2020道徳教育論3回目CF

・感想・質問・要望などがあれば書いてください。


1.今回も前回も様々な意見が出ていると感じます。どのような意見が出ていて、それに対して教授が考える意見などを振り替えりとしてまとめていただき、共有できるのならばウェブ授業だとしても、とても有意義な授業になると思いました。お手数ですがよろしくお願いいたします。ありがとうございます。

→ お返事するのが遅くなってすみません。そのように考えてもらえると大変ありがたいです。


2.今回の課題は、1回目、2回目と違い、大変分量が多かったように感じます。1コマ分の時間内では終わることができず、2時間くらいかかってしまいました。せめて1コマの範囲内で終わる課題に設定していただけたら嬉しいです。

5.問題多かったです。(笑)


3.今回の授業では道徳の評価について多く触れられていました。道徳の教科化になるに当たって、どのような評価が適切であるかと思っていましたが、児童一人一人の価値観を尊重しながら、その子の成長につながるような評価を行うことで道徳の授業が有意義なものになるのだと思いました。ここで気を付けたいのが、自分の価値観だけで評価しないこと。児童、生徒がどのように成長したのかを個人の生活面を含めて評価することが大切だと思いました。

4.今回の範囲は特に学びが多かったと感じます。法的に決まっていることなど詳しく知らなかったので良い学びになりました。


5.・今まで、~を要として・・・という表現を曖昧に理解していたのですが、今回の資料を読んで、「意識的に引き離す機会」という考えにすごく納得できました

6.・日本人としての自覚という表現は、今まで学習指導要領を読んでいても引っかかっていた部分でした。私は郷土教育とその影響についても調べたことがあって自分のふるさとを大切にしようとすることは確かに大事であるとは思いますが、「日本人の自覚」という表現でいいのかなと思います。日本人をどのように定義するのかにもよるかもしれないのですが。

7. ・政教分離の話題はどこまでの線引きなのかむずかしいなと感じました。例えば修学旅行で寺社仏閣などに行く場合にはどうなるのだろうとか、自身の所属している宗教・宗派によっては入ることができないこともあるので、その児童生徒の学習機会の保証はどうなるのだろうとかも考えたいです。

8.道徳について様々な視点で考えることができる良い機会です。これからも多様な視点で物事を考えていきたいと考えます。

9.問題提起2:「主として自然や崇高なものとの関わりに関すること」は「政教分離の原則」に反してしまうのではないかと思います。畏怖の対象となるのはやはり、宗教的要素が強いように感じます。宗教・宗派、信仰するものはそれぞれ違います。「崇高なもの」を学校で指導する際に、どうしても何らかの宗教・宗派、信仰するものに偏ったものになりやすい傾向になるのではないかと思えてしまうからです。ただ、道徳性を育てるには、崇高するものの違いを学ぶ機会があってもいいのかなとも思います。先生はどのようにお考えでしょうか。問題提起3:「国民としての自覚の教育について」、「日本人としての自覚」という示し方は国際的視野に立てていないと感じました。日本で教育を学んだり、暮らしたりしている外国籍の人は、日本人ではないけれど、これに従わねばならないのか。他の国の学習指導要領にはどのように示されているのか気になりました。 学習指導要領は最低基準で、約10年ごとに改定されていると知りました。改定年ごとに比べると時代の流れやどういった人材が必要なのか、または過去を活かして改訂されているなと思いました。青少年犯罪のところでは、「青少年が起こした」ということがマスコミや国民が食いつきやすいネタだから、近年は大きく取り合挙げられやすいのかなと思います。ある意味青少年は弱い立場に立たされているともいえるのではないかと思います。こういった事件が、周りを巻き込んでいき、学校の在り方を変えていくのだろうなと感じました。特別の教科道徳の評価の在り方が児童に与える影響が大きいなと思いました。いろんな観点から、みること、また、否定ばかりするより、励ましやほめることで伸ばすこと、授業とそれ以外の時間での態度も総合的にみて、なぜその違いが出るのかの理由にも目を向け、見て見ぬふりをしないことも大切だと思います。また、ゲストティーチャーやできるだけ多くの人と話す、聴くことで道徳性だけでなく地域や歴史、周りの存在に気づきを促せるのではないかと思いました。

