2020道徳教育論4回目FB

コールバーグの「ハインツのジレンマ」について、資料で途中まで読んでしまい、とても続きが気になりました。来週が楽しみです。資料が思ったより多く、全部読んでからコメントシートに取り組むと、90分では終わらず、少し困っています。私の要領が悪いという問題もあるのかもしれませんが…。

会話文や実験などがあり、楽しんで学習することができました。

大学の授業で、今までピアジェの書いた理論の要約は習ったことがありましたが、今回初めて原文を読み、それから教科書の内容を読んでみると、理論をより深く、具体的に理解できたと感じることができました。


ピアジェの発達段階については以前他の授業で行ったことがあるが、改めて学習をすることで理解が深まった。

今回の授業では具体的な研究内容がありその上での説明をされていたので非常に分かりやすかったです。具体的に考えることがあまりできない資料やウェブ授業の中での具体的な事案を取り扱うのはすごくいい授業作りだと思いました。


ピアジェの発達段階については今まで何回も耳にしたことがあったが、整理されたものを学ぶことでより簡潔に自分の中で吸収することができた。

ピアジェにかかわらず心理学はとても興味があるので今回の授業はとても興味深い内容でした。しかし、ピアジェの原文は少し難解で読みづらいという印象でした。自粛中は時間もあるので、もっとしっかりと時間をとって読み込みたいと思いました。

ピアジェについては今まで学習してきたことはありましたが、今回の講義を通して改めて理解を深めることができました。今回の講義で学んだことを学校現場で活かせるように広い視点で学習していきたいと考えます。

道徳とは、社会の道理と学びましたが、子どもから見えている社会と、大人にとっての社会は見え方が違うと分かりました。大人にとっては、悪でも子どもにとっては正義かもしれないし、やみくもに大人の道徳的正義を押し付けたり、頭ごなしに否定するのでなく、子どもの発達段階に応じて考えていくことが必要であると分かりました。ますます、道徳って奥が深いな、真実って一つじゃないんだなと思い、難しいと感じましたが、興味がわきました。

pdf見づらすぎました。

実験結果を通して学ぶことができたので、ただピアジェの論を読むだけよりも根拠を感じられて深く学べたと思います。ピアジェの原文の一部の文字がつぶれており、少し読むのが大変でした。


レジュメが読みづらいです。

資料が読みにくくて、問題が解けないところがあったように思います。

配布資料(ピアジェの原文の左側)が上手く表示できなかったため読めていない箇所がいくつかあります。よろしくお願いします。

ピアジェの原文の資料が非常に読みづらかったです。原文を読む機会が今までなかったので、もう少し読みやすい状態で準備していただけたら嬉しかったです。 ピアジェの発達段階に配慮した道徳教育の重要性は少し理解することができたが、実際の内容にどのように反映されているのか、また、されていないのかが今回気になりました。また、ピアジェの説に対して批判もあることに驚き、もっと知りたいという気持ちになりました。



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【あなたへの問い】ピアジェの研究は「道徳教育を行うにあたっては、児童生徒の発達段階に配慮しなければならない(いきなり大人が理解できる水準を求めてはならない)」という発想の基礎となっていると考えられます。しかし、ピアジェの説に対しては批判もあります(5回目・6回目の授業で扱います)。今回の授業課題ではピアジェの解説と原文を読んでもらいましたが、あなた自身の子どもの頃の記憶や、身の回りにいる児童の観察を考慮に入れて、ピアジェの想定する諸段階についてあなた自身はどう考えますか。その通りだと考えますか、それとも、同意できないところがありましたか。そのように考える理由も挙げて簡潔に答えてください。


ピアジェの想定する諸段階について今日初めて学んだため、正直、私の意見はこうであるとまだはっきり答えることはできない。しかし、私自身の子どもの頃の記憶や周りの子どの観察を考慮に入れると、自己中心的段階は本当に5歳まで続くのかなと、少し不思議に思った。私自身保育園に通っていて、歳の離れた弟の保育園時代もたくさん見てきたが、割と競走しているイメージがある。友だちと一緒にいても一人で遊んでいる という場点は確かにあるが、協同のような、競走する場面や助け合う場面などが、あったような気がするのだ。私の思い込みかもしれないし、およそとされているため分からないが、その点が少し気になった。あとは納得出来るものばかりで、とても勉強になった。真に規則を尊重する態度というのが思ったより理解しにくかったため、また復習しておこうと感じた。

