2020応用倫理学4回目CF

・コメント

ありがとうございました。日常では自覚することが少ない宗教的なことに気付くことができ面白かったです。「神に頼らない」であるとか「宗教なんてなんかいやだ」、さらには「神はいない」という考えすらも宗教的であるなと思いました。宗教的であることが間違いでも正解でもないですが、このような宗教的な意識や無意識の自覚を持つことは人間、特に日本人にはもっと必要かもしれません。

→ そうですね。「神に頼らない」「宗教なんかいやだ」「神はいない」というのは立派な「宗教的」な主張であると思います。よく言われる「神は科学的に証明できないから、神はいない」「宗教は科学的に証明できないから、宗教はでたらめだ」という主張も、これ自体は「科学的」ではなく、「宗教的」な主張に分類されるのではないでしょうか。というのも、「神は科学的に証明できない」から「神はいない」のあいだには、科学では埋められない飛躍があるからです(「神は科学的に証明できない。神はいるのかはわからない」ならば、飛躍なく言えますが)


宗教的なものを考える上で、自分が想像している以上に依拠し信じているのだと感じた。またそれが生きる源になっているように感じる。ネット上で調べたことなのだが晴れ男とか雨女なども原始宗教と考えることができるらしい。なるほど、私自身もよく雨男だと口にし、心の底から本当にそれを信じている。そして何処かそれを理由に晴れた日は運がいいと気分が上がっている。宗教的な考えというものは無宗教だと感じているものの中でも気づかない間に根付いているのではないかと考える

→ 現代人は「自分たちは宗教的ではない」と信じている人が増えていると思います。しかし、いわゆる一般的な「宗教」のイメージをとらない言わば「隠れた宗教」は、依然として身の回りに溢れているのではないでしょうか。「自分たちは宗教的ではない(科学的だ)」と信じているぶん、現代人はかえって、そのような「隠れた宗教」には気が付きにくくなっているかもしれません。たとえば、日本人に身近な先輩・後輩関係、簡単に仕事の休みが取りにくいこと、上司よりも早く返りにくいことなども、異なる文化圏の人から見れば、「宗教的」に見えるかもしれません。


宗教に関してはまだ自分の学習が深くないと感じているので、今回の内容は新しい知識が多く、楽しかった。

一つ一つ理解できる範囲で関連させて考えることが難しくとても時間を要してしまいますが、面白いので頑張ります。




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・【応用記述】2019年10月22日、天皇陛下の即位に伴う「即位礼正殿の儀」が行われましたが、その際ツイッターなどのSNSでは「即位礼正殿の儀」が始まると、雨がやんで「皇居をまたがる形で虹がかかってる」などの投稿が話題になりました(詳しくはhttps://www.danshihack.com/2019/10/23/junp/sokuireiseiden.htmlを参照してください)。このようなSNS上での反応は「宗教的」だと思いますか、思いませんか。その理由も併せて簡潔に答えてください。


・宗教的でない、という意見

思いません。snsで投稿している人の多くは天皇陛下の力で晴れたとは思っておらず、偶然晴れたと思っている。しかし、snsという他の人が見る場でありそれがいいねなどで評価される場では、天皇陛下の奇跡という方が良いと考え、このような投稿をしているだけだと僕は考えました。

→ しかしこの場合、「なぜ、天皇陛下の奇跡と言う方が、SNS上で評価されるのか?」と考えると、そこに「そう信じた方が面白いから」というような宗教性(?)があるから、とは言えないでしょうか?


「即位礼正殿の儀」が宗教的と感じるかどうかだと思います。私は感じないので、SNSの反応は特別宗教的とも思いません。「昨日まで雨だったのに、遠足の当日になって晴れた!」という感覚と同じでしょうか。しかしこのことに違和感を感じないのは、広い意味で私が宗教の世界観に自分でも気づかないうちに取り込まれているだけかもしれないのですが。

→ そうですね。たとえば日本人の多くは神社や寺に行くが、そのことを「宗教的」と感じないのは、そのことが日常に溶け込んでいるからと言えるかもしれません。ある意味で、非常に深いレベルで(無意識に浸透するほど)「宗教的」と言えるかもしれませんね。


宗教的ではないと思います。虹がある=ラッキー的な考えをそのツイートした方が持っているからそのようなツイートをしただけではと思います。

→ 「虹がある=ラッキー」という考えにも、多少「宗教的」な要素があると言えるかもしれませんが、どうでしょうか? 


