道徳教育論1回目コメントFB

【あなたへの問い】あなた自身は道徳を「教えられるもの」と考えますか。それとも、「教えられないもの」と考えますか。その理由も合わせて簡単に答えてください。

→ 非常に内容豊かな答えが多数あり、私自身とても勉強になりました。皆さんが今後授業をしていく上でもとても参考になると思いますので、ぜひ目を通してみてください。


「教えられないもの」だと考えます。 道徳は、それぞれの人生での人との出会いや様々な経験から、少しずつ自ら形成していくものであり、誰かに教えてもらうものではないと考えるからです。

教えられないもの 人から教えられるものでなく、自らの体験によってその知識を確認し、頭だけでなく身体で理解する必要があるから。

道徳は教えられないものであると考える。なぜなら、道徳は経験も踏まえつつ、個々が学び、組み取っていくものと考えるから。

私は、道徳について「教えられないもの」だと考える。なぜなら、道徳は「これが答えだ」と言い切れるものがないように感じるからである。

教えられるものと考える。私自身、道徳を教えられたという記憶があるからだ。確かに社会のルールを教えるだけでは道徳を教えるということにならないが、社会のルールを教え込んだ人・教えられる側にとっての師となりうる人の背中(その人の生き方そのもの)によって自然と教え込まれるものだと考える。私の過去の経験より、特に、良いバランスで躾と感化が存在しているときに道徳教育が自然と行われているものだと考える。

教えられるものだと考える。 学校は集団生活の場で、その中で経験する色々なことに道徳があり、それを共有する形で道徳を教えることは可能だと思うから。

私は、教えられるものであると考えます。特に小学生においては、それまでに過ごしてきた生活背景は違い、何が道徳的であるか、ということの考え方はそれぞれ違い、一般的に言われる道徳的な行動とはどのようなものであ?か、ということは、教えることによって身につけられると思うからです。

教えられるものだと思う。社会の慣習にはある程度の決まりがあるから。

教えられないものであると考える。 なぜなら、道徳は教師が題材を与えてそれに対し児童が自分で考えて自分で学んでいくものであると思うし、答えのない問題であるからである。

教えられる。正解はないにしても、完全な不正解はあると思うので、それは教えるべきだと思います。

教えられるものと考える。 なぜなら模範として自分が行う姿を見せたり、何がいけなくて何がいいのかは価値観による違いは多少はあり少し難しいところではあるものの道徳がいくら国や法、習慣で違えど、郷に入っては郷に従えということわざがあるようにその特性を理解してもらえば良いと思う。

教えられないもの 私が教え込んでも、その答えが必ずしも子どもの中で納得いくものではないし、道徳は教えると言うより、向き合い学ぶものだと思ったからです。また、人によって本音は違うと思います。「こうであって欲しい」「こうあれば正しい」という答えらしきものはあるかもしれないけれど、その価値観を押し付けて正誤をつけてしまっては、なぜその言動がダメなのか真に理解できずずっと疑念を抱いたままになると思いますその疑念について追求するのが道徳ではないかなと思いました。なので、モラルジレンマ授業はすごく理想的だなと思いました。ただ、私一人では道徳を担い切ることはできないと感じました。道徳には私たちの生活や私たちを取り巻く環境や人々など、すべての事柄が深く結びついているので、まずは、それを子どもたちが知ること、また様々な人の協力が必要ではないでしょうか。道徳は暗黙の了解で伝わるものではないと感じました。

私は、道徳は「教えられるもの」だと考えます。資料を読んで、道徳は様々な方向からアプローチする必要があるとともに、社会的背景に大きく影響する複雑な分野だということが分かりました。また、道徳の根幹には子どもたちに「生きた」知識を持って社会で生きていく力を身に着けてほしいという願いが込められているのではないかと思いました。このことから、一見道徳は複雑で教えられるものではないように感じられますが、道徳の根幹の部分は教師がその願いを込めて子どもたちに必要だと感じられる知識を提供することで教えることができるのではないかと思います。

教えられるものだと考えます。道徳は人間が生み出したものであり、それを慣習や当たり前のものとして伝えていくものだと思っているからです。

道徳は、「教えられないもの」と考えている。なぜなら、資料にもあった通り、人間の数だけ道徳はあり、正解が一つと決められるものではないからだ。

教えられるものである。ただし、授業や座学という形では「知識」は教えることはできても、道徳力や人間力を身につけさせることはできないと考える。理由は、道徳という心の部分は何より経験する事が1番の学習になると思うことである。

教えられるもの。思いやりの心や善悪の判断は周りの環境のどによって育まれていると感じるため。言葉でのほかに、自分が優しくされて、正しい行動を目の当りにして身に着けられると考える。

教えられないもの。 教えるということになると、どうしても道徳的な価値を知識として伝達していくことだと感じてしまう。そういった知識を教えられるよりも、子どもの規範意識・自尊感情・人間関係力を高めたうえで自ら物事を経験して感じて考えて学んでいかなければなかなか考え方は身についていかないと感じたから。

教えられないものだと考える。道徳とは自分の経験や考えから学んでいくものであると考えるから。教えることはできないが学ぶ者自身が自分で体験したり考えたりするための手引きはできると考える。

私は「教えられないもの」と考える。その理由は、道徳的な考えというのはあくまでその人個人の中にある善意のようなものであって、人からこれがいいことだからと言われてやることではないと思うからだ。ある行いがいいか悪いかということを教えることはできると思うが、人の心(道徳心)は教えられて育つものではないと思う。

