翹岐=孝徳天皇

 2018年 9月 19日


孝徳天皇の行動を追跡して彼が翹岐であることを証明する。翹岐王が百済から渡ってきた真の目的に迫る。皇極の譲位、皇極の重祚、斉明の客死、天智称制と皇統のイレギュラーが続く理由を考察し、真相を解明する。翹岐の王子が倭国王を継いだことが結論される。その王子こそ大海人皇子であることが扶余勇の稿とあわせると帰結される。河内と大和の関係について述べる。


(1)翹岐

百済の武王は在位33年の632年に子供の義慈王を太子にし、641年になくなった。義慈王は王位をつぎ、唐の太宗から「柱国帯方郡王百済王」に冊封された。義慈王には異母弟の扶餘翹岐がいた。書紀は皇極元年(642年)1月、百済の使者の言として「国王の母が亡くなり、弟王子にあたる子の翹岐や同母妹の女子4人と内佐平岐味(キミ)と高名の人々40人あまりが島に放たれた」(国王=義慈王、弟王子=王の弟)と言わせている。同年2月、皇極天皇は翹岐を呼んで阿曇山背連の家に住まわせた。4月、翹岐は皇極天皇に拝謁した。蘇我大臣は畝傍の家に翹岐らを招き親しく対談し、良馬一匹と鉄20鋋を贈った(鉄鋋は五王時代に威信財として使われた)。5月、河内国依網屯倉の前に翹岐を呼んで騎射を見物させた。5月、翹岐は妻子を連れて百済の大井の家に移った。7月、百済の使者大佐平智積らが朝廷で饗応され、翹岐の前で力の強いものに命じて相撲をとらせた(翹岐は百済王の弟であるから大佐平智積より格が上で、大佐平が饗応される場面では、主賓である)。智積らは宴会が終わって退出し、翹岐の家に行き、門前で拝礼した。

滞在型の客人を人質と書く書紀が、翹岐に関しては下にも置かぬもてなし振りである。翹岐と佐平を含む高名の人40名余は相当な勢力である。このあと、翹岐は書紀では名前が出ないが、この一大勢力が何もしなかったなど、到底考えられない。書紀が翹岐を人質と書かなかったのは、翹岐が百済に帰る予定のない人物だったからである。

 

(2)軽皇子(=孝徳天皇)

書紀は皇極の治世(4年間)に起きた事件を通じて黙示的に翹岐が孝徳天皇になったことを書いている。書紀をなぞってみる。

蘇我入鹿は古人大兄を次の天皇にしようと思って対立候補の山背大兄王を廃そうと企てた。皇極2年11月、山背大兄王は蘇我入鹿に攻められた。山背大兄王は『軍をおこせば入鹿を討つことはできるが、自分一身のために人民を死傷させることを欲しない』として自決した。おかしな理屈であるが、山背大兄王をもちあげた。翹岐が消えた後の皇極3年1月、軽皇子が急に登場する。軽皇子は名前こそ出るが姿をあらわさない。軽皇子が翹岐であることは読者の想像に任せてある。書紀は書いている「鎌子は神祇伯に任じられたが再三辞退して受けなかった。病と称して摂津三島に住んだ。このころ、軽皇子も脚の病で参朝されなかった。鎌子は以前から軽皇子と親しかった」。以前からといっても軽皇子は初登場であるから取って付けたような説明である。「鎌子は軽皇子の宮に参上して侍宿をしようとした。軽皇子は鎌子の資性が高潔で、容姿に犯しがたい気品のあることを知って、もと寵妃の阿部氏の女に命じて別殿をはらい清めさせ、寝具を新たにして懇切に給仕させ鄭重におもてなしになった」。軽皇子は鎌子を接待したのであった。「鎌子は『このような恩沢を賜ることは思いもかけないことであった。皇子が天下の王となることを誰も阻むものはない』と舎人にいった。舎人がこのことを皇子に申し上げると皇子は大いに喜ばれた」は鎌子への接待がうまくいき、軽皇子が天皇になる計画が進み始めたといっているのである。突然の登場で早くも天皇候補である。「鎌子は人となりが忠正で、世を正し、救おうという心があった。それで、入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、国家を掠めようとする企てを抱いていることに憤り、つぎつぎと王家の人々に接触して企てを成し遂げる明主を求めた」と続ける。入鹿が秩序を重んじないのを正したいので鎌子が力のある王家の人と接触を図ったというのだが、軽皇子も王家であるなら、なぜ軽皇子自身で謀を実施しなかったのだろう。天皇になる人物が謀を企てるのは品性に欠けるからなのだろうか。軽皇子が翹岐ならば、軽皇子は外国人であるから明日香の王家の人々のように直接入鹿に近づくチャンスがないとも解釈できる。いずれにしても、軽皇子は鎌子を接待して取り込み入鹿の謀殺を委ねたことが暗示されていることにかわりはない。すぐあとに、今度は、鎌子を中大兄に近づけている。「そして鎌子は中大兄に心を寄せたが、離れていて近づきがたく、自分の心底を打ち明けることができなかった。たまたま、中大兄が法興寺の槻の木の下で、蹴鞠の催しをされた時の仲間に加わって、中大兄の皮鞋が蹴られた鞠と一緒に脱げ落ちたのを拾って両手に捧げ進み、跪いて恭しく奉った。中大兄もこれに対して跪き恭しく受け取られた」は出会いを現代でも通用する小説風に語っている。「これから、親しみ合われ、一緒に心中を明かしあって隠すところがなかった。後、他の人が二人の付き合いの盛んであることを疑うことを恐れて、共に書物を持って南淵請安の所に自ら儒教を学ぶことした。往復の路上で肩を並べてひそかに図った。二人の考えはことごとく一致した」のくだりは、学生の気質を表現する現代小説家にも負けない。このようにして、軽皇子(翹岐)の意図は密かに鎌子によって中大兄に伝達されたと皇極紀小説家は婉曲に述べている。中大兄は鎌子に利用される存在だった。皇極4年6月、蘇我入鹿が中大兄の指示に従った佐伯連・稚犬養連により暗殺され、親である蘇我蝦夷大臣も自殺した。

