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「また、われわれは、高い地位に就いている人たちを、うらやましいと思わないようにしよう。高くそびえ立っているように見えるのは、じつは断崖なのだから。他方で、運悪く危機的な状況に陥ってしまったときには、自慢したくなるような場面でも自尊心を抑え、自分を幸運とみなす基準をできるだけ低くすれば、より安全であろう。 じつは、みずからの高い地位に、しかたなくしがみついている人たちも多いのだ。というのも、彼らは、そこから降りようとすれば、転落するほかないからである。彼らは、こう打ち明けてくれることだろう――自分がいちばん心配しているのは、自分がほかの人たちの厄介なお荷物にならざるをえないという、まさにその点なのだ。というのも、自分は、べつに彼らに支持されてこの地位に就いたわけではなく、たんに、この地位をあてがわれたにすぎないのだからと。〔…〕 とはいえ、われわれをこのような精神の動揺から解放してくれる最も優れた方法は、つねに自分の出世の上限を決めておくことだ。どこでやめるかを運まかせにせず、そのはるか手前で、自分からやめるのだ。もちろん、そのようにしても、精神を駆り立てる欲望は、いくらかは残るだろう。しかし、その欲望は、限度をわきまえている。だから、精神が、不確実な領域に、どこまでも連れて行かれてしまう心配はないのだ。〔…〕 デモクリトスが、次のように議論をはじめたとき、彼はこの問題について考えていたのだと思う。すなわち彼は、「心の安定した生活を欲する人は、私生活でも公生活でも、あまりたくさん仕事をするべきではない」 と述べているのだ。もちろん、彼が言っている仕事とは、不必要な仕事のことだ。じっさい、必要な仕事であれば、私生活でも公生活でも、たくさんどころか、数え切れないくらいの仕事をするべきだ。しかし、神聖なる義務がわれわれに命令しないときには、行動を差し控えるべきなのである。」
古代ローマ時代の哲学者セネカのストア的人生論。最期まで波乱万丈な人生を送ったセネカの実務経験に裏打ちされた言葉は今もなお重く響きます。古代ローマ時代の乱世は、現代のグローバル社会と共通するところがあるため現代人は共感しやすいという説もあります。
なんとも逆説的なタイトルではないかと思うかもしれませんが、本書を読めばその理由に納得できるのではないでしょうか。「いい子」というのは、親や先生の「都合のいい子」である場合が多く、その子の自然な感情を無視して、人工的に作られるところがあると思います。たしかに、誰でも大なり小なり自分を抑圧して社会に合わせて、誰かにとっての「いい顔」をしているところがあるものかもしれません。しかし、その程度が度を超してしまうと、人はそれ以上無理できなくなり、「いい子」でいる代償として異常行動(時に犯罪)に走ってしまうところがあるのではないでしょうか。「いい子」として育てられてしまった人は自分自身の慰安のために、そうでない人も、今後自分の子どもや後輩、学生、生徒に不自然な「いい子」を強要しないために、大切なメッセージを含んだ本だと思います。