10.先生自身に委ねられる部分が多かったり、評価も授業中だけでなく常日頃の態度や行動、言動からも見られるというので難しいなと思った。

11.レジュメの問題提起2については、何か考えを共有する機会はありますか。もし、ないとしても先生の意見をお聞きしたいです。

13.もう少し問題量を少なくしてほしい。 二時間では終わらないです。

14.道徳教育推進教師の存在を、初めて知りました。その先生はどこまで道徳教育について知っているのか、詳しいのか、どうすればその教師になれるのか、色々気になることが出てきました。また学んでいきたいです。今回の資料ではQ&Aがたくさんあり、とても分かりやすかったです。押し付けではなく「押し」を繰り出していく、という言葉を見て、なるほどなととても興味が湧きました。もっと道徳教育について考え、学んでいきたいなと思いました。

15.道徳教育における教師の自由裁量とは具体的にどのようなものですか。

16.道徳の評価について疑問や不安が多かったですが、今回の授業でいくらか解決しました。

17.道徳の教科化について私自身、うまく授業ができるのかとても不安です。『道徳授業が不安な先生のための特別の教科道徳入門』の中に出てくる話はとても参考になりました。また、いつでも見返せるようにしたいと思いました。

18.今回、資料の中にあった具体的・実践的な解説が面白かったです。

19.今回は内容が多すぎるように感じました。

20.今回の資料のなかで道徳の評価について多く取り上げているなと感じました。他の教科とは違ってペーパーテストをベースに評価できないのも道徳の特徴だと思います。子ども自身がどのくらい成長したのかを教師があらゆる姿から受け止めて、評価し、その評価が子どもの成長に役立つことが大切だと学びました。

21.今回の学びの中で印象に残った内容は、学習指導要領の中で「日本人としての」という記述があることに対する分析です。最初に読んだときには日本の学習指導要領なのだから仕方がないと考えましたが、果たしてあえて「日本人としての」という言葉を記述する必要があるのだろうかと考えました。何度も改訂されているのにもかかわらず、時代に合っていないようにも感じました。愛する対象の国は環境や立場によって人それぞれだと思います。そして、多様性を認めることを公教育では目標としている部分もあるので、その実現につながるような記述(日本人としてのと敢えて書かないような)をした方がより良い教育につながるのではないのかなと思いました。

22.批判や文句ではないが、個人的には問題数が多く感じます。前回、今回共に90分を大きく超えてしまい大きな負担になってしまっています。私が解くスピードが遅いからなのかもしれませんが、量に関しては見直しの検討していただけるとありがたいです。質に関しては他の授業よりも優れており、力がついていると実感しています。 よろしくお願いいたします。

23.本日の授業は学習指導案の変遷から今の道徳教育に求められているもの、目標などを深く学ぶことができました。 やはり、時代によって道徳教育というものは変化していくので学習指導指導要領にとらわれない授業づくりが大切であると感じました。

24.道徳授業が不安な先生のための特別の教科道徳入門では、私が実際に不安に思っていることや疑問に思っていたことばかりがはっきり明確に書かれていたのでとてもためになりました。会話形式になっていたのでわかりやすく、面白かったです。

25.教師の自律については、初めて聞いた表現で、こどもの自律を求める以上教師もそうあるべきだなと思いました。



----


・【あなたへの問い】道徳の授業内容についてテキストの筆者は「自律的な子どもを育てることが道徳教育の目標だととらえれば、そうした子どもを育てるためには、教師もまた自律的でなければならず、教師の自律のために、できるだけ自由裁量の範囲を増やすほうがよいのではないだろうか」と述べている。そのような利点がある一方で、自由裁量の範囲を増やすことは、教育の質にばらつきが出ることにもつながりかねない。こうしたメリットとデメリットを考慮した上で、あなた自身は、教員の自由裁量権は現状よりも増えたほうがよいと考えますか。それとも、減ったほうがよいと考えますか。その理由も合わせて簡潔に答えてください。



私は教員の自由債権は現状より増えるべきだと考えています。何かを教えるということはその何かが何であるのか、どうゆう性質を持ち、どのような方法で学ぶことができるのか、そのようなことを学んだ人間でしか教えるにふさわしい人間でないと考えられるので、教師自身が今挙げたようなことを適切に学び、自律的でなければ子どもに教育などできるはずがないと考えます。その自律を抑制するようなことは断じてあってはならないと考えられます。教育の質がばらつくというのは、質が良いのであれば良いがが悪い場合が悪くて、悪い場合に対しての解決策を考えるべきだと考えられます。教える側がそれを自覚し、また、採用側もそれを自覚し、教員全体の質の向上を図るべきだと考えらえます。教える側の人も教えられる側の人間であったのは間違いないので、今の私たちが私たちなりの教えられる側という意識を持って適切に学ばなければならないと考えられます。

