2020応用倫理学2回目FB

・コメントへのFB

今回も非常に面白い内容でした。最近の世の中には文化相対主義があふれているように思えます。悪いことといっているのではないのですが、やはり大切にすべきなのは「社会というものが存在するためのいくつかの共通の道徳規則が存在し、その上に文化相対主義がのっかっているイメージを持つことだと思います。でないとプロタゴラスが言った「万物の尺度は人間である」がまかり通る世界になってしまうかもしれません。普遍的な真理というものは何かわかりませんが、文化相対主義の基盤となる全ての社会生活を営む人間にとって共通の道徳規則を考えながら物事を見ていく必要があるのではないかと私は思いました。

→ そうですね。文化相対主義は一見聞こえがよく、筆者が述べていたように、一元的な価値を無闇に押し付けないという利点もあるのですが、「何がよりよいか」ということを深く考えないで済ますための魔法の言葉にもなりうるので、注意が必要だと思います。


今回の文章の全体的に言葉が難しく、読み込むことが難しく時間はかかったが、内容は興味を持つことができ良かった。

毎回、普段あまり考えることのないがとても重要な内容で興味深く思っています。次週も楽しみです。

→ それはよかったです。ショックを与えて価値観をいきなりがらっと変えるような本ではないかもしれませんが、小さな変化を着実に積み重ねていくような効果がある本だと思っています。


本文で論じられていることが難しいため、身近な例が欲しい

→ よければどのあたりが難しかったかを具体的に教えてください。例示ができるかもしれません。


文章の中で興味深い部分がありました。それは 「ある文化的習慣に道徳的欠陥があると考える」ことと、「キャンペーンを行い、外交圧力を加え、軍を派遣する」ことには違いがある。 という部分です。 よく学校などでは「いじめはいけません、だから○○ちゃんが嫌いなんて思ってはいけません」と先生がいいますが、これに対して私は疑問を持っていました。今回の文章はその疑問にヒントを与えてくれた気がします。 人が「○○が嫌い」と「内面」で思うことと、「いじめる」という「外」で行動するすることは異なるのだと。 もちろん、いじめることは正しいこととは思えません。だからといって、行動を規制するために、神経質に人間の内面にまで干渉し取り締まろうとすることはまた違うのだなと思いました。(はっきりとした結論が出せずすみません)

→ とても重要な指摘ですね。「嫌い」と「内面」で思うことと、「いじめ」という「外」での行動とは別、ということですね。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という18世紀のヴォルテールの言葉を思い出させます。これをいじめの件に当てはめるとしたら、「私はあなたが嫌いだ。しかしだからといって、あなたが不当な扱いを受けることは許さない」というふうになるでしょうか。

(余談ですが、吉本隆明という思想家は「マチウ書試論」という論文で、「人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る」と言っています。「内面」で何を思うかということと、「外」でどう行動するかということは、人間のなかで必ずしも一貫していない、むしろ矛盾しているものなのだ、それでよいのだ、という指摘です。吉本は新約聖書を解釈し、イエス・キリストは人の内面まで統制しようとする傾向があるが、それは危険である、と考えてこのようなことを言っていると思われます。関心があれば読んでみてください)


本文33頁 ( 1 ) あ る 文 化 的 習 慣 を 道 徳 的 に 欠 陥 が あ ると 判 断 す る こ と 、 と ( 2 ) 事 実 を 報 道 し 、 キ ャ ン ペ ー ン を 行 い 、外 交 圧 力 を 加 え 、 そ れ に 対 し て 何 か 働 き か け る た め に 軍 を 派 遣す べ し と 考 え る こ と 、 に は 違 い が あ る こ と に 注 意 し な け れ ば なら な い 。 前者 は 世 界 を 道 徳 的 見 地 か ら は っ き り と 見 よ う と 試 み て い る に す ぎ な い 。 後 者 は ま っ た く 別 で あ る 。 時 に は 「 そ れ に 対 し て何 か 働 き か け る 」 こ と は 正 し い か も し れ な い 。 し か し 、 そ う でな い 場 合 も し ば し ば あ る の だ 。 という部分がよく分からなかった。もし(2)の行動を起こしているら、道徳的に間違っているとういう視点に基づいてやめさせるべく圧力をかけているのではないか。とすると、結局(1)のように思っていることにならないだろうか

