2020道徳教育論2回目CF

感想・質問・要望などがあれば書いてください。


1.終身ではGHQに許されることが無いぐらいの内容だったのかと驚きました。具体的にどんなことを教えていたのか気になりました。

→ 「修身」(=身を修める)ですね。戦争に向かっていく時期の「修身」(他科目もですが)はやはり軍国主義的であったことがGHQによる規制の一番の要因だと思います。https://www.nier.go.jp/library/textbooks/ このサイトで過去の教科書を読むことができるので、興味があったら読んでみてください。


2.やはり、戦時中の愛国心は恐ろしいと思いました。愛国心が権力者によって国民国家に当てはめられ、それを国民に上から押し付けるというようなことはいつの時代にも存在します。人びとの素直な愛国心を利己的な目的に利用しようとする人には要注意ですね。 質問です。道徳の教科化で変わったことはありますか。良い方も悪い方もどちらの変化も知りたいです。

→ お答えするのが遅くなりすみません。3回目の授業で扱いましたが、大きな変化としては、やはり教科書が指定されることにより教える内容が(立場により、良くも悪くも)明確になったことが挙げられると思います。何を良い・悪いとするかは解釈・立場にもよるかと思いますが、私としては、内容の明確化によって「道徳はなんとなく、適当にやるしかない」という雰囲気が打破されるとしたらそれは「良い」ことではないか、しかしその反面、教え方によっては「内容が決まっているのだから、絶対にこう教えないといけない」という道徳の過度の「教え込み」につながったり、必要以上に児童生徒を「道徳的正解」に誘導していくような授業になってしまうならば(そのような授業はむしろ避けるべきとされていますが)、そのような教え方ではあまり教育的効果が上がらないでしょうから「悪い」のではないかと考えます(ただ、教科化については賛成反対さまざまな意見がありますが、教科化という変化を「良い」ものとするのも「悪い」ものとするのも、最終的には現場の先生の解釈・捉え方次第、というところはあるかなと思います)。


3.倫理の授業で習ったことが出てきて懐かしく思った。

→ 道徳教育論は学際的な分野なので、様々な学問分野とつながっていますね。


4.道徳の教科化については様々な意見があると思いますが、こういった歴史的背景を見てみるとまた違う考え方ができると思いました。私は道徳を教科として評価するということにとても違和感があります。人の価値観を評価することは果たしていいことと言えるのかとても疑問です。私は先生に価値観を評価してほしくないと思っています。また、同じ文章を書いていたとしても、先生によって評価が違っていれば子どもは何が正しくて何がおかしいのかがわからなくなると思います。しかし、道徳の教科化は決まってしまったことですので、今後どのような取り組みがなされるのかは注意深く見ていきたいと思います。

→ 違和感があるのはよくわかります。私自身、誰かに自分の価値観を評価されることには抵抗があります(なので、自分もできるだけしたくないと思っています)。ただ、「先生によって評価が違っている」ということは、これからの時代ある程度仕方ない、そういうものだから、そういう中で、自分で誰の意見を参考にするかも自律的に判断していってほしい、と生徒に伝えるのもありなのではないかと思います(3回目にお配りした資料の60ページ目「完璧でない先生が子どもたちの道徳性を客観的に評価できるのですか」を参照してみてください)


5.今まで、道徳は大切なものとはわかりつつも、どこか、、小学校などでたまに学習した、副教科のその次というイメージを抱いてしまっていました。しかし、今回の歴史について学び、こんなにも教育の根本と密接に関わっていたのだということが分かり驚きました。道徳を、指導者として児童・生徒に授業するって計り知れないくらい難しいことのように感じてきました。もっと学習しなければならない、学習したいという思いを持つことができました。

→ その「難しいことだ」と思って身構えることが、生徒や事柄を即断しない、「優しさ」に繋がるのではないかと思います。ただ、身構えすぎると動けなくなるので(私はどちらかというとそういうタイプなのですが)ほどほどに身構えるようにしたいですね(笑)


6.私たちの道徳という教科書を見てみたいです。

15.私は心のノートを使っていた記憶があります。最近の私たちの道徳はどのようなものか気になります。

→ 文科省のホームページから無料でダウンロードできますので、見てみてくださいhttps://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/doutoku/index.htm


7.道徳の必要性や今の道徳の存在意義などを教育を運営する側としての意見をいっぱい聞きたいと思います。

→ 3回目の授業である程度紹介しましたが、質問があればまたください。3回目の授業の資料で一部紹介した『道徳授業が不安な先生のための特別の教科道徳入門』は、よくある疑問点に対する解答がまとめられていておすすめです。


8.本日の講義では日本の道徳教育の歴史を学習したが、どのように道徳というものは扱われ指導されてきたのかという背景を知ることにより今、私たちが教える道徳というものの根本となることを改めて考えることができました。


9.今回資料を読んで、道徳は想像以上に昔から存在していたと知り驚きました。本来は、子どもたちがより良く生きるためのものであるはずですが、かつては戦争などの影響を受けたりしていて、非常に繊細な学びであることに気づきました。子どもたちがよりよく生きるためという願いは共通していても、道徳は時代によって変わっていくものでもあると思うので、教師は授業展開や教材を柔軟に考え、工夫していく必要があると思いました。

→ その通りですね。なので教師は「いまはどのような社会なのか?どのような時代なのか?この時代における道徳とは?」という社会学者のような側面も持ち合わせているのが望ましいと思います。


10.時代の変化によって大きく変化し、その変化の途中に自分がいることを感じました。自分が受けてきた道徳と今の道徳でも違いがあるということに違和感を感じました

→ 特に最近の道徳教育(道徳教育にかぎらず、他の科目もですが)は、「今の社会」に合わせるのではなく、「未来の社会」に合わせて教育していく、という傾向があると思います。それは、現代の社会変化のスピードがはやいため、「今の社会」に合わせて教育しても、生徒が「社会に出る」(私はこの表現はあまり好きではないのですが… 常に人は、たとえ引きこもりであっても「社会に出ている」と思っているので)頃にはその「今の社会」は変わってしまっているかもしれないからです。なので、社会の変化に合わせて、今後も次々と教育内容は変化していくのではないかと思います。


11.レジュメに図やイラストが引用されていて、とても見やすく、理解が進みました。ありがとうございます!