自由裁量の範囲を増やしつつ必ず触れておく規準をつくっておくべきだと考える。自由裁量が増えすぎ、ばらつきが出るといけないためある程度の規準を作り工夫できるところを教師に任せるのが良いと思う。

増やした方がよい 教師の質にバラつきが出るからという理由は、教育をする側の意見であり、教育を受ける当事者である子供たちにとってそれは関係のないものだから。多少の質の違いが出たとしても、子供たちにとって最良の選択をすべきだと考える。

私は自由裁量権は現状よりも増えた方が良いとは考えません。自律的な子どもを育てるためには教師も自立的でならないといけないとは思いますが、これ以上増やしてしまっては教師の負担が大きすぎるからです。道徳を専門に勉強してきた先生もそう多くはないと思うので、全体計画や年間指導計画があるとしても授業をつくりあげていくのはとても大変なことだからです。また、設問にも書いてありましたが、自由裁量の範囲を増やすことで教育の質にばらつきが出てしまい、学校内だけでも学級ごとに差が出てしまいます。せめて学年ごとにこの内容についてはこういう教材を使うなど、授業の進め方を話し合う必要があると思います。自分ひとりの考えでは出てこないアイディアや考え方が必ずあると思います。一人で抱え込まず、学年の先生方、道徳教育推進教師の方と協力しながら授業を作り上げ、少しでも教師の負担を減らすことができたら良いのではないかと思いました。

自由裁量の範囲を増やすほうがよいと考える。ただ知識を教えるだけの授業にしないようにするには、やはり目の前にいる生徒の状況を把握した教師や学校がさまざまな工夫を凝らし道徳性というものを指導しなければならないから。しかし範囲を広げたからと言ってすきあってに教えていいわけではないし、逆に教えなくていいわけでもない。教師の子どもを捉えた工夫をするといった点で自由裁量の範囲を広げてもいいのではないかと考える。

私は教員の自由裁量権は現状よりも増えたほうがいいと思う。なぜならば、教員は教育スキルが、児童生徒は学習意欲がそれぞれ向上し、教育のレベルが上がっていくと考える。日本よりも学力レベルが高いとされるフィンランドでは教師の自由裁量権が大きい。それは教師の専門性をより高くし、より質の高い教育を行えるというメリットにつながっている。

私は自由裁量権は現状より増えたほうがいいと考えます。理由は、教師が決められたことをこなせば良いと思って、道徳を学んでしまうとそれ以上の利益が生まれないと考えるからです。もちろん自由裁量権の範囲を増やした場合には、実際に児童・生徒にそれを出す前に教師同士で議論をするべきだという負担は増えるかもしれないが、それもまた深い学びにつながると私は考えます。

増えた方がよいと考えます。なぜなら、わたしが今まで受けてきた道徳の授業のなかで心に深く残っているものは、先生が工夫をして教材を作ってくださったり、授業を展開してくださっていたものだからです。そのときの学級の状態や雰囲気に合わせた道徳の授業を行う方が、子どもたちにとって意味のある授業になると思います。そのため、道徳の授業においては教員の自由裁量権を増やし、臨機応変な授業を行えるようにした方がよいと考えます。

増えた方がいいと思う。なぜなら自分自身が話す際質が低いと思われていたり自分でも低いと思っていたら質の高い人のを見に行ったりなど工夫でなんとかできるものであるが減らしてしまったら損をするのはそれを聞く機会を失った児童・生徒である。教師も児童・生徒と同じようにはじめが質低くてもどんどん自己の成長に繋いでいってまた次世代の教師に教える立場になるほうがメリットとしては大きいと思う。

増えたほうがよいと思う。教育の質にばらつきが出ることは避けなければならないが、地域社会や児童生徒の実態に合わせた教育がより必要であると思うからである。

私は増えた方が良いと考える。現在は多様な価値観が認められているため、学校やクラスにっよってもそれらは変わってき、授業展開や裁量の違いも認めていくことが子供たちの成長につながってると考えたからである。

私は、教員の自由裁量権が増えたほうがいいかなと思います。教員の自由裁量権減らす=すべてお手本通りに行わねばならない、ということになると思うからです。教員によるばらつきは軽減されるかもしれません。しかし自分の工夫を入れられなくなるので、学級や学校、児童に合わせた指導も難しくなるのではないかと思います。また、教師ができることも限られてしまうので、教員が、自ら考え成長するチャンスを失うことになるのではないかと思いました。