→ 筆者の主張としては、「(2)を行う人は(1)も行っているだろうが、(1)を行っているからといって(2)を行っているとは必ずしも言えない」ということだと思います。ご指摘の点は正しいのですが、筆者の強調点はむしろ「(1)を行っているからといって(2)を行っているとは必ずしも言えない」という点にあると思います。つまり、(2)を行うことを恐れて「あ る 文 化 的 習 慣 を 道 徳 的 に 欠 陥 が あ ると 判 断 す る」ことまで差し控えてしまうことは、文化間の健全な相互批判を不可能にするのではないか、ということです。


文化を理解する点において、その線引きというのは難しいと感じた。レジュメを読む中で文化相対主義の意見は正しくもあり間違っているとも私は読み取れる。多様な文化があり、独自の伝統を尊重することは私も大切である、と考える。しかし一方で批判される可能性もあり、何を基準として考えるのかが大事であると学んだ。また自分の他文化への視点が先入観から生まれたものかどうかを気づかしてくれるものでもあった。

→ そうですね。後で筆者も述べることなのですが、この本で紹介されている様々な立場は、どれもそれだけで万能というものはありません。様々な理論を組み合わせて複雑な現実に対応していく必要があるかと思います。



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・記述問題への回答の紹介


【記述問題】「サウジアラビアでリベラルなサイトを開設したブロガー、むち打ち1000回の刑に」(2015年01月16日)(https://www.huffingtonpost.jp/2015/01/16/saudi-blogger-sentenced-to-1000-lashes_n_6484042.html)、「サウジアラビア、むち打ち刑の撤廃を発表」(2020年4月25日)(https://www.afpbb.com/articles/-/3280343)という記事を読んで、あなたはこのむち打ち刑撤廃を道徳的「進歩」と考えますか、それとも考えませんか。その理由も含めて簡潔に答えてください。(この授業で扱っているテキストの筆者はどちらかと言えば「進歩」と考えると思いますが、筆者の立場に沿う必要はありません)


・進歩

道徳的進歩だと考える。むち打ちという暴力的手段ではなく、社会的奉仕や禁錮などで罪を償うようになるからだ。ただこれが道徳的行為だと言えるのは、世界的に見て暴力で罪を償うのが道徳的でないという認識があるからだと思う。だから、暴力によって罪を償うという行為が全世界に共通しているものなら、違う考えになるだろう。

進歩と考えます。 いくら犯罪を行った罪人であったとしても、人道的な刑が下されるべきだと思います。さらに、これはイスラム教を侮辱したらどうなるのかの見せしめに行われているようにしか見えないですし、それ以外の意味は私には見いだせなかったからです。

→ そうですね。世界的な「暴力的手段は劣っている」という共通認識は過去にはなく、それが徐々に形成されつつあるということは重要な事実だと思います


進歩だと考えます。もともとむち打ちの刑は、自分たちの価値観を絶対視し、他を認めない行為の現れであると考えるからです。刑の廃止は、自分たちの価値観が絶対に正しいとする態度を変化させる第一歩だと考えます。

進歩と考える。 たとえ犯罪を行った罪人であったとしても、人道的な判決を受けるべきであると考える。そして、これはイスラム教を侮辱したらどうなるのかの見せしめに行われているようにしか見えないし、それ以外の意味は私には見いだせなかったからだ。

進歩である。この場合むち打ちに代わるものはが罰金刑、禁固刑、またはその両方か社会奉仕であることから考えて、進歩でないとするならば改正された刑罰とむち打ち1000回が同等もしくはむち打ちのほうが処罰として優れている(反省を促す)と考えられることになる。記事の内容から受刑者の体力的にも死に至りかねないほどの罰であり死刑といっても過言ではないイスラム教の戒律から考えても死刑になるほどの罪ではなく刑罰改正によってより妥当な刑罰になったと考えられるためむち打ち刑撤廃は進歩である。


文化相対主義によりサウジアラビアでのむち打ち刑を安易に否定することはできないが、この習慣がむち打ちによって生活に影響を受ける人々の幸福を促進しているかという点で見たときに妨害しているように感じるため、むち打ちが廃止されたということは「進歩」であると考えます。

私は単純に考えると「道徳的進歩である」と思います。ここで重要なのは彼がむち打ち1000回を受けるに値する罪を犯したか、むち打ち1000回をすることは社会的な利益をもたらすのかということです。今回のケースの場合、罪と刑罰のバランスが均等でないと感じました。また、むち打ち1000回することで共同体の存続に貢献するとも思えません。 しかし、私の狭い視野で容易に出した結論が絶対的に正しいかはわかりません。この答えすらも、自らの文化に囚われている回答かも知れませんし、人は文化から解放されて思考することは難しいですので。

