厳しい寒さではあったが抜けるような青空に誘われて、近所に散歩に出た。古書店に立ち寄り、『暮しの手帖』をパラパラとめくっていくと、「ルールから学校を見つめると~杉多さんとルール研究会の考えたこと~」というタイトルが目に飛び込んできた。
2005年3月末に任期を2ヶ月残して私は失意のうちに教員の職を去った。その時は、悔しいという思いと、これで逃れられるという安心感が複雑に交じり合っていた。
「4年1組を駄目にした先生ということで親からの信頼を得られないから、しばらく休んでもらったらどうだろうか」と校長は穏やかな口調と表情で言った。そして教育長もそう言っていると付け加えた。私は「校長先生にお任せします」というしかなかった。
2004年に赴任して受け持った学級が、学級として機能しない状況(教育委員会ではこういうらしい)、つまり学級崩壊を起こしてしまった。教職について22年目、初めてのことだった。
自分を責めた。力が無かったんだ。子どもたちに申し訳無い。
身も心もギリギリの状態で、最後の3月は、まっすぐに歩けなくなり、精神科にお世話になった。精神安定剤を服用し、フラフラしながら仕事を続けた。
辞めてからも、1年は悪夢にうなされた。外出が怖く、仕方なく買い物に出ても、下ばかり向いて歩いた。キョロキョロと周りを窺い我ここに在らずという自分から開放されるには、1年以上かかったように思う。
そんな中でも、どうすれば良かったのか? と自問自答する毎日だった。その後「続いている荒れ」を耳にするたびに申し訳ない気持ちが自分を襲った。
何か解決策は無かったのかと図書館で学級崩壊に関する本を読みあさった。たくさんの書籍が出されていて、全国で悲鳴をあげている先生方の叫びが聞こえてくるようだった。もっと早くその現実を知っているべきだったと後悔した。自分だけじゃないんだと思えれば、少しは楽になっていたかもしれない。そこには、先生のやり方で解決できるという考え方もあれば、先生の力ではどうしようも無いという人もいた。先生の悩みを聞く会を開いている大学教授もいて、様々な対応策があることもわかった。
学級崩壊という言葉が頻繁に使われるようになっていても、それまでは忙しさに紛れて、その実態を真剣に考えようとしていなかった私。おごっていたわけではないが、どこかで他人事だった。
私の体験を知ってもらうことは半ば義務ではないかと思ったが、耳を貸してくれる人はあまりいなかった。
そうこうして1年ほど経ったある冬の日、たまたま通りかかった古書店の店頭に「暮しの手帖」が置かれていた。何の気なしにページをめくっていて、杉多さんの記事に遭遇した。
読み進めていくうちに興奮して心臓がドキドキしたのを覚えている。「そうだ。こういう考え方もあるんだ。私が何かおかしいと感じていたことは間違いではないんだ。」胸の中にたまっていた霧のようなもやもやがパアーツと晴れていくのを感じ、頭が覚醒されていくような感覚があった。すぐにその本を買い求めた。そして、すぐに杉多さんに「共感しました」とメールを送った。なんと、すぐに「大変でしたね。」とお返事をいただき、感激。自分が微力ながらでもルール研を応援できればと思いすぐに入会させてもらうことにした。
(1)1学期は順調に
始まり
教職について22年目、新しい学校に赴任した。本来持ちあがりのはずの担任が病気退職したために、そのあとを引き継いだ。
4年生ということでわからないことは子どもたちに教えてもらおうと思っていた。3年から同じクラスの子どもたちである。担任だけが替わるわけだから、前担任のやり方を踏襲しながらだんだんと慣れてもらわねば、子どもたちの反感を買う。男子19人女子21人の40人という最大数のクラスは久々であった。「話をしっかり聞ける子になろう」という目標を掲げ、はりきっていた。
6月の運動会では、練習はいつも負けていたクラス対抗競技でⅠ位になり、全体でも優勝して、みなで喜んだ。
運動会も終わり数日経ったころ、校長に呼ばれた。「あまり頑張りすぎないでください」ということだった。前の担任が熱心で頑張りすぎて、親とうまくいかなかったというのだ。「ここの親は子どもが大きくなったような親だ。子守りにきているくらいの気持ちでいいから。」という。
それにしても、「頑張るな」とはどういう意味なんだろう。私のことを気遣って言ってくれているのだろうかとも思った。しかし、私のクラスのある子が、「先生は怒ってばかりいる」と言ったらしい。私には覚えが無かった。
アキラ
クラスの子たちは、元気で活発な子が多かった。休み時間といえば、男女とも外に飛び出して行きドッジボールを楽しんだ。私は常々、「遊びが子どもを育てる」と思っていたから、1日に1回は子どもたちと一緒に遊んだ。それまでにもそうやって子どもたちを理解してきた、という自負もあった。男子は学校外のスポーツクラブに属している子も多く、運動が得意だった。サッカーは、男子がやっているといった感じであったが、その中には女子も混ざっていた。
学習面では、学力の差が大きく、女子の方が優位であった。割り算の学習では、九九や足し算引き算がおぼつかない子もいて、居残り学習をさせて取り組ませた。かなり効果が上がったが、それでもなお、朝の学習に計算問題が出ると、白紙で出す子が数名いた。そういう子どもには、隣について指導をした。
アキラは、授業中ずっと話しっぱなしだった。
絶えず近くの子に話し掛けて、アニメのテーマソングを口ずさんだり、鉛筆で一人遊びのようなことをしている。
びっくりしたのは、前の担任の名前を連呼することである。なんとも、馬鹿にしたように連呼するのを聞いて「この子はどういう子なんだろう」と思った。その声の出し方が次第に遠慮なくなっていくので、私の注意もだんだんときつくなって行った。
アキラは係り活動や当番もさぼっていた。動物係なのに、ウサギのオリを閉めないで遊びに行ってしまった。そばにいた動物係の子どもが走って行って閉めたが、聞くと「いつもそうだよ」と言う。
教室に戻ってから、「ウサギのオリはちゃんと閉めてね。ウサギが出て行ったら困るでしょう」と注意したところ、「俺じゃねえー!ちゃんと閉めた!」と開き直った。だから、「先生見ていたよ」と言うと「俺は閉めた!」と物凄い形相で私を威嚇して、教室を出て行った。いろいろとずるさが見えていたので許してはならないと思って、私は強く出た。前の担任からの引継ぎでは、アキラはチャランポランだから誰もついて行かないから、ということであった。しかしこのあたりから、私に対する反抗心が増幅されていったのであろう。
ユウト
心配ということでは、のび太型のADHDと診断されたユウトがいた。ADHDの中でも多動の逆で、ボーッとしているタイプの子で、机の上には1時間目の教科書から4時間目の教科書まで山積みにされていることもしばしばあった。「ユウト君、算数の教科書とノートを出してください」と言わないとできないのである。LDの傾向もあったが、素直で礼儀正しく、気持ちのいい子であった。そんなユウトを馬鹿にして怒らせる男子が数人いた。
いじめに関しては、私の娘が中1で転校した時に経験したことがある。そのときの経験もあって、絶対に許さないつもりでいた。
ユウト以外にも、特定の子が特定の子を何かにつけて馬鹿にしたりしているのが見えていて、何とかしなければという思いであった。
1学期は、様子見という段階であった。男女の仲は良いようにみえているが、すぐに暴力を振るう男子が数人いて、よくトラブルが起きていた。その都度、両方の話を聞き対処していた。被害を受ける女子の立ち直りが早くて、慣れているのかとちょっと不思議に思った。
1学期末の参観日の保護者会では、熱心なお母さんたちと話しこんだ。
隣の小学校が今、学級崩壊だという。担任とは面識がなかったが、隣のクラスの先生とは以前に同じ学校に勤務していたことがあり、実はその先生から話を聞いていた。
担任に不信感をもった親がいて、その子どもが中心になって荒れていき、かなりひどい状態だという。担任の先生はその実態を話したがらず、校長を交えて学年で話し合いをもったが、うまくいっていないということだった。私が話を聞いた隣のクラスの先生は、自分は援助したいのにあまり何もできないと、苦しそうだった。
私は、「このクラスがもしそうなったら、お母さん方の力を借りますから宜しくお願いします」と半ば冗談で言った。まさか、2学期になってそうなるとは予想もしていなかった。
(2)2学期前半、徐々に崩壊が始まる
コウタの変化
夏休みが終わり、2学期が始まった。
1学期には特に問題を感じていなかったコウタがおかしい。上靴のかかとを踏んではく。授業中ハンカチをもてあそんでいる。注意しても、幼児語を使ってはぐらかす。前担任からの引継ぎでは、家庭環境に問題があるから要注意と聞いたが、1学期は、運動会のリレーの練習などでみんなを引っ張ってリーダーシップを発揮し、私には素直な良い子に見えていたので、その変容振りが異様に感じ、母親に会い行った。
コウタの母親とは初対面であった。コウタの父親はめったに家には帰らないということで、中学生の兄がいる。母親は午後から深夜まで働いていて、コウタが学校に出る時は寝ているということであった。