6年間で様々な先生と関わっていくと考えることができるため、現状よりも増えた方が、まず先生の、身近な大人の様々な価値観に触れることができる機会がふえるため、増やすべきだと考える。

教員の自由裁量権は現状よりも増えた方が良いと私は考える。理由は、教員1人1人にもそれぞれの道徳性というものがあると思うし、それを教える立場としてもう一度自分自身についても考えていく必要があると思うからである。その上で授業をする方が子どもにも伝わるものが多くあるのではないかと思う。ただ、自由裁量権を増やすならば学校や学年の教員である程度の共通理解というものも必要だと思う。

増えたほうがいいと思う 理由:子どもたちの多様で多角的な学びを実現するためには、教師の側もそれぞれの個性を生かした多様な授業を展開していかなければならないと考えたから。

増えたほうがいいと考える。自由裁量を増やすことで教育の質にばらつきが出るというがそれでよいと考える。子どもが全員異なるのだから同じではいけないと考えた。

教師の自由裁量の範囲を増やしたほうがよいと考える。質のばらつきについてはガイドラインとうの基準があればある程度カバーすることができるため。

私は、自由裁量権を増やすことに賛成である。現在、教科書に書いてある内容を教員が児童、生徒に教えるという受容的な授業方法から、児童、生徒が主体的になって、考え進めていくアクティブラーニングのような方法へ変化してきている。そのような時代の中で、教員にも変化が必要ではないかと考える。ただ学習指導要領に沿って決められたことをするのではなく、授業をする児童や生徒の特色や、発達速度に適する授業を展開していくことが児童、生徒の更なる成長につながると考える。そこで、教員の能力についても、一人一人の児童、生徒に対して向き合い、理解し、その上でどのような授業を展開していくか適切に判断できることが求められていると考える。よって、教員の成長を促し、結果、児童、生徒の更なる成長につなぐため、自由裁量権は増えたほうがいいと考える。

増えたほうが良いと考える。そもそも、教育の質を平等にするということは、不可能であると考える。ならば、教師の自律のためにできることをした方が良いと考えるからである。

自由裁量権があることで、意識の高い教員はより質を高めることができるだろう。だが、教育の質のばらつきが生じることを考慮すると、最低限の基準をしっかりと定めておく必要があると考える。

正直どちらでも良いと思うが今回は増えた方がいいとさせていただくことにする。 実際指導要領には最低限の基準が示されておりその最低限さえ教えていればまず良いと思ったからだ。そこからは先生が自由に教える範囲で良いと思う。質にばらつきが出るとあるが、確かにバラツキはでるだろうが、その先生がこれは必要でこれは必要ないとこれはだめでこれは良いと、自律した上で判断し教えていることであるため多く教えればいいというものでもないし、そもそもそれを生徒自身がどう捉えるかもわからないので一概にデメリットとも言い難いと思う。そのため自由裁量の範囲は最低基準をしっかり決めてそれを遵守することを規定としていればいくら増やしてもそれは国が自由裁量でも良いと決めた部分なのでいいと思う。

自由裁量権は現状より減った方が良い。なぜなら、増やすことで誤った道徳を教える確率が増えると思う。それなら、教えることはみんな平等のほうがいいのではと考えるから。

自由裁量権は徐々に増やされるべきであると考える。現在の民主主義的社会で、子どもたち課題は多様化し、複雑化している。そのため、ある一定の基本的な道徳教育の上に、学級や児童の実態、地域社会の実態を踏まえた教育が必要になる。教師の自由裁量権を増やすことによって、それらの問題を柔軟に道徳教育に取り入れることができ、子どもたちのよりよい生き方を目指すことが出来ると思う。

特別の教科道徳として始まったばかりである今だからこそ、教員の自由裁量権は減ったほうがいいと考えます。理由は、特別の教科道徳として授業を受けてきていない年代の教員が道徳の授業をするためにはどうしても、道徳を軽視してしまう教員もいると思うからです。実際、私が受けてきた小学校・中学校教育ではそんな感じがあったことがありました。そのため、これを学習する必要があるというように、ある程度決められた範囲の中で行うほうが良いと考えます。しかし、決めるのはあくまで下限だけで、児童の実態に応じて順番や、時期を変えること、応用的な学習を行うことは教師に委ねられるほうがいいと思います。(教科としての道徳がもっと確立したらさらなる発展を見据えて、だんだん自由裁量権は増やしていったほうがいいと考えます。)