私はその通りだと考えます。なぜなら、規則の実践や意識の内容を見ていると、自分たちの子供の頃を振り返ると、そういう気持ちでゲームしていたと思います。歳をとるに連れて考え方や感じ方も変わり、1人遊びからみんなで遊ぶようにもなりました。また、大人から与えられたものは何故か絶対的なものだと思っていました。

その通りであると思う。 無理に大人が理解できる水準を求めてしまうとかえって混乱させてしまうと思うから。成長することにより少しずつ考え方や価値観なども子供は変わるのでその過程を大切すべきであると思うから。私の10個下の弟はルールや規則を教えても反発するときはするが後日や何年後かにはしっかりとそのルールや規則を受容し納得しているのでいきなり大人が理解できる水準を求める必要は無いと思う。

ピアジェの発達論に同意する。自分の経験上、周囲から教えてもらった具体的な事象を理解してから、他の事象に対しても応用して般化させていくことが、学習の過程に含まれていると考えている。ピアジェの考えや研究からも、規則というものを教えられ理解し、それを絶対的なものとして捉えるという発達段階を経て、般化させたり、自分たちの合意形成を図れば変えられたりできるようになるということが分かっている。周囲から与えられたものを自分の中で処理し、自分のものとなって初めて、自律した考えをもつことができると思う。

たしかに保育園に行って園児を見ていると、みんなで同じおもちゃで遊んでいるのにやっていることはバラバラだったり、ルール少し成長してルールのある遊びをしても、勝つためだったら卑怯なことをする、そして考え方が変わっていくことは賛成できた。

私はその通りだと考える。私の原体験をピアジェの発達段階を基にして遡り回想してみたところ「確かに。」と納得できる箇所が多く存在していた。それが一番大きな肯定の理由だが、道徳教育をピアジェの考える発達段階を考慮して行った場合、理解することが出来ず、思わぬ反発や反応が生まれてしまうのではないかと考えた。5・6回で批判について取り上げるとのことなので、どのような意見なのか気になった。

私は、ピアジェの想定する諸段階については、同意できないところがある。それは、幼い子供は、社会的習慣と道徳的習慣とを区別することができないというピアジェの主張は、私の子どもの頃の記憶と異なるからだ。

協同が生まれる段階には、友達に勝とうとするだけでなく、友達と一緒に遊ぼうとすることも含まれてくるのではないかと考える。

その通りであると思うことが大半だが、同意できないこともある。それは、おままごとのような競争に勝つことが見込まれない遊びである。主に6歳~8歳の頃に、他者と協力し役割を決めて振る舞うといった遊びにおいては、個人的なルールではなく他者とルールの擦り合わせを行うことが求められるから。

ピアジェの想定する諸段階について、私はその通りだと考えます。幼少期のころにする遊びのひとつである「ままごと」をイメージすると、自分で役柄やルールを決定している様子なのでこれはまさしく「運動的個人的段階」や「自己中心的段階」にあたるのだと考えました。また、私は小学校中学年ごろになると、放課後によく同級生や上級生たちとサッカーで遊んでいました。そこでは、相談するというわけでもなく自然とサッカーのうまさや運動神経を考慮してバランスの取れたチームを作って対決していました。これは「協同が生まれる段階」や「規則の制定化の段階」にあたると感じました。

その通りだと考える。いきなり高度な課題に直面させても児童は考える余地がないと思うから。

同意できないところがある。ピアジェの実験では「ゲーム」を基に行われている。子どもは「ゲームをより楽しくするため」という動機・理由からルールについて認識が変わる。しかし、「道徳的な規則」を守る場合の動機・理由は「道徳的な生活をより楽しむため」と決定するのは難しいと考えたからだ。また、道徳的な規則は「大人の認識(社会的)」の押し付けに近いと感じたからでもある。

ピアジェの自己中心性の段階では既成のゲームに規則に従って遊んでいるように見えるが実際は一人遊びをしている段階とあるが私はそうは考えない。私が幼稚園のころ(五歳くらい)家でボードゲーム(押したり引いたりして球を落とすゲーム)などで勝ち負けを競い合っていた記憶があるから。

私はピアジェの考える諸段階について子どもの頃を振り返ると納得することが出来た。私自身、2歳ずつ離れた弟と妹がいて、同じゲームを一緒に楽しめるようになるまでにはかなりの時間がかかった。それぞれの主とする遊びの考え方も違い、一緒に遊ぼうとすると苦戦することから発達段階に応じた考えや特性があると考える。