何回電話をしても連絡がつかないので、直接職場に行った。「2学期になって、急に反抗的になりましたが、夏休みに何かありましたか?」と聞くと、「先生がおっかないと言ってます。」と言う。私は、「おっかないのなら表立って反抗したりしないんじゃないでしょうか。」と、考えを言った。母親は、「話をしてみます。」と言ってくれたが、家では特に変化はないのであれば、何が彼をそうさせるのかわからなかった。
ある女の子は、「コウタはやさしくてとってもいい子なんだよ」という。ただ、中学生の兄は、大きな問題を起こしていて先生方からマークされていると聞いた。コウタの友だちから「コウタの兄ちゃんにいじめられた」とも聞いたし、親たちからも歓迎されてはいなかった。実際、お金がなくなり、母親が分割して返すと約束したという話もあった。小4のコウタを取り巻く環境はいろいろな面で大変さを増しているようだった。
コウタとハルキが一緒に
コウタと仲のよいハルキが一緒になって授業を妨害するような態度に出るようになった。
ハルキはもともと、怠学傾向があって、ノートに字を書くということが嫌いであった。このタイプの子も私はあまり会ったことがなかった。きちんとやればできると思ったので、できるだけ褒めるように心がけていたのだが、ふざけて奇声をあげるコウタに羨望のまなざしをむけていくのが分かった。派手なことはしないが、席が近かったのもあって、二人でふざけあうなどして、どんどんエスカレートしていった。
加えて、やはり怠学傾向のあったダイチも尻馬にのるようにして、授業妨害が始まっていった。
ここで特筆しておきたいことは、彼らは参観日には借りてきた猫のようにすましているということである。
「なぜ?」と思った。先生を困らせたいなら、いつものようにやればいいのに。不思議だった。振り返ってみると、親にはいい子でありたいと気を遣っていたのではないかと思う。
できるだけオープンに
学年の先生方には包み隠さず話していて、相談にのってもらっていた。しかし、学年として特に行動を起こすということはなかった。
学習発表会の練習ではクラスが混ざる。そういうときには、度が過ぎると注意をしてくれたり、援助をしてもらった。他のクラスも子どもたちが40人いて、他の先生たちにも余裕がないのはよく分かっていた。
教頭に学級の様子を話すと、見に来てくれた。子どもたちも、少しはよそいきの顔になった。
コウタとハルキの保護者の反応
9月が終わる頃、再びコウタの母親に会いに行った。現状を話すと、「少し学校を休ませ反省させる」と言うので、「休ませないでください。何が原因か話を聞いてあげてください。」と頼んだ。その後、ハルキの家にも行き、母親にこのごろほとんど学習していないことを告げた。そして、「担任も頑張るので、家庭でも話を聞いたり励ましてあげて」とお願いをした。
ハルキの母親は、びっくりしたように「そうなんですか」、という反応だった。その夜、ハルキの父親から、電話が来て、「こいつのうちの様子を見ていれば、漫画とゲームしかやらないし、片付けもしないし、学校でのこともうなずける。1週間休ませて反省させるから。」というので、「そういうことではなく、本人と話をして、なにが不満なのか聞いてあげて、これからどうしたらいいか話し合ってほしい」と言った。
次の日、二人とも登校したので、ほっとした。どういう話し合いがあったのか気になったが、ふたりとも少し落ち着いたので、思い切って話して良かったと思った。かなり怒られたらしい。私は二人に、「お父さんやお母さんは、学校でちゃんと勉強してほしいと思っているから、叱ったんだよ。」と言った。私としても、「そんな行為をしてもなんの得もないのだ」ということをわかってほしかった。
画鋲事件 (リョウ)
学校では秋祭りを10月7日に控え、準備をしていた。私たちの学級では学級会で決めた「縁日」をやることになっていて、そこで、数々のトラブルが発生していた。
前日の6日に、リョウの母親が放課後に訪ねてきた。
リョウはそれまでもなにかといじめの対象になっていたが、ポスターを張っているときに画鋲をぶつけられて泣いていた。私はそれを止めに入って知っていたので、母親が怒ってきたんだとすぐに分かった。
リョウは、男子の中では成績は良かったが幼い感じの子で、誰かのものを取りあげたり突っついてみたりなどいたずらが絶えず、授業中制止しても勝手に答を喋ってしまったりなどということがあって、からかわれてよく泣いたりもしていた。また、暴力的なところもあって、低学年の子を不意に押して怪我をさせ、親に連絡したこともあった。
リョウの母親は、以前のトラブルのことをたくさん話してくれた。リョウがいつもいじめに遭っていて、「なぜいじめるのか」と親子で相手の家に行ったこともあったという。いじめは幼稚園時代から続いていて、かなり根が深いと感じた。
その日は、校門を出た辺りで、5人の子がリョウ一人をいじめたという。それで母親は、飛んで来たのであった。母親はリョウにも問題はあると思っていて、自分にとっても育てづらい子であると悩みも打ち明けてくれた。
次の日の朝、5人を空き教室に呼び、リョウのお母さんが来たことを話した。
「どんな理由があっても、いじめは許されない。リョウがどんな思いだったか考えてみて」と言うと、みな案外素直にリョウに謝っていた。
この時、この子らは、簡単にくっつくんだと思った。この中に、アキラやコウタやハルキ、ダイチが入っており、また尻馬にのって一人を攻撃したんだなとわかった。まさに、ギャングエイジ。そういう年頃なんだ、と納得したかった。
縁日は、盛り上がって、楽しかったが、後片付けが大変だった。片付けの時も遊んでいる子が多くて時間内に終わらず、結局私がやるしかなくなってしまったからである。
はさみ事件(ユウト)
祭りが終わり、子どもたちは落ち着かない。特にこのクラスはそうであった。
朝、教室にいくと、ユウトが私のところに来て、「朝、はさみで、手を刺された。」と血相をかえて言う。ショックが伝わってきた。状況を聞いてみると、次のようだった。
廊下でハルオが後ろから優トの両腕を掴み、ひざげりをしてきた。そこに、アキラがやってきて靴でお尻をはたいた。そして、カズヤがユウトの手にはさみを突き刺した。
ハルオ、カズヤ、アキラはからかい半分だったかもしれないが、優トにとってはかなりのショックに違いない。これまでも、時々数人で馬鹿にするなどのことを目にしていたので、これは、家庭に知らせなければと思った。
事情を聴くとその場で事実だと認めたので、謝るように言うと3人は素直に謝った。子どもたちには、「先生はお家の人に知らせなければなりません。先生から電話が行く前に、自分からこういうことをしたので謝ったということをお家の人に話しておいて」と言った。やった方は3人なので、「ごめんなさい」とは言ったものの、それほど罪悪感をもっている様子は見えなかった。家庭に知らせることは、ユウトへのいじめを考えさせるのに良いチャンスだと思った。
家庭訪問することを教頭に告げ、電話してから、カズヤの家に行った。
顔を見て話せば親も分かってくれると思った。カズヤの父親は県庁に勤めていて、「うちの息子はやんちゃだから・・・」みたいなことを言い、わかってくれたようであった。私も、「謝ってくれたのでユウト君との間では解決しているのですが、今後このようなことが起きないように、学校でも十分注意します。お家でも話し合ってみてください」と言って、次のアキラの家に行った。
アキラの母親も、「先生、すみませんねえ。うちの子は小さい時から変なところがあるんです。でも、私に似ているんです」と受け入れてくれたような口ぶりであった。両親とも仕事に忙しく、なにかと大変そうに感じた。前の担任からも学校に呼ばれたことがあったらしく、「大変な子ですがよろしく御願いします」と低姿勢であった。
ハルオの家は連絡がつかなくて、電話ですませた。母親は、ユウト君に悪いことをしたと言って、すぐにユウト君の家に電話を入れて謝ってくれたが、後から聞くと、他の2人の親からは何の連絡もなかったそうだ。ハルオの母親は私にも手紙を書いてくれた。その中には、「3年生の時ハルオは太っていることでアキラからいじめを受けていて悩んでいた。しかし、4年生になって仲良くなって、それでアキラのいうことに従っているのではないか」と書かれていた。
ユウトの両親は、いつもいじめられているということで、アキラやカズヤのことは、目の仇にしていた。ユウトの両親の話では、「アキラが遊びに来たときに、礼儀正しい子だと感心していたら、ユウトの部屋に入った途端、人が変わるんだからびっくりした」ということだった。「子どもとは思えないほど、すごい言葉を使う」とのことだった。
この1件で、親同士の確執を感じてしまった。
サッカー事件(キヨシ)
10月半ばのこの日、決定的なことが起きた。
4時間目、学校全体でグランドでサッカーをした。始めに、クラスごとにドリブルしてコーンを回り、リレーをした。その時、女の子のミスで負けたといって、男子がその子を責めて泣かしたので、「体育なんだから、勝ち負けは関係ないんだよ。わざとじゃないのだし、責めないで」と言うと、コウタが「女子だからって差別するな」とくってかかってきた。そして、サベツ、サベツと他の男子がはやしたてた。私は、そ知らぬ顔をしていた。女子は、困った顔で見ている。その後、男女に分かれて、ゲームをした。男子は、喧嘩腰でゲームをしている。勝ち負けにこだわるのである。すぐ蹴ったりたたいたりで、他の2クラスは楽しそうにやっているのに、その間私は、喧嘩を止めるのに躍起になっていた。
