心の健康法
心と体はひとつのものである
心と体はひとつの生命の働きの、目に見えるものと見えないものの別であり、両者は共通の神経、体液、筋肉を使っているのである。したがって、体の問題を心と切り離して体だけで解決しようとしてみたり、心の問題を体と切り離して心だけで解決できると思うのは誤りである。
たとえば、筋肉が緊張しているときは心が落ち着かず、姿勢のゆがみや呼吸の型が固定すると、執着心から解放されない。また、驚いているときや泣いているときには吸う息に力が入っており、笑っているとき、楽しんでいるときには筋肉がゆるんで、吐く息に力が入っている。落ち着いているときの呼吸は長く深く、いらいらしているときの呼吸は短く浅い。待っているときの十分間が長く、楽しんでいるときの十分間が短く感じられたりするのは、呼吸の長短と筋肉の緊弛の違いによるものである。
実際、生理状態も心理状態も生活態度も、呼吸型と思考型として現れる。ヨガのみならず、あらゆる修行法、諸道諸芸が、呼吸法と観念法を重要視しているのは、心身の乱れがそのまま呼吸と観念の乱れとして現れるからである。 内外環境の物理的刺激に対しては神経が、化学的刺激に対しては体液、特にホルモンが適応調和作用を行っており、心理的刺激に対して適応しているのが大脳である。ヨガでは内分泌線のことをチャクラ、神経のことをクンダリーニ、脳のことをブッディ、関連部位のことをナデースと呼んでいる。現代医学では最近やっと知られ始めたこの事実を、ヨガの先達は体験と冥想行法による直感とによって、体得把握したのであった。われわれの個性別は、この線と神経の質や作用が変化するので、自己改造も可能になるのである。
このように心身生活一如の立場から見ると、心の問題も体の問題も全生活を通じてでなければ、けっして解決されるものではないことがわかる。
とらわれ心やかたより心が体を異常にさせる
心の法則は体の法則と同じであるから、心を健康にするにも自然法則すなわち変化、バランス、安定の法則に従わねばならない。心の不健康因は、とらわれ、ひっかかり、こだわりなどの執着心であり、このかたよりが、感じ方、考え方を異常にしたり、マヒさせたりする。また、心を乱す元になる主なものは、思考的には恐怖、不安であり、感情的には不平、不満である。
これらはすべて、心を緊張、興奮、もしくは無力化させるので、それがそのまま体に現れ、筋肉の凝り、無力化、血管萎縮、神経異常、血行不良などをもたらすのである。たとえばビックリしたとき、吐き気がしたり、口が渇いたり、大小便を催したりするのは、心の刺激がそのまま肝臓や腎臓の異常、体液や酵素の分泌異常、脊柱のゆがみをもたらすからである。
恐怖、不安、不平不満は心を過度に緊張もしくは無力化させ、心をこわばらせたり、たるませたりする。つまり、とらわれた心やかたよりが心を異常にさせるのである。心を健康に保つには、自然心、すなわちバランスの取れた状態で進化する欲望、感情、考え方をすることである。すなわち、善悪、損得などのいずれの一方にもかたよらない心を持つことである。善だけ、あるいは得だけをというのは、かたよりである。
本当の満足感は生の充実感から生まれるものだから、心はたるんでもでも、凝らしてもいけない。
くつろぎをともなった緊張と興奮が必要である。また欲望にしろ、感情にしろ、思考作用にしろ、いったん生じた心のエネルギーは心の内容として残るから、方向を転換するか、内容を変えるかして、自分が喜びを感じられるような発散方法を考えればよいのである。心が安定し、バランスが取れている自然心のときは、心が安らいでいるので、出会う物事の一つ一つに喜びや感謝を自然に感じ、他に対する思いやりや愛情も自然に生まれてくるのである。
欲望のコントロール
次に人間のみに与えられている、心のコントロール法を述べてみよう。
いつも気分のよい自然な心身を創り、いつも楽しい自然生活を送るには、まず欲望のコントロールが必要である。欲望は生命に拍車をかける原動力であるから、強くかつ多いほどよいのであるが、そのコントロール法が問題である。欲望が起きたときには必ず緊張、興奮してくるが、それがかなえられない場合、心の緊張、興奮が持続することになる。