自律的な子どもを育てるためには教師も自律的ではならない、という意見は自分的にはあまり理解できないが、自律的な子どもを育てるためには自由裁量の幅を増やさなければならないと思う。教師の質のばらつきについては、自分ができると思った教師は裁量の幅に関係なくすればいいし、自信がなければ、定められている通りにすればいいと思った。

減った方がいいと思う。教育の質にばらつきが出ることは、良い方に転んだ生徒はいいが、悪い方に転んだ生徒は損失を受けると思うから。

増やすほうが良いと思います。教師は子どもの目標や憧れであるべきであり、教師が自律的であるために自由裁量権の範囲の拡大が必要なのであれば、拡大すべきだと考えます。

教師の自由裁量権はある程度増えた方がいいと考える。教師は、児童一人ひとりやクラス全体の実態を観察して、その実態に合わせて柔軟に授業内容を作っていく必要がある。実態によっては、道徳教育の中でどの項目を重要視するかなどが変わってくると思う。教員の自由裁量権が増えることで、教師の自律にもつながるし、より実態に即した道徳教育ができることになると考える。

自由裁量権を減らすべきだと思う。なぜなら教育の統一が図れないと思うからだ。同じことを同じように学ぶことで質の格差がなくなってよいと思う。

教員の自由裁量権は現状よりも増えたほうがよいと考える。教員の教育への想いは多種多様であり、統一しようとすれば、誰かの想いを排除することに成り兼ねないからである。一方で、教育の質にばらつきが出てしまうことが懸念されるため、最低限学ぶ必要のあることは定めておくほうがよいと考える。

私は教員の自由裁量権は今よりも増えた方がいいと考える。なぜなら、教員が基本的な道徳心を理解し、教科として教える最低限のポイントを押さえておけば、教育の質に大きなばらつきが出るとは思わないからだ。むしろ、教員の自由裁量権が増えた方が、子どもたちにとってもより多くの価値観に触れられたり、多面的・多角的な考え方を得られたりすると思うので、教員の自由裁量権は増やした方がいいと考える。

増えた方がよいと考える。なぜなら、限られた授業時間の中で取り上げるべき項目がこれだけあるということは、自由裁量があってないようなものである可能性があるからだ。学習指導要領を最低基準として自由裁量権が与えられてはいるが、それは形だけなのかもしれない。教師の自律がなくとも、授業を行えているかもしれない。もっともっと教師が自律していくためには、自由裁量の範囲を増やすべきだと思う。取り上げるべきものが細かく決まっていないと取っ付き難い、指導しにくい、というのがあるかもしれないが、「自律的な子どもを育てるためには、教師もまた自律的でなければならない」と言うならば、もっと自律的になれるような環境を教師に与えるべきだと私は思う。試す、と言うと言い方が悪いかもしれないが、もっと教師が挑戦できるような環境を、作るべきではないか。教師にもっと任してみてはどうだろうか、と感じる。

私は増やさなくていいと思います。道徳という限られた授業時間の中で道徳を教えないといけないので、キャパオーバーになりかねない。

増やすのが良いと考えます。児童の自律を目指すには、教師の自律が必要であるからです。質のばらつきは、道徳教育を担任一人ではなく、学校全体や外部の方々の協力で解決できることもあると考えます。

自由裁量は減ったほうがいい。その教師の考え方が偏っていたり、正しいといえないこともあるかもしれない。子供の考え方にも影響してくる

学習指導要領に基づくことを前提とするならば増えても良いと思う。自律的な子どもを育てるにあたってある狭い範囲のことだけを教えるとそれだけの価値観しか得ることができず子ども自身が価値観を気づき行動するにあたって偏りが出ると思うから。また裁量の幅が広いほど色んな先生と出会う中で多様な価値観に出会うことができると思うから。

私は、自由裁量の範囲を増やすことは効果的であると考える。教師自身の経験や、伝えたいことがより子どもたちに伝わりやすくなったり、クラスの実態に応じて必要な内容を行えるからである。しかし、最低限やるべきことを決めておくことや、やっておくと良いことの具体例は明示しておくべきだと考える。教師の裁量に任せる部分が増えてくると、教師の質によって道徳の内容に差が出すぎてしまうためである。

私は教員の自由裁量権は現状よりも減ったほうがよいと思う。理由は、現段階で教育の質にばらつきが出ることが懸念されているのにもかかわらずこれ以上増やしたとして、もしさらにばらつきが出てしまったとすればそれは失敗だったと言われかねないからである。また、子どもたちが教師によって良し悪しのある授業がなされたとなれば、それがよかったね、悪かったねという話では済まされない問題に発展する可能性があるからだ。