 発達が早いのか、7歳くらいからルールを自分たちで作る児童が多かったように感じる。また、10歳以降であっても、ルールは絶対的なものと考える児童もいたように感じたので、必ずしも誰もがピアジェの段階に当てはまるとは限らないと考える。

同意できないところがあります。ピアジェの言うような段階的な発達であるなら、いじめは起こらないと思うのと、私が子どものころは「規則を変えることができると考える段階」でも、法律や、校則に従うことが「善」で従わないことが「悪」だと思っていたからです。

私は、ピアジェの想定する諸段階についてその通りだと考えました。理由は、私自身、実際に幼少期周りの友達も含めておおむねそうであったように感じるからです。第一段階は、自分自身のことはわかりませんが、身近な幼い子どもと関わった経験から、確かに規則などは理解していませんでした。だんだん、理解するようになって、先生が絶対的な存在になり、段々と規則に疑問を持ち始めたり、変えようと掛け合ったりした経験があるからです。実際、例えば、幼いころは信号無視をしてはいけないという規則があったとしたら、どんなに事情があっても信号無視をする人は悪だと思っていたけど、大きくなるにつれて、何か事情があるなら仕方ない。と思うようになりました。従って、私はピアジェの諸段階の説明について納得しました。

ピアジェの諸段階についてそれらに当てはまる子どもの方が私の周りでは少なかったと感じる。特に具体的操作期においては脱自己中心性とあるが相手の気持ちを考え発言をできる子どもはとても少なかった。特に小学校中学年では好き勝手言う子どもの方が多い感じがする。

諸段階についてはその通りだと思ったけれども、必ずしも子供の発達段階を全て考慮する必要はないと思った。なぜなら多少厳しい水準にされたとしても、将来的にはそちらの方が良かったと思えるからである。

段階についてはある程度はその通りであると思う。特に、インターンシップで3歳の子どもを見ていた時に、自己中心的段階のところでも学習したように、ルールに従うだけで、自分以外の子どもとは競い合おうとしているようには見えなかったからである。それ以外を見ることはできなかったが、そのまま段階的に成長していけば、ピアジェの想定した諸段階の通りに成長するのではないかと感じた。

その通りだと考えます。自身の子どもの頃の記憶や、身の回りにいる児童の観察を通して、この諸段階の通りに感じたから。

確かに、ピアジェが論じているように発達段階の順序で規則を捉えているように思う。対象物を何の先入観もなしに捉え、一人で思考錯誤している状態は幼児によくみられる。かじる出会ったり舐める行為だと思う。次に自己中心的段階では、人の癖や行動をよく真似する姿が思い浮かぶ。そして幼稚園から小学生低学年では、勝負事への執着からけんかや言い争いが多くが見られるように思う。そしてその様子は学年が進むにつれて減少する印象がある。故にピアジェの発達段階はその通りだと考える。

私が小学校の頃のことを振り返る限り、ピアジェの想定する諸段階はある程度当てはまると考えられる。なぜなら、私の経験上、小学2年生ぐらいまでは例えばじゃんけんなどで自己中心的なルールが横行するが、4年生にもなるとそのようなことは少なくなっていたからだ。

私の活動する学童保育ではよく、小学一年生から6年生(6~12歳)まで混ざり、ドッチボールや鬼ごっこなど、ゲームをする。ルールやチーム分けは基本的に高学年に任せているが、その年長者の言うことは絶対的であり、ルールをほとんど正確に理解してると言えるし、分からないことは聞いてすぐに理解出来ている。一方私、1.2年生はルールを何となく知っている状態で、ゲームに参加し、楽しそうに遊ぶ。が、実はゲームの中ではかなりルールから反していて、高学年にとって「なんで?」となることが多いようだ。このような光景を考えるとピアジェ想定する段階にうなずける。

