応用倫理学1回目FB

【コメント】

1.課題は面白く引き込まれました。 可能でしたら音声もしくは動画での解説を頂きたいです。

→ ありがとうございます!動画や音声での解説は、やりたい気持ちはあるのですが今のところまだ技術的に難しく… しかし今後可能であれば、そのようなコンテンツも追加していきたいと思います。

2.pdfを読みながら考えさせられるなあと思いました。このようなことを考えるのは好きなので、今後の授業が楽しみです。

3.送信しても白紙のページになり、きちんと提出されているか不安です。(これで提出は3回目です。)

→ google formの仕様のようなのですが、白紙のページになった場合、提出されています。その状態でページ上部までスクロールしてもらうと、答え合わせのできるリンクが見えてくると思いますので、試してみてください。

4.道徳的なことを文書として語る際には仕方のないことであるが、文章中で作者が前提としていることの中にいくつか疑問点があった。私にとってこの文章はそもそも「前提」をもっと議論すべきではないかと思える論をいくつか含んでおり、すべて納得できるものではなかったように思う。この本についてもっと授業内で意見を交わしたいと感じた。私が今行っているように文章に書き起こすのでは余りに不十分であり、もっと主張したいことが沢山ある

→ このテキストの筆者の前提に疑問点があったということですが、たしかに文章化することは難しいものの、できれば疑問点について具体的に書いてもらえると、こちらからも何かしら応答できるかなと思います。このテキストの筆者は特定の立場へと不当に誘導しているとは思いませんが、筆者の支持する立場を隠しているわけではありません(それはある意味、「答えは結局ない、難しい」という相対主義では済まさない、良心的な書き方であるとも思いますが)。よって、その筆者の特定の立場への疑問・批判はあってしかるべきだと思います。筆者は自分の立場への批判をできるかぎり想定して応答せんとして書いているようなので、それは筆者も望むところだと思います。たしかにこのような込み入った議論は対面の方がずっとやりやすいのですが、これを機にできれば文章化にもチャレンジしてみてください。

4.私は文章を読みながら質問に回答していったため、記述問題はテレサの部分しか読んでいないまま書いたが、そのあとで急斜面の論理の部分を読むと、自らのことを言い当てられたようできまりが悪かった。自身の論が合理的なものかどうかは今後のこの授業で考えていきたいと思う。

→ 「急斜面の論理」は私も陥ってしまうことがよくあります。誰でも意識的・無意識的に日々行っているところがあると思います。「急斜面の論理」は簡単に言えば「原理を無条件に徹底することにより、極端になってしまう」ということだと思いますが、倫理学の議論を学ぶ一つの効用として、自身の日々の考えの「極端であった部分が丸くなる」ということはあるのではないかなと私は思います。それは自分が今まであまり考えてこなかった(ということは、あまり深く考えずに不採用にしていた可能性のある)複数の立場をその理由に至るまで深掘りすることによって可能になるのではないかと思います。

5.読んでいて考えさせられることが多かった文章でした。

6.非常に興味深い内容で、考えさせられる授業でした。考えなければならないことを考えずに放棄している人が多い世の中なので指導者になろうとしている我々が率先して考え、考える力を養い、児童生徒を指導することができるようにならなければならないと感じました

→ 自戒を込めて思うのですが、先生が広い視野を持つと、(その視野の幅の中におさまる範囲内にかぎってではあるかと思いますが)多様な生徒の立場に(表面的なポーズだけでなく)心から寄り添うことができるようになるのではないかと思います。それは、色々な立場がその立場なりの理由によって肯定されうるということを知ることによって、反射的に「そんなのだめだ」と即断してしまうことが減ることによってではないか、と思います。これはある意味では、「決定を躊躇する」とか、「すぐに決められない」態度にもなり、リーダーシップがないと批判される可能性もありますが、私は「躊躇」や「即断しない」ことはマイナスなことだけではなく、場合によっては適切であり(「積極的に躊躇すべき「であり)、一種の優しさでもあるのではないかな、と思っています。

7.可能性でしたら、音声もしくは動画での本文の解説も頂きたいです。お題は面白く引き込まれました。

→ 可能であればですが(笑)やりたいと思います!

8.授業の資料をただ読むだけでなく、レジュメと確認しながら進めることでとても理解しやすかった。

9.もし今回のような資料の読み取りの講義が続く場合、音声や映像による講義は難しいでしょうか?音声による解説があればさらに教材がわかりやすくなると思うのですが...

→ そうですね、そのように思います。いまのところその代わりとして、テキストで扱っている議論と現実の問題との関連をわかりやすくするため、時事問題と絡めて考える記述問題を用意しています。

10.道徳的、という観点から倫理学を考えたがしばしば自分の行動や発言からも想起することが出来た。この授業においては2回生で習った倫理学の基礎を活かして、応用へと昇華することによってさらに深い学びへと繋げていきたい。

→ この授業で扱うテキストは、必ず現実の問題とリンクさせて倫理学の知識を扱っているので、これまで学んで来られた倫理学の知識とも様々なところで(特に授業の後半で)つながってくるのではないかと思います。


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【記述問題】あなた自身は、自分にテレサのような無脳症の嬰児が誕生したとしたら、文中の両親がそう意志したように、臓器移植のために早く死亡させることに賛成ですか、反対ですか。その理由(本文中にあるものでもないものでも構いません)も合わせて、簡潔に答えてください。



・賛成

臓器移植に賛成します。近いうちに亡くなることが医療的に明らかであり、また生きたとしても子どもにとって苦しさが常に持続するのであれば、そしてその命と引き換えに助かる命があるのであればそれが賢明な判断であると考えます。