→ それはよかったです。


12.日本の歴史から道徳をみた今回の授業も非常に興味深かったです。道徳教育のねらいを実現するための教育課程の改善は早く改善して欲しいと思いました。国語や算数も必要ですが、やはり道徳教育が最近の学校現場では必要となってきていると思います。

13.領域問わず歴史という分野は苦手ではありますが、今回、道徳教育の歴史を学習し、歴史の重要性を感じました。数えきれない人が道徳教育というひとつの事柄に関わっており、この年代に何が起きたかを学ぶことではなく、当時の人が何を思い考えて歴史を作ってきたかという部分にスポットを当ててみることが大事だと思いました。

→ そうですね。私は「歴史上の人物」としてではなく、「そのような意見を、私の親戚や友人や、居酒屋で隣に居合わせた人が言っていたら、どう思うか?」と考えるようにしています(その方が、「偉い人が言ったのだから正しいはずだ」という思考停止に陥らずに済むのではないかと思うからです)


14. 「特別の教科 道徳」の目標では「自己」が多く登場し重視されているように感じましたが、「自己」が育つのは結果であり、過程には「他者」の存在がいることを踏まえて授業に臨むことが大事なのではないかと思いました。

→ その通りですね。4回目以降に扱うピアジェ、コールバーグ、ブルなども皆そのように「他者」の重要性を説いています(その「他者」の位置づけは少しずつ異なりますが…)


16.教育勅語について、高校で名称などは学びましたが、今日初めて現代語訳を見て内容を知ることができて良かったです。資料を読んでからレジュメを見ると、ぎゅっと内容がまとめられていて、最初から最後までもう一度復習しながら理解出来るため、一人でも授業が進めやすいです。レジュメがとても分かりやすく、ありがたいです。苦手な分野だと思っていましたが、今日も楽しく学ぶことができました。

→ それはよかったです。これからもよろしくお願いします。


17.私が子どもの時に道徳が授業としてあったらよかったなと改めて思いました。それぞれの子どもの意見がしっかりと尊重されるそんな授業になると良いなと思います。

→ そうですね。それが理想ですが、そのためには先生自身の意見もきちんと尊重される、先生にも優しい環境が必要だと思います(いくら「聖職者」とはいえ(こういう言葉で先生にできる以上に頑張らせてしまうことがあるとすれば、それもよくないと思いますが)、ギブ&ギブばかりでは辛いと思うので)。


18.歴史を振り返ると、教えとして今の道徳のような科目があったのだと知り驚きました。


19.一度回答して提出したつもりなのですが、白い画面にもならず回答も出なかったので、送信失敗したのかもしれないと思い再送いたします。すでに提出できていた場合はこちらの提出は無視してください。

→ お手数をおかけしました。送信できています。


19.「道徳の時間の特設」について、1958年8月28日に学校教育法施行規則の一部が改正されたとありましたが、その後の1966年に中央教育審議会答申で示されている「期待される人間像」は、改正された学校教育法施行規則に追随するものなのでしょうか?それとも全く別物ととらえるものなのでしょうか?出題されていた問題にも関係することだったので少し気になりました。

→「期待される人間像」は、少しテキストやレジュメでも触れられていましたが、その愛国主義的な内容が物議を醸しました。たしかに、愛国心的な内容は以前から見られたため、「全く別物」とは言えませんが、1958年の内容に「追随」するというよりは、改めて愛国心的側面を「強調」するものとして「期待される人間像」は位置づけられると言えると思います。


20.教師は評価を下すことに対して自律的な人間でなければならないことが分かりました。ですが、将来教師を目指す私自身が自律的な人間であるかどうかは、判断ができません。教師が自律的な人間であるかどうかはどのようにすれば判断できますか

→ それは究極的には誰にも判断できないと思います。「自分は自律的だ」という自己認識自体が、何らかの他律の影響を受けている可能性をどこまでも否定できないからです(たとえば、「自律的であれ!」と強く言われて育ったために、「自分は自律的だ」と思わずにはいられない場合など…)。なので、そのつど自問自答をしていくしかないかなと思います。ソクラテスは終わることのない自己対話を繰り返しましたが、それはどこかで「わかったつもり」にならず、「無知の知」を実践し続けたことで可能になったと思います。「自律的かどうか判断できない」ことは決して何かの欠陥・欠如ではなく、むしろ一つの完成形ではないでしょうか。先生は「「私は自律的に判断できているだろうか?」と問い続ける姿勢を常に持つ」ことが大事で、この姿勢そのものを生徒に伝授できれば、そんな授業(というか、先生としての仕事・生き様)は「大成功」なのではないか…と思います。


21.さっき正解できなくてとても悔しかったので復習してもう一度チャレンジしました。

→ 再チャレンジ、ありがとうございます(ただ、言いにくいのですが成績に反映されるのは最初の一回だけです)


22.私は、「心のノート」を使用していました。しかし、これは個人のものではなく、使いまわされるものでした。「個人の教科書ではない」のは、教科書(文部科学省出版のみ)として扱うにはふさわしくないとされていたからなのでしょうか。また、他の学生さんが小学校のころどうだったのか気になりました。

→ どうでしょう。他の学生さんで「心のノート」を使ったことがある方、もしよろしければ次のコメントシート提出時に教えてください。


23.「神道」はなぜ宗教ではないと判断されたのでしょうか

→ 「政教分離」は必要だが、神道を学校で教えないことは避けたい、という判断です。このような判断が可能になる根底には、日本人の隠れた信仰心もあるのではないでしょうか。日本人は自分を「無宗教」だと思っている人が多いと言われますが、古来より「天皇信仰」(これはルーツとしては「生き神様信仰」の一種だそうです)は、あまり意識には上がらないレベルで(それゆえにむしろ深く?)、(良くも悪くも)続いている可能性があります。


