という当代一のカメラマンがカメラを回し、大変なお金と手間をかけて撮った。最終的に、同じ昭和33年に撮られた黒沢映画の四倍の製作費がかかってしまったという。どのように撮られたかというと、毎日のお客さんがはけた後、夕方になってから有名な宮大工である西岡さんが弟子を引き連れてきて、大きな丸太で撮影の足場を組んでくれたらしい。仏像の前に足場を組み、瀬川さんのカメラを乗せてワンショットを撮って、その日の撮影は終わり、足場を解体する。こんな撮影を毎日やっていたということ。

そういう仕事で撮られた映画『法隆寺』を試しに4K化してみると、驚くほどの高精細なものが出来上がった。これを何とかして活かして、フィルムが持っていた本来の映像の画質ものを見せたいなと思っている。今までは映写機を使って離れた場所に投影していたが、ひょっとしたらだれもまだ見たことないぐらいの、フィルムの本来持っていた画質が、しかも各家庭で見られる世界が開けるかもしれない。

ただしここからが難しい。先日も、光ケーブルを使った4Kコンテンツの配信を始めるという会社さんと情報交換をしてきたが、望まれているコンテンツジャンルは、こういった文化財を扱った映像とは、大きく隔たりのあるものだった。

だが、パッケージ販売の可能性もまったく閉ざされているわけではなく、例えばUSBメモリに収録して販売するなど流通の形態もあるし、早晩、ブルーレイへの収録も可能になると聞いているし、あるいは独自でインターネットで配信して見せるのも可能だと考えている。記録保存センターに眠っている素晴らしい35 ミリのフィルムを見たい人に高精細の形で配る仕組みをこれから開発したい。

じつは35ミリフィルムには8K相当の情報量がある。しかし、人間の目では4K以上の情報は判別できないので通常は活かしきれない。テレビなどで見る放送 では活かせないかもしれないが、巨大なスクリーンに映すなどで活用の余地がある。記録映画保存センターと仲間の会社では、文化庁の企画で製作した人間国宝シリーズや、その他、芸術映画などを、4Kで見られる形にして行きたいと思っている。

3.研究会を終えて

今回は文テク始まって以来はじめて、訪問先の二方の講演に加え、学会員の発表を組み合わせての研究会となった。テクノロジーという切り口で、通常学会員が体験できない現場を訪問するという側面に、学会内での研究を促進させるという新たな要素が加わり、文テクの今後のために重要な会となったといえる。第四回「祭の記録を考える 映像で見る神田祭」に続いて、再び映像上映を軸にした研究会となったが、同じ記録映像でも中身以上に、そのメディア性、4K映像にも対応できる物体として記憶能力、そして保存をめぐって起きているさまざまな問題まで話が及び、記録映像に関わるテクノロジーのより現代的な面について考えることができた。第一回、凸版印刷での研究会にも通じる展開となり、文テク内でのテーマのつながりという面でも、興味深い展開となった。

なお、記録映画保存センターは東京大学の情報学環と協力し、定期的に上映会を行っている。次回は9月26日、記録映画とテレビというテーマを設定し、東京オリンピックの年1964年に岩波映画が作った少年向けの科学ドラマ『ハローCQ』第一話と、朝日放送の『わが輩はニッポン人 十七条憲法は何語か?』を上映する。入場は無料とのこと、興味をもたれた方はぜひ参加してほしい。(詳細は丹羽研究室Webサイト http://media-journalism.org/blog/event-oshirase/257-2014-08-28-05-01-53

また、『百人の陽気な女房たち』解説でも言及された中村川は、文テク番外編「横浜港巡検」で巡ったルートに入っていた。番外編に掲載のスライドショーには現在の中村川の写真も数枚掲載されている。

研究会記録:鄭仁善

文責:中村雄祐・鈴木親彦

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