「教えられないもの」と考える。道徳は経験の中で積んでいき、自分で考えて感じて学ぶものだと思うから。

道徳の表面的な部分は教えられると思うが、本質的な部分は教えることが難しいと考える。なぜなら、道徳心を養うためには言葉で理論を説明するだけでは不十分であり、実際に教えられたことを実践できる機会がなければ身につかないと考えるからだ。そのため、道徳を教える中で学校と家庭の連携は欠かせないと考える。

私は教えられないものと考えます。授業に「道徳」というものがあること自体疑問です。伝統主義的アプローチの道徳とロマン主義的アプローチの道徳を別個で育んでいく出来だと考えます。授業というカテゴライズされた枠組みで「教える」のではなく、(いい表現が見当たらないが、)学校生活の中で自然と育むように「仕向ける」のベストだと考えている。

→ これはまた詳しくやりますが、後期コールバーグの立場に近いかもしれません


「教えられるもの」社会を教えることが道徳を教えることにつながらない、というのは確かだが、生き方やル―ルを教えるには一番の良い機会だと思う。

教えられないもの。正解を教えたり正すのでなく、道しるべを作ってあげる。

私自身が部活動の顧問の先生から人とはどうあるべきなのか、どういった人間に成長していけばいいかを学んだので、道徳は教えられるものだと考える。

私は、教えることができると考える。道徳教育が行われるのは道徳の授業内だけではなく、道徳教育は学校の教育活動全体を通じて行うものだと考えるからだ。例えば、国語ではお互いを尊重しながら言葉で伝え合う力を育てることができる。社会では、国や地域の歴史・生活を理解することで、伝統や文化の尊重につながる。この様に、様々な場面で道徳は日々の生活に密接にかかわっているのではないかと考える。

教えられると考える。なぜなら、根本的なとこまでいくと、時代や社会によって答えは変わってくるが、人間としてのモラルをある程度は幼い時から学んでおく必要性があると思うからです。

道徳は教えられるものであると思います。私は、学校教育に組み込まれた普遍的な机上の道徳教育であっても、その授業で人として道徳的に良いことと悪いことの判断はできるようになったと思っています。しかし、場合によっては道徳を教えることが困難なこともあると思います。例えば、ローレンスのモラルジレンマに出てくるような複雑な問題や、学生自身のパーソナルな体験に基く道徳上の問題については、普遍的でシンプルな道徳理論が通用しないこともあるでしょう。これらについての解決策は、各場面に合わせて、また各人に合わせて、個別にとことん話し合うことだと思います。この場合は、教えるのではなく話し合うことでお互いの道徳観を照らし合わせ、両者の人権が侵されないという点に留意しながら共通項を探るしかないと考えます。

私は道徳は「教えられない」ものであると考える。たとえ道徳の教育を行ったとしても子どもたち1人1人が考えることは異なってくるのではないかと思う。教師が道徳の教科書に書いてある物語のこのような場面ではこうしてほしいという考えがあったとしても子どもたちがそれに従ってくれるとは限らないと思うからである。また、道徳とは教えられて学ぶものではなく、日常生活や家族との会話、先輩や先生との関わり、地域の方々との関わりの中で学び、知り、行動に移すことができるようになると考える。

道徳は教えようとして教えられるものではないと考えています。そもそも理性的道徳といわれる道徳も習慣的道徳となる可能性があるので実践で教えている道徳が理性的道徳なのもわからないのでどうしようもないのではないかと考えます。現在行われている道徳でさえ、変化しうるものなので果たしてそれは「教えた」と言えるのかと考えました。 定義できないものを教えるというのは不思議な話だと思います。 教えるという行為も曖昧すぎて正直わかりません。 道徳と教えるという行為に対する明確な定義を考えていかなければならないと考えました

教えられるものだと考えます。理由はある程度の決まりが存在するからです。複雑なものは教えるのが難しいし個人の判断の部分もありますが、大枠を教えることで初めて、個人の判断が許されるものだと考えます。

いくら人から教えられてもそれを受け入れる道徳力がなければ自分の身にならないと考えるので道徳は教えられないものだと考える。

私は、教えられるものだと考えます。私自身は、学校教育に限らず、保護者や友達、地域の人等、周りの人との関りや、経験を通して道徳心を周りの人に教えてもらってきたと考えるからです。子どもたちが、自ら思考する機会を提供することが、教えるという事だと考えます。

「教えられるもの」と考える。 多様性を認めつつ答えを導き出すことは難しいが、答えを出す必要がないということを頭に入れつつ授業を行うことはできるため。

教えられるものだと考えます。 理由は、やはり現代社会を生きていくには、慣習的道徳などは身につけておくべきだと思うからです。それらがなければ社会から孤立してしまう可能性もあるのではないかと思います。 慣習的道徳を教えていきながら、子どもたちの道徳心を最大限に育てていくことができると思います。

教えられない。道徳は形のないものだから。

教えられると考える。なぜなら道徳はごく身近な出来事から学ぶことができるからだ。

 私は「教えられるものである」と考えました。  人間がサルやイヌなどほかの動物と違ってここまで知能を持って発展してこられたのは、やはり道徳心を持った社会的な生き物であったからだと思います。成人して社会に出て生活していくうえで守らなければならないルールがたくさんあり、それを教えていくのが道徳の授業だと思いました。  しかし、いくら知識として植え付けさせたところで実際に行動するのは教育者ではなく子どもたちであるので、道徳を教えることはできるが、それをどう使うか、どう生かすかは教えられた一人ひとり次第になるものだと思いました。