24.道徳について歴史の流れに沿ってみるのは初めてでとても新鮮でした。「特別の」教科道徳と言われる所以について初めて知りました。「学校」という場所は「政府・国」の方針によってすごく影響を受けるものだなと歴史を見ていて感じました。また、先人の教えを基にしているため、様々な学問や宗派があるなと感じました。今は宗派などは自由だけれど、国の方針や互いの立場の違いからそぐわないものは排除されてしまうのだと気づきました。私たちは立場が違えば考え方も違う。けれどもそれを多角的な視点でみて、お互いに理解していけるように心に余裕をもって接することが大切だと思いました。そのためには早期に(小学校)道徳を学ぶ機会を設けそういった態度や見方などを身に付ける体験が必要ではないかと思いました。 レジュメにも写真やイラスト、図説などがあって分かり易かったです。

→ そうですね。多様性を容認するためにはこの「心の余裕」が本当に大事だと思います(誰でも、心に余裕がなくなると、排他的にな傾向が強まるものです。それは非常に「人格的な」人でさえも、追い詰められた場合はそうなることがあると思います)(ただ私は、この「心の余裕」というのは学校全体をも超えた「社会全体」で作っていくのが理想で、学校だけ、あるいは道徳教育だけでなんとかしようというのは無理だという立場ですが)。


25.道徳という教科の歴史を知ることができて楽しかった。小学校で受けてきた道徳の授業は教科ではないことを知ったが、当時の先生方は真剣に教えてくださっていたので、とても良い教育環境で学ぶことができていたことがわかりうれしかった

→ 内容とはまた別に、先生の真剣さというのは伝わるものですよね。「先生というのは常に生徒に全てを見られている、全てバレている」と吉本隆明が言っていましたのを思い出しました(怖いことですが、そうやって自分の本気に気がついてくれる人がいつでもいると考えれば、ありがたいことですね)。


26.教育勅語について高校で学んだことはありますが、なかなか内容までは知ろうとしていなかったため、今日現代語訳を読むことができてよかったです。資料を読んでからレジュメを見ると、ぎゅっとまとまっていてとても分かりやすく、最初から最後まで復習することができるため、一人でも授業を進めやすいです。レジュメがあることで再認識できることも多いため、ありがたいです。今日も新たに知ることが多く、充実していました。

→ それはよかったです。


27.面白いんですけど授業料を対面授業の時と同じ額を払っているのでオンライン授業にしたりなど工夫してほしいです。

→ オンラインはできればやりたいのですが…諸事情で現時点では困難です。オンライン授業(Zoomのようなリアルタイム授業)をせずとも、クオリティを落とさぬよう努めたいと思います。



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【あなたへの問い】今回の「道徳の教科化」に関して、あなたは賛成ですか、反対ですか。その理由(読書課題、レジュメにあるものでもないものでも構いません)も合わせて、簡潔に答えてください。


私は「道徳の教科化」には反対である。まず、道徳が教科化されることによって、ただでさえ多忙な教師の仕事がさらに多くなると考えるからだ。ゆとりのある環境でなければ道徳教育を行っても意味をなさないと思うし、中途半端な教育になると考える。また、道徳教育は教科としてその能力などを評価できるものではないと思うからだ。道徳教育においては答えを一つに定めるものでもないと思うし、あらゆる価値観や人間性を認められるようになることこそ真の道徳心であると思う。そのため、道徳を教科化することは価値観の押し付けとなってしまう気がするので反対である。

賛成です。心のノートは出版社が複数出なかったためです。しかし児童の道徳について教師が評価することの怖さと、教師に評価するだけの道徳があるかはいまだに疑問です。

反対です。 少し前までは賛成派でしたが、林泰成の「道徳教育論」を読んで意見が変わりました。 道徳が教科化されて道徳専門の先生が教え始めると必ずしもその先生の価値観を含んだ教育になるのではないかと思ったからです。その教育を受けた子ども達がその先の人生で、あらゆる多様性に出会ったとき、それらを受け入れることが難しくなるのではないでしょうか。 かといって、道徳を学校で教えずとも良いのかと問われると悩むところです。

賛成である。いじめ問題がとても増えている中で人や心について考えるような教育をできるのは道徳だけで、普段の学校生活の中でそのような教育をすることはなかなか難しい、でも子どもたちの成長の中で欠かせない教育だと思うので、教科としてしっかりと時間を取っておこなうべきだと考えるから。

賛成である。日本の在り方に置いて時代が変化していく上で教育が変化していくのはいいことだと思うし、昔と違って、自由に人の心の豊かさや変化を認めていけるようになった時代変化はすごくいいと感じたからである。

→ 「自由に人の心の豊かさや変化を認めるようになった」というのが、今後の社会で見せかけだけにならないようにしていきたいですね


私は道徳の教科化には反対である。なぜなら、今まで学んできたことやレジュメを通して、道徳のように、他者から教わったことを自分で感じて考えるという教科を教えるうえでは、個人の発達段階に応じて学習を促すことが大切だと感じたからである。教科化するとなると、学習指導要領に沿って、決められた範囲を決められたときに進めていくことになり、適切な指導をすることが難しいと考える。

→ 指導要領も発達段階を考慮にいれて作られていますが、実際の現場ではその範囲を超える個人差についてもさらに配慮する必要がありますね(大変ですが…)


 私は「道徳の教科化」について賛成です。特にいじめ対策に関して深く掘り下げられるのは良いと思いました。道徳は主教科ではなくなんとなく大事だけれども問題を解いたりする授業ではなく楽しい時間、息抜きの時間というイメージで捉えられていたと思います。その中でいじめについて取り扱ってもいじめをしている本人たちは知らないふりという感じでした。しかし教科化することにより子どもたちがより深い学習をしなければならないという自覚に繋がると同時に指導方法の多様化によりさらに子どもたちが道徳の内容に興味をもつような授業展開にすることができると思ったからです。  ただ、個人的に心配していることとしては教科化されたことによる担任の先生の負担の増大です。専門の教諭免許状がないため、担任の先生が授業をどのように取り扱うかを考えなくてはなりません。教科化と一口にいっても先生の力量が重要になってくるイメージがあるので各学校や先生によって授業の質に差が出てきてしまうのではないかと不安になりました。

