三つの段階を通して、自分の意のままにできるようになった心身の能力をどう活用し、コントロールしたらよいかの自律訓練法が、このプラティヤハラであり、そのポイントは「意識的にやる」である。
例えば静かな呼吸を体得する場合でも、初めは「静かな呼吸、静かな呼吸」と心がけていないとなかなかできるものではないが、それを続けているうちに、いつの間にかその働きが身についてくる。訓練を重ねて身についたものなら、とっさの場合でもその場に必要な身構え、心構えが可能である。心で思うことをそのまま体の働きにしてしまうことがプラティヤハラである。
欲望でも感情でも、普通、心理的なものだけと考えがちであるが、それだけではなく生理的なものもある。生理的な感情や欲望を、心理的にのみコントロールしようとしてもできるはずがないのである。またさらに、心理的なものと生理的なものとが一緒になっている場合もあるから、欲望や感情には三種類あることになる。だから、単なる肉体的訓練だけではなく、身体を通じて心に影響を与えると同持に、最も清浄な心を保つのに協力できるような体を作り、同時に、最も合理的に仕事のできる体を作ろうという目的を、すべて合わせたものを行法というのである。
プラティヤハラの訓練に必要な心の基本原則は、事なき時に事を想定し、どんな最悪の事態でも間に合うような訓練をすることである。たとえば、親があってもないと考える。子がいても、いないと想定する。お金があっても、ないと考えてみる。誰でも今あるもの、それに対して最高の状態で接したい心に自然になるものである。注意力も増すし、思いやりの心も生じてくるし、そのことに自分の最善も尽したくなってくる。これが宗教心である。そのような高尚な心の持ち方を、日々の瞬間瞬間に練習するのである。心は執着してやまないものであるから、しばらく心を意識的につき離し、客観的に見つめていくことを体得してほしいのである。あっても、ない、あるいは、なくても、ある。自分をいつも反対の状態、極限の状態に置いて、意識的に練習を続けていく。これが自律訓練の極意である。特に宗教心は、極限の状態におかれてのみ生まれてくるものである。
自律訓練法を自己支配法と言い換えて良い。この訓練法によって、いかなる場合でも自分を失わず、自分を最高の状態に置いておけるようになる。「心頭滅却すれば火も又涼し」の境地である。私は、どんな事があっても自分の態度を崩さない。例えば、酒をいくら飲もうとも他人の前では絶対に酔っ払わない。人にすみませんと言わなければならない事を一切しないし、言わない。これが自律訓練法のお陰である。
命の喜びが、神の喜びである。神の御心にかなったものが、自然にかなっているものであり、それがすなわち道である。自分が喜べないようなものは道ではない。「自分はどういう生き方をしたらいいのでしょうか?」と、他人に聞くな、自分の命に聞くのだと教えている。道を求める者にとっては、他人が見ていようがいまいが、褒められようが褒められまいが、世間に認められようが認められまいが、関係のない心である。正しい場合には、命が喜びで教えてくださる。間違っている場合は苦しみで教えてくださる。道を発見するコツは、他人に聞かずに、自分に聞くことである。