→ このような「この行動は人々の幸福を促進しているか?」という視点を「功利主義」と呼びます。またこの授業の後半で扱います


私は、進歩だと考えます。その国にとってどういったことが罪であるのか、ということは文化的、社会的に私たちとは異なる文化であるということしか言えないと思います。しかし、法を犯した人に対する罰し方に関しては、道徳的に考えなくてはいけないと思う。人道的にむち打ちが良いとは思えないため、廃止になったことは進歩であると考える。

賛成である。刑が重いのか軽いのかは分からないが大衆の前に晒す必要は無い。これは、当事者に必要以上の苦しみと辱めを与えるだけでなく、見ている人間に言論の自由を抑圧するような内容になっている。刑罰の方法もそうだが、他者の持つ自由の権利を露骨に無視する体制にも声をあげる必要がある。


道徳的進歩であると私は考える。 なぜならむち打ちの刑を撤廃することによって、リベラルなサイトを開設することを認可する。つまり表現の自由の幅が広がったことが読み取れるからだ。少なくともリベラルな意見を持つ市民がサウジアラビアには存在する、ということである。しかしむち打ちの刑がある事によって抑止力となってしまい、人々の意見の幅が今までは制御されていたと考えられる。そのためこの制度の撤廃は大きな道徳的進歩ではないかと私は考える。

進歩であるといえると思います。むち打ちは刑罰として行われている行為であり、日本では監獄に入れられることと同じです。罪人に罰を与えるという目的が同じでありながら、方法が違うということです。しかしながらむち打ちは罪人を殺すことを目的としていないにも関わらず大きな生命的打撃を当人に与える行為であり、文化や伝統というもので許されるものではないと考えます。より良い代替え案が簡単に成立するのならそちらを採用することが進歩であると思います。

私は進歩だと考えた。それまで、サウジアラビアがむち打ち刑を撤廃してこなかったということは、その国全体若しくは支配者側が正しいとしてきたからだと考えられる。それが今回撤廃されたということは、むち打ち刑が正しいと考えられたことから間違っていることだと考え方が変わったことが推測できる。国のルールをその国の考え方で変更したのであれば進歩と言えるのではないだろうか。

進歩だと考える。 むち打ち刑は、サイトを見た限り不必要だったものではないと感じたので、古い道徳観が進歩したのではないかと感じた。


・進歩というよりは変化

「進歩」というよりは「転換」のように僕は思えました。どの点において進歩したのかよくわからずどちらかというと別の案を用いて方向転換したように思えました。


・進歩ではない(鞭打ち自体が問題なのではなく、場合によってはそのような罰もありうるのではないかという立場)

私は進歩ではないと考える。この件について道徳的規範が議論されるべきはむち打ちが撤廃されたことではなく、リベラルなサイトを開設したことが刑罰の対象になったことである。  むち打ちは刑罰の一種にすぎず、そのような苦痛を与える刑罰は様々な国に存在する。むち打ちは物理的に痛みを与えるという点では前時代的に見えるが、それはあくまで日本人の感覚であり、それを残酷だと決めつける基準はない精神的な苦痛も身体的な苦痛を超えることはあろう。むち打ちは非人道的で禁錮や懲役は人道的だと決める基準はない。 むち打ちが存在することは問題ではない。それは相応の重罪を犯した者に与えられれば良い。問題はその罰がサイトを設立しただけで与えられたことである。これは言論の自由を侵害する行為である。言論の自由が無いと、社会が不適切な方向に進んでいたとしても誰も批判して止めることができない。そのようにして滅んだ国は歴史上にいくらでも存在する。つまり、言論の自由を保障すべきという規範がどの社会にも必要なものである。  以上のように、私はむち打ちが撤廃されたことは進歩ではないと考える。むち打ちの撤廃は刑罰の種類が減っただけであり、日本で死刑の撤廃が議論されているのと同じことである。もし、言論の自由が保障され、リベラルなサイトを設立することが刑罰の対象でなくなったならば、それは進歩といえると考える。

道徳的「進歩」とは言えないと考える。無差別な殺人など人々の幸福を妨害する、残虐な行為をした罪人に対してはそのような酷な刑も致し方ないのではと考える。