2020応用倫理学5回目CF

・コメント

 最後のニセ患者の精神疾患の仮説は、非常にドキリとさせられた。私たち教職を目指している人間も精神施設のスタッフたちやホッブスと同じ立場に陥る可能性があると考えたからだ。教育大で受けた授業の中で、「子どもの問題行動には必ず「助けて」というサインがある」とおっしゃっていた先生がいた。例えば、遅刻をする生徒は親がネグレクトで、世話をしないから、だとか。私はこの理論に見せられ、欠点などない!と心酔していたが、よく考えたらこの心酔という「過剰な思い込み」こそ危ないのではないのか、と今回の授業を受けてきづかされた。理論をうのみにして判断するのではなく、実際の現実にぶつかる中で、「この考えもただしかったけど、あの考えも助けになった」と、学んだことを自分なりに吟味していこうと思った。

→ たしかに子供の問題行動には「助けて」というサインが含まれていることは多いかもしれませんが、100%そうとは限らない(例外はある)かもしれませんね。現実は複雑で、一つの理論や原理では説明しきれない場合が多いので、「実際の現実にぶつかる中で、「この考えもただしかったけど、あの考えも助けになった」と、学んだことを自分なりに吟味していく」という柔軟な姿勢は非常に重要で、実践的だと思います。ただ、一つの理論に心酔する(したくなる)気持ちはとてもよくわかります。私はこれまで様々な理論に心酔し、「これしかない!」と思って興奮しては、その後欠点もあることに気がついて冷静になり…というのを、未だに何度も繰り返しています(笑)。とは言え、原理的な発想で言い切る・思い切ることが功を奏する場面もありますし、難しいですね。


すごく考えさせられる内容であった。しかし論破されない内容であることから少しもどかしさを感じた。様々な考え方ができ面白かった。


コメントシートのFBを是非行ってもらいたいです!お忙しいのは十分承知ですが、第2回で止まっているように思います。

→ フィードバックが遅くなってしまい本当にすみません。


ありがとうございました。


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・【記述問題】今回は、「どんな行動も、それがどれだけ他人のために行われている行動であるように見えたとしても、結局すべては自分のためである」という主張(心理学的利己主義)に関する議論を読んでもらいました。テキストの筆者は基本的に心理学的利己主義には批判的ですが、「心理学的利己主義は論破できない」ということは本文中でも認めています。また、本文では触れられていませんが、心理学的利己主義には、自分が「利他的」だと思って行う行動に関して、「もしかすると自分が思うほど利他的ではないかもしれない(自分のためだけにやっていて、相手にとってはおせっかいかもしれない、逆効果かもしれない、など)」と謙虚になるという利点もあると考えられます。あなた自身は、心理学的利己主義の主張に対して同意しますか、しませんか。その理由(今回の授業で触れたものでも触れていないものでも構いません)もあわせて、簡潔に答えてください。(具体的に考えるために一例を挙げると、コロナウイルス対策として「マスクを買い占めしないこと」が奨励されましたが、心理学的利己主義の立場に立てば、マスクを買い占めないことも利己的であるということになります)。


→ 全般的に、筆者の「利己的」の定義が気になった、という意見があったように思います。筆者は「利己主義」を「相手の迷惑も考えず、何がなんでも自分のために」という「悪い」意味にとっています(言語のegoismは、英語では基本的に悪い意味で使用します)が、それは行き過ぎではないか、という考えですね。


・同意する

私は心理学的利己主義の主張に同意します。理由は二つあります。  人間も自然のルールに縛られて生み出された以上、利己的に思考し行動することを遺伝子レベルで規定されていると考えるからです。(もはや意識・認識できないレベルで) また、私たちが思考するときは、どこかしらで自己に関連・つながりを持つ内容のみが展開されているのではないかと思うからです。(自己に強く関連することほど深く考え、自己とのつながりが薄ければ関心度は低い)  余談ですが、心理学的利己主義は「利己」の適用範囲がとても広いので、「利己」という言葉よりも、「自己帰結」の方が適切なような気がしました。