教えられるものだと考える。進歩主義的アプローチの側面から、社会的なルールを教えつつ子どもの主体性を尊重するような授業を作る力が指導者にあれば、可能だと思う。可能であるからこそ、今まで自分自身が道徳の授業を受けられたのではないかと思う。どちらかに偏ることなく指導するのはきっと難しいことだが、最低限のルールを教えて子どもの主体性を磨くことは、適切な知識と能力があれば不可能ではないと考えるのだ。

教えられるものではないと考えるが、こういった考え方もあると提示することはできると考える。何かの出来事に対して私自身がどのように考えるかを交流したりして自分の意見と人の意見はこんなにも違うものなのかと衝撃を受けた覚えがある。そのような道徳の授業が無ければきっと私は何も考えず物を言っていたし、相手がどう考えているかなんて考えてもいなかっただろう。教えられるものではないと考えているため、答えが大切なのではなく考えたりする、その過程が大切だと私は考える。

今回の、資料を読んで改めて考えてみて道徳は「教えられないもの」だという考えに意見が傾きました。理由は、道徳を社会の中にある慣習と定義した時、その定義の中にある言葉の「社会」という言葉があまりにも漠然としすぎているように感じたからです。一つの行為に対して、善だと思っていたその行為が社会という大きなくくりの中で見たら、悪となることもあり、そのすべての場合を教えるのは不可能と感じたからです。つまり、『道徳のいくつか』を教えることはできても、『道徳』は教えられないものであると考えました。

教えられると考える。なぜなら、根本的なとこまでいくと時代や社会によって答えは変わってくるが、人としてのモラルはある程度は幼い時から学んでおく必要性があると思うからです。

道徳は教えられると考える。なぜなら道徳はごく身近な出来事から学ぶことができるからだ。

私は道徳は教えられるものであると考える。道徳教育を行なっていくなかでさまざまな問題が見えおり、それらが道徳教育というものは教えられないものと考えさせている。しかし、私はそれは道徳教育というものの構造の分析と道徳教育をどのように展開していくかで乗り越えられるものであると考えたから。

「道徳」という教科があったので教えられるものであると考えていた。しかし教えらない部分があると考える。実際受けてきた「道徳」に対してなにを学んだかあまり記憶もない。これは教え方をしないモラルジレンマ授業であったのかと思う。この授業形態では、伝わるもの•伝わらないものが生まれるが、伝わるものがあるなら伝えた方がいい。しかし教師の持つ価値観が影響しないようにするべきだとおもった。

教えられないものと考える。 理由としては、他の教科のように特定の正解があるわけではない教科だと思うため、その事柄や問題に向き合って、最適な答えを自分で導き出し、その経験を活かして実生活をより豊かなものにしていくような自分自身の考えを深めるようなものだと考えるからである。

私は道徳を「教えられるもの」と考える。完全にこうだと教えることは難しいかもしれないが、人に影響を与えたり、考えを変えることはできると考えるから。

「教えられないもの」と考えます。道徳は、人生で出会う人との関りや経験の中で、感じたことなどから、少しずつ形成されていくものだど考えるからです。

 私は、道徳を「教えられるもの」と考える。現代社会の変化は著しく、これまで道徳的と考えられていた行動が認められなくなる場合は起こりうる。しかし、今に至るまでどのように慣習が変化していったか、これからも変化し続けるということを伝えることは可能だ。  また、私がこれまで受けてきた道徳教育は、日常的に起こる道徳的に問われる様々なケースを色んな視点から考えることで、答えが1つではないと気付かされるものが多かった。この教育方法はただ教え込むだけではなく、子ども自身の考え方を尊重することが大切にされていたのだと考える。  以上のことから、教える側が道徳という教科は答えが必ず決まっているものではないが、日々考え続けなければならないということを意識したうえで、子どもの規範意識を育てることが重要だと考える。

「教えられないもの」だと考える。なぜなら道徳意識は、他人の意思で外側から育てるものではなく、生活や体験の中で内側から育っていくものであると考えるから。しかし道徳教育が不要だとは感じない。道徳教育は、内側を育てるための外側からの働きかけだと思うから。

一定のラインまでは教えることができるが、真髄を教えることはできないと考えている。確かに日本人が今の道徳観を持っているのは小学校などの道徳教育の賜物だと思う。しかし、私は道徳心というのは周囲との関係や周囲の環境、自分の気持ちなどから培われていくものであると考えている。そのため教えられないものであると考える。

教えられないものと考える。なぜなら、道徳は経験を通して個々が学び、くみ取るものと考えるから。

私は道徳を「教えられないもの」と考える。その理由は、道徳というものは人に教えらえて身につくものではないと考えるからである。道徳的な考え(挨拶をする、人を傷つけてはならない等)を教えることは可能だと考えるが、考えの根本にはその人の善意があると考えるからだ。道徳心はその子が育てていくことで成長していくと思うため、教えられるものではないと私は考えている。また、ローレンス=コールバーグが提案しているモラルジレンマ授業に賛成だ。

おしえられない 人の気持ちを平等に推し量る方法などないと思うから。

本来は道徳は家庭内で教わるものだと考えるので教えられないものだと考えられます。

教えられるものだと考える。道徳とは、人間が生きていく上で最初の指標となるものであり、自力で善悪で判断することが難しい子どもたちにとって、必要なものであるとも考えている。