→ その通りですね。先生への要求を増やすだけでなく、賃金を上げたり、働く時間を少なくするなど、効率的な働き方への改革も一緒に進めていく必要があると思います。特に「多様性を認め合う」ということには、理念や思想だけではうまくいかず、先生や生徒自身の「心の余裕」という精神的な健康面も多分にかかわってくると私は思います。


私は道徳が以前の修身のような形にさえ戻らなければ現在のように教科化されていることについては賛成です。 まず第一に家庭や生活だけでは学べないような道徳的な事象を取り扱い、それに対して児童生徒に善悪を考えさせる時間として設けられているものはとても有意義なものだと思うからです。また前回で道徳的なものの善悪は場所や時代によると言われていたがこの教科化された道徳というのはもっと根本的なところの道徳を教えるものだと思うので例えばその街では○○をしていいとされていても、外のところではダメだということも学べると思うので良いと思った。 しかしそれは逆手にとればあそこでは何をしてもいいだとかそういったものに捉えられるかもしれないのでそこはこれからの教える側の人の手にかかっているかもしれないと感じた。

→ 学校の機能として、「家庭・地域社会では学べないことを学べる」というのは、過度な階級の再生産を防ぐという観点からも非常に重要ですね。また、道徳はより深く、単に慣習的道徳だけでなく道徳の多様性そのものについても学べるならば、より意義深くなるというのもその通りだと思います(大変かもしれませんが…)。


反対。道徳の授業は確かに大切だとは思うが、「これが正しい」ことであると上から押し付けられてしまったら、多様な考え方が育まれないと思うから。

道徳の教科化について私は賛成である。道徳が教科になることによっていじめの予防につながると考えるから。


賛成です。道徳は豊かな心の発達のためにも必要なものであると私は考えます。道徳教育の全面主義では、児童・生徒たちが道徳教育において1番大切であると思われる自分自身が考えられる時間を十分にとることができなくなることが考えられるために、実りある道徳教育を行うことがむずかしいと思うので、教科化をし、十分な思考時間をとることが必要だと思います。

賛成である。私は前回のあなたへの問いで道徳は教えられないものであると答えたが、道徳の授業はあるべきだと考える。私は、道徳は教えられて理解するものではなく、それぞれが生活していく中で周囲の環境などから感じたり、感じたものの正誤を自ら考え形成していくものだと考えている。私たちの道徳(心のノート)を読み、子ども同士で感じたことを話し合わせ、自分と違った意見に触れることが道徳の形成の手助けになるのではないだろうか。

私は反対です。道徳教育がいらない、というわけではなく、教科の条件の観点から見ると反対です。道徳は、他の科目のように知識を得てテストで点数を取るような科目ではなく、ひとりひとりの心の教育なので、まず厳密な評価はできないと思います。厳密な評価をする、つまりそれぞれの生徒に良し悪しをつけるということは、評価者の基準によるものになってしまうからです。専門の教員免許状についても同じです。記述評価であっても評価者によって基準が変わってしまう点もあるかもしれませんが、道徳とは本来「正解」がないものだと思っています。なので、私は反対します。

→ そうですね。なので評価する側が「あくまで私から見たらこのような評価になるけど、他の人の意見も聞いて考えて」ということを生徒に強調しておくのも一つの手ではないかと思います。そのことを断っておくこと自体が、一つの道徳教育になるのではないでしょうか。(ちなみに、道徳は教科化したとしても点数評価はしません。念のため)


賛成である。なぜなら、道徳に関してしっかりと考える必要があると児童に感じて欲しいからである。ただただ時間を過ごす適当な時間になってしまわぬよう、道徳もひとつの大切な教科であると理解し、真剣に向き合ってほしいと考えるからである。そして教員の意識も教科であり、児童にとって大切な教科であることを認識できるのではないかなと考えるからである。

賛成です。考えを押し付ける教育ではなく、自分の人格を磨き、困っていることに手を差し伸べてあげられる人間に育てるべき。子供の中にある道徳性だけでなく教育によって育成すべきこともある。

賛成です。教科化にあたって評価を要するとしても教科として教えるべきだと考えます。家庭内や担任の先生の個人的な指導もいいと思いますが、統一した教科書をもって偏りのない統一した善悪の判断を教えることも必要だと思います。

→ ただ、そのような統一基準を作ることも(作れればよいのですが)なかなか難しいのではないでしょうか?


私は道徳の教科化に対しては反対です。なぜなら、道徳というものは明確な解があるわけではなく教科書に頼りがちな現在の教育方針では、ある程度の決まりきった道筋に沿って授業が進行されると思うからです。また、他の強化と違い授業をしたからと言って児童生徒の道徳の力が目に見えることが難しいので教科とすることには不安が残ります。故に総合的な活動の時間などを活用してワークショップを行うなどの学校行事や学校生活の中で道徳教育含まれるようにする方が良いと考えています。

反対。一歩間違えると、価値の押し付けになりかねないから。


私は賛成です。教科として捉えるのは実は教師の方の考え方の問題が大きいと考えるからです。自分が児童の時は道徳も同じように教科だと思って受けていました。おそらくそのような子どもが多いと考えます。そこで教科にすることで教える側の人間の意識が変わることが大きなポイントなのではないかと考えるため、私は道徳の教科化に賛成します。


反対。教科の条件の2つ目と3つ目を仮に満たしたとし、「「道徳」の先生」という存在に、自分の価値観のようなものを厳密に評価されるというのを学校で取り扱うのは違和感を感じるから。平たく言えば、気持ち悪い。


自分は「道徳の教科化」に関して、賛成です。道徳教育は、いじめ問題や社会的な問題などについて考えることのできる、間違いなく必要な教育です。そのため、教科化をし、指導方法を多様なものにしたり、文章記述による評価の充実を図り、道徳教育により力を入れないといけないと思うからです。