書紀はこれらの事件の真相を謡歌とその解釈によって黙示している。①「ハロバロニ コトゾキコユル シマノヤブハラ」によって「宮殿を嶋大臣(馬子)の家の近くに建てて中大兄が中臣鎌子連とひそかに大義を図り入鹿を殺そうと考えられた兆しである」と中大兄と鎌子の共謀を述べている。②「ヲチカタノ アサヌノキギシ トヨモサス ワレハネシカド ヒトゾトヨモス」によって「上宮の王たちが人となりが穏やかで、罪なくして入鹿のために殺された。自ら報復しなくても天が人をして誅される兆しだった」と山背王の死と入鹿の暗殺を結び付け、入鹿の暗殺は天が誅したのだと正当化している。③「ヲバヤシニ ワレヲヒキイレテ セシヒトノ オモテモシラズ イヘモシラズモ」によって「入鹿が殺される前兆だった」と、暗に入鹿自身が誰(翹岐)の謀略で死んだか気がついていないと暗示している。また、書紀は古人大兄に「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。われも心痛む」と述べさせ、背後に韓人(翹岐)がいることを暗示している。

皇極は軽皇子に位を譲り、中大兄を皇太子とすることで幕を閉じる。皇極紀は事実を暗示したミステリー小説である。

続く孝徳紀では、中大兄が最初、天皇候補に上がるが中大兄は鎌子に相談した。鎌子は「古人大兄は兄であるが、軽皇子は叔父で、長幼の序により、ここは軽皇子を立ててはどうか」といい、中大兄はその考えをほめ、天皇に奏上した。皇極は神器を軽皇子に渡した。軽皇子は古人大兄に譲ろうとしたが、古人大兄もまた長幼の序を説き、出家して吉野に入るといい、出家の準備をした。書紀はこうして軽皇子が孝徳天皇になったというが、儒教の道徳観で正当性を述べたにすぎない。王位を辞退した古人大兄は吉野に篭ったが、古人大兄は入鹿に擁されていたこともあり、中大兄は菟田朴室古と高麗宮知に古人大兄を討たせた。

翹岐は百済王の弟であり、40名の貴人は一大勢力を構成するに十分な陣容ではある。政権を奪う最も簡単な方法は、その国でもっとも勢力を張っている首魁を倒せばよい。自らの勢力は指一本触れず、陰に回って、倭国人にさせたと言っているようにも取れる。入鹿も睨みが利いている限り明日香の者が自分を倒せるわけもなく、明日香の者も入鹿を暗殺しても、難波(大王系の都)を抑えるほど力量はなかったようにも窺える。入鹿は百済勢力の謀には気がつかず、虚を突かれたとも読み取れるのであるが、これらは状況証拠でしかない。