教えられると考えています。自分は道徳教育を受けてきたからです。何をすべきか何をしたらダメなのか、子ども自身はその観念がない時に、見本を見て行動することは子ども自身にとっても、良いものではないかと考えています。ただし、子供の道徳観念がまだ形成しない時に、先生から観念を押し付けてはいけません、子供が大きくなっていき、道徳教育を受けてきて、社会の中で応用することで、自分から道徳観念の認識も深くなるだろう。

「教えられるもの」と考える。 現に学校教育で、道徳は教えられており、道徳の授業を通して、社会的なルールを新しく学ぶこともあり、家庭や地域社会の道徳的な考え方が、普遍的な倫理的原理とずれていることもあるかもしれないから。

私は「教えられるもの」だと思います。教えられるから、私たちはそれを学んで現代社会を創っているのだと思います。もし教えられないものだったとして、人々の中に潜在的にある道徳だけでは、これほど秩序のある社会にはならないと思います。今が完全に秩序のある社会だとは思いませんが、法で制限されていない行為でも「やってはいけないんだな」という道徳心が至る場面であるから、社会は保たれているのだと思います。

教えられないものがあるため教えられないものと考える。社会的なルールを教える点でいえば道徳教育は可能なものであるといえる。しかし教師の持っている価値観などが影響する点を踏まえれば教えることが難しい道徳教育が生まれる。しかし教えなければ、伝えなければ、モラルのない人間が育ってしまう。完全な形でなくても、教えることが必要ではあるが伝えられないこともある。

教えられるものだと考える。それは学校に限らず家庭や地域で生きていく色ん中のな場面で教えられるものだと思う。

教えられないもの 教えようとしたところで教えられてた人自身が納得しないと道徳として成り立たない。自らの経験で道徳はこういうものだという考えを積み重ねていくべきものだと思う。

私は教えられないものと考えます。時代を超えて普遍的な道徳(bに当たる道徳)というものは存在せずすべてが慣習的道徳でしかないと考えるからです。また、道徳は時代や社会の影響を受けざるをえないし、時代や社会の変化によっても変わるものであり定義することが難しいからです。

教えられるものだと考える。社会的な規範や善悪などある程度一般的な道徳であれば、日常生活に照らし合わせて教えることが可能だと考える。

私は道徳は「教えられるもの」と考える。現代の児童は当たり前のことが当たり前ではなくなってきている。そもそもその当たり前とは何をもっての当たり前なのかという点もあるが、一般的な常識などは教えてあげる必要があると考える。すべてを個性として認めていたのでは成り立たないため道徳的な常識を習得したうえで、個性を認め個性を出していくべきだと考察する。

道徳はごく身近な出来事から学ぶことができるので、教えられると考える。

教えられるものと考える。なぜなら、その時代時代に適した「日々の生活の中で従うべき慣習」は教えることができると考えるから。

教えられると考える。道徳とは社会で生活を送るために必要なことであると考えるからです。

教えられるものと考える。確かに、私の今までの考えであった社会のルールを教えることだけが道徳を教えることにならないというのには資料を読み同意できる。それでも、道徳は教えられるものと考える。私の過去の経験上、道徳観を学校教育において教えられたと感じることが何度もあり、それはその教育者に対して感化されている状況で起きていた。師とする人の背中(その人の生き方そのもの)によって躾と同時に自然と行われていたのではないかと思う。だからこそ、社会のルールを教える教師は生徒の模範となるような生き方で感化させうる存在になり、道徳教育を行わなければならないと思う。

私は道徳は教えられるものだと考えます。なぜなら、私たちは今、無意識のうちに善悪の判断には道徳的観点を使っています。それは、人間の本能で得たものではなく、過去の自身の経験や体験から学んだものであると考えられます。故に筆者が述べているように、道徳は多くの学問分野を有するものであるので、すべてを網羅することはできないが、授業として、社会問題やドキュメンタリに触れることで児童自身の考え方や人間性に影響を与えることは可能であると考えている。

教えられるものだと考える、慣習を知ることを土台として道徳性を伸ばしていくべきだと思うため

教えられないと思う。 授業の資料でも示していた通り、道徳は国や文化によって異なるものだから。その状況ごとでも変わってくるし、思想によっても異なってくるため誰かが教えるということは難しいと考える。

教えられるもの。自分自身は教えてもらって、生まれてからある考えたではないと考えるから。

教えるということを、授業で「こうしよう」と伝えるということと定義するなら、「教えられない」と思う。道徳は時と場合によっても変わることだろうし、たくさんあると思うからだ。ただ、「道徳性の育成」はできると思う。

ある程度は教えられるものであると思いますが、あらゆるケースや子ども達の考え方の多様性を考慮すると、「こうだ」と断定して教えることは難しいと思います。

道徳は教えられないものであると考える。理由は道徳の授業を通して、子どもたちの中に道徳心を育むものであると考えるから。

教えられないものと考えます。適切な感情や適切な行動はそれぞれ時と場合によって違ったり、人それぞれに感じ方も違うので、「正しい方」(₌)を教えるのは難しいのではないかと思う。しかし、その違い受け入れたり、他人のことを尊重したりする気持ちを持たせるという経験を積ませることは必要だと思うので、教えるというより、経験させる機会を作ることが道徳にとっては大切ではないかと考える。

教えられない こういう時はこうすると言った理想的な行動はあるが、同じような状況でもその中の要素(人の性格、場所など)は毎回違うものであり、その理想的な行動がそれぞれの状況で望まれる行動とは限らないから。