増えるほうが理想的だと考える。私は道徳教育はほかの教科とは異なって、みんなが同じ答えを見つけ出す必要がないと考える。そのため、教師自身が決められた道筋をたどるような統一化された教育よりも教育目標やその過程は教員がより多くの裁量権を持っていることがふさわしいと感じる。ただし、指導法に関してはしっかりとした知識を教師がもつことが重要である。

 私はできるだけ自由裁量の範囲を増やすほうがよいと考える。なぜなら、その学年・クラスの実態・状況に応じた柔軟な授業を展開することができるからだ。実態・状況に応じた授業を展開することができれば、児童生徒は道徳についてより深く考えることができ、効果的だと考える。

減った方が良い。教育の質にばらつきが出ててしまうというのは、教育の機会均等に大きく反することにつながる可能性があるから。

私は、教員による自由裁量権は、増やすべきであると考える。教師が、一番自分の学級の子どもたちの事を分かっているし、その子たちに今必要な力を考えて指導することが出来る。確かに、デメリットとして考えられる教師の質のばらつきは、考えられるが、チーム学校として、ベテランの先生が若い先生のフォローに入ったり、道徳の授業内容に思い悩む先生の助けになるような教材の開発を進めればいいと考える。

増やす必要は無いと思います。教員全員となると多様な考えをもつ教員もいるはずなので自由裁量の範囲を増やすのはリスクも高いと考えます。

今のままでいいと思います。 これ以上増えたらいかにも自分の経験だけが正しく教育に適していると勘違いする教師が出てきそうだし、これ以上減らせば教師自身が縛られて児童・生徒に対して形式的な教科書だけの授業になりそうだから

現状、学校現場において自由裁量権が感覚的にどう感じているのか、多いのか少ないのかがあまり分かりませんが、内容項目が減って自由裁量が増え、教員が道徳の授業の質を上げれるのならそれに越したことはありませんが、現実的に考えて教員も多忙で、道徳教育に避ける時間が少なく、道徳の時間が内容の薄いものになってしまうことが考えられるので、良い程度に自由裁量権を減らすほうが良いと考えます。

自由な裁量の範囲が増え応用が必要な場面で的確に対応のできる有能な教師には自由裁量が与えられるが、普段から自主的に勉強もせずに学習指導要領や既存のやり方にすがっているような応用力のない教師には自由な裁量は与えられない。この多様な世の中で増やすべきだ減らすべきだと二極化してものごとを考えることはあまりに軽薄ではなかろうか。

私は、教員の自由裁量権は現状よりも増えた方がよいと考える。なぜなら、教育の質のばらつきは教員同士の連携によって防ぐことができると考えるからだ。各学校では道徳教育推進教師を中心として、道徳教育の全体計画と年間指導計画が立てられる。それを基に、同じ学年の先生や教務主任、道徳教育推進教師ときちんと連絡、連携、調整を行うことで、子どもだけでなく教える側も自律的な人間を目指すことができると考える。

基本的にはそのままでよいと考える。なぜなら、増やすと教師の負担が増えるかもしれないからだ。ただし、教師側から要望があった場合は増やしてもいいと考える。

私は減ったほうがよいと考える。教育基本法などの法令やそれに基づく学習指導要領という基準、さらにそれに基づく学校での教育目標や道徳教育の目標など、学級の一教師は様々な基準に照準した教育を行わなければならない。学校内で、あるいは国として、ある程度同質の教育を提供するためにこういった基準が設けられているので、これ以上自由裁量を増やす必要はないのではないかと考える。

私は自由裁量権の範囲は増えた方が良いと考える。自由裁量度が大きくなると教師自身の道徳観が重要になってくる。従って教師自身が自分の道徳性を見つめ直すきっかけとなるのではないかと思う。ゆえに自由裁量権の範囲は増えた方が良いと考える。しかし、ただ自由裁量権の範囲を増やすだけでは教師間のばらつきが大きくなるため、指導内容を切り口として行っていく必要がある。

私は自由裁量権が現状よりも増えたほうがいいと思います。なぜならば、教育方法、内容の幅が広がり、学びに意欲的な子どもが効率的に成長できると思うからです。実際、日本よりも教育水準が高いフィンランドの教育では教師の自由裁量権が大きく、それに伴って教師の教育スキルも高いといわれています。このように、自由裁量権が大きくなると、教師の質にばらつきが出てしまうが、よりスキルの高い教師を生み出すことで教育の質も上がると思います。

