30 近城山 長徳寺  彦部字暮坪


曹洞宗、近城山と号し、文亀2年(1502)8月中、加州(石川県)金沢宗徳寺四世恵全和尚、廻国のおり、当大巻赤川館葛原伯耆氏(くずはらほうきし)に投宿す。同氏の3代前の義敬が、かつて正法無底禅師のために黒石山に仏殿を創建し、近城軒と名づけた。無底禅師は5年で江刺の郷黒石へ移り、以来無住となって堂宇は荒廃した。よって当伯耆が再興せんと発願中であったので、恵全和尚の来泊を大いに喜び、同師のため旧跡に堂宇を再建し、なお旧号近城軒と称した。

その後天正17年(1589)3月、中野康実黒石山より領内四ツ家の地に移転した。文禄3年(1594)46日、康実逝去しその法名を長徳寺殿休安公大禅定門という。この法号に因み長徳寺と号し、慶長18年(1613)8月、中野正康が現境内に移転した。因みに本由緒の赤川館葛原伯耆守義敬(くずはらほうきのかみよしたか)は、斯波氏の二男ということである。筆者(佐川盛造)の推測では、同寺はかつて黒石山の盛んな頃の宿坊で黒石山麓にあったものかと思料される。すなわちその宿坊は黒石山の一方の登山口に建てられていたが、荒廃したので中野康実が仏殿を再興したのであろう。同人逝去し長徳寺の後の山に墓を営んだ。現在もその墓石はある。中野康実とは、天正年中に「九戸政実の乱」を起こした、九戸政実の末弟で、中野家は盛岡藩の家老等代々重臣を務めた家柄である。彦部に領地があるので、旧臣の士を彦部の定内に居住した。

なお、大巻の達磨堂に安置してあった、達磨太子2体のうち1体を長徳寺に移したとの伝えがあるが、その達磨太子は、明治23年(1890)、長徳寺本堂の火災で焼失したと伝えられている。明治時代まで同寺の檀中に太子講という講中があって、日を定めて崇拝した。

同寺境内に明治35年(1902)1月、青森歩兵第五連隊の雪中行軍の凍死者花籠三蔵君の碑が建てられてある。

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