教えられらと考えます。私は自分の道徳心を高めようと考えたことはありませんが、自分の思う「待つべき道徳心」というものを持っていると考えており、つまりどこかで何らかの形で教えられ身に付いたのだと考えています。しかし教えると言っても、これはこういうものだ、というようなものではなく私自身(子ども自身)がこういうものだと心底感じられるような教えでないとならないと思っています。

私は「教えられるもの」だと考える。しかし、授業としてだと子どもの主体性を確保できる保証はないので、日常生活、学校生活の場面ごとで教える(例:子ども同士の喧嘩)、もしくはその場面を後で授業として振り返り、全員で考えることで、子どもの身近な課題として道徳を学べるのではないかと考える。

道徳を教える中でただ一つの正解の答えはないと思います。ただ、いろんな人の考え方や意見を知ることはできると思います。だから私は道徳は教えられると思います。

道徳にはいろんな答えや唯一の正解も存在しないと考えるため、子どもたちには多くの考え方や意見を知ってもらうということで教えられるものだと考える。

教えられないものであると考える。道徳自体は社会の中で他人とかかわりあいながら身につけるものであって、(授業などを通して道徳を身につけるための機会・経験の場を提供することはできたとしても)道徳そのものを教えるということはできないと考えたから。

「教えられるもの」 なぜなら、道徳の授業を通して、道徳には正解がないということを学び、自分の中で一番正しいと思う行動をしなければならないと感じたから。道徳が教えられないものであレバ、このような思考にたどり着いていなかったと思うから。

教えられないものだと思います。 正解が必ずあることであれば、教えることができると思いますが、たくさんの答えがあり、どれが間違いとはいえないものは、教えることができません。だからといって、教えずに放っておくのではなく、いろんな考え方があって良いことや考えることが大切であることを伝えるために教えるというプロセスは必要だと思います。

 私は道徳は教えられるものではないかと思います。確かに今回『道徳教育の方法』を見て全てが教えられるわけではないかもしれないとも思いましたが、私は小学校の道徳の授業を通して様々な価値観を得られたと思っています。その時にやはり担任の先生が私たちに教えてくれていたわけです。  前に何かの授業で5歳くらいから差別意識が備わってきているという調査を聞いたことがあります。そうして知らず知らずのうちに備わってしまった芽を摘み取り新しい価値観に塗り替えてあげることが「教える」という行為によって得られるのではないでしょうか。

教えられるものであると考える。現代社会における慣習を、教えられて初めてそれが慣習であるということに気づくことができるし、心理的な成長や人間関係形成力の育成についても、教える立場の人間が場を意図的に設定し、子どもたちに道徳的な体験をさせることで、学びにつながり、そこから子どもたちが自ら気づき、行動や考えに反映させることがあると思うから。

教えられないものと考える。 なぜなら、道徳は自分の経験のもとで自分が感じ取り学んでいくものであると考えるからである。

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【コメントフィードバック】

1.半期お世話になります。よろしくお願いいたします。

2.道徳については、教える側としてもそうだが、まだまだ学ぶべきこともたくさんあるので、しかり学んでいきたいと思いました。

3.モラルジレンマ授業を成功させるためには、道徳を知るために必要な倫理学や社会学、心理学、普段からの深い関わりなどがもちろん必要だと思うのですが、どんな発問や体制を取れば良いのでしょうか

→ 発問や体制については、授業法を紹介するところで扱うので、そのときにまた詳しく書こうと思います。

3.道徳の授業は小学校の頃にはあったけど、高校では倫理の授業に変わったのかな、と思っていたけれど資料を読んで、ちゃんと意味に違いがあるのだと知ることができました。ただ、倫理の教科書にあまり日本人が載っていなかったのがなぜか気になりました。歴史的背景があるのかなと思いました。

→ 高校倫理は道徳というよりは「世界思想史」のような内容と言えるかもしれません(なので相対的に日本人の割合が少なくなるのだと思います)。小中までに比べると、それまでの道徳と高校倫理にはそこまでの連続性はないと思います。ただ、英語のmoral(道徳)とethics(倫理)は非常に関連のある言葉です(「道徳的moralish」「倫理的ethical」は同義語として使われることもあります)。

3.また、道徳はなるべく早い時期から学ぶことが大切だと思いました。当時の私にとって小学校の道徳はあまり楽しくないものでした。今考えると、道徳の時間は比較的静かで、教科書を読む時間が多く、嘘はダメ、のように正解と考えられるものを押し付けられていたように思います。道徳を子どもたちと学ぶには多様性を学ぶことも必要ではないかと思いました。さらに、暗黙の了解と言う言葉があるけれど、それはあまり好ましくないなとおもいます。相手に伝える工夫や暗黙の了解に隠された意図を考え話し合う機会が必要だなとおもいました。人間関係力を高めるにも、これらのことや話し合い活動も重要になると感じました。資料を読んできて、体験、が大切だなと思いました。体験するからこそ、より一層深い理解につながるのではないでしょうか。何かにチャレンジすること、達成感を味わうこと、自然に触れることなど機会を設け、不足していることを補うことが学校に求められているのだと感じました。また、超業績主義に加え、ものやシステムなどが飽和の時代である現代は、習い事をしていて当たり前、〇〇があって当たり前など、当たり前や他人と遊ぶ機会が減っている思います。だから、「生きた」知識の獲得が難しいのではないかと思いました。死んだ知識をどう活用するか、どういった体験をするかも大切になると感じました。