賛成する。道徳の目標とされている「物事を多面的・多角的に考える」というのは、社会で生活し周囲の人と関わるために必要な考え方だと思う。その考え方ができるようになるためには、実際に様々な立場や人の目線で考えてみる経験が必要になる。だから、道徳の授業の中でいろんな場面設定で多面的に考える体験ができるのは、子どもにとっていいことだと思う

→ 「物事を多面的・多角的に考える」というのはこれからの成熟した民主主義社会に必要な資質だと思いますが、過度な教え込みに至らずに、多様性の受容が醸成できる体験があればより有意義ですね


有識者の決定により下された判断であると思うので、安易に反対できないということは承知していますが、賛成とは言い難いです。教科化する前と後で変わったことは、教科書ができたことと記述式で評価を行うようになったこと。このことが子どもたちの道徳観になにか大きな影響を与えるのでしょうか。私が、小学校・中学校に通っていた頃には毎回の道徳の授業で感想や意見を書いて先生に提出し、次の時間に先生のコメントと共にそれが返ってくるというシステムでした。教科化される前から、文章での評価なるものは毎時間なされていました。近年いじめによる問題が増えたり、外国籍の子どもたちが日本の学校に通うことも増えてきており、多様な考え方を育むために一層道徳教育の必要性が高くなっています。しかし、それへの対策として打ち出された教科化は、なんとかせねばという焦燥が生んだ表面上の変革で、道徳教育の実態は一歩も前進していないのではないでしょうか

→ 今回の教科化の成立のプロセスを追うかぎりは、そのような「何かしなければ、ということで、何かした」という側面もあることは否めないと思います。教科化に込められたさまざまの意図とは別に、「では、教科化によって諸問題が改善されるのだろうか」ということへの十分なエビデンスがないままに教科化が決定された(と解釈できる)プロセスには一定の批判の余地があり、その件も含めて今後また道徳教育のあり方を再考していく必要があると思います。


多様な道徳教育のアプローチを実現していくという考えから、賛成である。しかし、すべての教師がそれを上手く実現できるかというと難しいところでもあるし、逆にそれが出来ると、子どもにとって非常に力になっていくものだと考える。

私は賛成です。道徳教育に目標にもあるように、道徳教育は物事を多角的に考え、自己の生き方について考えを深める機会になり得る。AIやグローバル社会など多様な生き方を要する時代では教科として十分な指導時間によって教育の質を上げて育成することが大切だからです。

反対 様々な意見が述べられているけれども、一人の教師により道徳の授業を行ってしまうと思考の偏りが生じてしまいかねない。道徳を教科化するのではなく、日常のコミュニケーションや生徒指導で対応するべきだと思う。

私は道徳の教科化に反対である。なぜならその地域や学校、クラスによって対応すべきだと思うからだ。教科化してしまうことで意味をなさないものになってしまってはいけないと思う。

反対 理由:道徳の歴史などを学習すのはいいと思うがこういう行動が道徳です。というようなことを教えられ評価されたら、評価の低い人は自分は人としてだめなのかという自尊心の低下につながると思うから。

→ そうですね。「やったほうがいいとわかっているけれど、努力してもできないこと」も誰にも何かしらあるのではないかと思いますが、そのことを低く評価されたら辛いのではないでしょうか。「自尊心の低下」は、最終的には多様性を容認しにくくすると思うので、間違いを指摘するにしても、過度の自尊心の低下につながらないアプローチが必要だと思います。


私は道徳の教育課に関して反対です。いじめの問題への対応など必要なことはあるとは思いますが、道徳を強化にしたからといっていじめ問題が解決するとは思えません。いじめというのは人間だけにかかわらず、動物に存在するものであり、人間はその問題に関して取り組むことはできますが、この道徳を強化にするということで解決するとは私は思えませんでした。また、専門の教員免許状も必要ないとすれば先生によって考え方異なり、道徳をする教師によって子どもの考え方も異なるという結果になると思いました。

→ たしかに、いじめ問題を道徳の授業だけで解決すべきと考えるならば、それは非常に荷が重いことだと思います。現実では、残念ながら大人だって(あるいは、大人こそが)「いじめて」いるわけですから、いじめは本来、社会全体で取り組むべき問題です。学校だけでなく、家族内でのいじめ、会社内でのいじめ、地域でのいじめ、世代間のいじめ、さまざまないじめの仕組みを明らかにし、その防止策を考えるべきだと私は思います(また、いじめは動物にもありますが、人間と動物の違いは、人間は文化をつくることによって、進化による身体的変化がなくとも行動を変化させることができるため、いじめがなくなることは将来的にありうると思います)


賛成です。 人間としての教育が必要。教科化することで教育を充実させられると考えている。

教科化することには賛成です。理由は、家庭児環境や地域が希薄になってきている現在、道徳を学びたくても学ぶ機会の少ない児童生徒はいると思うので、学ぶ機会を保障する必要があると思ったからです。(しかし、教科化には賛成ですが私の受けてきたような、国語科のように正解が限られているよう場授業は改善したほうがいいと思います。)

→ 正解もあまりに教員任せでは、教員の負担が非常に重くなるという問題がありますよね


道徳がほかの教科と同じく、教科書がいくつも出版されて、多角的な見方から授業を行えるようになるなら賛成します。今のまま、文部科学省からの出版だけで道徳の授業が行われるならそれは教科になる意味はないと感じます。

→ テクストの著者の林さんが言っていたように、道徳教育において多様化を教育するのであれば、仰るように教材の多様化も必要だと思います


道徳の教科化については賛成である。ほかの教科と比べても軽視されてきた、これまでの道徳の時間が、教科化されることによって少しでも指導や内容が充実するならその方がよいと考えたからである。指導や内容の充実に伴い、きっと子どもひとりひとりに適した学習を設定できるようになることも期待されるし、やはりいじめ問題などの諸課題に対しても道徳教育は有効であるので、教科化されることによって以上のような様々な良い点が現れてくるのではないかと感じた。