この異常緊張やとらわれのエネルギーは体にも影響を及ぼし、偏りを生じさせ、血液も異常にする。われわれは意識的に訓練をして、「晴れてよし、曇ってよし、雨もまたよし、すべてよし」の欲にとらわれない無条件の心を創りださねば健康にはなれない。
欲望のコントロールとは、欲望を抑制することではない。欲望を高め、広め、強め、その出方を良い方へ向けることである。たとえば、求める欲は与える欲に、食欲は思考欲に、性欲を行動欲や愛行に変えるのである。欲望の形を変えるか出し方を変えることによって、喜びを感じ、脳を平静でやすらぎ、くつろぐようにするのである。
感情の面でも同じことが言える。たとえば、感情の高まりを文章に、趣味に、芸術にと方向転換するのである。ヨガでは決して欲望や感情をなくせとかおさえよとは言わない。
これらは訓練することによって、コントロールすることが可能なものである。端的にいうと、断食によって、食べて良し、食べなくて良しのように食欲をコントロールすることが可能である。欲望のコントロールには「断行」を行うのがよく、感情のコントロールには、感謝、懺悔、下座、奉仕行から入っていくのが良い。
感情のコントロール
次には、感情のコントロールが必要である。人間の心を一番害するのは、不平、不満、恐怖等の消極的、否定的感情である。感情は、喜びだけ、悲しみだけといった一方的感情であってはならず、プラスにはマイナスの、マイナスにはプラスの感情を持ってくることが、感情のバランスをとる方法である。たとえば、腹が立ったときには「すみません」または「ありがとう」の心を、悲しいときには「やがて必ず良くなるものである」という希望の心を、恐怖のあるときにはお任せの心を加えるのである。
また一方、安心と安全の中にいるときには、意識が弛み過ぎる傾向があるから、危機感や警戒心をこれに添えて生きることが肝要である。消極的感情に積極心を加えると、向上心へと転化することができる。
誤解(迷い)と悩みを理解(悟り)と喜びに進化させよ
欲望や感情をコントロールするには、物事を正しく解釈する知性が必要である。人間社会には多くの誤解が錯綜しているから、それらに惑わされず、とらわれず、引っかからず、はからいのない真実の道を生きなくてはならない。自分で体験して体得したことだけが事実なのであるから、自分が確認するまではいかなる通念や学説にもとらわれないことが、何よりも大切なことである。他人の体験や意見を鵜呑みにすれば、自己喪失者になってしまう。
前述したように、悟りとは「自分の心を持つ」ことである。すなわち自分自身の感じ方と考え方と行い方を持つことである。この自分自身の心を養うには自分の目で見、自分の耳で聞き、自分で考えたことを行うこと、すなわち体験体得することが必要である。
自分で考えることができ、考えてわかることを考え、他の考えられないことは、おまかせする(信仰心)ときにのみ心は安定する。数多くの人は、考えられないものまで考えようとして不安、妄想、誤解、錯覚などを生じさせている。しかし、考えているように見えても、書物に頼るような考えは、自分で考えたものでなく、体験もともなわないものであるために、その真偽が分からず不安になる。
また各自の経験は個性別であり、経験へのとらわれが自己流の考え方をつくりだすのである。われわれは神ではないのだから,必ずしも自分のものが正しい考え方であるとはかぎらない。自分の経験したことが心の内容として貯蔵されるが、これが心業(はからい)であり、これでは、変化しながらバランスをとり安定するという自然法則に則った生活はできない。
ヨガの冥想法は、これらの引っかかり、こだわり、とらわれを除くため、考える(表層意識)、思う(無意識)ことを一度止めさせ、宇宙意識または共通意識、自然心、仏性などといわれている一番奥底の心を呼び覚ます行法である。仏心は、誰にでも通じる共通の心であり、真の意味での良心であり、文明のあるなし、学識のあるなし、老若男女を問わず、人間なら誰にでも本来備わっている深奥の心である。この仏性を開発し、それに高められた知性とバランスのとれた感情とコントロールされた欲望をもって協力することが、心の健康法である。