→ 「嘘はダメ、のように正解と考えられるものを押し付けられていた」というタイプの授業は、道徳の教科化にあたって改善すべき点として議題に上がっている点の一つです。「嘘はダメ」というように特定の内容を価値あるものとして教えることを道徳教育業界の用語で「教え込み」と言います。道徳教育においてある程度の「教え込み」自体は避けられない点があるかもしれまえんが、いつも結論ありき(まさに「暗黙の了解」ですね)で教えるようなことになると、生徒も自分で考えるというよりは答えに誘導されていく(そしてそれ以外の意見を思いついても発言できない)ことになってしまいますね。そうならないように、仰るように「相手に伝える工夫や暗黙の了解に隠された意図を考え話し合う機会が必要」だと思います。道徳の授業を通して慣習的道徳をいま一度疑い、やはり慣習的道徳は正しいということを確認してもよいし、慣習的道徳ではない新たなより良い道徳があるかもしれない、という方向へ行くのも面白いかもしれません。

4.小学生の時の道徳のイメージと言えば、最後に書く感想文が大変というイメージが強かったです。しかし、今回資料を読んでシラバスで整理していく中で、道徳教育を学ぶことによって子どもたちの生きる力を育むために必要な教科であるということに気づきました。なので、小学生の頃に感想文に何を書こうか考えながら授業を受けていたことはもったいなかったなと感じました。また、資料を読んで様々なアプローチから道徳教育は考えていく必要があると知り、もっと道徳教育について知りたいと感じました。道徳を教えていく上で、自分にとって道徳はどのようなものなのかについてしっかりと確立していく必要があると思うので、この講義を通じてしっかりと学んでいこうと思いました。

→ 道徳=「教科書を読んで、その教科書を元に考え、議論し、感想文を書く」というのは伝統的な道徳教育のアプローチの一つで、利点もあるのですが限界もあると思います。どのアプローチも万能ではないと思うので、本授業を通して幾つかのアプローチのメリットとデメリットを理解してもらい、クラスの状態に合わせて臨機応変に使い分けるようなことができるようになるとよいのではと思います。

5.オンライン授業ではどのようになるかわからなかったが、このように問題に回答することで振り返ることができ、また自分の考えを深めることができるのでこの形式はとてもいいと思いました。

6.非常に興味深い内容だった。一度議論して、深めたいなと思えた。

7.道徳の授業をうまく教えることができれば、どの授業もうまく教えれるのではないかと思った。

8.先生の自己紹介を聞きたいです。

→ まだあまり満足にできていなくてすみません。そのうちきちんとしたいと思います(^^;

9.クイズ形式で面白かったです。

10.初回から資料が多かったので、少し気が引けてしまいました。私の読解のスピードが遅いためかもしれませんが、これを90分の間に読めていたかなぁと少し不安になりました。

→ (量について少し弁解させてもらうと)大学設置基準によると「1単位」の定義は「授業科目を45時間の学修を必要とする内容をもって構成する」こととなっています。今回は大学での授業90分(2時間分)がないため、その分も在宅でやってもらうとして、「道徳教育論」は2単位なので90時間÷15回分で1回の授業に6時間費やしてもらうというのが条件になっています。この授業の各課題は6時間はかからないかもしれませんが、90分で解いてもらう分量にはしていないことはご理解ください(対面授業がある場合なら、前回コメントFB、レジュメの内容解説、グループ・ディスカッションなどを対面授業の90分間内で扱い、読書課題・レジュメの復習・コメントシート提出は授業外課題ということになります)。

10.しかし、資料の内容はとても興味深いものでしたので、次回以降の講義内容がとても楽しみです。道徳について定義するために古代ギリシャ時代から続く議論に、未だ終止符が打たれていないから、学校現場での道徳のあり方も変化することがあるのかぁと納得しました。

→ そうですね。道徳についての議論は発展しているとは思いますが完成には至っておらず、様々な立場が共存しており、人気の立場にも変化の余地があります。どの理論にも利点と欠点があるので、一つの理論や立場だけを重視するというよりは、ケースバイケースで理論を使い分けたり混ぜたりするのがよいのではないかと思います。

11.道徳教育について考えるのは難しかったが道徳がどのように考えられてきたのか少し知ることができたので良かったです。また、先生が作ってくださったレジュメがとてもわかりやすかったので今後の読書課題の際なども作ってくださったらとてもありがたいです。他のみんなが道徳を教えられるもの、教えられないもの、どのように考えているかが知りたいです。 とても難しい課題で、道徳についてたくさん考えさせられました

→ 先生自身がたくさん考え視野を広げると、その悩んだ幅のぶんだけ包容力が増し、多様な生徒の意見を無理なく(?)受け入れられるようになるのではないかと私は思うので、ぜひ今後も考えていきましょう!

12.道徳教育を行うというのが道徳を教えることだとすると、道徳教育では現在の理性的道徳を教えるのですか?それとも習慣的道徳を教えるのですか?それとも両方教えるのですか?他国で行われている道徳ともまた違いが生まれると思うのですが。

→ その通りですね。これは難しい問題なのですが、結論から言うと両方だと思います。まず習慣的道徳についてですが、たとえば日本にいながらにして、日本の習慣的道徳を全く教えないということは難しいのではないかと思います。しかし習慣的道徳の教え込みが、日本内での多様性(例えば日本の学校に通いつつ外国の文化を重んじる生徒)を不当に無視することにつながってしまう可能性もあります。例えば「自然への畏敬の念を抱くこと」というのは、(万国共通の)「良い」ことのような気もしますが、神道に関係する日本に固有な価値観(自然崇拝)である可能性もあり、これを他の宗教観を持つ生徒に「教える」のは適切なのか、という議論があります。また、「理性的道徳」も時代や場所の影響を全く受けないわけではありませんが、より時間と場所を超えて是認されうるものと考えられ、例えば現代では民主主義や人権の考え、SDGs(Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標))などがそれにあたると思います。ただこのような原理的な道徳は具体的な状況を考慮しない空論になる恐れもあるので、月並みな言い方になってしまいますが、やはりバランスが大事だと思います。