自由裁量の範囲を増やした方がいいと考えています。なぜなら、決まられた枠を越えてもっと面白い授業ができ、生徒たちの関心や学びを強化できると判断すれば、先生が自由に授業内容を決められること児童生徒の学習意欲にもつながるのではないか、と考えたからです。

増えた方がいいと思う。教員が今よりも自分を持ち、自由に道徳教育を行うことができた方が、同じ教育にならないから。もちろん、根本的な基準は共通で認識することが必要である。

増えたほうがいいと考える。もちろんあまりにも教師の自由すぎる指導は児童に混乱を与えるため避けるべきだが、教員がある程度足並みをそろえることを前提に、教員がチームとして自由裁量権を利用し、道徳のよりよい教育のためにその学校独自の指導や授業、体験活動を行うのはよいと考える。

私は教員の自由裁量権は現状よりも減った方がよいと考えます。正直にいうと現状と変わらないという選択肢があればそれが一番良いのではないかと考えています。その理由としてはやはり問いに書いてあったように教育の質にばらつきが出てきてしまうということです。  教師自身が道徳的に完璧な人間であるかと言えばそうではありませんし、中にはいじめをしてしまうような先生がこの前のニュースでもあったように少なからずいることは事実です。先生たちが自由に考えてしまうことにより、もし偏った見方をするような先生がいればその考えに子どもたちは影響されることになってしまいます。また一つのことに力をいれすぎて全体的な道徳性を身につけることができないのもよくないと思うので、ある程度の枠組みは指導要領において定めておくのが良いのではないだろうかと考えました。

私は、自由裁量を増やした方が良いと考えます。道徳での学びをより良いものにするためには、教科書などに捉われることなく、子どもたちの発達状況や地域性などによって柔軟に教材や学習内容を選択していける方が良いと思うからです。

私は教師の自由裁量権は現状よりも増えた方が良いと感がる。教育界全体的に個々に合わせた教育が推進されているため、その方向性に沿って行うべきであると思う。特に、道徳教育は発達段階にばらつきが大きくみられる可能性があるため、一定ラインの自由裁量権は与えるべきであると思う。ただ、一方で教師に対する教育も積極的に行っていくべきだと考える。

現状維持でいいと思う。資料にもあるように、道徳の授業も基本は担任が行う。ゲストティーチャーや他の先生の協力を得るとしても、基礎を作るのは担任だ。担任には他の仕事がたくさんあり、道徳の時間に全てをかけることはできない。だからあらかじめ、決められた枠がある程度準備されている方が、スムーズに進むと思う。

増えた方がいいと思う。現場はそれぞれに違った課題があるため、それに応じて自由裁量の範囲を増やせば各自で適切な教育を行うことができると思う。また、多くの教師のアイデアを共有することができれば、適切な授業を行う自信のない教師も参考にできる資料が増えてプラスになるのではないかと考える。

増えたほうがいいと思う。自由裁量権を現状以上に減らしてしまうことは、授業中に取り上げるべき内容・項目が増えたということであるので、年間の道徳の授業回数が増えない限りは、これ以上内容項目を増やしてしまう(自由裁量権を減らす)と、授業計画自体がそもそも成り立たないと考えた。

減った方が良いと考えている。自由裁量権を増やすと、教員による価値観の差が反映されてしまうことが懸念され、少なくとも児童生徒はその影響を受けることになるから、できるだけ統一した指導を行うために学習内容を固定させておくべきであると考えている。

私は、教員の道徳の授業内容についての自由裁量権は現状より減ったほうがよいと考える。理由は上記にもある教師による教育の質のばらつきが他の教科に比べて顕著に表れるからである。一体どれ程の教員が受験にもなく成績にあまり影響しない道徳という教科を重要だと考えているだろうか。そのような教師はごく一部だろう。しかしその反面心や人間性が現れる教科のため、過度な情熱で道徳観において強い信念を持つ教師も少なからずいるだろう。他の教科よりさらに教師の影響を受けやすいので、私は自由裁量権はへらすべきだと考えた。

自由裁量度は減らしたほうが良いのではないかと考える。自由裁量度を増やしてしまえば、道徳の授業をする力のない先生の場合、特定の内容が薄くなったり、もしくは偏りが起こってしまうように感じた。自由裁量度をふやしてしまうと、もとからある範囲の指導が苦手な場合、内容はお茶を濁してきたものがそれまでよりもっと適当に扱われてしまう結果になるのではないかと感じた。

減った方が良いと考える。教師による授業の質の差を中学生時代、私自身も感じていたため、自由裁量権が増えるとその差がもっと広がってしまうのではないかと感じたため。ただ、自由裁量権が増えたほうが多角的に授業ができるのだと思う。