時間が来て、整列すると、キヨシがいない。見回すと、グランドのはじっこにポツンといるではないか。清もいじめられていた。体格のことでなにかと馬鹿にされるようなことが多かったが、わりと陽気に振舞っていて、反論したりということもあった。しかし、いじめる側は、反論するとますます激しく、しつこくいじめる。
これまでも、キヨシ対アキラ、ハルオ、カズヤ、その他大勢ということが度々あって、これにも私は悩んでいた。
子どもたちを待たせて、キヨシのところに行くと、「アキラに離れろ!と言われた」とかで、列には戻らないという。そこで、アキラのところに行き、聞くと「ちょっと、そっちに行って」と言っただけだといっているが、自分が悪いと思ったのか,「清を迎えに行く」と言って走り出した。すると、キヨシは逃げて行く。私も、キヨシに戻ってくるように言ったが、逃げ回るばかり。チャイムが鳴って時間が経過して、給食を食べなければいけないのにと、私は焦った。
校長先生に話を聞いてもらう
そうこうしている間に、待っていた子のなかで、面白がってコウタとハルキとダイチとリョウがボールを蹴って遊びだした。その4人まで手が回らなくなっていた私は、校長が「何かあれば相談に乗ります」と言っていたのを思いだし、「校長先生のところに行って、自分たちのしたことを話してきなさい。」と言った。校長は、カウンセリングの資格を取るために勉強中であるということなので、期待もしていた。
給食の準備ができてから、4人を校長室に迎えに行った。やや緊張した面持ちだったが、4人もいればさほど堪えてはいない。彼らは「校長先生は優しかった」と嬉しそうだった。私は、クラスの現状を少し話した。校長も、私の表情から察しはついていましたという。話を聞いてもらって少し気が楽になった。
男子対女子の構図強まる
女の子たちは、男の子たちの一部がきちんとやらなくても、仕方がないというふうに諦めているところがあって、やるべきことはきちんとこなしてくれていた。男の子たちの振る舞いに対して、ひそかに勇気付けてくれる子がいたり、先生が来てくれて良かったとか、先生気にするんでないとか家庭学習帳に書いて応援してくれたので、私は頑張らなくちゃと、自分を奮い立たせていた。家を出る時は「今日も闘ってきます」と言っていた。この時はまだまだ、やる気一杯であった。
地域社会を考える集い
総合学習で「地域社会を考える」という学習に入り、校外から講師を呼び、お母さん方にお手伝いを頼んだ。
参観日はおとなしいのに、この日はいつものように集団でリョウへのいじめが始まった。リョウも泣いたり反撃するのでますます深刻になった。そのうちに自分の母親が来ていないダイチたちは女子も標的にして、しつこく攻撃し勝手な行動をとり始めた。私は、これが普段の姿だから隠す気もなく、見せてしまおうという気持ちだった。後で聞くと、お母さんたちは、「このクラスどうなったの」と思ったそうだ。
いよいよ学級通信で
この集いの後、学級便りに思いきっていじめがあることや、学習に取り組まず妨害するような悪い行動があることを書き、「みんなで注意しあおう」と呼びかけた。子どもたちがまともに話を聞いてくれないので、書くことにしたといったほうがよい。
授業に関してはできるだけ作業を多くし、変化のある楽しい授業を心がけ、入念に準備をした。ちょっとでも隙間を作ると大騒ぎになり、授業が停滞してしまうからである。
フリーの先生が時々参観してくれる
校長に話してから、フリーの先生が空き時間に参観してくれるようになった。子どもたちは少し緊張してその時間はいいのだが、その後の反動が大変だった。コウタも相変わらずで、放課後教室で、紀子に至近距離からボールをぶつけて、玄関を出てからも、後ろからランドセルにキックしたという情報が入った。紀子は、こんなに模範的な子がいるのかと思うくらいの子であったので、我慢してストレスが溜まっているのも心配だった。紀子の家に電話を入れると、「大丈夫です」と母親は言ってくれたが、このような暴力的なことが毎日毎日起こっていた。
大荒れの月曜日
休み明けの日は、特に落ち着かないので、憂鬱だった。この日、星座の宿題の説明をした時、アキラが「そんなもの俺できねえ。スイミングの時間だ。なんでそんなもんしなきゃならないんだ」と大騒ぎした。この時、私は、アキラは水泳が重荷になっているように思えた。水泳教室に行くのがいやだいやだと言っているので、「そんなに嫌なら、お母さんと相談してみたら。」と言ったら、真顔で「やめることは許してくれない」と答えたことがあった。
学校では傍若無人な振る舞いをしているのに、家ではきちんと家庭学習をしているらしい。夏休みの生活表などは母親の字で丁寧に殆ど◎がつけられている。母親が厳しすぎるのか甘やかしすぎるのか、とにかく母親との関係がネックらしいと感じた。
アキラの大荒れが伝染するように広がって、その日は6人ほどの男子が自由に立ち歩き授業妨害をするので、「3回注意されたら、うちに電話を入れておうちの人に相談します」
と宣言した。真面目に学習しようとしている子はまだ30人はいるのに、その子たちに申し訳がない。アキラは、それはまずいという表情だった。
とうとうこの日は4人の家に電話を入れ、事実を話し、「私も努力するので家庭でも話し合ってもらい、善悪の判断ができるようにしむけていきたい」ということで協力を願った。アキラの母親は、相変わらず低姿勢で「すみませんね。口から次々と言いたくなくても言葉が出ると言っています。」と言う。私が言うことには耳を貸さず、「いやだ、バーカ、そっちがうるせえ。じろじろ見るんじゃねえ。そっちが教室内暴力だ」と次々と攻撃的な言葉が出る。近寄ったら、つばを吐きかけられることもあった。なんとか、普通の状態にしたいと思ったが壁は高かった。
翌日は、やや落ち着きを取り戻したので、また各家庭に電話を入れ、「良くなりました」と報告をした。
学習発表会を終わって
学習発表会を終え代休明けの火曜日のこと。アキラは少し自重気味であったが、リョウとコウタが落ち着かない。みんなに迷惑をかける行為は許せないということで指導していこうと思っていた私は、頼るのは家庭しかないと思っていた。ダイチとハルキ以外の母親は、「悪かったことは教えてください」と言ってくれていたし、子どものためにという同じ立場にいると思っていたので、保護者とはできるだけ連絡を取り合うつもりでいた。
その日はリョウとコウタのところに電話をして様子を話した。
コウタの母は、「転校させたい」と言う。コウタの兄は中学校で荒れていた。窓ガラスを割ったり、自分のしたことをほかの生徒がやったことにして、それを見ていた生徒を脅して、見ていた子にも口止めするといった事件があり、母親はまいっていた。私は、母親が、他の親から怒鳴り込まれたりして大変だったのを聞き、怪我をしたわけではないからと、慰め、「電車通学をしなければならないような遠い学校で、知っている人が誰もいないような環境に慣れるのも大変だから慎重に考えましょう」と話した。
校長が激怒
翌日、職員朝会を終え私は教頭にコウタの母親から転校の話が出たことを報告した。すると隣で聞いていた校長が、「先生はそうやっていちいち家庭に連絡するから子どもの信頼を得られないんだ!ここの地区は子どもの虐待が多いのを知っているか!」とい言うので、「連絡をとっている子の中で可能性のある子は1人くらいじゃないかと思う」と私は言った。すると校長はこれまで見せたことがないような表情になり、言葉がきつくなった。「子どもらは虐待されているんだ。だから、家庭に連絡されるのを嫌がっているんだ」
今まで私は校長はただ傍観しているように思っていたが、校長は堰を切ったように話し始めた。教室へ向かおうとしていた私に「時間があるか」という。私は、1時間目は国語で「ごんぎつね」に入るところで、この教材で私の授業の足がかりを固めたいと意気込んでいた。1学期の終盤の「一つの花」では、かなりいい手応えを感じていたので、また同じようにできるのではないかと自分に期待していた。そんな話をすると、校長は「あんな教材は2,3時間読んで終わってもいい程度のものだ」と自分の考えからか、口角沫飛ばす勢いで言い始めた。確かに読書家のようなので、いろいろな考えがあるのだろう。しかし校長がそんなことを言っていいのだろうか。私は、頭が真っ白になってそのあとの話はよく覚えていない。ただ、激怒していることは明らかだった。職員室の出来事だったので、フリーの先生が数名いてその様子を見ていた。
この頃にはもう、朝、目がさめる時から動悸が始まるようになっていた。出勤したらまず教室に顔を出すのだが、毎日、今日はどんなことが起きるのだろうと思うと、もう心臓がドキドキしてどうしようもなかった。その日はかなり遅れて教室に向かった。そして教室に向かうときの精神状態は、心臓のドキドキで不安が最高潮に達していた。
教頭の応援??