12.正直私は道徳の時間に何をしたのかは全然覚えていません。覚えているのは心のノートと道徳の時間はお喋りと本を読んで楽しかったということだけです。何も考えず担任の先生の授業を信じ込み、今の自分の中の道徳が作られたとするなら宗教的な要素も含まれてくると感じました。

→ 「何も考えず担任の先生の授業を信じ込み、今の自分の中の道徳が作られたとするなら宗教的な要素も含まれてくる」。そうですね、そのような要素は特に戦時中の道徳教育にはあったのではないかと指摘されています(実際多分にあったと思います)。今回の「道徳の教科化」で、教科書が作られることにより、教える内容の各一化によってそのような「宗教的要素」が復活するのでは(復活しやすい構造ができてしまうのでは)、という懸念の声もあります。今後教科化がそのような望ましくない方向に結びつかないよう工夫する必要があると思います。

12.私自身道徳が備わっているのかわかりません。

→ 「私自身道徳が備わっているのかわかりません」というのは、とても謙虚で慎ましい感覚だと思います。「わからないけど…でもこれがよいのでは?」という「躊躇しつつ」の行為は優しいのだ、と確か吉本隆明(吉本ばななの父親で思想家)が親鸞を解釈して言っていたのを思い出しました。

12.自分の所属している社会における徳に反する最低限の行いを伝えることができたなら、道徳を教えたということになるのではないでしょうか。

→「自分の所属している社会における徳に反する最低限の行いを伝えることができたなら、道徳を教えたということになる」というのは、道徳に関する一つの良識的な立場と言えると思います。ただ、「自分の所属している社会」の規模をどの大きさにするかによって「最低限の行い」も変わってくるのかな、と思います(たとえば地球全体に規模を拡大すると、世界の貧困層を無視して先進国の人間だけ豊かな生活を享受していて良いのか、という問題が出てきますが、日本に限定すれば世界の貧困層までは考慮する必要がなくなる、など)。

12.どのような行いをしたら善いのかは、言うだけ言ってやるやつはやると考えます。伝わらなくてもいいのかなと考えてしまいます。

→ 昔から道徳的なことには「伝えられること」(言葉にできること)と「伝えられないこと」(言葉にできないもの、いわゆる秘伝、密教的なもの)の二つがあると考えられる傾向があると思います。「結局道徳は後者なので、いくら言ってもやらない人はやらないのでは?」という考えも一つの可能な立場です(例えば仏教でも、そのような立場から、言葉では教えない、座禅や問答・公案が生まれました)。コールバーグという道徳教育の理論家は、「道徳は教えられない」、よって「自分で気がついてもらうしかない」。ならば、その自分で気が付くきっかけを授業では作ればよい、と考えました。ただ、「伝えられること」の限界を自覚したうえで、「伝えられること」を一生懸命伝えようとすると、「伝えられないこと」が急に相手にパッと閃く、ということもあるかもしれません。難しいですね。

12.道徳の授業は、小中高と好きだったけど、道徳とは?という視点を今回初めて持ったので新鮮でした。

→ これが大学の「勉強」の面白いところだと思います!大学からの勉強は、高校までの学びの前提のところまで遡って、その前提自体を問うことができます。

13.【あなたへの問い】で道徳を「教えられるもの」と答えたが私自身子どものころ道徳授業に興味を示せずあまり授業を理解できていたように感じません。そのため道徳授業で子供のころ何をたかと聞かれてもおそらく答えることができません。なのでこの授業を通して少しでも道徳というものを理解できるように努力したいと思います。よろしくお願いします。

14.道徳教育は人間として生きていくうえで大切なことだと思うので、教育方法についてしっかり学びたいと思う。

15.今まで道徳教育について深く学んだことがなかったため、今日詳しく知ることができて良かったです。「道徳教育とは何か」を読み進めていくと、なるほどなと感じることが何度もあり、とても興味がわきました。楽しく学ぶことができました。今後の授業が楽しみです。

16.道徳について考えたことがとても久しぶりだったので思い出すと懐かしくて、そして道徳の授業を自分がしていく立場になると考えると不安になりました。(笑)なので対面授業はできないかもしれませんがしっかり勉強したいと思います。

17.(感想)今まで、小学校の道徳の授業は、「道徳」という言葉の意味が分からずに受けていたし、気になったこともありませんでした。でも、どこか目の前の大人が喜ぶ答えを言ったら褒めてもらえるというような印象がありました。今回の資料を読んで、道徳教育において教え込みが問題になっていることを知り、将来、私が道徳教育を児童にする機会がある職業についたら、児童に「大人が喜ぶ答えを言えばいいんだ」なんてことを思わせるような授業にはしたくないなと強く思いました。道徳にもいろいろあるというように多様性を考えられる授業がしたいと思いました。

→ 非常に大切な点だと思います。どんな授業法をとろうが、生徒が先生の誘導したい方向に気がついてしまい、それ以外のことを言ったら「不正解」だから言えない、と感じてしまったとしたら、その授業における「多様性」は名ばかりのものになってしまうと思います(この点の改善も、今回の教科化で対処すべきポイントとして挙げられています)。先生自身が一つの道徳的価値観に固執しないで、ある立場に立つにしてもその立場に対する反対意見も幅広く把握しておくと、生徒は意見を言いやすくなるかもしれません。