→ いじめ問題に対して道徳教育は有効なのかという点ですが、有効であるというのが理想ですが、私は道徳教育だけでは難しい点があるのではないかという立場です。もし関心があれば『道徳教育は「いじめ」をなくせるのか―教師が明日からできること』(藤川大祐著)を読んでみてください


賛成である。レジュメにあるように児童が社会の規範などを学ぶためのアプローチとして効果的であると考えるから。

産生です。いじめに関して効果があるからです。

さまざまな価値観を持ったたくさんの人々がいることを認めあえる社会を作ってために、小学校から道徳の教科で、教えていくのなら私は賛成です。

賛成。教科とすることで児童もそうだが、教員の意識としてもかなり変わってくるものだと思うから。

私は反対です。教科科をしてしまうことによる、人間の価値観を国が示した方向にに誘導することが教育といえるのかということが疑問にあるからです。子どもたちが自分にとって必要だと思う社会を目指すことが、大切だと思います。

→ 道徳的価値が国家主導で規定されないように監視する、というのも道徳教育の必要な側面だと思います


賛成 【理由】やはり、道徳は社会に出て生きていくために必要な最低限のマナーを教える教科だと思っているので、教科化すべきではないかなと思いました。

→ 誰もが家庭・地域社会で「最低限のマナー」を学べるわけではないので、学校が慣習的道徳を教えるのも一つの大事な側面ですね


私は、「道徳の教科化」に関して反対です。なぜなら、評価をつける必要があるからです。道徳は自己の生き方についての考えを深めるものであり、正解がありません。たとえ、文章記述であっても教師が評価するものではないように感じました。そのため、道徳の授業は大切だと思いますが、教科化をする必要はないように思います。


道徳の教科化には賛成です。道徳も伝達するべき技術のようなもので専門性があると考えられるからです。時代によって変化しうるものだが、その時代の変化に伴った道徳性を身に付けていたら児童自身のためになると考えます。


賛成である。よりよい人間として生きていくために、現在の時代の流れを踏まえながら授業を展開していくべきだと考えている。しかし、その際には、戦前のような画一化した考え方に固定されないように注意せざるべきであり、教える教員も考え続けなければならないと思う。

賛成である。 賛成であるが、道徳は知識に加えて社会生活などを通して生きていく中で学び身についていくものだと思う。そしてそれは、育てられた環境や関わっていくコミュニティが学習に大きく影響するものである。もし学校側が道徳を教科化せず子どもたちの生活に任せてしまえば、学校生活である程度学べるとはいえ子どもによって学習度が大きく変わってしまう恐れがある。それを防ぎ、最低限平等に知識や考え方を身につけるための授業は必要だと思う。

私は賛成です。小学生の時の道徳の時間を思い返すと、他の教科と違ってどこか真剣にしなくていい、テストもないから通知表にも関係ない、楽な授業と捉えている児童がほとんどだったと思います。なのでいじめ防止など近年ずっと問題視されていることの防止対策としても、また真剣に取り組むためにも道徳の教科科は賛成です。

「道徳の教科化」に対して私は反対である。理由としては、道徳はぞれぞれの人の価値観・考え方に根付いており、数値化して評価するものではないと考えるからだ。

私は私は教科化に関して反対する。前回の講義の問いに対して私は道徳は教えられるものだと考えたのだが、それは特設された時間で教えられるものではなく、教科書も用いる必要があるというのは、どうも「知識」を入れるという側面が強くなってしまうように思う。道徳で培われる規範意識、自尊感情、人間関係力などは、時間を設けて教えるというよりは、意図的な設定における経験が重要だと思う。それは教科「道徳」として教えられるというよりは生活指導という捉え方の方がしっくりくる。終戦直後のような全面的な教育に重点が置かれるべきだと考える。しかし、国の「考え、議論する」道徳というのは、道徳の本質というものに触れられるのでおもしろいと思う。

→ やはり「かぎられた授業だけで効果が出るのか?」というのは疑問ですよね。いまでも全面的な教育で「も」あるのですが、その全面主義を効果的に行うために道徳の授業が存在する、という位置づけです。この授業でも少し出てきますが、後期コールバーグなどは、授業ではなく学校教育全体で道徳を行ったほうが効果的だ、という立場です。


賛成です。 道徳の授業で実際に自身が教える立場になると不安な部分は多いが、多角的に物事を見たり、正解がこれと決まってないものを議論してりすることには大きな価値があると考えるから。それはさまざまなこと、他人の気持ちや実利、現実と理想の間など色々なことを考慮して結論を出すことは大人になったときに直面することだと考えるから。

→ そうですね。答えを出そうとすると難しいのですが、問いを問いのまま共有する、「このような問題は難しい問題なのだ」ということを共有する、ということでも、生徒は「この問題は先生でも悩むことなんだ」「悩んでいいことなんだ」と一つの気づきを得ることができるのではないかと思います


私は道徳の教科化に賛成だ。理由は、教科書があるという点だ。小学生の頃、心のノートを実際に使っていたが毎回の授業で使ってはおらず、「たまにしか使わない少し変わった教科書だ」という認識が小学生の私にはあった。心のノートを使わずに先生が良いと思った題材などで学ぶことが多かったように思う。しかしこれではそれぞれの教師の考えが大きく影響するようにも思う。そのため教科にすることで教科書ができるならば、それぞれ良いと思った教科書を選ぶことができ、ある程度決まった範囲で授業を行うことができるのではないかとおもう。


道徳の教科化について賛成である。 なぜなら、資料でもあったように道徳の時間は特設時間であるため各教科等に比べて軽視されがちであるからである。私の実体験でも示されている。国語、算数のような教科よりは軽い気持ちで受けている児童、生徒が多くいた上に教員自体も軽い気持ちで授業をしていたように思える。だが、現在の学校現場ではいじめなど様々な道徳が重要な役割を果たす問題が生じているため、道徳を教科にし各教科と同じ気持ちで授業を展開できるようにするべきであると考える。