同意する。私はごみなどが落ちているのに気付いているのにそれを無視して通り過ぎることができない。無視すると気づいているのに拾わなかった自分攻めてしまい心が苦しくなるからだ。これは一見非利己的な行動だが、自分自身にとっては自分を苦しめないための行動である。よって本文のリンカーンの考え方と同じであることから心理学的利己主義に同意する

→ たしかに、広い意味での「自分」と全くかけ離れたことを考えたり、行為したりすることはできなさそうです(ハイデガーはこのことを指して、人間はつねに自分自身のことを気遣っている、「気遣う存在」だと規定しました)。その意味では人間は誰でも「自己帰結」していると言えると思います(リンカーンの立場も、この「自己帰結」に含まれるとすればわかりやすいと思います)。ただ、筆者は心理学的利己主義の「利己」を「悪い」意味でとっているために、全ての行為が「他人の迷惑も顧みずに自分のために」行われるとは言えない、という仕方で心理学的利己主義を批判しているわけですね。


心理的利己主義に同意します。理由を例から説明すると、例えば電車に乗っていたとして目の前にお年寄りがいたとする。そこで私が「席変わりますね」と言って、立ち上がって「ありがとう」と言う人もいれば、「高齢者扱いされている」と思ってしまう人もいるだろう。私自身は良い事をしたと思っていても相手の捉え方によっては逆効果なこともあるだろう。でも、自分自身は相手がどう思うがわからないが気持ちはいい気分であるだろう





私は心理学的利己主義に同意する。理由としてはまず、今回の作者の論には納得できなかったことが一点目、自分が体感していることが二点目である。 一点目に関しては、「利己的」に定義が根本から違うということだ。そもそも利己とは、 「自分だけの利益をはかること。」(『岩波国語辞典 第7版新版 西尾実 他2名編 岩波書店2011年』) であって、そこに悪い意味はない。作者は利己的であることは間違っているという道徳規範を前提として話しており、「利己 的 と 言 え ば 、 そ れ は そ の 人 の 行 動を 単 に 記 述 す る も の で は な く 批 難 す る も の で あ る 。」(本文17頁より)と書いているが、その道徳規範そのものを疑うことはしていない。利己に他人の利益を害することという意味はないのだから、他人の利益を害さない範囲、公共の福祉に反しない限りで利己的であって何が悪いのか。利己的であることが悪であるという定義、前提をまずは疑うところから始めなければそもそもこの反論に意味はない。 二点目に関しては、自らの経験が自身の利己的な部分を物語ることは誰しもあるのでは無いkあという事である。自分の欲求とは異なったことをしている時、「なぜ私がこんなことを」と思うことは日常茶飯事である。しかし、それを投げ出すと批判されるので利己的になれないでいる。我慢しなければいけない立場を踏まえて我慢しているのだ。立場に縛られて行動を制限されている時点で非利己性は失われる。なぜなら、立場が違えば利己的になれるのであり、そこにおける非利己性は普遍的ではないからである。このような実体験を我々は持っているので、心理学的利己主義には納得せざるを得ない。もちろんこの主義が全てにおいて通用するとは思わないが、同意しない理由が見当たらない。

→ 筆者は「他人の利益を害さない範囲、公共の福祉に反しない限りで利己的」というのを「私益」という表現で、「利己的」とは区別して使用しているようです。


心理学的利己主義に同意する 結局、すべての行動は自分の利益に帰結するから。 ~ないことであって行動を起こしていないため利己的ではない。

同意する。認めたくはないのだが、この考えは人間が周りとかかわりがある社会に属している限り切っても切れないと思う。人間というのは周りとの関係の中で生きているのだから、周りの目というものは気にするものである。例えばごみを拾うときも周りでだれか見てないかなと思うときもあるし、生徒のための無料補講も生徒のかぶを上げ、もっと生徒を呼んでくれないかなと思っている心もないと言い切るのは難しい。

→ たしかに、全くの自己の利益を考慮せずに行為するということは難しいかもしれません。ただし、だからといって「全てが利己的でしかない」という心理学的利己主義の主張は言い過ぎなのではないか、というのが筆者の立場だと思いますが、どのように考えますか?