現状のままがいいのではないかと思う。学級の状況によって深めに学習すべき内容もあると思うから。自由度について言及するよりも、教員のための道徳教育に関する研修や講習を増やして欲しいと思う。

増えた方がいいと考える。確かに、自由裁量の範囲を増やすことで教育の質にばらつきが出ることが考えられるが、そこは教える立場である教育者の自覚と誇りを信じたい。その上で、多角的・多面的な教育が求められる現代で、教師がよいと考えた、様々な教材や体験活動を行えるようにした方がよいと考える。

増えた方が良いと考える。自由裁量の多い中で目の前の子どもたちの発達段階や状況に応じた教育を行える教員が必要とされていると考えるから。

自分も含めて、今の若者が「個性を出すことができない」「自分の長所がよくわからない」と言うのをよく耳にする。こういうことは、現在の教育が均一化を図りすぎた結果、一人一人の個性を潰してしまったのではないかと考える。社会全体が一人一人の個性、多様性を認めていくことが必要だと私は考える。その上でまずは「道徳」の授業から自由裁量を増やすことで一人一人違った教育が受けることのできる環境を作ることが必要でないかと考える。

現状よりも増えた方が良いと考える。現在の道徳よりも確立されていない道徳教育を受けてきた人たちが教員として働いている。そのため道徳に関することを探り探りするしかないと考える。そうしたときに自由裁量の範囲が狭いと、ふり幅のない授業になってしまうのではないかなと感じた。増えたからには教員の努力次第で全く違う授業になってしまうので、学年の先生方で話し合い、こんな風にしたいなどの意見交流などが大切になるのではないかなと考えた。

増えた方がいいと考える。 学校、学級によって指導する児童たちも変わってき、授業の雰囲気なども違うためその学級にあったその学級らしい内容や授業を展開するために自由裁量権は増えた方がいいと考える。また、教育の質のばらつきを防ぐために教員間での授業案の交流などをすれば良いと考えられる。

減ったほうが良いと考える。教育の質に差が出てしまうことはもちろんのことである。また、他の教師のチェックを受けるなどをしないことによって行き過ぎた課題になる可能性があるからである。教師の自律により、子どももそれに伴って自律できるかもしれないが、行き過ぎた教育の恐れの方が怖いと感じた。

教員の自由裁量権の程度は教科によって異なるものであると考えるが、道徳においては自由裁量の範囲を増やしてもよいものであると考える。自由裁量権を増やすことにより、教育の質にばらつきが出ることもあるが、目の前の生徒と向き合っているのは紛れもない教員である。今目の前にいる生徒にとって必要なものは何か、教えなければならないことは何かを一番よく知っているのは教員であるため、子どもたちに合った教育を行うためにも自由裁量権は増えたほうが良いと感じた。

私は減った方が良いと思います。自由裁量を増やすことは、もちろん子どものためにも教師のためにも良いことですし、大きなメリットがあると思いますが、それに伴うリスクも大きいと思います。リスクとは、問いでも述べられている、教師の裁量での教育の違いによる教育の質のばらつきと、その自由裁量の範囲の教育が、道徳教育が目指す方向にとって本当に正しいものかどうか判断する人がいないという二点を指します。教師も一人の人間なので、どうしても自由裁量の範囲には先生が良しとする理念や心情が混ざってしまうと考えられます。もちろんそれが子どもにとって良い方向に働くことも十分あると思いますが、逆も然りです。なので、私は減った方が良いと思います。

私は、教員の裁量権は増やすべきだと考えます。なぜなら、裁量権を減らせば一律な決まりきった指導になってしまい、道徳かが目指すべきものからは離れると思います。教員の指導力にばらつきが出ることは事実だとは思いますが、裁量権があるからこそ、一人ですべてをやろうとするのではなく広い視点でほかの教員やゲストティーチャーなどと連携し合うことで改善できると考えます。

増えたほうがいいと思います。子供には得意不得意、好き嫌いが人それぞれで現場に立ってみないとわからないことがたくさんあると思います。そこで一概に決められたことをしてしまうと、臨機応変に対応しずらくなってしまうため、教師の技量はかなり求められますが、自由裁量は増えたほうが良いと思います。

増えた方がよいと考える。これまでの内容がすっかりなくなるわけではないと思うのでこれまでに行ってきた道徳の授業内容でバランスを取るようにし教員の自由裁量の範囲を増やした方が子どもの興味も引くことができるのではないかと考える。