私はおおむね同意する。理由としては確かにすべての児童生徒に「ピアジェの発達段階」が当てはまるわけではないが、一つの指標として判断して良いと考えるからである。

基本的にピアジェの諸段階については納得できるところが多いです。幼稚園に通っていた年頃のあたりは自分のことを中心に考えていて、友達への思いやりは小学校に入ってからよりはあまりなかったと思いました。大きくなってからは規則を変えることができると考えるようになるため、授業でも生徒が主体となって考える授業が増えるのではないかと思いました。  ただ、私が意見が少し合わなかったと思うのはどちらがより悪いと思うかという問いに対して私はAだと思ってしまいました。もちろんどちらが正解という訳ではありませんが、私は完全に結果から判断してしまっていました。これは難しい問いだと思います。もしこれが殺人事件だったら動機に情状酌量の余地があったとしても何人もの人を殺してしまった犯人が無差別に1人を殺した犯人より悪くないといえるでしょうか。これは時と場合によって変化しやすいものではないかと思いました。

私自身は、同意できると考えました。実際に小さい頃は、まだあまり何も分からず生きていました。(記憶もあまりありませんが)幼稚園の終わりごろから小学校の頃は、親・先生の言う事が絶対だと考えていました。中学高校の頃は、お互いの意見の中で、折り合いをつけてきました。自分自身のこのような経験を振り返ると、ピアジェの段階に一致しているように思います。そのため、私は同意できます。

その通りだと思う。生まれたての赤ちゃんは良い悪いの判断ができるほどの考える力が備わっていないように、やはり子供の成長の過程に合わせて道徳教育を行っていく必要があると考えられるから。どちらがより悪いかであるように、年齢が増すにつれて、結果から動機へと良い悪いの判断基準が変化していくように成長するにつれて道徳ん関する考え方が備わるようになるといえる。

ピアジェの説に賛成です。子どものうちは大人と比べて視野が狭く、自分本位の考え方が多いからです。でも子どもだから考えは間違っていると決めつけるのもよくないと思います。子どもは子どもとして自分なりに考えていて、それは大人の世界でも通用するものもあると思います。

ピアジェの想定する諸段階について、私はその通りだと考える。自分は、児童発達支援施設で働いており、未就学児と一緒にルール遊びをすることがある。その中で、ルールが理解できない子どももいてるが、ルールを理解し、勝ち負けの概念を理解して遊ぶ子どももいてる。なので、今の自分から見ても、発達段階がきちんとあることがわかる。しかし、子どもによって発達スピードには差があることは忘れてはいけない。

ピアジェの想定する諸段階について私はその通りだと考えます。特に初期協働の段階である7.8~10歳で、相手に勝とうとするが、相手に勝ったといえるためには、同じ規則でゲームをしなければならないというところに深く共感しました。私は家族の中で一番下の年齢なので、小さいころはゲームをするのも不利な状況でしたが、小学校2,3年生になると家族と一緒なルールでトランプをしたいと強く思うようになり、遊んでいました。また、規則の制定化の段階である、11歳~12歳の頃は、クラスでドッチボールが流行っており、明確なルールを仲間全体で共有して、ルールそのものに対して興味を集中させていました。自分の子どもの頃を思い出して考えてみると、このようにピアジェの想定する諸段階についてその通りであると思いました。

その通りだと思う。児童生徒の発達段階を念頭に置くことで、予測が立てられるから。

その通りだと思う。何事も自分の段階に適したことを行うことが最も成長に繋がると思うから。

少し同意できないところがあった。4~9歳の子どもが規則を絶対的なものととらえる段階とあったが、私がアルバイトで見ていた7歳の子どもたちは大人が言ったルールはあまり守らず、自分たちで好き勝手に遊んでいるようだったので、今回のピアジェの説に完全に一致しているわけではないように感じた。

私自身の子供頃の記憶を思い出すと、ほぼそのとおりだと思います。運動的個人的段階では児童にルールを教えてもわからないだろう。単純にそこにものをおいてある、それを見て触りたがる、好きに遊んでいるだけです。

その通りだと思います。私も幼少期の頃には遊びの中に自分だけのルールを入れたりしていました。

私自身の記憶として、小さい頃は一人で個人的なルールのもとで遊んでいた記憶があるし、私が成長して妹や弟ができた時にはそれぞれのルールに合わせるようなことをしていたような記憶もあるためピアジェの想定する説には同意できる。

同意できないところがありました。それは第三段階の「7,8歳の子どもは無理に勝とうとしない」という点で、私の従妹が今年2年生になりますがよくルールを無視して喧嘩になるそうです。一般的には違うのかもしれませんが、この点に違和感を感じました。

