ヨガとは、健康で平和な社会を生み出すための、宇宙の法則にのっとった、理論と実践方法を説いたものである。沖ヨガを段階的に学ぶための段階としてヨガ十段階がある。これは、ステップバイステップで順序よく無理のないよう説いてあることと、宗教心体得とその実践の修行法とがその中心になっており、理論とその教えを体得するために必要な具体的方法とが、無理なく無駄と無用がないように詳細に説かれている。だから、求める心さえもっていれば、誰にでも行なえるものである。これは他の修養団体には見られない、沖ヨガの一大特質である。
たとえば禅の場合、何の説明もなしに「ただ座れ」と言う。言葉を超えた境地を言葉で説明することは初めから不可能であり、言葉で説明しようと試みることがかえって誤解を招きやすく、いたずらに迷わせる原因となることもある。言葉によって生み出されるはからいを思い切って捨てるところから禅が始められるのであり、それがその特質であるとも言える。無言でただひたすらに座ることから始まり、理論的説明は行なわれない。その理由は体験体得すること、すなわち行を中心にして学ぶものであるからだ。しかし、この徹底した実践方法は、余程天才的な人間でない限り容易に実行できるものではない。ヨガは密教であるが二つの門が用意してある。一つは誰にでも入れる「教える門」と、もう一つは天才のための「教えざる門」である。
教えざる門とは キリスト教の場合、「ただ信ぜよ」という。純粋な心の持ち主にとっては確かにこの言葉は正しい。なぜなら信仰とは無心無償で信ずる心のことであるからだ。信頼あるいは信用といった場合、何か具体的な裏づけがあって成り立つわけだが、信仰にはそのような裏づけはない。神の意志は人間のはからいを超えている。神は一人の人間をもっと大きく強く、豊かな者に育てるために、色々な苦しみを与え給うのであるから、信仰心とはその“苦しみのお与え”に神の愛を感じ、神の心を信じることである。苦しみを苦しみながら、同時にそれを教えとして喜び、積極的に、進化へのチャンスとしてその苦境を活用し、苦しみの与え親の御心に応え得る生き方をすることである。沖ヨガでは、すべてのことをこの心で、つまり神愛として受け取り、それによって悟りを体得・実行するのである。しかし、「ただ信ずる」ということは、余程心が聖化された人間でない限り不可能なことである。
教える門とは、沖ヨガでは入門から聖なる自由、すなわち悟りに至る道を十段階に分けて説いている。十の段階といっても、そこに価値の序列があるわけではない。ただ、説きやすい(理解しやすい)順序と実際に行ずる時の自然なプロセスに則して、十に分けて説いたのであり、本来は一つのものである。どれ一つが欠けてもヨガとはならない。
ヨガ行法の基本行は冥想行法であるが、初めから冥想行を実行することは難しいことなので、その前の準備段階の行法から説いている。準備段階の行法には第一段階のヤマ・ニヤマ、第二段階のアサンス、第三段階のプラナヤマ、第四段階のプラティヤハラ、第五段階のダラーナまでが準備段階の行法である。