その後すぐに、教頭が数枚のコピーをくれた。「参考にして」ということだったが、内容は、「荒れを学校側が解決した」というものばかりであった。そこには、担任や養護教諭などが懸命に子どもたちに働きかけた結果、改善されたという報告が記されていて、私は「教頭も学校の問題は学校で解決しなければならないと考えているんだ」と思うと、初めての学校で親のことや学校のことやがよくわかっていない自分の力量がどれほどのものであるかと自分を責め、泣きたくなるばかりであった。
子どもの心がつかめなければ辞めてもらいます
そんなこんなの後に、校長が帰りがけにコートを着て私のところにやってきて、「先生が子どもの心がつかめなければ、辞めてもらいます。教育長もそう言っています」と言った。
そんなことを言われるとは思ってもみなかった。子どもを中心に考えればそうなるかとも思った。しかし私にしてみれば、追い討ちをかけるように痛めつけられているように感じるばかりだった。表面的には平静を装っていたが・・・。
毎日帰りが遅い私を家族は心配してくれた。夫は「どんなことがあっても味方だから」と励ましてくれた。娘は夕食作りを請け負ってくれた。家庭だけが安心できる場であった。
この辺りから、何を言われても私が悪いのだから受け入れようという諦めの気持ちになっていった。
校長のカウンセリングを受ける
11月に入ったころから、校長室に呼ばれて話を聞いてもらうようになった。校長はカウンセリングの勉強をしているということで、私は思いの丈を話すことができてすっきりした。
私の話を聞いてアドバイスしてくれた。子どもの心になって考えること。特に荒れている子を受け止めること。受け止めるということは、まず、「今あばれたいんだね」「話を聞きたくないんだね」と、受け止めてあげる。受け入れるのとは違うこと。「心の持ちようを変えなさい」そのアドバイスに、そうしようと素直に思った。校長も「きっと良くなるから」と励ましてくれる。前日は激怒したのに、今日は励ましてくれる。私は感謝していた。
心の持ちようを変えて
校長に言われたように、私はもう一度やり直す気で、できるだけ注意は柔らかくし、誉めることに心を砕いた。そんな私の変化を子どもたちは読み取った。反抗している子どもたちの反抗は弱まり、心が通じるかもしれないと期待した。しかし今度は、多少のことでは注意されないと思ったのか、普通にやっていた子どもたちが何だかざわつきはじめた。
校長先生はおれらの味方だ
15日に校区内の中学校の先生方が授業参観に来た。私は算数の授業を参観してもらった。有りのままを見てもらうしかないと開き直っていた。やや緊張したのか、いつもよりスムーズに授業が進んだ。校長もかなりの時間参観してくれていた。
次の日校長は、一番反抗心をむき出しているアキラとコウタを校長室に呼びカウンセリングをした。その後私に、内容をざっと説明してくれた。「先生への不満を言ってごらん」と言わせたら、「女子ばっかりひいきする」とか「泣いている子の味方ばかりする」など、かなり言ったようだ。だが、「だからといってみんなに迷惑をかけるのはどうか。校長先生は怒っているよ」と言われ、二人はすっきりしたのか私への反抗は2,3日薄れた。しかし、その分、他の子へのいじめ的行為が増えたように感じた。
二人への話の引き出し方が私には腹立たしかった。
「授業でコウタはこう言ったのに、先生は取り上げてくれなくて悔しかったでしょ」とか「アキラがちゃんとがんばったのに先生はほめてくれなかったね」とか言って二人をうなずかせ、「校長先生は君たちの気持ちがよくわかってるんだ」と言いたかったようだ。しかし、それは私を「だめな先生だね」と言っていると同じじゃないか。私にそっと授業の注意点として言ってくれたらいいのに。それを二人に言ってしまったら、二人は「校長先生もおれらの味方だ」と思ってしまう。だから、彼らはゆうゆうと校長室から帰ってきたのだ。
学級全体の子どもたちの心も開放してやらなければ
17日には、校長が1・2時間目学級に来て授業をしてくれることになった。アキラとコウタの話を聞き、「子どもたちが先生に対してかなり不満をもっていると感じるので、それを聞き出して解放してあげなければ」ということだった。子どもたちは、校長先生の授業ということで集中して話を聞き、話した。「先生への不満や嫌なところ、友だちのこと、何でも言っていいよ」と言って、子どもたちに発言させた。
最初のうちは私に対してアキラとコウタが、「女に甘い。けんかしても女の味方する」「差別する」「お母さんに会ってるとき、調子こいてる」「なぜ言い訳つけるのか」など出したが、あとは、友だちの粗探しみたいになってしまった。
次々と、「○○はどうして、すぐ泣くんですか」とか面白がって、その時間中言い合っていた。最後に校長がここへ来たわけを話し、「人の話をしっかり聞こう」とか、「友達が努力しても直らないことを言ってはいけない」などと話して終わった。いつもなら好き勝手にしゃべったりしている子たちもうなずきながら聞いているので、さすがだなあと思い、私はいっさい口を挟まずメモをとりながら頑張らなければと自分を奮い立たせていた。
新ルール導入
校長の授業の後、私は、新しいルールを子どもたちに提案した。両手の親指と人差し指を合わせて三角形を作ったら静かにするというもので、これは大事だからしっかり聞いてほしいという時に使おうと思った。1日に何回か三角形の合図があるのだが、静かになればよくできたということで、はなまる1個となる。そのはなまるが10個たまったら、みんなで楽しいことをする。クラス全体をまとめたいというアイディアであった。
これは、効果があった。班競争でどの班が早く静かにできるかということで、アキラやコウタも従った。不平も言ったが、みんなでなにかやりたいことをできるということは魅力だった。そのやりたいことも、学級会で話し合わせ、係りも決めた中で、自分たちでやり遂げるという自信をつけさせたいと思った。
アキラとコウタの権力
三角形の合図がうまく行きそうだったので、5時間目は学級会を開き、新しい係りを決めようと欲を出した。新しくスタートを切るには必要なことだった。はなまるが10個たまったら、話し合って決めさせたいし、今日やらねばと思った。
前担任の時に決めた元議長団が進行し、まず新議長団を決め、その後は任せるということにした。議長の候補を募ると、4人の枠に9人が挙手。どうやって決めるかで、多数決に多くの子どもたちが賛成した。するとコウタが多数決では自分が選ばれないと思ったのか、キレ始めた。しかし既にみんなで決めたこと、多数決をすると、今度は選ばれなかったアキラがキレた。
すごい剣幕で怒りはじめたのがきっかけで、教室は怒号の嵐となって収拾がつかなくなってしまった。このころになるとアキラの権力は相当なものだった。アキラを怒らせると大変なことになると察した取り巻きの子どもたちもアキラに加勢した。
この時のことは忘れたくても忘れられない。
元議長団はどうしようもなく泣き始め、私は、また取り返しのつかないことをしてしまった、普通に教科をやっていれば良かったと思ったが、後の祭りであった。初めは、必ず挙手してから意見を言うと約束していたのに、棚の上に上がって騒ぐやら、あちこち蹴飛ばすやらで、異様な光景だった。あまりのうるささに、いつもはできるだけ普段の様子を見てもらおうと開けている教室のドアを私は閉めたのだが、隣のクラスの先生が何事かとのぞきにきたほどだった。
元議長団の子どもたちに、立候補が多数なので4回挙手してもらうようアドバイスし、再度多数決をやり直した。この時の雰囲気がまた異様であった。
アキラやコウタが「俺様に手を挙げないやつは誰だー」とか言って皆をにらんだからか、1回目は女子に挙げた子も、2回目はかなり減り、ハルキとコウタにはほとんどの子が挙手し、結局男子4人が決まってしまった。採決の前に、「任せられる人に挙手するんだよ」という私の声は、心に響いていなかった。「俺に挙げなかった」という理由で誰かをいじめることも予想されたので、皆机に突っ伏して誰が手を挙げたか見えないようにして、挙手させた。
ここまで来るのに1時間を費やした。私は「なんでこうなってしまうんだろう」と、また出鼻をくじかれた思いがした。この1件で、深く傷ついた子がたくさんいるだろうと思うと、また眠れない夜を過ごさなければならなかった。
この1件で、アキラやコウタの権力をさらに見せつけることになった気がした。実際この日、アキラは帰りがけ私を蹴った。
「お前より俺の方が強いんだぞ」というように。
マサコへの暴力
この日はさらに暴力事件があった。カズヤがマサコに何かを言われてカーッとなり、殴りかかった。カズヤは体が大きく力が強い。止めに入ったが、カズヤは私を振り切って逃げるマサコを追いかけ、頭を思いっきりガンと殴った。あっという間の出来事だった。マサコは泣いた。痛かったのだろう。普段から明るく決して泣かない子なので、家に電話を入れた。頭のことなので、知らせておかねばと思った。マサコの母親は自分の店を立ち上げたばかりで、忙しいだろうと思いあまり連絡を取り合っていなかった。母親は「マサコは何も言わないんですよ」と言う。でも、クラスの様子はぼつぼつ入ってきていて心配しているという。「マサコがうちで泣いたことがあります。それは、先生がみんなに謝った時で、『なんで先生は悪くないのに謝らなきゃならないの』と言って泣いたんですよ。この子もいろいろ傷ついているんですね。私ができることは協力しますよ。」と言ってくれた。この後、マサコの母親は、献身的にクラスのために働いてくれた。
確かに私は子どもらに謝っていた。「先生がしっかりしないからみんながまとまらない」と。「先生の悪いところは直すから、みんなでいいクラスにしていこう」というようなことを言っていた。これは校長のアドバイスでもあった。どうしていいかわからず、やれることはやらねばと思っていた。そのことが、マサコを傷つけていたとは・・・