その通りだと考える。第一段階、第二段階での記憶はあまりないのですが、第三段階、第四段階である私が小学生ごろの記憶をたどると、低学年ごろでは自分が勝ちたい、という理由でその子がルールを変更しようとしてけんかになったりした。(他の人にとっては不利になるルール=自分が勝てる可能性がなくなる)そして、学年があがるほど、クラスで遊ぶことなどが増え、その際公平性があるルールにクラス会議で変更したりしながら、またそれらを守りながら遊んでいた。このようなことを実際に経験したために、私はピアジェの想定する諸段階は正しいのではないかと思う。

私はピアジェの考えは本当にその通りだと思いました。規則の実践や意識の段階などは私の曖昧な記憶ではあるがおおよそその段階の順に成長していくなと思います。何より本文のなかでも出てきたように規則の実践の①②の段階のそれぞれの子がいろんな遊び方をしていたり、また協同、規則の制定化へと移る際に何かしらのルールの相違が生まれていて、でもその中でグループのみんなの同意のうえでルールを決めそれにのっとって遊ぶというのを私も経験した記憶があるからです。またその通りとは思ったが少し物足りないなとも思いました。私はこの段階の間にもうすこし何種類かの段階があるようにも感じました。

私はピアジェの想定する諸段階はその通りと考えます。なぜなら、大人の考えを児童生徒が理解できるのならいいけれどできないことが多いので、まずは児童生徒の考えを尊重することを前提とする。

幼いころの記憶がはっきりと残っているわけではありませんが、概ねその通りなのではないかと思います。なぜなら、私がアルバイトで関わっている4~12歳の子どもたちを見ていると、確かにピアジェの想定する諸段階と重なる部分があるからです。規則の実践に関しては特に、見ていてもはっきりとその様子が分かるため、ピアジェの想定する諸段階の通りだと思いました。

ピアジェの想定する諸段階について私はその通りだと考える。規則の意識の段階において、確かに小学校低学年から中学年では決められた規則を守って遊びやゲームを行えるかが重要である。しかし、高学年では自由に相互理解を図りながらルールを変革することが可能である。例えば、私自身、クラスでドッチボールをするときに高学年になるまではボールは一つが当たり前だと思っていた。だが、女子と男子の力の差やもっとスリルを増やすために「男子は利き手じゃないほうで投げる」や「ボールは二個使う」などといった独自のルールで行われた。

大人によって教えられるのではなく、子どもたち同士が関わり合う中で自分から働きかけたり、年長児を模倣することで刺激を受けることを大切にするピアジェの考えは道徳教育においてふさわしいと思う。ただ、子どもだけでは生み出せない考えや情報を年長者や大人から取り入れることも必要であると思う。

私はピアジェの説にはおおむね同意である。 理由としては、親戚の子どもと遊んだ時の記憶と今回の資料の内容と大体一致している気がしたからである。しかし、すべての子どもに一律に当てはまるわけではないため、そこは教育者の臨機応変な対応が求められると思う。

大人が思っているよりも子供は理解しているという言葉があるように、私自身もそんな簡単な言い方しなくてもいいのになと感じたことがありました。家庭教師や、家庭内での教育においては、諸段階よりも子供の理解度を踏まえた教育のほうが適していると考えます。しかし、学校での授業という対複数の教育においてはさまざまな発達段階の子供がいると考えられるため、諸段階にあった教育をするのは正しいことだと考えます。

あまり同意できない。ルールということにおいて、理由がまだ理解できていないとき魚のグリルを触ってはいけないというルールがうちにはあった。それは熱くてやけどにつながるという理由だったが私としてはグリルを触る=悪だと考えていてさかなを焼いているときのお母さんが大嫌いであったため。

その通りだと思う。私の地元ではトランプの大富豪といえば「やぎり」しかなかったが、地域の異なる人とするときにはもっと多くのルールがあり、その規則に討論しながら従っていた。これが第四段階と一致しているから。

私の知り合いの子供に、2歳と5歳の子供がいる。2歳の子が遊ぶのは終わりと言われても遊んでいるのに対して、5歳の子は、それあかんでと言って2歳の子からおもちゃを取り上げる場面を何回も見たことがある。それに、5歳の子と手作りゴルフをしたときも、絶対入らへんやん!みたいなルールを独自で作ってやっている。こうしてみたら?と言っても、ちゃうねんと言って変えてくれない。その子のしたいようにルールを作っていく。規則の実践や、意識の部分でたしかにそうだなと思う部分が多かった。自分が小さかったときのことは覚えていないが、実際に小さい子とかかわってみて、その通りだとなと私は思った。