私は「道徳の教科科」に関して賛成です。なぜなら、いじめ問題の改善を期待できるからです。

賛成。1950年にGHQによって「全面主義的な道徳教育」が提唱されている。私はこの立場にも賛成ではあるが、日常生活や他教科では滅多に直面しないような場面や議題もあるはずである。そのような部分を補い、考え表現する時間を教科道徳として作ることが必要だと考えるから。

賛成。教科でない「道徳の時間」は他の科目に比べて軽視されがちだったが、最近はいじめ問題への対策や多様性の尊重が重視されているので、教科として、発達段階に合わせてしっかりとしたカリキュラムで教えていくべきだと思うから。

私は反対です。道徳というものは、人それぞれによって、違いがあるものであり、教科として答えを導くような教育は良くないと思うからです。

「反対」私たちが経験してきた道徳という授業は教科ではなかったが、それには、特別感があった。国語や算数とは違い、教科書を読んでノートを書いて勉強するものではなかったからこそ、先生や友達、自分自身と向き合って考えることが出来たと思う。教科になることにより、「自ら気づき感じて学び取っていく道徳」が、「他者に答えを教えてもらう道徳」になってしまうのではなかいかと懸念するからである。

賛成 道徳的行為に関する指導を行うことで課題解決的な授業から「考え、議論する」授業へと転換できるから。しかし、道徳教育を進めるにあたっては指導する側の教師が自立した人間であると示す必要がある。

反対。教科となると勉強というイメージが強くなってしまう感じがするから、わざわざ教科として制定せず今までのように道徳の時間を設けていたらいいと思ったから。

私は、「道徳の教科化」に賛成する。かつては軽視されがちだった道徳教育が教科化することで、子どもたちに多面的な見方が身につくからだ。しかし、評価方法においてははっきりと定まっていないため、他の教科と比べ、教員によって評価基準が変わってしまうことが懸念されると感じた。

私は教科化することに反対です。教科にするということは数値ではないにしろ評価という意識が強くなると思います。道徳とはどちらかというと特別活動よりだと私は考えていて、重要視されるのは当然ですが、正解を探す印象のある「教科」に近づける必要は無いと思うからです。

一部反対です。人格の形成を目的として、いじめの問題の軽減など大きな意義があり、「特別の教科」とする点は賛成なのですが、やはり「評価」を用いる点が納得いきません。意欲の向上などの目的ならほかの方法を考えるべきだと思います。

賛成である。教科化することで各教科に比べ軽視することがなくなり、充実した指導が行えると思うが、教師側の指導に関する教育も必要ではないかと思った。

私は道徳の教科化に賛成である。ただし、児童の発達段階に合わせた指導をしたり、教師側で道徳教育について考えるなどの工夫が必要であると考える。

賛成だ。読書課題やレジュメを読み、道徳と同じく教科化された修身は、目標や内容が全く異なるものだと感じたからだ。教科化という呼び方に注意するよりも、教えられる内容について、今後改訂があるごとに議論すべきだと感じた。


賛成です。道徳の授業にはいじめに関する内容も取り込まれており、いじめによく見られる「いじめてるつもりはなかった」「いじめだとは思わなかった」といった事例を防ぐためにもより丁寧にいじめの児童が可能になると考えたからです。

私は道徳の教科化には反対である。資料のなかにもあったが、教科化してしまうと発達段階に合わせた教育が行われづらくなると思うからである。クラスの中でも発達段階に大きな差があると思うし、地域性というのもあると思うので、教科化して画一化するのではなく、各教師に基本的な指針を示し、その後同教育していくのかは各教師にゆだねるべきだと思う。そのために、教師側に対する道徳教育の指導がより必要であると思う。


反対である。現在のように「特別な教科」としてなら記述評価であるため構わないが、「教科」としてしまうと数値評価が必要になってくるため、良くないのではないかと考える。道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる授業を行っていく道徳で、数値評価をすることは不可能だと思うのだ。国語や算数などは、「このテストで○○点以上とることができたら5」などど、基準に則って明確に評価することができるが、生き方についての考えを深める学習を数値で評価することは難しすぎるだろう。児童生徒にとっても、心情や考え方を数値で表されても理解できないだろうし、まず教師が評価できないと思う。また、専門の教師を育成するというのも難しいのではないだろうか。様々な対策を練れば可能かもしれないが、現状は厳しいと思う。担任が指導することに困難さ大変さはあるが、教科化を考えるよりも、目標や内容をもっと細かく示して担任がうまく指導していけるようサポートするほうが、良いと考えるのだ。

「道徳の教科化」について私は賛成です。現在問題視されている日本人の自尊感情の低さやいじめ問題に取り組むためには授業としてしっかりと時間を取るべきものであると思います。しかし、マニュアル化されたような授業をしていては子どもの意欲も下がってしまうのでやるからにはしっかりと一人一人が意見をもつことのできる授業にしていく必要があると思います。

賛成します。従来の道徳では軽視されがちであったりしたり、読み物の教材を用いた登場人物の心情を理解するものであった。しかしこれからは道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てるといった「考え、議論する道徳(文部科学省より)」になっていくから。教えを聞くだけでなく子どもたちが自発的に考えられる道徳であるべき。

私は道徳の教科化に賛成です。内容や評価の方法・教師の質は、考える必要があると考えます。賛成の理由は、一律に全国の子どもに、考える機会を保障するという意味で、教科としての道徳は必要であると考えるからです。経験の中で学ぶ機会は、歴史を見ても必要だと考えます。


私は賛成です。林泰成の道徳教育論によると、教科として実施されていた修身のようになる可能性もあります。しかし、林泰成が示しているように、教科化の前にしっかりと議論を展開し、多様な道徳教育のアプローチを進めることにより、道徳の教科化は、有効かつ可能なものにすることができると思うからです。準備、検討ををすることは簡単なことではありませんが、それができれば教科化することも恐れるべきものではないと思います。


特別な教科化については賛成、意思の統一ではなく認識の共有のために道徳を学ぶ時間を確立する方がよいと感じたから、また道徳を評価するのは少し違うのではないかと思ったため特別の位置づけが良いと思った。