翌朝、校長に前日の授業のお礼を言い、授業を台無しにしてしまったことを詫びた。校長は、「そう簡単じゃないさ」と言った。暴力があって困っていることを伝えると、私が学級便りを印刷している間に、教室をのぞき、「暴力をふるう者は校長先生の所へくるように」と言ってくれた。
新しく決めた両手で三角形を作るルールもまだ効いていた。これで頑張れると思った。
授業で勝負
校長は時々私のカウンセリングもしてくれた。そして、授業を考え直すように言った。私の授業を見て「あんな言い方は良くない」とか「こんなふうにやったらもっとのってきたのでは」とアドバイスしてくれた。
私は休みの日はほとんど授業研究と準備に当てていた。そうすることで希望をもって登校できた。頭に浮かんだ準備をしないと不安で仕方がなかった。そういう意味では必死だった。
まわりの協力
校長が1日1回程度教室をのぞきに来てくれた。また、学年やフリーの先生方校長・教頭が集まってくれて、今後、大変な事態になったらすぐ駆けつけてくれるとか、意識して子どもたちに声かけしてくれるとか話し合って確認してくれた。ありがたかったが、なぜもっと早く助けてくれなかったのかという思いもあった。フリーの先生で「あのクラスは持ちたくないクラスだ」とはっきり言う人もいた。特にアキラは難しいと。
(3)2学期後半
コウタとツヨシ
コウタは運動が好きで何でもよくできる。ところが家庭に経済的な余裕がなく、やりたいスポーツができない。ユニフォームや用具を買うことも難しい。その現実を考えると、やり場のない不満がつのるようであった。
11月、ツヨシが転入してきた。ツヨシは体格がよく、前いた学校では地域のサッカーチームのエースだったらしい。走るのも速い。今まで1番だったコウタの地位を奪った格好だった。しばらくはみなで野球をしたり仲良くしていたが、しだいに新入りに大きな顔をさせたくないというふうになっていた。ツヨシは腹が立ったのか、「コウタは人間のくずだ」とかメモ紙に書いた。それですっかりコウタを敵にまわしていた。
アキラの母親
サキに対して、アキラの暴力・暴言が絶えない。授業中も執拗に続けることがあって、注意しても止めない。どんな言い方をしても聞く耳を持たずといった感じ。
私が受け持つ前から続いていたようだった。サキは足に障がいがあって少し引きずって歩く子どもなのだが、「アキラがボールをぶつける」とか「くさいと言う」とか「蹴る」など、よく訴えてきた。その度に事情を聞くとアキラは認めるので、「謝ったら?」と促すのだが、「俺は悪くない」の一点張り。そのことでアキラの母親に電話した。
怪我をさせてからではみなが嫌な思いをする。母親は私の話を受け入れてくれた。「なんでそんなことをするんでしょうね。かわいそうにね。注意します。」ということだった。小学校に入学してからはいつも学校から連絡が入っていたらしい。「今までもよくあったんですよ」という感じで、「先生、気にしないで」というふうだった。前担任から「お母さんはとってもよく分かってくれる良いお母さんです」ということだったので、救いは母親だった。
ところが、ある事件から母親が一変する。
ある日サキの父親から自宅に電話がきた。アキラに上腕を蹴られてあざになっているということで、カンカンに怒っている。「以前からの積み重ねがあるのでもう我慢できない。アキラの家に乗り込む」というのだ。
アキラの母親にはこれまでも電話を入れてきた。だから私は、「今電話で話せば分かってくれると思うので、1日時間をください」とサキの父親に頼んでから、アキラの家に電話した。すると、今までは理解のあるふうだった母親は一変し、「うちの子は相手からやってきたので蹴ったと言ってます。女の子は口がうまいから嘘をいっているんです。みんなでうちの子を悪者にするのなら、この子を守るのは私しかいません。私がこの子を守ります。」と興奮して一方的に喋って終わった。
そのときまで私は、母親がアキラを連れてサキの家に謝りに行ってくれるのを期待していた。学校では、「謝りに行ってください」とは強制できない。自発的に行ってくれると、アキラにもいい勉強になるはずだったのだが・・・。
校長に「家庭に学校のことを連絡してはいけない」と言われてからひと月たち、しばらく連絡していなかったので、アキラの母親は「アキラの問題行動が改善された」と思っていたらしい。他の親たちもそうだった。
アキラはその後もたびたび暴力を振るった。朝教室に行くと女の子が泣いているので、どうしたのかと思うと、アキラに頭を叩かれたという。理由を聞くと、「こいつがうるさいから」。自分はうるさくてみんなに迷惑をかけても、自分はいいのだと思うと、腹立たしかった。
1時間目にアキラが「手が痛いので保健室に行きたい」という。叩いた手が痛いと言う。叩かれた女の子は「大丈夫」と言いながらも泣き続けていた。しばらくして、手に湿布を貼ってもらったアキラが戻ってきた。保健室の先生が教室まで一緒に来て、「叩かれた子の頭が心配」と言う。彼女は泣き腫らした目をして、「大丈夫」と返事をしたので、先生は保健室に戻っていった。あとで「アキラはどうなってるの?」と呆れ顔で聞かれ、私も困っていることを話した。
こんなことがたびたびで、体育の前に女の子が叩かれて体育の間じゅう泣いていたり、キヨシに帽子を無くされたといって1日中大騒ぎしたり(キヨシは知らないという)、ユウトの首を絞めたりで、いつ何が起きるかわからない状態になっていた。
ユウトの親が心配して学校に電話してきたときには、そのあとアキラの家からも電話がきて、「子どもの喧嘩に親が出ては困ると母親が言った」と電話を取った教頭からのメモがあった。ユウトの親が、アキラに「ユウトの首を絞めたら、同じことをしてやる」と言ったらしい。
理科や図工は危険がいっぱい
11月、授業はそれなりにできたが、私の注意が弱くなってからは、授業中に手袋を丸めて投げ合ったり、輪ゴムを飛ばしあったりと、何でもありの教室になってきた。
アキラやコウタを中心に計10人くらいの男子がニヤニヤしながら、ふざける。「おい、○○」と名前を呼ばれて何かが飛んでくれば、自分はやりたくなくても投げ返す。そうしなければ、あとで何をされるかわからない。そんなことで、学級で使うものを勝手に持って行っては悪さをする。今まで真面目にやっていた子たちも、次第に私の指示にすぐに従ってくれなくなり、注意しても「イヤだ」などの言葉が出るようになっていった。
私は、内心腹立たしかったが、校長のアドバイスを忠実に守ろうとして、「今、そうしたいんだね」と思うことにした。助かったのは、女の子に変化がなかったことだった。女子は、学習も当番もきちんとやってくれたし、暴力を振るわれても、耐えていた。家庭に連絡ができなくなった私は、「申し訳ない」と心の中で謝っていた。
理科の実験になると危険が伴うので、その時間授業の無い先生に援助してもらった。
コウタはサッカーで頭がいっぱいになり、しばしば授業をやめてサッカーがしたいと言って駄々をこねた。ある時はふてくされて、理科室に移動しない。皆は行ってしまって、一人残ったので、「このごろサッカーでみんなをリードしてくれて感謝してるよ。明日ケーキ焼いて持っていきたいんだけど」と話しかけた。寂しい思いをしているコウタに私の思いを伝えたかった。コウタは理科室に移動した。こんなふうに私は心を通い合わせたいと必死なのだが、コウタにしてみれば駄々をこねればなんとでもなると思ったのかもしれない。1対1になると子どもっぽいのに。この後も、手袋が穴があいたといって私にもってくるので繕ってやったりすることもあったし、ぬれた靴下をわざと置いていったりするので洗って干して返してやった。母親が忙しいから甘えたいんだなと思った。
アキラから向けられた刃先
図工は木版画に入った。11月中に印刷もして仕上げなければならない。彫刻刀を使うので本当に気を遣った。自分で怪我することもあるだろうが、とにかく人に彫刻刀を向けないよう注意はしても、なんでもあり状態になってきているので、どんなことが起きるかわからない。40人もいれば、防ぎようがない。
アキラは最初は意欲的だったが、うまくいかないとなるといいかげんになっていった。
いつもアキラにはっきりとものを言う恵子に対して、木の削りかすを投げ続けた。恵子は涙をこぼしながら、彫り続けている。アキラを注意すると、ニヤニヤしながら、やめようとしない。恵子は「先生大丈夫だから・・・」と小声で私に言う。私は、腹が立つ。なぜ止めさせられないのか、自分の非力さに悔しくて申し訳なくて。しかし一方で、もし私が強く出ればアキラが彫刻刀で何かするかもしれないと、怯えてもいた。
休み時間、アキラが廊下に彫刻刀を持ち出しているので、注意しに行く。「間違って怪我したら大変だから、しまってね。」こんな感じの注意しかできなくなっていた。その時、アキラは私に刃先を向けた。恐ろしいという感覚はなく、友だちを怪我させるのでなければいいと開き直っていた。アキラはニヤニヤしながら「しかたねエー」とかいいながら指示に従った。それに対して私は「ありがとう」と言っていた。
神経が磨り減るというのはこういうことかと思った。
どんどんエスカレートして
「気の持ちようを変えるように」と校長に言われてからは、わらにもすがる気持ちで、「今そうしたいんだね」と思うようにした。それで、面と向かっての反抗は薄らいだのだが、やりたくない学習になると「校長先生の所に行って来ます」と言って、校長室に出かけて行くようになった。