その通りだと考える。道徳は年齢によって、教える内容を変えるべきだと思うから。

その通りだと考える。自己中心的段階にあったいとこに付いて公園に行った際、砂場に友達はいたのにも関わらずそれぞれが個々に遊んでいた。それを強制的に○○くんと遊びなさいなどと強制してしまうことはよくあってしまうのではないかなと感じた。子どもはピアジェの発達段階を踏んで成長していくということを頭に入れ、指導していくことはとても有効なものさしを持ったことに等しいと考える。自分に子どもができたとき、目指すは大人が出来て当たり前のことを当たり前に出来るようにすることである。その上で段階を考えずにゴールだけを見ていては十分に成長出来たか曖昧になりそうである。そのためこういった様々な段階での特徴を頭に入れ、指導することでピアジェの研究がものさしになるのではないかと感じた。

私は、ピアジェのゲームの法則について、第四段階についてはその通りだと思った。私自身小さい頃の記憶があまりないので第一~三段階については実体験ではありませんが、第四段階の規則に対する興味については、その通りのことをしていた記憶があります。

ピアジェの理論におおかた賛成です。私が実際にピアジェが提唱する発達段階を経て成長したと感じるところがいくつかあるからです。しかし、私のクラスには小学校に入学した当初からおにごっこに新たなルールを設けてオリジナルのゲームを作り、みんなに広めていた友達もいたので、この発達段階の順序は正しいと思いますが、発達スピードには個人差があるということに配慮しなければならないと思いました。

同意できる。発達段階によっては理解できない内容もあるので発達段階を配慮する必要があると考える。

ピアジェの説の通りだと思います。解説と本文を読んでいて、私が小学2年生のころ、一人の友人が何かルールを破って勝ったことに対して、泣きながら「みんなが守ってるのに破ったらいけんので!」といったことを思い出しました。規則を絶対的なものととらえている段階とぴったり合うと思いました。主に学校で、いろんな知識を学びながら集団生活をしていく中では、ピアジェの規則の実践、意識の説に当てはまるのではないかと思います。ただ、子どもの特性やそれぞれの困難さの程度により、多少はあてはまらないこともあると思います。

そのように考えられるのではないかと感じました。0~4歳ぐらいの記憶はあいまいではっきりしていませんが親や先生など大人の言うことは正しいことだと信じて疑うことは無かったと思います。小学生になるとピアジェ語ったような行為が多々思い出されました。

私はその通りであると考える。ピアジェの想定する諸課題を読みながら、自分自身の幼少期にもあたはまる部分が多く、また、子どもの遊びの発達段階と照らし合わせてみても、一人遊びから並行遊び、そして協同遊びへと発達していく中で、他者と関わり、社会性を身に付けるということが当てはまると思うからだ。社会性を身に付けていく中で、規則に対する認識も変化していくと思うので、ピアジェの発想のように発達の段階に応じた道徳教育を行うべきであると考える。

年齢が当てはまるかどうかは少し疑問に思いますが、発達の順番としてはこの通りだと思います。私自身は、小学校2年生(8歳)頃は特に「勝つこと」にこだわりが強く、普段生活をしていて勝負事にはならないようなことでも、妹に負けることは絶対に許せませんでした。また、お正月などで親戚とゲームをしていても、私が負けて、泣いて、それでゲームが終わってしまうこともありました。しかし、その後そういう事態は私には起こりにくく、2歳下の妹が同じような発達段階になったことで、同じことが起こっているのに原因は妹になっていったなあと感じます。そのため、私は、ピアジェの想定する諸段階について、その通りだと考えます。

 ピアジェが想定する発達段階に関して、大まかには共感したが、規則の実践に関して自己中心的段階では友だちといても自分一人で遊んでいるとなっていたが、2歳から5歳のこどもをみるとごっこ遊びのようなものをしていると思う。そのため自己中心的段階においては同意できない。  自分の子どもの頃の記憶があまり出てこなかったが、私の子どもの頃と妹の過ごし方には違いがあるため、時代や社会、家庭の状況が発達段階に関わってくると考えた。

私はピアジェの考えに同意です。特に規則の意識について、第二段階(四歳から九歳)では、規則は大人から与えられるものであり絶対的なものであるととらえているというのは非常に共感できました。私自身、幼い頃は親の言うことは絶対だと思っていたのでそれに逆らうことがなかったし、規則を純粋に受け止めて守っていたからです。