18.道徳教育は人間として生きるうえで必要不可欠なことだと思うのでしっかり学びたいと改めて思った。

19.道徳教育についての資料を読むことで今までしてこなかった考えを得ることができました。今回このような状況のため資料でしかなかったがもっと他の人の意見を聞き考えていく機会を持ちたいと思いました。

20.今まで道徳についてあまり考えたことはなく、この文章を読んで道徳について詳しく知り、自分自身で深く考えるきっかけとなったので良かったです。

21.このような状況の中、ムードル対応での学習の機会を作っていただきありがとうございます。とてもわかりやすいレジュメで、スムーズに理解できました。ただ、序盤の「道徳は相対的なものなのか」という部分など、ところどころ難しい箇所があったので、先生からの具体的な説明が入っているとさらにわかりやすいのではと感じました

→ わかりにくい部分がありすみません。「相対的」というのは、「絶対的」の反対語で、「絶対にこれ、というものがない」「one of themでしかない」というような意味です。他にもわかりにくい箇所があれば教えてください。

22.道徳科というのはまだ確立されていないように感じます。道徳を学ぶことや、道徳を教えることを学ぶことはとても難しいことだと思いますが、人間にとって決して欠けてはならない分野であるので学習を頑張りたいと思います。よろしくお願いします。

→ そうですね。「人間にとって決して欠けてはならない分野」であるからこそ難しいのかもしれません。

23.オンライン授業は初めてでどのように授業を受けていいのか戸惑っていましたが、このようにテキストを読んで、問題に答えるというようにすると、振り返ったり自分の考えを見直すことができるのでいいと思いました。

24.私は小学生時代の最も好きな教科が道徳でした。周りの友人で同じことを言う人はいなかったですが、その違いはどこから生まれるものなのかを知りたいです。道徳のことについて学べることを楽しみにしています。

25.道徳教育の方法に関するテキストを読み、道徳について考える1つの指針のようなものを得られたと思う。今まで道徳という言葉に対して、ぼんやりとしたイメージしか持つことができずに、考えることが難しいという感じを受けていた。。だが、道徳の様々な定義や道徳教育にどのようなアプローチが存在するのかということを学び少しではあるが道徳というものが少し具体的に考えられるようになり、これからの授業を通して、自分の経験なども通して考え深く学んでいきたいと思いました。

26.道徳は「特別な教科道徳:」となりましたが、教科の中でも1番、指導することが難しいと感じました。

27.道徳教育は人間として生きていくうえで大切な学びだと思うので、教育方法等しっかり勉強していきたい。

28.これから半期よろしくお願いいたします。

29.面白かった。一度議論してみたい。

30.ないです

31.道徳について、今まで深く考えたことがなかったのでいい機会になりました。自身が教員になったときに道徳を教えることは難しいと思いました。教えるのではなく、児童や生徒と共に考えるといった授業がよいのかと思いました。この道徳教育論で今後の指導方法を学んでいきたいと思います。

→ これからの時代、「ジェネレーションギャップ」が生じるスピードがさらに加速すると、世代によってかなり違う状況を生きることになるので、「上の世代が下の世代を教える」のではなく「各世代がお互い協力し合う」機会が増えてくるのではないかと思います。生徒も先生から本気で質問されたら「自分が先生に何か教えてあげることができるなんて」と嬉しいのではないかと思います

32.モラルジレンマ授業とは具体的にどういうものですか?

→ テキスト、レジュメともにモラルジレンマ授業についての十分な説明がなくすみませんでした。授業法のところで詳しく扱いますので、そのときにまた説明しますが、モラルジレンマ授業というのは、答えがないと思われる(ジレンマに陥らせる)問い(たとえば「瀕死の配偶者を助けるための手段が薬屋の薬を盗む以外にないとしたら、あなたは薬を盗むか?」)を立てて、それに生徒が答え、答えを共有することを通してそれぞれの生徒が道徳的な気づきを得ることを促す授業法のことです。

33.道徳が教科化されどのように教えるのか、とても不安です。

→ そうですね。ほとんどの先生は不安だと思います。ただ教科化されても伝統的な授業法が使えなくなるわけではないため、まずは伝統的な方法をできるようになって、それから徐々に新しい方法もレパートリーに入れていけばよいのではないかと思います

34.pdfの文章を読んだだけでは理解が難しかったので、wordでまとめられていることでとても分かりやすかったです!理解できるととても興味深い内容でした。これからも楽しみにしています。

35.道徳は一体何を教えることができるのかとぼんやりしていたのが、今日少しだけ分かった気がしました。算数や英語のように知能を高めるのではなく、いろいろな学問を併せ持つ人間力を養う学問だと思いました。

36.教科の中で道徳というと、ぼんやりとしたイメージでしか想像することができず、教えるのは難しいと思っていました。だが、幅広い学問を併せ持ち、現代の子どもが抱える課題に照らし合わせながら教えることで人間力を養うのだと思いました。

37.道徳についてこんなにも深く考えたことがなかったので楽しかったです。

38.道徳について深く考えさせられた。

39.「道徳とはなにか?」と質問されてもうまく説明できなかったけれど、今回の講義で様々な角度で道徳を見てみて少し道徳という教科がつかめたような気がします。今後の授業で、自分の受けた授業を思い出しながらも、それにとらわれることなくいろんな考え方を吸収したいと思います。よろしくお願いします!