・部分的に同意・同意しない

心理学的利己主義を全て同意することはできませんが同意できる点も有ります。 マスクを例に挙げると、この時期マスクを買い占めないということが世の中の常識のようになっています。ここで、我々が買い占めをしない理由には常識から外れたくないという点が挙げられます。このように我々は常識や世の中から外れることを極端に嫌い、このようにならないことが自分の利益に繋がると考えて行動している点は心理学的利己主義に同意したいと思います。そして、この考えが火事の人を助けるにも繋がると思います。後に、英雄と称えられることが利益というよりも、火事の人を助けれる状況(確実に助けれる場合)の中で助けないという常識外の行動を取る不利益と天秤にかけた結果の行動と考えることもできます。この点が、心理学的利己主義に同意しない理由です。

部分的には心理学的利己主義を認める。人は誰しも自分のために行動することがある。例えば、バーゲンの際に人を押し除けて商品を獲得しようとする。これは、利己的行動だろう。しかし、全ての行動に心理学的利己主義を当てはめて人間批判に持ち込むのはいただけない。例えば、ある料理人が料理を食べてお客様が喜んでいる顔をみることが幸せと言ったとする。心理学的利己主義の立場にあてば、自分は客よりも良い料理を作れるという優位性を示しているなどと批判されるだろう。しかし、本当にそうなのだろうか。料理人が本当にそのように考えていると言えるのだろうか。このように、他者や世界に無理やり入り込み批判しようとする姿勢は認められない。




・同意しない

同意しない。 コロナウイルスに関連したものですが、私はスーパーのレジバイトをやっている。今ではゴム手袋着用、レジには透明のビニールの仕切りがある。仕切りに関しては自分のためと言えるが、ゴム手袋は自分のためとは考えにくい。なぜならゴム手袋をしていてもこまめに消毒しない(する暇もない)ので素手でやるのと同じである。よってゴム手袋をしていた方が、お客さんも安心するだろうという考えのもと、ゴム手袋を着用している。よってお客さん=他人のためにやっていることとなり、心理学的利己主義に同意しない。

私は、心理学的利己主義には同意しません。コロナウイルス対策のマスク買い占めについて考えるならば、「他の人が買えなくなることなどどうでもよく、買い占める人」と、「自分も必要としているが、他の人が買えなくならないように必要な分だけ買う人」が、どちらも同じ利己的だとは考えられないからです。後者のように、自分だけではなく他人に気遣うこともでき、利他的に行動することは可能であると思います。

反対します。火事のなかに子どもを助けに飛びこんだ女性は、もしかしたら死んでしまう可能性も考えられた。もし、世界から賞賛されたくてこの行動をしたのならば、死んでしまっては、賞賛されるとしてもそれを直に感じることはできないため、その理由だけで自分の命を差し出すとは考えにくい。根本的に屁理屈的な理由付けが、本文に多かったこともあり、私はこの考えに反対します。

同意しない。どんな行動も、という部分には同意できないが、その後の部分ついては、トマス・ホッブズの主張や、リンカーンの言う、自分の心の平和を得ることのできる行動は利己的という主張を読んで、他人のためと思ってやった多くの行動は、実は利己的なのかもしれないと思った。

私は心理学的利己主義が常に成り立つということに関して合意しない。この考え方は他人のためにやっていることも自分のも利益のためであると考えていて、この考え方が理解できないわけではないが、優先順位が他人のためというのが自分のためということよりも高い場合は自分より相手を優先しているから利己というより利他と言える。だから、どんな場合にでも心理学的利己主義が常に成り立つわけではないと私は考える。

同意しません。 私はこの文章を読むまではこの心理学的利己主義に賛成していた側の人間でした。しかし、第四節を読んでいると自分は混乱していたのだと感じました。利己性と私益は全くの別物であると私も考えるし、私益に基づく振る舞いと快の追求についても違うものであるという事も納得出来たので、私は同意できないです。