無期懲役囚の更生は可能か―本当に人は変わることはないのだろうか


浄土真宗の祖、親鸞の吉本隆明による解釈。私の心に残っているのは、「往相」と「還相」の解釈です。「往相」とはまずは自分自身を助けること。それができて初めて、他の人を助ける可能性が生まるとされます(それが「還相」として語られています)。ある時点ではエゴイズムだと思えたとしても、まずは自分自身の問題を徹底的に問い切り開いた先に、その問題とは「また別の」問題を抱えている他者を(その他者が抱えている問題は自分のものとは別のものであるにもかかわらず)何らかの仕方で助ける可能性が初めて兆してくる、ということが本書の通奏低音ではないかと思います。自分自身の問題と本気で向き合ったことがないと、他人の問題を簡単に解決できると思って、安易で他人の問題に踏み込んでしまう可能性があります。「自分との対話の奥深くにこそ、逆説的に他者への強い繋がりがある」(この自己から他者への跳躍を吉本は「横跳び」と呼んでいます)ということを思います。
清められるための一つの方法 。神に祈ること 。それも人に知られぬようにひそかに祈るというだけでなく、神は存在しないのだと考えて祈ること」Un mode de purification :prier Dieu,non seulement en secret par rapport aux hommes,mais en pensantqueDieu n'existe pas.
シモーヌ・ヴェイユの信仰の力(?)というのは非常に強いものなので、どこまでついていけるのか(あるいは、ついていくべきなのか)、読んでいてわからなくなることもあるのですが、しかしヴェイユの信仰というのは「神は絶対にいるから神に祈る」というものとは対極のところに位置するようです。「神は絶対にいる」という前提はヴェイユからすると素朴すぎる、神とまだ十分に向き合っていない、むしろ不信心でもさえあるのだとヴェイユは言います。ヴェイユは「もしかすると神など全くいないかもしれない」というところまで自分を追い込むのですが、それでも「祈る」ことはやめません。神がいなくても…つまり、祈って報われる可能性が仮にないとしても…それでも私は祈るのだ、この報われることを求めない、一方通行の祈り(言わば「片思い」の祈り)こそが本来の祈りなのだ、というぎりぎりのところでヴェイユは祈っていると思います。 しかしこのような祈りは、ヴェイユのような非常に真剣なキリスト教信仰者でなくとも、多くの人が知らず知らずのうちに行っているところもあるのではないでしょうか。神がいると思って祈っているのではなく、いないかもしれないけれどいて欲しい、聞いてくれないかもしれないけれども聞いて欲しい、と思って祈った経験は、かなりの人にあるのではないでしょうか。そんな「別の素朴さ」をもった祈りを、ヴェイユは最大限に肯定してくれているような気もします。
敬蓮社は、日ごろ、浄土に往生したいと思う心がある者でも、なまじ学問などすると、たいていは仏道を求める心を失ってしまうものです。と語られた。(敬蓮社云、日来後世の心あるものも、学問などしつれば、大旨は無道心になる事にてあるなり)(『一言芳談』56)
名もなき僧たちの、時に痛快、時に極端とも思える随筆集。私が特に好きなのは、「学問をしすぎることは、そうでないよりも悪いことになる」という洞察です。同じようなことは、放浪の哲学者エリック・ホッファーも言っているような気がします。
エリック・ホッファーは異色の哲学者で、正規の教育を受けていません。そして放浪者のような生活をしつつ思索しています。そのようなバックグラウンドもあってか、ホッファーはいわゆる「知識人」や「エリート」は過大評価されているとし、そうでない「庶民」の知をもっと評価すべきと考えています。ホッファーの中では生活と思索が分離せず一体となっていますが、「研究者」だけが思索しうるというわけではなく、むしろ生活人こそ最も奥深いところまで思索し尽くせるのだ、という生活人への信頼を本書には感じます。「物事を深く考える」ためには、必ずしも研究機関は必要ではないのでしょう。研究者になる気はないけれど物事を深く考えることが好きだ、という人にもおすすめです。
「前世」というと、信仰やオカルトをイメージする人も多いかと思いますが、この本は「前世がある」ことを最初から前提せず、できるだけ客観的な記録に基づいて、言わば「科学的」態度を堅持しながら、様々な不思議な「前世的な現象」の記録に努めています。これらの記録は「前世がある」ことを前提すれば一定の筋が通る説明が可能なのですが、それはある種の「論理の飛躍」なので、そう判断するかどうかは読者に委ねる、という筆者の抑制的な態度が本書の研究全体に貫かれています。
「何かを目標に、ある一定の時期だけ頑張っていると、目標がすべてになってしまう。そして、目標を達成できなかったときに立ち直れなくなってしまう」(213頁)
日本初のプロ・ゲーマーの梅原大吾さんの自伝的な本。『勝ち続ける意志力』というタイトルですが、何が何でも価値に執着し競争に身を投じる術を伝える…というような好戦的な内容ではありません。というよりは、前例がないゲーマーという道を選んでしまった、ゲームにしか熱中できず、それ以外のことを(選びたくても)選ぶことができなかった梅原さんの人生論が詰まっています。ゲーマーの本ではなく人生の本です。どんな人にも、特に人生で自分の進むべき道に悩んでいる人には響くところがある本だと思います。(梅原さんはおそらくアカデミックな「哲学」にあまり興味はないかもしれませんが、個人的に私は梅原さんの書いていることと、私の研究しているハイデガーの哲学(特に「本来性」概念や運命論)に共通点があると思っていて、私はつい重ねて読んでしまっています)

働かないアリに意義がある


山の霊力、残酷な進化論、植物はそこまで知っている