→ 近いうちに亡くなる・生きたとしても苦しみが持続することが医療的に明らかであれば、臓器移植の判断をする人は多いことは想像に難くないですね

私は賛成です。臓器移植によって、他者に利益を伴うことができたら嬰児にとっても生きた意味があることになると思います。

賛成です。他の子供へ臓器移植したことは、利益を得ることができるのでその嬰児にとっても生きた意味があるということになるからです。

→ ただ、利益があるとしても、「嬰児本人はそれを望んでいるのか?」という問題はありますよね。テキストでは、「嬰児は自律的に思考できないので、望んでいるかどうかは問題にならない」という論理展開になっていたかと思いますが、反対の立場もありえると思います

賛成です。なぜならテレサ自身は意志を持たず自立的存在ではありません。そのためテレサの意思に反しているや、テレサに害を与えているという意見はなりたたず、まだ生きる可能性のある、また意識をもって利益を得る可能性のある児童に移植する方が善であると考えれるから。

賛成である。もしこの場合の臓器移植を認めなかったとした場合の未来と認めた場合の未来では助かる人の数は後者の方が多くなる。ということは認められた未来では救われた命を臓器移植が認められなかった未来では結果的に殺しているということになると思った。無能症患者やその家族に選択肢を増やすという点でも、この一例を認めた後に救われる命と救われない命のことを考えても私は臓器提供に賛成である。

→ 「どちらの選択肢の方が助かる人の数が多いか?」ということを判断基準にする考え方を「(行為)功利主義」と言います。この立場についてはまた授業の後半で扱います。

賛成です。意思なき自由では自らの人生を自らの意思で歩むことが出来ないと考えているからです。

賛成です。他の人を害する事もなく誰かに利益を与えることができる。さらに、臓器移植はテレサを害さずに他の子供たちに利益を与えるから。

賛成です。なぜなら、その子は人間らしい生活を送ることができないことが明確であり、さらに臓器移植をすることは他の人の救うことのできる命を増やすことができるから。

賛成です。 理由は、本文でも扱われていたように延命したことによってより本人にとって苦痛となるのならそれを取り除くことが最善だと思うからです。

賛成します。理由としては、臓器移植ができなければ2つの命が失われることになるが、臓器移植を行うことによって、1つの命は救うことが出来る可能性があるからです。

賛成します。理由としては、何もしなければ2人の命が失われてしまいますが、臓器移植をすることにより、1人の命は助かる可能性があるからです。

賛成だ。テレサは自律的に思考できる存在ではなく、生きていることを彼女が認識し、幸福を感じることもできない。そのため臓器移植はテレサを害することはないと考える。また、移植することで助かる子どもはテレサよりも幸福を感じることのできる可能性が高いと考え、臓器移植をした方が利益が大きいため賛成である。

賛成。 本文でも述べている通り、テレサは自律的存在ではない。ゆえにテレサにとって最大の利益を考えるとするならば、大脳・小脳がない状態で生きるより、他人のために生きるのが良いのではないかと考える。

賛成。 本文で述べている通り、テレサは自律的存在ではない。ゆえにテレサにとって最大の利益の選択は、両親に委ねられると考える。

もし私が親の立場になったならば賛成である。無脳症の嬰児はこのままでは全く人生を謳歌することなく死んでしまう。せめて誰かの臓器として一生を全うして楽しんでほしい。別人の中だとしても生き続けてほしい、なにか生まれてきた意味を持ってほしいと思うからである。 しかし、これは親の立場であり、道徳的事象を考える他者という立場に立った時、必ずしも賛成であるとは言えない。脳の働きが全て解明されているわけではない現在、無脳症の嬰児に自律的思考が無いとは言い切れない。嬰児が全くもって思考していないとどうして言い切ることができよう。誰も彼らの脳内を直接覗いたわけではないのに。仮に嬰児が自分の臓器が移植されることに耐えがたい苦しみを感じていたならば、それはれっきとした殺人と言えよう。何が人間を人間たらしめるかという定義を私は未だ獲得できていないため、私には嬰児はしっかりと生きているように思える。その生を断ち切ることは殺人である故、臓器移植が最善であるかの判断は容易にできるものではない

→ たしかに、脳の働きが全て解明されているわけではないので、将来的に「無脳症であっても自律的思考ができている」という事実が仮に出てくれば、その事実は道徳的判断に大きな影響を及ぼしそうですね。少し違う例ですが、「脳死」状態は外から見れば意識がないように見えますが、脳が「死んで」いたとしても、「現在の科学で解明されていない別の機能が働いており、意識は続いている」という立場もありえると思います(実際、この可能性を考慮して、脳死状態での臓器移植を拒否する立場はありうると思います)。


・反対

私は早く死亡させることに反対である。理由は、その人間が意識を持てるようになる方法が数年後に生まれる可能性がないわけではないし、そもそもその子が数年で死ぬと100%言い切ることは人間にはできず、その子にとって明るい未来が訪れる可能性を否定できないからである。

→ 現在の科学の水準に基づく判断は完璧とは言えない、という立場ですね。実際、テキストでも紹介されていたように、その時点での「科学的判断」が、将来的に蓋を開けたら誤っていた、という事例は少なくないですよね。

反対です。 子どもは親の所有物ではないからです。意識があるにせよ、無いにせよ、この世に誕生したからには、全ての子どもに尊厳が保障されるべきです。ましてや、子どもの生死を両親に握られることは、あってはならないと考えます。また、子どもに死を強要することが例外として認められるようになれば、どこで線引きをするのか非常に困難だからです。

→ これは一般的なキリスト教の立場に近いのではないかと思います。また、後で扱いますが、18世紀ドイツの哲学者カントも「人間を手段として扱ってはいけない」(人間は目的としてのみ扱うべき)と考えるため、この立場になると思います。

反対する まだ生きる希望があるならそちらに希望を持ちたいため