宗教的ではない 単なる情景をつぶやいているように見えるから

宗教的でない。本当に偶然に天気の動向がそのようになっただけだと思う。

そうだとは思わない。雨が止んだのは様々な要因が重なったタイミングが即位礼正殿の儀が始まるタイミングだっただけだが、そのような偶然の出来事を勝手に天皇が即位する日だったからそれを後から理由づけられているだけだから。

即位礼正殿の儀が始まったからこんな現象が起こったと考えての投稿は「宗教的」だが、偶然現れた虹に驚いての投稿は「宗教的ではない」と思う。虹は自然現象的に起こるものだから。



・宗教的だ、という意見

→ 全体的に、「偶然出たはずの虹を天皇の力を結びつけることは宗教的だ」という意見が多かったように思います。日本人は無宗教だと言われることが多いですが、それは「宗教を意識的に信仰している=信心深い(?)=宗教的」「宗教を意識的に信仰していない=信心が薄い(?)=無宗教」という定義に当てはめればたしかにそうかもしれない反面、「信仰しているという意識はないけれど、無意識のレベルで宗教的」な可能性も大いにあるのではないかと私は思います。


日常に見られる虹が偶々即位日に出ただけであるのにあたかも即位を祝うために虹が出てきたと解釈している。そのため、皇室神道を権威付ける一因となっている。そのため、間接的に宗教的と言える。

宗教的だと思う。この虹がかかったというのは天皇に何か神秘的な力があるということを連想させ、人知を超えた存在、すなわち神であると認識させるような文章だから。

宗教的だ なぜならば、このような状況を引き起こした理由として皆が考えるのは天皇陛下のお力だ、とか御神体などが想像できるだろう。すなわち何かに対して依拠した結果生まれた反応である。偶然であればこのような反応は生まれない、生まれたとしてももっと他の反応が見られると考える。ここでの反応は確実に依拠したものである、そのため私は宗教的だと考えた。

宗教的だと思う。なぜなら、天皇が特別な存在であると信じているから虹ができたことにも意味付けていると考えるから。

宗教的であると考える。天皇陛下の力によって、天候が変わり皇居をまたがる形で虹がかかったような言い方がされているからである。

宗教的だと思います。なにかしらの科学的に証明されていないこと、目には見えない非実態を信じるという行為は宗教的な考えに基づいていると考えられます。日本人は、唯一神のような絶対的な存在は信じていないもののどこかで無意識的に超次元的な何かを信じているのではないでしょうか。

このような反応は宗教的である。天皇の即位という儀式的な場面において、何かしら普段の人間の域を超えた力を見出しているのは、宗教的であると言わざるを得ないからである。それが神道による信仰なのか、天皇そのものを信仰しているのかはさておき、天皇という象徴の後ろに何か大きな力があってほしいと望む姿勢(あるいは非科学的な力が働いていると信じる姿勢)は信仰だと考える。だからこそ、この即位の儀式において政教分離の原則が問題に上がったのである。

この虹だけでなく複数の事例が挙げられている反応は宗教的であると考える。虹の事例だけでなく、他の現象も関連して捉えていることから、これは偶然というより神様の仕業のように感じていると考えるから。

宗教的である。雨をやませ虹を無理やりわざと作ったとなるともちろん宗教的であるが今回の場合はそうではなく、たまたまできた虹である。たまたまできた虹は宗教的でないように思える。日常普通に過ごしていてみる虹は宗教的ではない。ではなぜ今回は虹が出たことをわざわざ取り上げたのか。それは「虹」というまれな現象と「即位礼正殿の儀」というまれな行事を結び付け、いかにも神聖なことが行われており、神聖な力が働いているということと結びつけるために皇居という言葉と虹という言葉を組み合わせ文章を作ったのではないかと考えられるから、これらのことは非常に宗教的であるといえる。