アキラとコウタが1日に1回以上は行くようになって、それにダイチやリョウやハルキがくっついていくこともあった。校長は「キレそうになったらおいで」と言っているのだが、子どもたちは「これはやりたくない」と思ったら、教室を出ていった。私としては、授業を妨害されないので内心ほっとしていた。
授業中教科書は出さず、何人かで変な話を大声でして盛り上がる。授業を妨害する。今まで普通にやってきた子たちも仲間に入っていたりして、だんだんとおかしさが増してきていた。私が注意をすると、「先生気にしないで進もう」という子も出てきた。
手袋投げのあとは、輪ゴム飛ばしが始まった。輪ゴムをつなげて鉛筆につけ振り回したりとどんどんエスカレートしていく。やめさせたくてもルールを守らない。しかたがないので、授業中やったら禁止にするという条件をつけて、休み時間は放っておくことにした。
教卓にあった輪ゴムの箱は空っぽにだった。どの子も自分の家から持ってきたと大威張りしているが・・・。嘘を言うのも平気になっていた。
友達への暴力やいじめも激しさを増していた。アキラやコウタの周りで絶えず何かが起きていた。勢力争いのような感じで、取り巻きが変わって、いじめに遭うような内輪もめのようなことも日々起きていた。ダイチはアキラの子分のようになって、給食の片付けをさせられていた。泣きそうになって片付けているダイチはかわいそうだった。「嫌なら嫌だって言いなさい」と言うと、守ったはずの当のダイチから、「うるせえ、ばばあ!」と返ってくるのが普通になった。お調子者と言われ気がいいダイチであったが、すっかり変化した。いつもしかめっ面をしているようになった。私のせいだと思うと悲しかった。ダイチのように表情がすっかり変わってしまった子が数名いた。辛かった。
雪の日が続き、体育館で鬼ごっこをするようになった。それまでは他のクラスの子どもたちも入り混じり、楽しく遊んできた。元気に走り回る子どもたちが「あー、面白かった」と笑顔で教室に戻っていくのを見るのは、実に教師冥利に尽きるというものである。しかしこの頃になると、アキラやコウタやダイチなどがルールを守らず、勝手をやるようになった。崩れたのはあっという間だった。それまでなんとか、一日に一回は子どもたちと遊ぶようにしていたが、むしろ暴力を警戒して、心配だからついていなければというふうになった。女子がよく泣かされた。それでも鬼ごっこはしばらく続いた。休み時間ももちろん気が抜ける時間ではなかった。
他にも、残した給食を3階の教室から下に捨てる、勝手に居なくなる。テストは白紙で出す、カンニングをする、などということが起きて来る。今まできちんとやっていた子まで、やりたくないと言い出したり、個人的に教えてあげ書いたことをわざと消したり、図工の作品を途中なのにごみ箱に捨ててしまったりと、まるで私の関心を引こうとしているかのように起きてきたいた。中には甘えたいということを表現したのではないかと思うこともあって、たくさんのことが重なり、ますますアップアップしていた。
総合学習の発表会と保護者会
参観日にあわせて、総合学習の発表会が行われた。発表には色とりどりの模造紙や箱、紙芝居などを使い、保護者と共同しての手作業を取り入れた。
学級委員長のマサコの母親が他の学級役員を集めてくれて打ち合わせをした。打ち合わせのためには学級の状態をまず役員にわかってもらわなければならないだろうということで、校長にも来てもらって学級の状態を説明した。とにかく現状を見てほしい。気軽にクラスに立ち寄って、子どもたちに声をかけたり、注意することによって、大人の思いというものを届けたいと保護者の協力をお願いした。
学習発表の手順を役員の方に説明しているときに、校長から「そんな時間では終わらないだろう。だから、先生は授業の組み立てが甘いんだ」というようなことを言われた。まるで、私を一方的に怒るように。私にだって言い分はある。5時間目しかつかえない参観日を決めているのは学校側じゃないか。その中でやるしかないのだ。私には校長の方が現状をわかっていないように思えた。
役員たちが帰ったあとで、怒りを露わにしたはずの校長が、「さっきはあんな言い方をして悪かったね」と言う。私には、何がなんだかわからなかった。
校長は、親たちの味方だと示したかったのだろうか。何か言い訳をしていたが、私は、「この人は演技がうまい」と、信じられない気持ちだった。
しかしそれでもなお、「やはり自分が一番悪いのだから仕方がない」と、自分に言い聞かせていた。
校長のやり方はおかしい
その後PTAの役員さんたちと打ち合わせをする場があった。その時に、ある人が、「校長が荒れてる子のカウンセリングするのはおかしい。校長というのは、説諭する立場でなければならないはず。誰か違う人がカウンセラーになるならわかるけど。カウンセリングを受けて話を聞いてもらうだけだったら、子どもの行動はますますエスカレートするに決まってる」と言った。私も、だんだんと校長のやり方に疑問を感じてきていた。まったくその通りと言いたかったが、学校側の人間として「そうです」とは言えなかった。
校長に自分の気持ちをぶつけたことがあった。「校長先生が『お前たちのやっていることは悪いことだからやめなさい』と言って諭してくれればいいじゃないですか。私はクラスのことを考えると、吐き気がして、身体が辛いのです」ところが校長は、「先生の言い分はその通りかもしれないが、私のやり方(荒れている子をカウンセリングで癒す)を変えるつもりはない」と言う。
「校長先生は、荒れている子のことばかりですが、いじめられている子はどうやって救えばいいのですか?」と疑問に思っていることを聞くと、「強くなれと言いなさい」と言う。そして「そういう子は家庭でケアされてるから大丈夫」とも言った。
私はいじめられている子こそ救われるべきだと考えていたので、ショックだった。校長は、「アキラとコウタにボス猿をさせてそれをうまく利用すればいいんだ」と簡単に言う。しかしそんな簡単なことならこんなことになってはいないと思ってしまった。
保護者会
総合学習の発表会は充実したものとなった。たくさんの保護者が参加してくれた。役員さんたちは、準備から始まり、その日は保護者のきていない子にも目配りしてくれたりと、盛り立ててくれた。私を、クラスを駄目にした先生というのではなく、応援してくれる立場をとってくれた。本当にありがたかった。
放課後、保護者会を持った。「今回は、お話したいことがあるので、是非残って参加してください」と、前もって学級通信でも、その場でも呼びかけたので、半分以上の方が残ってくれた。ところが、本当に聞いて欲しい保護者たちは帰ってしまった。
どの程度話をするかについては、事前に校長に相談していた。私は、できるだけ詳しく説明するつもりでいたが、校長は「そんなことは、みな自分の子どもから、子どもの言葉で聞いて知っている。大体でいい」と言う。そうかなあと思ったが、それもそうだとその指示にしたがった。しかし後の緊急保護者会で、「家に帰って学校でのできごとを話していない子」が多いことがわかるのである。だから、その日の私の説明では、「ちょっとクラスで問題がおきているんだな」程度にしか受け取ってくれなかったようだった。加えて、校長に代わって臨席していた教頭が、「一時大変でしたが、だんだんと良くなっていますので、見守ってください」と言ったので、「気軽に教室に立ち寄り子どもたちの様子を見てほしい」と呼びかけた私の言葉はかき消されてしまった。
改善されずに冬休みに
授業中に勝手な行動に出るのは、アキラ、コウタ、ハルキ、ハルオ、カズヤ、リョウ、ダイチの他、数人増えた。校長の言葉通り、「気持ちの持ちようを変えて子どもを受け止める」ように努めた結果、常にざわざわとした中での授業であった。必ずといっていいほどトラブルが発生した。毎日、毎時間が、ギスギスしたものとなった。
保護者への連絡は控えていたので、保護者たちは状況が良くなっていると思っていたらしい。
2学期もいよいよ終わりに近づいていた。
レクリエーションの会を計画、準備し実行したが、アキラとコウタが我が物顔で大騒ぎといった格好になってしまった。
そんな中でもきちんとやろうとする子たちはいた。以前ならちょっとしたことで泣いていた子がうまく感情を押さえられるようになったり、いじめられて不登校になりかけた子が、多少のことでは動じない子になっていたり。欠席の多かったクラスであるが、欠席も少なくなっていた。
子どもたちなりにこのクラスでの生き延び方を学んだのではないだろうか。
しかし一部の子へのいじめ行為、アキラ派、コウタ派のどちらかに属している子どもたちのいがみあいのようなものが続いた。誰かが、はみだしていじめの的になるようなこともあって、私が止めに入ると、「知らないくせに口出しするな」と言われた。しかし、暴力の時は危険だ。こっちも真剣だからその場は収まるが、私の見えないところで何が起きているかはわからなかった。各家庭から電話が入らないのが不思議だった。
アキラはますます横暴になっていくように思えた。私も彼を受け止めようとするのだが、話をしようとするとジロリをにらんで私から離れていくので、一方的に「ちゃんと掃除当番してください」などと言うしかなくなっていた。気に入らなければ、授業中でも紙を丸めて私にぶつける。それを見て取り巻きの子が笑うというようなこともあった。
精神状態
2学期が終わった日、へとへとになっていたが、言い知れぬ開放感を味わった。
心臓が常にバクバクとここに在りといった感じで頭頂まで響いていて、一人になるとこらえていた気持ちに襲われる。「どこかへ行ってしまいたい・・・」「死んでしまったら楽になる・・・」と思うようになっていたが、2学期の終わりを指折り数えて、耐えた。
冬休みは、気分を変えようと家族で旅行に出かけた。1週間の旅であったが、最初の3日間は、私の頭の中をクラスのことが占領していて心ここに在らずといった感じで、毎晩夢にも出てくる。やっと吹っ切れたのは旅行から帰る頃だった。