賛成です。私は今まで「心のノート」に書き込んだり、使った覚えがほとんどなく、家で読んでおいてと終業式にもらっていましたそんな状況では意味がないと思います。しかし、教科化することによって、先生方はしっかりと道徳を取り扱わなければいけなくなるからです。


私は反対だ。なぜなら、教師から子どもへの「評価」には強いメッセージが込められていると考えるからだ。評価を下すということは教師が一つの「規範」を作り出すことにつながる。道徳の専門の教員免許状を持たない教師が子どもたちを評価するのは難しいように思う。


賛成です。「道徳」という教科を設け体験的な学習や問題解決学習などを取り入れることで、これからの将来を生きる子どもにとって、「生きる力」の糧になると考えたからです。また、教科として定めることで道徳学習に全国で偏りなくなるのも大きな点かなと思います。道徳教育が自分の生き方について考えたり、道徳的な判断力や心情、意欲、実践力を身に付ける機会になれば、物事を異なる視点から見たり、道徳的な判断やその結果から自分の行動をフィードバックして捉え直し、修正したりできるのではないかと思います。「学ぶ機会」を得なければならないと思います。言葉や体験で学んでいくことが大切だと思いました。


道徳の教科化に関しては、賛成だ。理由は2つある。1つ目は、教科と位置付けることで一定の教育活動が保障されると考えるからだ。2つ目は、いじめ問題を解決する一助になると考えるからである。しかし、教科書が制定されたことで、国の言いなりになるような道徳教育となるのは避けるべきである。

いじめ問題は社会全体として考えていかなければならない問題であるため、教育現場で取り組んでいくことができるのなら良いと考えるため、賛成。ただし、それを教えることができる教員をどうやって用意するのかは疑問。他の教科の教員を併用し教えさせてしまうとその教員のもともとの教科の仕事に追われてしまい、道徳の授業が内容の薄い授業になってしまうのではないか不安。


道徳の教科化について反対である。私は、現在学校現場で、いじめや不登校の問題が多く顕在化してきているのは、教員がすべきことが多すぎて子どもたちのことを十分に見たり関わったりする時間が少なくなっているからではないかと思う。その中で、さらに新しい教科の勉強をして、「相互理解、個性の伸長」などを全ての児童に理解できるように授業を行うことで、問題が解決できるとは思えない。力のある教員の方なら、よい授業をつくり充実した学びを与えることができるかもしれないが、私は道徳が教科化しても児童にとってよい学びを与えられないと思う。

→ たしかに、高い理想を掲げても、仕事が多すぎて仕事全体の質が下がってしまっては本末転倒ですね。高い理想を実現できるために適切な(各教員が心の余裕が持てる)仕事量になることが望ましいのではないかと思います


賛成です。道徳は一人一人の価値観によって教え方が変わると思います。それを教科化にすることによって、統一して教えることができるからです。

私は賛成です。教科の中に限らずに、学校生活全体で道徳を教えることが理想ではありますが、教科化することによって、やるべきことが明確で具体化されているため、教師の裁量の差に左右されすぎずに、学ぶべきことや考えるべきことを集中して確実に学びやすいと思うからです。

道徳の教科化に反対である。なぜなら、道徳を教科として教えることによって、道徳としての価値観を一方的に押し付けてしまい、多様な価値観の受容を妨げてしまうかもしれないからである。

私は反対です。道徳は、人それぞれ少しずつ違う価値観を持っており、教科化してしまうと答えを導くような教育になってしまうと思うからです。

私は「道徳の教科化」に反対だ。なぜなら教科化に伴う「厳密な評価」の分野で、一人の人間である教員が十人十色の価値観をもつ子どもの道徳心を評価することが公平であるとはいえないと思うからだ。道徳は数学などのように明確な正誤があるわけではない。道徳では、事象に対する善悪はほぼ共通理解ができると思うが、何を根拠にどういった理由でその善悪を判断したのかはそれぞれの価値観に伴いプロセスが異なると思う。それは子どもだけでなく、人間である以上教員にもいえることだ。その中で教員が道徳科の評価をすることは難しいと思うので、今まで通り「特別の教科」として、その学習内容をもっと深いものにしていくべきだと考える。

私は道徳の教科化に賛成です。なぜなら、現在の社会の大きな課題の一つである、いじめ問題への対応も意識されている改訂であるからです。人とのかかわりだけでは身につけることができない考え方や想像力を道徳という教科を通じて学ぶことができると思います。私は教科としての道徳の授業は受けたことがありませんが、実際に小学校の道徳の授業を受けて、人との関わり方やバリアフリーの考え方など多くのことを学びました。教科になることですべての学校が道徳の授業を行い、評価もされることで子どもたちもより真剣に取り組むことができるようになるのではないかと思いました。国語や算数などの知識・技能を学ぶ教科も大事ですが、道徳という生きていくうえで人と関わっていくうえで必要な事柄を学ぶことはとても重要だと思いました。

反対である。現在のように「特別の教科」としてなら、記述評価のみで良いため構わないが、「教科」としてしまうと数値評価が必要になるため、それは厳しいのではないかと考えるからだ。国語や数学では、「テストで○○点以上取ることができたら5」などと学校全体で基準が設けられ数値評価が可能であるが、道徳はそうはいかないと思う。判断力や心情、実践意欲と態度などは、数値評価では表すことができないだろう。生き方についての考えを深めるための授業であるため、そこを数値評価するのはあまり意味がないし、また、専門教員というのもなかなか想像がつかない。学級担任が行うことでうまくいかない面があるのかもしれないが、評価の面や専門の教員を育成する難しさを考えると、細かく目標や内容を提示してそれを担任が指導していくほうが、私は良いのではないかと感じる。

反対である。評価もすごく曖昧になってしまうし、「人として」というところを知ったうえでの個性だと思っているのでそこを数値的評価ではないにしろ評価対象にするのは難しいと考えるからである。

道徳というのは人格を形成するものであると思っているため、授業として取り扱うのではなく普段の何気ないことを雑談程度で取り上げるものだと思っている。人に教えられて変えるのではなく自ら話を聞き考え行動することだと思っているので教科化には反対です