(3)翹岐=孝徳天皇説

孝徳が外国人であることを示せば、該当する外国人は翹岐しかないので、翹岐=孝徳天皇が帰結される。

①律令制

大化の改新の詔については後世に潤色されたという説がある。大宝以前は木簡で「評」が使われており「郡」は使われていなかったので、当時の「コオリ」を「郡」と書く書紀の改新の詔は信憑性がないとするのが潤色説の根拠である。が、書紀が書かれたときは郡が主流であったので「郡」を使っただけであり、書紀が隋を大唐と呼んでいるのとおなじことである。したがって、「評」と書かなかったから潤色されたとするのは早とちりである。「評」は半島で地方行政単位を指す言葉であり、大宝以前の木簡にある「評」が大化・白雉年間に導入されたとする推測は孝徳の律令制が半島から持ち込まれた説を補強する。

律令制の原点は中国にあるので、日本の律令制は唐から由来したとされてきた。孝徳政権の直近の640年に帰国した高向玄理に焦点が当てられるが、彼はアマタリシヒコ(=上宮法皇=聖徳太子)の遣隋使(608年)の学生僧であり、彼が留学中に倭国政権は不連続的な交代をしており(河内の上宮法皇一家死亡→大和の推古)、後の別の政権が彼らから律令制を学んだとする見方は無理がある。また、631年の高表仁事件で、654年に新羅に付いて朝貢するまで一度も遣唐使はないのであるから、唐とは絶縁状態にあり、その唐の律令制を640年に帰国した学生僧だけから学んだというのは不自然である。そもそもアマタリシヒコは仏教を志向しており、律令制を志向した史実がない。

国の制度変更を、外国に習い成功させるには、明治維新のようにお抱え外国人のような経験者が必要である。政治手法の変更も大陸の者が来て助ける、あるいは直接政治を行わなければ、成功を確信することはできない。倭国人のみでは律令制の成功は保証されず、そのような無謀な賭けに出る政府はありえない。つまり、倭国の律令制は外国人が深く関与していることは確実で、翹岐と高名な40人余の人々は、律令制導入のためにはうってつけの陣容である。過去の史学が律令制開始直前にやってきた翹岐と高名の40人余を完璧にスルーしていることは不自然である。

②前期難波宮は外国のコピー

前期難波宮遺跡は律令制を体現している。孝徳は白雉3年(652)に上町台地に難波長柄豊碕宮を完成させた。「譬えようのないほどのものであった」(書紀)。明日香人にとっては目を瞠る建物であった事実は、それまでの明日香の宮とは大きく違ったのである。

・難波宮は大変規模がおおきく東西は200mある。

・難波宮は内裏があるが明日香では王、后、王子はそれぞれに宮があった。

・明日香では豪族が私邸にて政務の一部を行ったが、難波宮ではすべての政務が宮殿で集中して行われた。

・明日香は朝庭の左右に計2庁であるが、難波宮の朝堂院は左右に計14堂ある。

・東西約36メール・南北約19メートルの正殿(前殿)をもっている 。後の天武のものとみられる飛鳥宮正殿は東西23.5m、南北12.4m であるから、孝徳以前の明日香のものはもっと小さいであろう。

・百済の王宮里遺跡(翹岐の父(武王)の時代) は、標高40m前後の丘陵端に平坦な台地を造成し、幅3m、南北490m、東西240mの長方形の塀を造成している。正殿の大きさは東西35m、南北18.3m である。前期難波宮と王宮里遺跡は立地やサイズの上で極めて近い。

③孝徳は急遽倭国王に就いた

皇極は後任に中大兄を予定したが、急遽孝徳が倭国王に就いた。就任6ケ月で難波に宮を定め、翌月から律令制とみられる改新を次々打ち出した。就任半年で可能であろうか。これらを事前に計画している政治勢力を前提にしなければありえないことである。


内裏を持つ統一された律令制の宮への移行、新しい難波宮に驚く明日香人、そして、前期難波宮が百済武王の遺跡に似通っているのは、武王宮殿を知っているものが造ったのである。行政単位が半島と同じ「評」となれば、日本の律令制の源流は半島で、現に直前に王族を擁した集団が百済からやって来たことが書かれているなら、この王族が始めたと断定しない方がおかしい。

発掘が進む前期難波宮

それ以前の明日香には見られない遺構。

(4)孝徳の政治

倭国の当時の状況を認識しておかねばならない。

書紀は「百済や新羅が倭国に調を奉った」「百済や新羅に詔した」、滞在型の客人を「質」と表現し、倭国が優位であると表現している。ところが、隋書「新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往來 をもって倭国が大国である証とされるが、この文の直前に「有如意寶珠,其色青,大如雞卵,夜則有光,云魚眼精也」がある。「以A為B」は「AをBとなす」と解釈され、「新羅、百濟は俀を大國とし・・・」となり、多珍物のある倭国を敬仰し、常々往来していた意味にすぎない。