その通りだと考える。徐々に思考が形成されていくと考えるから

わたしは同意できるとおもいました。「どちらが悪いか」について考えるとき、結果による判断から動機による判断へ発達していくという部分でとくにその通りであるように感じたからです。結果による判断というのは、怒られる度合いが強いか弱いかということだと私は思いました。怒られるかどうかという他者から自分がどう思われるかという基準から、動機という自分に対して自分がどう思うかという基準への変化がここでいう発達であると考えました。

私はピアジェの考え方については賛成である。実際に幼少期のことを思い返すと、やってはいけないという意識は、親などの大人からやってはだめだと叱られることによって、強く記憶に残っていくものだと考える。大人がつい物質的結果によって、しかってしまうことが子どもの自立した道徳の確立を遅らせることになっているのではないかと考えた。

自分の読解力が無さ過ぎて、原文を部分的にしか理解できませんでしたが、親戚の子どもと遊んでいる時、その子ども達に第一、第二段階の特徴がとても当てはまっていたと思い当たりました。自己中心的という言葉がとてもしっくりきました。 特に同意できないところはありませんでした。

ピアジェの想定する社段階について私は批判的な意見をもっています。私が子供の時、道徳というものについての学習を進めていく中で部落差別についての学習を行った。部落差別というものをピアジェの発達段階のから考えていくと適切なのかもしれないが、児童生徒の発達は個人差があり部落について以前にいじめについての学習がいいまだ十分学習できていない児童もいたためピアジェの考えをすべて当てはめていくのは難しいと考える。それぞれの状況にあわせた授業づくりが必要である。

その通りだと思う。規則の意識の一段階では、大人が正しいと思っているおもちゃの使い方や遊び方をやらされた子どもはそのおもちゃに興味をなくしてしまったり、第二段階では教師に言われた規則が絶対であるという風潮があり、破った子どもはからかわれたり一時的にいじめられたというのを今までに経験したり、見たことがあるためである。資料のピアジェの規則の段階を読んで、今までの経験や見てきたことに納得できることがあった。

自分がよく覚えているのは第二段階で神聖的なものまではいかないがルールは破ったらいけないものだと思っていたのでピアジェの言うとおりかなと思います。

ピアジェの想定する諸段階について、その通りだと思いました。直近で遊んだ児童を思い出してみると、3歳くらいでは、自分が中心と考えて遊びをしていたと思います。5歳くらいになるとルールは自分が決めたものが正しいとしているため、自分が勝てるようにルールを作って遊んでいました。また、7歳くらいになると小学校に入り、周りとの差をつけようと考えていたように思います。10歳を過ぎてくると大人も周りにいましたが、正規のルールにのっとって遊びをしようとしていたと思います。私が遊んでいた児童は姉弟だったため、お姉ちゃんが弟に遊びを教えて自分のルールで遊ぼうとしていたのが印象的でした。友だちとなるとまた変わってくると思います。

ピアジェの、発達段階に配慮しなければならないというのはその通りであると考える。私には7歳離れた妹がいるが、私が小学校三年生で、妹が幼稚園だったころなどは、妹は一人で、わたしにはよくわからない理由で遊んでいて、大人が理解できる水準をもとめてはいけないという事が良く分かるからだ。やはり発達段階によって理解できるルールや規則が変わってくると考える。

自己中心的段階については、自分の子どもの頃の経験が鮮明に思い浮かび、その通りだと思います。大人がやっていた将棋などを模倣して自分で勝手にルールを作り大人を巻き込んでいましたが、実質ひとり遊びなので、自分が勝てるようにその都度ルールを作り変えていました。

私がこどもの時の記憶としては、悪いことをしてでた少しの損失と、悪気がないが大きくでた損失を比べたら後者のほうが悪いことをしてしまったと考えていた気がします。実際思い出すのは、後者の方だからです。また自分のことだけではなく次第に他人のことも気にかけていくようになるのでピアジェの考えに同意できる。