なんとか仕切り直しをして、3学期を持ち直し、みんなを進級させたい、そうしなければと前向きな気持ちになれた。しかし、成人式で新成人が傍若無人に振舞う様をテレビで見て、再び学校の現場に引き戻された。辛かった。でも、やるしかない。
あまり深く考えないように努めた。
(4)大きく動いた3学期
何とかしたい
3学期が始まった。
私は校長に「なんとか仕切り直しをしたいので、アキラの母親に連絡をとって、様子を見に来てもらいたいと思う」と切り出した。家庭に連絡することを反対していた校長に了解を得ようとした。
アキラの母は「(暴れるようなことがあれば)いつでも行きます」と、かなり前だが言ってくれていた。しばらく連絡していないので改善されたと思っているに違いなかった。授業を抜け出して校長室に行っていることを知っているとは思えなかった。このままじゃアキラにとっても不幸ではないか。事実を知ってもらうことで、解決の糸口を見つけたい。アキラが参観日に母親の前では良い子を演じているのを何度か見ていたので、アキラを落ち着かせればクラス全体がうまく行くのではないかという作戦であった。
校長は「忙しいのでちょっと2~3日待ってくれないか」ということだった。
そしてその翌日、校長に呼ばれた。
大手新聞社の支局長をしているカズヤの父親が学校に来たという。クラスの荒れが校区内で噂になっていると言われたそうで、学校として何か動かなければと言う。早急に臨時の保護者会を開くので、その文書を作れということになった。
私は、私の計画が無視されて、その一方で、マスコミ関係者の一言で大きく展開することに、ますます無力さを感じずにはいられなかった。しかし自分を押さえて、そのベルトコンベアーに乗るしかなかった。とにかく自分の無力さが元凶なのだから。
臨時保護者会の前に5名に来てもらう
臨時保護者会を開くにしても、その前に荒れている子たちの親を呼んで話す必要があるのではないか。校長に聞いたところ、「子どもの話でどの親も分かっているはず」と言う。しかし、学級委員長のマサコの母を呼んで相談すると、「親には話していない子もいる。全体の前で名前を出さずに話しても、本人の親たちにはわからないと思うので、やはり事前に集まってもらって、実情を話したほうがいい」と言ってくれた。すると校長は、すんなりそうしようというのだ。校長の考えは当たっていないことが多いことに気づいていた私は、マサコの母にこの意見を出してもらって助かったと思った。
事前に5名の子どもの親にきてもらうことにした。アキラ・コウタ・ハルキ・カズヤ・ハルオの5人である。ハルオは3年生の時アキラからいじめられていた関係が改善されてから、必要以上にアキラに同調させられているようなところがあった。アキラとの経緯を話してほしいということもあり、来てもらった。カズヤは両親がきてくれ、あとは母親たちがきてくれた。
学校側は、校長・教頭・担任の私と3人。私は、まず来てもらったことへのお礼と自分に力がなく子ども達をまとめきれないことを詫びてから、荒れてきたクラスの様子全体を話した。そして一人一人授業の参加の状況や暴力を振るう傾向について、また当番活動などの様子を話した。そして、「頭ごなしに怒らないでください。子どもさんの話を十分に聞いてあげて励ましてあげてください。時々教室にきて、ふだんの様子をみてもらいたい。なんとか担任を助けてください。」とお願いした。
ハルキはほとんど勉強しなくなっていたが、その母は、「先生が勉強しなくてもいいと言ったとハルキが言っています。そう言って、うちで泣くんです」と言う。
もちろんそんなことを言った覚えはなかった。しかし反論はしなかった。校長がカウンセリングの手法で、「そうですか」「そう思われたんですね」という言い方をしたほうが、相手の気持ちを受け入れることになると言っていたし、すべて私に非があるのだからと思っていたからだ。
アキラについては、今まで親たちが見てきたことがたくさん出た。言葉を選びながらもアキラを弁護するようなことばかりアキラの母親が言うので、次から次へと出てしまったという感じだった。
様子を見に来てほしいという学校側の要望に対してアキラの母は、実母が入院しているので時間がないと言う。すると校長が、びっくりすることを言った。「おたくのお子さんは、普通学級では面倒をみられない子どもです。しかし、今の行政ではどこにも行き場がないのです。・・・・・」
私は「エーーッ、なんでこの場で言うの?」という思いだった。アキラはどうもADHDではないかと校長とは話していた。この学校にはちょうど同じタイプの子がいた。その子は服薬でかなり改善されていた。その親御さんに受診させるように仕向けたのが校長だった。そんな事例がこの学校には私が知る限り3件あって、校長は実績をあげていたわけである。
しかし他にも親がいる中でそんなことを言われたものだから、アキラの母親は目を丸くして言葉を失った。その場では受け入れるふうにも見えたが、その後校長に対しての反感をずっと引きずるようになり、校長との面会を拒否することになっていった。
コウタの母は、特に他の親たちから責められることもなく、「できるだけ学校に顔を出します」と言って帰っていった。
校長の言葉に反発したのかアキラの母は、翌日から学校に来てくれるようになった。コウタの母も来てくれた。コウタの母は、コウタが教室に入らず廊下でじゃれあっている時、それを発見しコウタの頬を平手打ちした。真剣だった。少しは思いが通じたに違いないと思った。「先生、悪い時は叩いてください」と言われたが、「一度叩くとまた叩かなくてはならなくなります」と言うと「そうですね」というふうだった。
アキラの母は、過保護であった。教科書を出してないと出してやる、給食を準備してやる、といった感じで、子どもたちがやりますからといっても、アキラがさぼるのを補わずにはいられないようだった。そして、アキラは「校長なんて大嫌いだ」というようになっていった。それもそうだ、今まで自分の味方だと思っていたのに、母親を通じてショックなことを言われたのだから。一転して校長を信じられなくなったのも良くわかる。アキラの心も大きく傷つけてしまった。
加えて、今までちゃんと話ができていたカズヤやハルオが私を無視するようになった。
この間の話し合いを契機に、担任の私に対する親たちの不満が二人を変えてしまったに違いない。5人が呼ばれたということは、学級だけではなく学年、学校に知れ渡ってしまっただろう。辛い思いをしたのだと思う。
知らせ方を間違えてしまった。学級で5人に、校長先生からの手紙だと言って渡したのだが、その場でハルオは泣き出してしまったくらいであるから、うかつに傷つけてしまった。郵送すべきであった。そこまで気を配る余裕がなかったにしろ、無神経だったことは認めなければいけない。
臨時保護者会
臨時保護者会にはほぼ全員が参加してくれた。そんなに大変なことになっているとは知らなかったという方がたくさんいた。ある母親は、12月の参観日の時、教頭が「良くなってきているので見守って・・・」という言葉で楽観してしまったと言った。
臨時保護者会では、「先生は女子をひいきしている」とか「原因は先生が子どもの心をつかみきれなかったことだ」とかいろいろ言われたが、黙って聞くしかなかった。アキラの母親がなにか格好いいことを言ったが、空々しかった。毎日の様子を学級便りで知らせてほしいという要望が出され、校長が了承した。
夜7時から始まったこの日の話し合いは12時近くまで続いた。担任のいうように、来れる人が時間が教室にきて子どもたちを見守ろうということになった。最後に私から、「担任に言いたいことがあれば、子どもに言わずに直接私に言ってください。」とお願いした。
表面的には穏やかに
アキラ・コウタの母親に加えて、役員の方も顔を出してくれるようになった。子どもたちにとっては毎日が参観日のようであったが、静かな中でなんとかかんとか授業ができる時間が増えていった。
しかし、一度切れた糸はなかなかつながらない。私を受け入れてくれたということでない。それでも、たくさんの目で子どもたち全体をみてもらうことで、露骨ないじめは減った。陰では相変わらずアキラとコウタの勢力争いがあるようだった。悲しいことに、私の言うことを聞く子に対して「お前はセンコーの側にいる」といじめの対象にしてしまう。そういうときには、アキラとコウタが手を組んでいた。
ケイコの母は、2週間ほど5分ずつ子どもたちにいろいろな話をしてくれた。楽しいお話から、社会にはルールがあるとか、男女仲良くとか、大人の思いを話してくださった。子どもたちのためにという気持ちがたくさん寄せられ、頼もしくも嬉しくもあった。
アキラの母に伝える
ある時の放課後、アキラの母が私に、訴えるように言う。今日ある母親から、「おたくのお子さんは異常だから、病院に行って診てもらったほうがいいよ」と言われたという。その人は、給食の準備をしている様子を見ていた。アキラがパンを放り投げて遊んでいた。私は「食べ物で遊んではいけない」と注意するがやめない、他のお母さんに注意されてもやめない。そのお母さんはそんなのを見ていたし、他の場面でも下級生をいじめるなどをの行為を知っていたので、ついに言ってしまったらしい。
アキラの母は「先生、うちの子はそんなに異常でしょうか?」と聞く。校長にもはっきり宣告されて傷ついているであろうから、私はなんと言えばいいか迷ったが、「正直言って、私が担任した中では難しいお子さんです。でも、今頑張ろうとしているので、見守っていきましょう」と言った。喉元まで「お宅のお子さんはADHDではないかと思っています」と出たが、言えなかった。