502年から600年まで中国史書に倭国の遣使が記載されていないことは考えられなければならない。さらに、人物画像鏡から昆支系が武寧王の後押しで河内の大王となり、倭国は百済の属国と化したと考えられる(継体天皇のページ)。継体紀任那4県の百済への無条件割譲や、百済の伴跛国への軍事行動を倭国が代行したことなどが属国であった傍証である。このような倭国がアマタリシヒコ(=上宮法皇)の時代になって100年の空白を破って遣隋使を派遣したのは、百済にとって倭国独立の動きと映るであろう。そうして理由は判然としないが上宮法皇一家が連続死して昆支系が絶えた(622年)。貞觀5年631年)高表仁が倭の王子と礼を争う事件が起きている。蘇我が王権を揺るがすような挙に出ているので、この王子は蘇我の可能性がある。百済国にとってみれば、属国の王統が絶え、貴族が王権を握ろうとする政治の乱れと捉えられる。そこで百済は翹岐王(=孝徳)を派遣し、倭国をまとめさせた。これが大化の改新(645年)とみられる。孝徳は乱れた倭国を律令制によって立て直したのである。

孝徳政権は新羅との関係を深める。孝徳3年(647)、新羅の金春秋が倭国にくる。金春秋は、新羅の武烈王(654-661年)になる人物である。新羅の律令政治を学ぶために金春秋を招聘したと思われる。春秋はすぐ帰国し、大化5年(649)、新羅王族の沙喙部沙飡金多遂と37人の従者(僧1名・侍郎2名・丞1名・達官郎1名・中客5名・才伎10名・譯語1名・雜傔人16名)が孝徳政権に送り込まれている。

大化の改新が実際に実施されたことは、評が孝徳の時代に立てられたことからわかる(風土記)。常陸国では653年に行方、649年に香島、653年に多珂、信太、播磨国では穴禾、伊勢国では646年に多気、が立評されており、東国にまで制度が及んでいることが確認される。立評は開墾だけではなく、灌漑用水として溜池を導入している(水を温める意味があった)ことも明らかになっている。書紀645年8月に東国の国司を呼び寄せ、戸籍調査、田畑の大きさを調査する等を命じた記述は東国の立評の事実と符合する。また、駅馬・伝馬の設置を述べているが、文字資料として「駅評」・「馬評」が記載される7世紀後半の木簡が出土している。斉明紀3年に、筑紫に漂着したトカラ国の人を駅馬を通じて都に呼び寄せている。斉明の時代には交通網がすでに整備されていたのである。これは孝徳の時に駅馬が設置されたことと符合する。西国から東国にいたるまで律令制により全国統一がなされていたことがわかる。

孝徳が豊碕宮に遷ったあくる白雉4年(653年)、「太子(中大兄)は奏上して『倭の京に遷りたいと思います』といわれた。天皇は許されなかった。皇太子は皇極上皇・間人皇后・大海人皇子らを率いて、倭の飛鳥河辺行宮におはいりなった。公卿大夫・百官の人々など、みな付き従って遷った。これによって、天皇は恨んで位を去ろうと思われ、宮を山崎に造らせられた」。一見、孝徳は一人置き去りにされた印象だが、40人の百済貴人がいたうえ、新羅王族金多遂がいた。太子以下の離反によって明日香勢と百済勢の間に溝ができたはずである。孝徳が退位後の宮を山崎に用意したのも彼が明日香の人でない証拠である。でも、退位したのではなかった。旧唐書「貞觀五年(631年),遣使獻方物。太宗矜其道遠,敕所司無令歲貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,與王子爭禮,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居」から、631年の高表仁事件以来絶えて遣唐使は無く(唐との関係がぎくしゃくした)、白雉5年(654年)に再開した遣唐使は22年ぶりであった。このときは新羅に付いて行った。孝徳は唐との関係を修復し、倭国を再び世界に歩みださせたのであった。


(5)孝徳後の倭国王

書紀は孝徳紀の前後で、譲位、重祚、倭国王の客死、称制とイレギュラーを連発する。これらは皇統の接続を工夫した痕跡である。以下のような不合理が起きている。①皇極は中大兄を孝徳の皇太子にしておきながら、皇極自身が斉明として重祚した。➁皇極紀では皇極が積極的に動く印象はないが、斉明紀では、九州に出向いて客死するなど、行動派の人物として描かれ、同一人物らしくない。また、③国王が客死するなどは軽々しいことで、考えにくい。