ピアジェの研究について大方は同意できるし、道徳教育に関しても発達段階に配慮して段階的に教えるべきだということにも賛成です。しかし、2~5歳の間は自己中心的段階であり友達と一緒にいても一人で遊んでいるとありますが、私が幼稚園の頃は友達と一緒におままごとやおにごっこをした記憶があるので一概に全員が当てはまるとは思いません。また、7・8歳は友達に勝とうとするとありますが、ボランティア先の小学1年生は、もちろん勝とうとしてズルをする子もいましたが、そのことに対して「ズルしたらあかんで」と言う子もいました。これらから、ピアジェの考え方も一理ありますが、それに当てはまらない子も多くいて、同じ年でも発達段階に差がある場合があると思います。そのため道徳教育を行うにあたっても、様々な考えや意見が出ることを想定しなければならないと私は考えます。

ピアジェの想定する諸段階について、その通りだと考えました。なぜなら、そのような段階を踏んで大人の認識が形成されていくからです。自分自身も低学年の時は、先生の言った規則は絶対だと考えていましたが、高学年になるにつれて規則を基にして物事を臨機応変に考えることが出来るようになりました。その過程で、今まではこう考えていたけど今回はそれには当てはまらないなという気づきがありました。このように、子どもの認識は、大人の認識とは区別されるべきものであり、発達によって変化すると思います。

その通りだと考える。特に小学校低学年では友だちと遊ぶ中でも規則を守ることに重点を置き、負けたくないという思いから規則に忠実に遊んでいたように思うし高学年では自分たちで規則をつけ足したり減らしたり柔軟に考えながら遊んでいたように思うから。

ピアジェの想定する諸段階については同意します。発達段階に合わせた道徳教育を行い、成長とともに善悪の判断を指導のみならず体験により身に着けていくべきだと考えるからです。

その通りだと思います。規則の意識の段階の他律の段階や自律の段階は、たしかにその年齢あたりはピアジェの諸段階のように考えていたと思います。小学校の低学年は、先生が言ったルールが絶対でしたが、中学年あたりから、学級会で話し合い、既存のルールを変えることもあったように思います。

発達段階に合わせるのはいいと思いますが、途中で教育放棄など様々な理由が考えられるため、発達段階を考慮してうえでという事を子供たちに知ってもらったほうが良いかなと思いました。つまり、おとなの理解できる水準もあることを知っていてほしいと思いました。

同意できないところが一部あります。年齢を判断材料にして全ての子どもを段階ごとに分類できるとは思いません。成人してもゲームの内容を必ず理解できるとは限りませんし、ゲームの内容によっては理解の度合いに個人差がでると思うからです。「何歳は○○ができる」と定義づけることは、目安としては役に立つと思いますが、それを素直に受け止め授業を進めるにはリスクがあると思いました。あくまで、実態に合わせて調整する必要があると思います。

私はその通りだと思います。今回はマーブルを用いて遊ぶ子どもたちを観察した結果の説でしたが、子どもたちはそれぞれの発達段階で、考えることや感じることが大人と異なっています。12歳までの発達段階においても、各段階で様々な反応を示しています。これらは、彼ら自身が無意識のうちに選択している最善の結果ではないでしょうか。なので、いきなり大人が理解できる水準を求めてしまわず、発達段階に配慮して付き合っていかなければならないと思います。

自分自身の記憶から、①個人的な規則しかない段→②規則を絶対的なものととらえている段階→③規則を変えることができると考えている段階という段階は非常に納得できた。私は幼少期から野球が好きで、友達と野球をすることが多かった。しかしスポーツと同様の野球をするためには1チーム9人、計18人は必要で、かつ広い球場が必要だった。そのような環境で野球をすることは難しかったので、ルールを皆で考えた記憶があったからである。

ピアジェの考える通りの段階が誰にでも当てはまるとは思わないが教育は発達段階に応じて変えていくべきだと考えるからピアジェの発達段階を参考にするのは必要だと思う。 また、文部科学省のホームページにもこどもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題という題でピアジェの発達段階を扱っている。これを見ればやはり多くの児童はピアジェの発達段階に当てはまるのではないかと思う。

その通りだと感じました。私には妹がいるのでルールの把握の段階がとてもよく分かります。そこからピアジェの説を考えるとその通りだと感じる部分は多くあります。また自分自身が子どもの頃の記憶でいうと、幼稚園の時から今までずっと仲の良い友だちがいるのですが、遊ぶ時には同い年なのにルールを把握している人とそうでない人がいたのを覚えています。今では全員が把握して遊んでいますが。

その通りだと思った。子供のころや身の回りの子供はそうであることが多い。

その通りだと考える:細かな部分は覚えていないが学年が上がるにつれ原因を考えるようになった。共通の規則も作るようになっていたと思う