締めると緩める
本当に緊張することができなければ、くつろぐこともできないのである。従って、刺激は締めるだけでも、緩めるだけでもいけない。締めることと緩めることの両方を合わせて行なってはじめて効果が表われるのであり、また合わさった状態で行なうべきものなのである。しかし、締める場合はこう、緩める場合はこうと分けて説明しないと、皆様方に理解していただき難いのではないかと思う。さらに初心者は、相反するものを同時に行なうことはできないので、一つ一つ段階的に練習することから始められるとよいであろう。
感謝、懺悔、下座、奉仕、愛行
感謝、懺悔、下座、奉仕、愛、と宗教心を五つに分けたのは、皆さんに人間としての基本心を持っていただきたいからである。感謝、懺悔、下座、奉仕と分けたのは、一つ一つの意味を説明するためであり、本当は全部合わせて一つのものなのである。ものごとの表と裏は別々のものではなく、一つのものなのだが、これらを一緒に説明することはできないのである。同じことが統一と放下にも言える。統一がなければ放下はあり得ず、放下がなければ統一もまたあろうはずがないのである。人は広く深く感じるようになってはじめて、ものごとの本当の意味、価値がわかるのである。冥想をしていると、自分が生かされているご恩が理解できるようになるから、本当の責任感がわいてきて、感謝、懺悔、下座の心が起こってくる。そして、奉仕の意味も、愛の意味もわかってくるのである。
私がヨガを学び行じ導く人々に一番強調し、かつ訴えたいことは次のことである。それは、これら五つの心を説きかつ行ない得る人間にならなければ、いくら“ヨガ”と言ってもそれは真実のヨガではないということである。体操や呼吸法や座禅だけをすることを一生懸命に求め行じている人が多いが、これらは聖心開発の一つの方便であって、ヨガの主目的でも真のヨガ行法でもないのである。自己開発した自分を他に捧げる生き方をする時、この五心が生まれ、バランスのとれた生活者になれるのである。宗教心とはこのことである。
沖ヨガ以外のヨガでは、宗教心ということを説かないが、宗教心をもって行じなければ、聖心を啓発することはできない。沖ヨガ以外は非ヨガ的になり易いというのはこの意味からである。しかし、沖道ヨガ十段階を実行すれば、非ヨガ的な人でも、真ヨガ的にならざるを得ないことを信じている。