実際は次であろうと思われる。

①書紀は翹岐が皇極元年5月22日に子供を亡くした時に「24日、翹岐は妻子を連れて百済の大井の家に移った」と書いている。翹岐には亡くなった子以外に子供Xがいた。翹岐(=孝徳)はXを皇太子に立てている筈である。

②Xは倭国王に就いた筈である。皇極は孝徳へ譲位してからは明日香王に戻ったと考えられる。皇極が重祚するには、難波にいる百済の貴人40名や新羅王族の同意が必要だが、皇極には孝徳を捨て明日香に戻った過去があり簡単に同意は得られまい。したがって、斉明なる人物は明日香王皇極のことで、Xを補佐する将軍として働いたとすれば筑紫で客死したことも不合理でなくなる。

③書記では天智称制があるので倭国王は存在しないが、旧唐書の劉仁軌の条「麟德二年,封泰山,仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會」によって倭国酋長(王)の存在が確認される。この倭国酋長(王)がXである。百済はXの祖国である。Xが倭国王の時に百済の崩壊が起き、扶余豊を百済王として送り返し、祖国を救うために白村江に大量の兵を船で送り敗れた。書紀は屈辱の歴史を拒否し、Xが倭国王であることを隠した。隠すために、皇極に重祚させ続投したように偽った。

④白村江の敗戦で扶余勇が倭国に渡ってきた。勇もXも唐からすれば処罰の対象ではあるが、より深い罪は勇にあった。Xと勇は従兄弟(武王が祖父)で、勇は義慈王の直系であるからXより格上である。倭国王であったXは勇を庇って処罰され、封禅の儀に出席する約束を交わしたのである。扶余勇のページと合わせると倭国王Xは大海人皇子である。Xは扶余勇のあと再び倭国王となり天武となった(天武は孝徳の皇子である)。書紀を書くように命じた本人が一度倭国王を降ろされた事実を残したくなかったと察せられる。


(6)大和と河内の関係

大和の古墳は考古学的に古いので、大和は大変古い国ではあった。河内の倭の五王が全国統一した時点でも、大和の古墳は河内より少し小ぶりながら存在した。かつ、威信財の鉄鋋が多く副葬されているので、河内と同格を維持した可能性がある。日十大王が五王を襲ったあとも、大和は継体、欽明・・と勢力を維持しただろう。しかし、倭国を代表するのは河内であった。日十大王に敗れた継体は河内を離れ、やがて大和に入ったが、結局は殺害された。継体を殺害した金官伽耶王弟は河内に取り入るためにこの事件を起こしたとみられ、欽明となって大和を支配する。大和はここでも河内の影響下にあった。河内のアマタリシヒコ大王は(百済によって?)取り除かれた。その後、倭国にはしっかりした政権がなく、翹岐集団がやってきて、アマタリシヒコ大王家臣の蘇我を滅ぼし、翹岐は難波に遷都し孝徳として即位した。明日香の人々が孝徳の難波に移った行動は、翹岐に従ったのであるが、この表現は、大和は河内の支配下にあることを表している。

明日香での翹岐王の歓迎の模様などから、翹岐の河内王就任は当初から予定されている。明日香の人々が難波に移ったのは、百済の大きな権威ゆえである。河内に百済王族が着任する事実は「河内は百済の属国」も的外れではない。河内王の人事権を百済王が持っていたとできる。皇極紀「翹岐は妻子を連れて百済の大井の家に移った」、敏達紀「百済の大井に宮を作った」、舒明紀「百済川のほとりを宮の地とした。西国の民は百済宮を造り・・・」。書紀は倭国内の地を百済と呼んでいる。河内は百済から多くの人々がやってきており、河内を中心とした地域を書紀は「百済」と呼んでいるのである。やはり、河内は百済の一部だったのであろう。河内は百済を背景に倭国において支配的な国であり、大和は河内の支配下にあったとできる。大和は古い畿内の国で、河内と隣接しており、他の国に比べれば、優位な立場ではあっただろうが、全国支配する隙間は倭の五王以降は天武が就任するまで一度もない。


(7)翹岐=豊璋説について

扶余勇を善光に同定する説が参考になる。善光は半島に戻っておらず(続日本紀)、「扶余勇善光」はありえない。なぜ「扶余勇=善光」説が流されるか理解できないが、これによって扶余勇=天智の結論が出にくくなる意味がある。「翹岐=豊璋」についても、別人をわざわざ同一人物と見做すことによって、論を進ませない狙いがあるのかもしれない。すくなくとも、翹岐=孝徳にたどり着きにくくする効果はある。