アキラにADHDの疑いがあることは伝えなければならないと思っていた。それがアキラを理解するうえで大切なことになっていくはずだ。このままアキラが周りに理解されず、悪いと思われていては、アキラにとって不幸ではないか。アキラの言動や暴力的行為がADHDからくるものであれば、何らかの手立てをとれるに違いない。いつか機会があったら、母親に話すのが私の義務のように思えた。
毎時間保護者が教室にいるというわけではなかったが、授業はなんとかできるようになった。私は約束どおり学級通信を2日に1回のペースで発行した。その日良かったことや反省することなどを何点か箇条書きにした。良かったことには名前を入れてできるだけほめることを中心にと思ったが、そう簡単に良くなるわけもなく、率直に「ゲームの話をして迷惑をかけた」とかも載せるようにした。
3月に入って、朝からアキラがサトルとトラブルになって、サトルがずっと泣きつづけることがあった。アキラは、「サトルに馬鹿と言われた。それで、取り巻きが何人かで悟をとっちめた」と言う。しかし、サトルの言い分を泣き止んでから聞いてみると、朝、学校に来たら、アキラがサトルに「俺に馬鹿だと言ったから、俺の荷物を片付けとけ」と言ったらしい。サトルは身に覚えがないのにそう言われて、取り巻き連中には、「しないとひどいめに遭わせる」と言われた。それで泣いたのだった。
ちょうどアキラの母親が来ていたので、放課後となりの準備室で、当人の話を聞くことになった。関わった子どもたち全員を集めた。サトルがアキラに馬鹿と言ったかどうかということをはっきりさせたいと思った。周りの子どもたちは実際に聞いたわけではなく、「アキラがそう言ったからそう思った」と言う。サトルは「絶対に言ってない」という。アキラは、母親の前ですんなり、サトルが馬鹿と言ったというのは嘘だと認め、サトルに謝った。
子どもたちを帰してから、アキラの母親に話をした。「今日のようなことがよくあったんです。アキラ君はADHDではないかと思うんです。自分では悪いと思っていても押さえきれずに言ってしまったりやってしまったりして周囲に誤解されやすい子じゃないかと思います。この学校にも数名いて薬を飲んで良くなっている子もいますので、一度専門の病院に行って診てもらってはいかがでしょうか」
ADHDの記事の新聞の切り抜きを参考にと思って渡した。「明日、分かりやすくとても好意的に書かれた本を持ってきますから、読んでみてください」と付け加えた。
母親は、「うちの子が病気だというんですか?」という反応だったと思う。それまでも、ユウトがのび太型のADHDで、投薬を受けていることなどをそれとなく話していたので、わかってくれているのかという思いもあったが、実は、分かってくれなかった。次の日から学校にパタリと来なくなった。アキラの母親にしてみれば、校長にもああ言われ、担任にも同じ事を言われ、居場所がなくなってしまったのかもしれない。
なんとか分かってほしかったのだが、分かってもらえなかったのが残念だった。担任もそういう目で見ていたのだと失望した母親の気持ちをアキラも敏感に察したに違いない。
私とアキラの距離はまずます離れるばかりであった。
そして母親が来なくなったアキラは、今度はキヨシにちょっかいをかけるようになった。卒業式の全体練習が1日2時間ほど入ってくるようになったが、その場で、嫌がらせをしてキヨシを怒らせるというようなことを執拗にやり続けた。授業の席は離した。卒業式当日には清の方を向いて嫌がらせをしてやめないので、私はヒヤヒヤしてそのことばかりに気が行ってしまった。
保護者の支援
3学期の終わりにもレク会をやって、明るい雰囲気で終わりたいと計画。そこにも、お母さんたちが時折入ってくれて、見てくれたのでへんないざこざも起きず準備ができ、恵子の母親は得意のケーキを人数分作ってくださった。子ども達は大喜びして満足してこの日を終えた。このお母さんたちはすごいパワーがある。これなら、進級してクラスが変わっても問題を乗り越えてくれるだろうと思った。いろいろと行き違いもあったが、バックアップしてくれた方々のお陰でなんとか終われるとほっとした。
コウタの変化
終了式の日、コウタが日直だった。いつも、朝の音楽で歌を歌っていたが「さよなら好きだった人」を歌うと言う。卒業式の歌だった。テープを流し、みなに「最後だからちゃんと歌え!」とか言っている。コウタは私に気を遣っているなとかわいかった。数日前に「先生は3月でこの小学校を辞めます」と言った。終了式の日が子ども達とのお別れの日になったのだった。
最後のお便りに載せるために、4年生で楽しかったことなどを書いてもらった。コウタは「先生がずっと担任だったらよかったのに・・・」と書いてくれた。この言葉は嬉しかった。さよならしてもぐずぐずしているコウタに思いきって聞いてみた。「先生、コウタに悪いことしなかった?」すると、恥ずかしそうに「してないと思う」と答えてくれたので「良かった」と言って別れた。
ある先生に、「コウタが反抗するのはきっとコウタを傷つけたことがあったからとしか思えない」と言われたことがあった。それ以来、私はずっと気になっていた。コウタは私に甘えたかった。母親にも甘えたかったがそうはできず、母親に反抗する代わりに私に反抗したのではないだろうか。コウタの母が私に対して好意的だったことも、最後に心が通じた理由だったのではないかと思う。
コウタはキーマンであった。いくらアキラが反抗的でも、ひとりではこんなに学級を崩してしまうことはなかったはずである。コウタが反抗的になったことで、二人の力が相乗的に広がってしまったように思う。やり直せるならやり直したい。本当に残念である。
体が悲鳴をあげて
3月に入ると、体に変調をきたした。平衡感覚がおかしくなり、真っ直ぐに歩けなくなった。常に頭がふわふわしたような状態だった。校長はストレスからきているから精神科を受診しなさいと言う。2度ほど精神科医のカウンセリングを受けて精神安定剤をもらった。
ぎりぎりの状態だったんだろうと思う。一人になれば「死にたい、死にたい・・・」と声に出して言ってみる。まだ自殺するほど追い込まれているわけでもなく余力はあったと思う。それでも、声に出せば楽になれる気がした。外では平静を保っているようにしたが、家に帰るとしばらくソファーで丸まって涙を流すというような毎日だった。「あと何日で学校を離れることができる」と、指折り数えた。もし、あんな日々がもう1年も続いたらと思うとぞっとする。
開放されない心
4月になって身体は解放されても、心は解放されなかった。
家に閉じこもる日々が続いた。1年間はあの時の悪夢が続いた。罪悪感にさいなまれた。この経験を生かさなければならないと前向きに考えられるようになるまで1年はかかったように思う。
最後に
今になると、子どもも教師も保護者もみな傷つくような状態をつくってはいけないということを、身をもって体験させてもらったのだと思えるようになった。
ではどうしたら良いのか。
私はルール研に出会って一つの答えを見出した。
あの辛かった経験をもう一度たどってみると、大人はそれぞれに懸命にやってきたと思う。校長だって理想的に問題を解決しようと考えて、自分のやり方にこだわった。しかし結果として荒れている子の心を救うことはできなかった。
私はと言えば、校長の助言に従って、カウンセリングマインドで荒れている子と心を通わせたいと願った。その結果、ただ子どもたちに迎合してしまったのではないか。
正しいことを正しい、間違っていることを間違いだと教えることができず、次の学年に送り出してしまった。
あの子どもたちは翌年も学級を崩壊させ、さらに中学になっても暴力事件が続いていると聞いた。このような事態を防がなければ、そこにいる大勢の子どもたちは安心して学習することができないのだ。学力も低下する。そうなると学校に通う意義はどこにあるのだろう。集団生活での正義を学校で学ばないのならば、どこで学ぶというのだろうか。危うい友だち関係にいる者は救われぬまま大人になっていくしかないのだろうか。
残念ながら、現状の学校現場には保護者とのからみなどもある。正義を貫くことが困難な状況がたくさんある。このままでは公教育は崩壊してしまうのではと危惧を抱いているのは私だけではないだろう。
犯罪の低年齢化も危惧される。日本はこのまま進んでいいのだろうか。
心の闇を理解したり人の行動を予測することは難解である。新聞に載る事件などを見ていると親たちがわが子の変調を見ていないのではないかと思われるときがある。
学校は集団だから、病的なのではないかということが教師には見えるときがある。しかしそれを保護者に伝えるにはかなりの勇気が必要である。ルール研の考え方で行けば、ある限度を超えれば保護者に伝える。伝えるという行動を起こすことが必要になるので、保護者も現実を見つめ改善に向け行動を起こすことができるのではないだろうか。
学校の強みは、たくさんの子どもたちを見ていることだ。だからわかることがある。
公教育に対する期待は大きい。我々は責任を果たさなければならない立場にある。しかし、現実には、学校現場で迷走し、疲れ果てている先生がたは多い。
ルール研の考え方にあるように、児童生徒の学習権を守るという正義を守ろうと思ったら、最小限必要なルールこそ必要だ。それを学校・保護者・児童生徒が確認し、共に歩むことを再構築するような、仕切り直しが必要なのではないだろうか。
ルール研の考え方は、簡潔で具体的な方策が示されているところが画期的であると評価している。まさに今学校現場で求められている考え方だ。どの子もより良い方向へ導くのだという信念がそこにある。
また、真剣に子どもの幸せを求めて教育に力を注いでも、平和でなければ徒労に終わる。命の大切さや人権の尊重。ルール研の考え方の根本はそこにあると思っている。
(ルール研究会会員)