ルール研究会のウェブサイトにアクセスして下さり、ありがとうございます。
ルール研究会は、学校に「ルール」を導入するために活動している研究会です。「ルール」とはどんなものかは、このサイトの「モデルルールズ」をご覧いただきたいと思いますが、ここでは公教育である「日本の学校」が抱えている「困難さ」を軽くするためのツールである、ということを申し上げたいと思います。
昨年、「パリ20区、僕たちのクラス」という映画が一部で話題になりました。移民の多い地区の公立中学校の「フランス語」の授業を中心にした映画です。教師と生徒の激しいやりとり、一人の生徒の退学をめぐるさまざまな出来事を描いた映画ですが、ドラマチックな筋書きはないので、教育に関心のない方には退屈な映画だったかもしれません。
映画の舞台になった学校を日本と比較すると、日本の学校の困難さが浮かび上がってくるように感じます。生徒の抱える困難さはどちらにも大きな違いはありません。生徒の背景には、家庭の崩壊、貧困、将来に対する不安などがあります。また日本でも外国籍の生徒が多くなっていて、生徒本人に通訳してもらいながら保護者と面談することも、今やそれほど珍しいことではありません。
しかし学校のシステムはずいぶん違います。映画に描かれたフランスの学校に比べると、日本の学校では集団行動が実に多いのです。体育祭、文化祭、球技大会、それに修学旅行まであります。日本の公立中学校では、教師やクラスメイトに暴力をふるっても、退学はありません。そして90%を超える生徒は高校に進学します。フランスではこうした生徒の多くはリセには進学しません。ですから、この映画が表現した状況は、退学もある日本の高校に近いかもしれません。
何より違うのは、日本では、授業中は、担当者が何から何まで解決しなければならないと考えられていることです。教師は自らの人間性によって生徒を「感化」しなければならない、というのが日本の常識です。
教師に「うるせえ」と言ったら、校長室に行く、というのはフランスではルールのようですが、日本ではその程度のことで処罰するのでは「教師の力量」が問われます。これは学校だけの常識ではなくて、保護者や世間も共有している常識です。だから日本では、授業中のもめ事はできるだけ外に出さないようにします。抱え込むのです。抱え込むことの困難さに、日本の教師は疲れ切っているように思えます。
抱え込むことにも限界が来ると(そう学校が判断すると)、日本でも生徒を処罰します。この場合、はっきりとわかる理由で処罰されることもありますが、そうでないこともあります。
私たちの考える「ルール」は、いかなる場合でも、あらかじめ明示された基準で生徒を処罰しようとします。よくわからない理由やその場の雰囲気などで処罰することはなくそうとします。つまり、ルールはあらかじめ明示することによって生徒の行動の自由を保障しようするのです。もともと学校という場で生徒の行動に制限が与えられるのは、すべての生徒の自由や権利を保障するためです。
そうしたことは可能なのか。可能だとすればどういう方法によってなのか。
興味を持っていただける方は、ぜひ、このサイトの内容を読んでみてください。
2011年7月 ルール研究会