ヨガでは、過去にも未来にもとらわれず、「いま」に生きることを教える。過去や未来にとらわれ、自分を他と比較しながら生きることから誤解、妄想、不平、不満が生まれる。
自分と比較できるのは自分だけなのだから、他と比較するような無駄を省いて生活するよう心がけねばならない。
また、すべてのことは自発的に行ってのみ、それを行う意欲が湧くのである。やりたくてやれば気力も充実する。このように全力投球する生き方をするとき、はじめて毀誉褒貶、損得にわずらわされない無条件心が起き、無心にもなれるのである。
すべての縁を活用せよ
ヨガでは、一瞬一秒、一事一物を自己発見、自己開発啓発のよき機会と教材であると解釈している。また、意識的に諸縁を分析して、常に破壊的な内外環境を排除、是正、活用し、自他の喜べる自分自身と生活を一歩一歩創り上げてゆくことを教えている。これが、在所に主となる唯一の道でもある。
このための具体的な生活態度は、感謝できるようになったら感謝する、喜べる問題が与えられたら喜ぶ、といった自己中心、自己本位な考え方ではなく、まず感謝し、喜び、拝み、与えることから始めねばならない。感謝したり与えることは因であって、果ではない。感謝し、感謝できる生活が、喜び楽しめる世界を作り出すのである。因果をみる科学性は、こうした考え方をするときにのみ養われる。
以上、心構えと身構えが人間を聖にもし愚にもすること、正考力が正感力と正行力を養い、正感力が正考力と正行力をつちかうこと、修行を伴わない精神修養などありえないこと、ヨガが心の健康のために、心身一如(自存)、自他一如(共存共栄)の立場から、感謝、懺悔、奉仕の生活法を勧める理由を悟られたことと思う。
因果の理をわきまえ(科学性)、あらゆる自他の思想の長所を生かし、育て(哲学性)、宗教的に生きる(生かし合う生き方をする)ときにのみ、最高の判断力(真智,仏性)と高められた健康な生活能力が得られるのである。
これがヨガによる心の健康法、悟道への門である。
仏性を養う方法
健康心を養う方法は、健康体を養う方法の原則と同じである。すなわち生命そのものが正しい働きをしているのであるから、その受け取り方、出し方を整え正すことが、その原則である。生命の働き、正常性維持回復能力のことを、体の面では、自然治癒能力、心の面では仏性(良心、共通意識、宇宙意識)というが、この働きが、整い高まっている場合は、体の面では食欲を例にとると、食べて悪い物は拒否してしまい、少しでも害になるものも欲しくなく食べても出してしまい、良いものだけを欲する。体の中の正常性維持回復の働きが、食欲自身をコントロールするから、悪食が出来ないのである。
ヨガでいう健康体とは、このように善悪を判断する、感じる能力が鋭敏なことである。同様に、仏性が整い高まっている場合は、これがコントロールするから、悪いことはしたくなく、良いことをしたくなるのである。
意識には、表面意識、無意識、そしてその奥の意識とあるが、仏性とは、この一番奥、潜在、深層で働いている共通意識(宇宙意識、霊感)に最高の知性を加え、一致させたものである。表面意識を高め整えるには、知性開発が必要であり、無意識を高め整えるには欲望、感情のコントロールを必要とする。知性も仏性も、欲望、感情がコントロールされ、脳が平静に、安らいでいるほど、よく働く。
仏性を整え高める方法は、学習体験によって知性を開発し、高め、冥想行法によって共通心を開発して、両者を協力一致させることである。両者が一致協力し、すべてを正しく感和、判断するとき、始めて仏性と言える。
心をくつろがし安定させる最上法は、信仰心を持つことで、信仰心は、人事を尽くして天命にまかせる心で、この心になることの邪魔するものが善悪、損得、成否にとらわれたり、うそを真実と思う迷い心を持っていたり、異常体の刺激によって異常になっている心の状態である。
ヨガ総合健康法 第7章 「心の健康法」沖正弘 より抜粋